書感とランダム・トーク

人間の本質を根本原理から追求研究する内容さらに遡っては生物・植物その他をサイエンス的原理から考察する。どうぞ御寄稿を!

日本語の起源 書感:散歩道

2007年11月30日 | Weblog
発行所:岩波書店 発行者:山口昭男 2007年2月15日20版発行 定価:780円

先に狸吉さんが上記の著者の「日本語の源流をもとめて」の書感を寄稿された。非常に興味をそそられて、ほぼ同じ内容であるが、上記の本を購入した。

なるべく補足的な別の角度からの感想を述べるとします。私は、前々から中国から文字が伝わり、それに仮名を旨く組み合わせて日本語が出来たと言う話に一つの疑問をもっていた。何故、文法的言葉の配列と発音は中国語と全く違うのか? 言葉の順序は中国語は英語と全く同じであり、韓国と日本は韓国語とかなり似ているのが不思議であった。この本は、そのような日本語の起源を専門技術的に解明しているので、その解明の手法に私は興味を覚えた。
人間の情報伝達の始めは身ぶりと声であって、文字はその次の段階であると思う。そこで、中国から文字が伝わる前に日本人はどの様な言葉を使っていたかと言う考察がはじまる。

この本は“似ている言葉”と言うことを専門技術的に究明し、日本語の親はタミル語になると言う探索の手法を綿密に客観的に記述している。ここではとても全部は紹介できないが、ごく一部の例を紹介したい。
探索法の例:英語とドイツ語は元は一つか?
day:Tag  dale:Tal deed:Tat drink:trinken bed:Bett
などなどの対応からd→Tにするとはぼ全部いっせいに一致する。それはどこかで、誰かがdとTを違って使い始めてのだから、むしろ元は同じと判断する。これが比較言語学という学問の考え方である。日本語と英語にはこんな類似が何処にも無い。
探索法の例:次に例として、日本語:宮古島の言葉:タミル語の比較がたくさん表示されている。
東京の日本語:宮古島の日本語:タミル語の発音比較表
ha(歯):pa:pal hata(旗):pat-a:pat-am hate(果て):pat-i
:pat-u fune(船):puni :punai
などなど、誠に興味深い類似点の観察法である。そのほか、地形とか考古学的な器とか、そのた多角的に観察して、一つの結論を仮説として発表している。
ほんの一部だけを紹介しました。2007.11.30.散歩道

「人びとのかたち」 塩野七生著 書感:知i致望

2007年11月28日 | Weblog
塩野七生著 新潮文庫 514円
本書は、「ローマ人の物語」などの著者である、作家塩野七生のエッセイ集である。実在した人物に付いて、色々な切り口から観察し自分の主張、感想、批判を述べている。

例として、マレーネ・ディートリッヒに付いての記述であるが、「デートリッヒに付いて、感心したことの一つに、外国に住むものには家はなく、受け入れてくれるところが家なのだ、」と言った部分などは、著者と同じ境遇を歩いた者同士として、納得の行く意見だろうと思うし、我々から見ると結構大変な生活力を想像してしまう部分である。

また、第二次大戦中に母国ドイツと戦うアメリカを応援した理由を聞かれて、応えるデートリッヒの言葉は秀逸であると評して下記の部分を紹介している。

「ドイツ人は、こうせよと言ってくれるリーダーを求めていたのよ、それをヒットラーに見出し、強制収容所で大勢の人が殺された、それを始めたのがヒットラーのドイツだから、アメリカの力であの戦争が一日も早く終わってほしいと願うのは当然」と応えているのに対して、塩野氏は、私は女なので、男たちが彼女に感じたという色気が何であっかわからないが、云われている様な脚線美だけではないだろう、デートリッヒの人生感、見識、人柄などが総称されているものと感じ取っている点など、私をはじめ多くの人が抱くデートリッヒへの思いからみて興味が尽きない。

技術立国日本と言われるが ランダムトーク:智致望

2007年11月28日 | Weblog
総務省統計局によると技術輸出額が大幅に伸びて輸入額を上まっていると云われている。統計数字は事実なのだろうが、我々技術に携わる者としては、どうも実感が湧かない。

日本の技術にロイヤリティーが取れるような本質的な技術に付いてあまり聞いたことが無い、例えば、テキサスインストルメント社の「キルビー特許」やインターネット関連のウインドーズなど、バイオ関連で聞かれるような膨大な特許料を生み出すような物についてである。

聞くところによると、海外進出している企業が、自分の海外子会社からの利益還元するための手段として、名目特許料を取っているといわれている、それが統計上で特許料収入として括られるに過ぎないのではないか。この手の特許料が70%を占めると云われている。

国産初の旅客機開発の誉れ高い三菱重工の旅客機開発にしても、実際は胴体だけで肝心なアビオニックスとエンジンは輸入と言う象徴的事実もある。技術で稼ぐよりも製造生産で稼ぐ構図に変わりはないのではないか。

技術者離れが若者の間で進行しているが、国を挙げての特許重視、基本技術重視の政策を強く望む者である。

日本の社会は以心伝心   ランダムトーク:散歩道

2007年11月24日 | Weblog
1.日本の技術の源
1-1.日本の自動車産業
紀元2007年現在、日本の自動車産業は世界のトップに位置している。戦後鍋釜を造って生き延びていた“中島飛行機”は富士精密→プリンス自動車→日産自動車となった。私は昭和29年に東大糸川研究室からロケットの最初の開発を担うべく富士精密に入社した。会社の最重点製品が自動車になり、私も自動車部門に移籍し、後に有名になるスカイラインなどの基本的機構の開発、性能、耐久テストなどを担当した。

昭和30年後半の時点でも、自社製のタクシーに乗り運転手に車の話になると、“でもねー、国産車は外車には叶わないよね!”と必ず言われた悔しさが今でも記憶にある。昭和50年頃に、仕事の関係でアメリカ人の案内でアメリカの幾つかの会社を訪問した事がある。空港から空港へと移動し、レンタカーを使う。その車、勿論アメリカ製なのだが、時折、ドアが隙間だらけ、窓から小雨が入るのに出会う。案内のアメリカ社員にそれを言うと、“あ、そうですね”と来る。少しも気にしていないのだ。我々日本人と随分感覚が違うものだと思った。同時に、こんな事なら、きっと今に見ていろ! 我々の日本車が何時かはアメリカを抜くぞと思った。そして、その通りになった。

技術、販売とか経営的な解析はそれとして、私は大きな基本的な原動力は日本の伝統的文化にあると思う。以心伝心で伝わる匠の世界の職人が持つ技術。日本人は誰でも持って感覚なので、自分達も気が付かず、とかく、“国産車はねー”となってしまうのだが、実は凄い感性を日本人は持っているのだ。

1-2.建築技術
日本の建築技術も世界一だと思う。これも日本人のきめ細かい感覚が生きているからだと思う。五重の塔、唐招寺などの木の組合せを力学的に観察すると、凄く合理的に出来ている。力学の理論などがないのに、感覚的に計算が自然に出来た匠の技には脱帽する。

今、私は小さなビルを建てて貰っている。現場の職人さん達の会話を聞いていると、“うん、そう。あれは一寸曲げるときにねー”とか “ちょっとそれは曲がりにくいから、こう、こうね!” とか、こっちにはさっぱり解らないのだが、図面など使わずに正に以心伝心。私には自動車産業の場合ほど良くは理解できていないと思うのだが、匠の世界を素晴らしさ、面白さを見ているような気がしてくる。

2.以心伝心の社会―日本
2-1.動物そして人間が仲間に情報を伝える方法の発達経過
原始的な状態から考えると、多分、最初は“触る”“声を出す”“ジェスチャー”をする”から始まるだろう。やがて、それぞれの伝達内容に対応して何種類かのパターンが自然とは発生すると思う。

その次の段階では人間は系統的な言語を使い始める。その歴史は例えば日本語の場合では、何人かの言語学者の優れた研究がある。次の段階が言葉から文字が考案されてゆく。ジェスチャーは絵として記号化される。文字は表意と,発音からとに分かれて発達してきたと思われる。文字は更に発達して記号となり、論理的な表現へと発達する。

2-2.言葉は便利で普遍的ではあるがーーーー
カラスの鳴き声を分析した人が九州におられて、20種類余りの泣き声で仲間に情報を伝達していると言う。こっちに来い、集まれ、散れなどなど。しかし、人間の言葉のレベルには程遠いから、地方によっても全く違う表現となっていると思われる。
それと比べると、人間が使っている言語は便利なものだ。例えば、”いまご飯を食べた“と言えば、地球の反対側にまでかなり正確に状況を伝達できる。しかし、今日はご機嫌よく食欲があって、すいすい食べ始めたか、何を食べたか,美味しかったか、などなど、実況放送をするとしたら、大量の言葉が必要だ。それでも”一見にしかず“であろう。

2-3.論理的言葉と情緒的言葉
コンピューターは、始めは数学的な計算、方程式の解を出すため等に使われ発達してきた。やがて、人間の言語を理解し伝達手段に使えるようになってきた。そのような初期に、日本語は欧米の言葉のように論理的にしっかり構築されておらず、コンピューターに入力するのに不適である。とか言われたことがある。

例えば、”お茶をどうぞ“ と薦められて、“結構です”と答える。その意味は状況によって、“美味しいです”にもなるし、“いまは、無くてもいいです”にもなる。そんな事は、我々日本人は誰でも知っている。しかし、これを欧米人に理解させるのは容易な事ではない。まして、コンピューターに理解させるのは殆ど不可能である。しかし、しかしである。コンピューターに馴染まないから日本語が欠点のある言葉だと言うのはとんでもない事。こんなデリケートなことがお互いに理解できる日本人、そして日本語は何と素晴らしい言葉だと思う。
コンピューターは情緒の面では永久に人間のレベルには達しないのである。


2-4.以心伝心語
情緒的な言葉の素晴らしさを述べてきたのだが、人間同士の考え方伝達の一つに以心伝心と言うのがある。何となくの手振りとか目配せで全てを全体として理解してしまう事を言う。
情緒が大切と言いながら、今までどちらかと言うとあれこれ理屈を述べてきた。技術伝承の分野における日本人の以心伝心の素晴らしさを強調したかった。
2007.11.24.散歩道

清らかな厭世 書感:山崎義雄

2007年11月20日 | Weblog
 阿久 悠 著 新潮社 1400円 山崎義雄
筆者は先ごろ亡くなった著名な作詞家。本書のサブタイトルに「言葉を無くした日本人へ」とある。オビに「働くことは愚かなことか 創ることは無駄なことか 考えことは敗れることか」とある。稀代の作詞家、言葉の魔術師による問いかけは、にわかには理解しがたい。しかし、読めば著者の日本人に寄せる熱い思いが素直に伝わってくる。

著者の目は、現代の若者、喩えて言えば「痩せた畑に蒔かれた種子、成長の栄養も
なく、結実の精気もなく、ヒョロリとした茎と萎びた葉が風にそよいでいる」ような若者に向けられている。しかし筆者はそんな若者を憂いているのではない。痩せた畑を憂いているのであり、畑の栄養分になっていたはずの「大人たちが英知と生への実感で作り出した言葉」が失われた時代に警鐘を鳴らしているのである。
著者は少年時代を振り返って、「ぼくらが少年の頃は、父や先生や名もなき職人達からボソッと語られるそれら(の教え)を命綱のように掴んで大人になろうとしたものである。大人になるとは、大人の持っている知恵の存在に気がつくことで、昨年何気ない戯言(ざれごと)だと思っていたものが、今年は光り輝く人生の言葉として胸に響くのは、ぼく自身の成長と評価していいものであった」と語る。
そこから著者のアフォリズム、警句が炸裂する。「選択肢が無数にあるってそれ
はまやかし 選択肢は生きるだけだよ」といい、人間に与えられた選択肢はたった一つ、「生きる」しかない。もし仮に「死」を思うなら、それは生きるための迂回思考である、と言う。
あるいはまた、「若者はほっといても若者だが大人は努力なしでは大人になれな
い」「父親はポツポツ話す ポツポツを二十年集めるとそれなりの哲学になってい
る」と言う。さらに、「言葉を言い換えようとするのは罪を認識して実は告白したことなのだ」「自分を愛しすぎると他人を見ることを忘れ社会の迷子になる」などは、情けない近頃のリーダーや経営者などに拳拳服膺してもらいたい警句だ。
また、「ようく思い出してごらん あなたの家庭に他人を褒める習慣があったかどうか」と、殺伐たる世相の源流を反省することも大事だろう。まさに本書は警世家阿久悠の「ラストメッセージ」である。

「日本語の源流を求めて」    書感:狸吉

2007年11月20日 | Weblog
大野晋著 岩波新書 2007年 820
日本語は2000年の昔、7000キロ離れた南インドから、水田稲作・鉄器・機織という文明と共にやって来たと著者は説く。タミル語と日本語は多くの言葉が一致し、文法も同じである。また年中行事や歌の韻律など、文化の点でも共通点がある。万葉集の韻律と歌の分類法はタミルの古典「サンガム」そのままとのこと。著者は古事記、万葉集、日本書紀などを長年研究し古い時代の日本語に明るい。

現代日本において関東と関西で言葉が異なるのは、関西が古代のヤマトコトバを受け継いでいるのに対し、関東では古いアイヌ語が基盤に残っているのであろうと論じているのは面白い。

タミル語起源説については疑問や反対論もあるが、数多くの事例についての説明は説得力がある。古代の長距離移動は陸路よりも海路が容易であり、南インドからの船が黒潮に乗って北上し、真珠を求めてやって来たとする説は、さもありなんと頷ける。知的好奇心を大いに満足させる良書である。



言語学者が政治家を丸裸にする   書感:山崎義雄

2007年11月17日 | Weblog
ユタ大学教授 東 照二 著 1619円+税

版元は確かなのだが、タイトルを一見すると三流出版社のきわもの的な本にみえ
る。売らんかなで編集者が付けたのかもしれないが、あまり上等とはいえないタイト
ルだ。

著者紹介の中に『最新の言語学を駆使して、対象を丸裸にしてしまうその手腕は、
「言語探偵」として政治家はもとより財界、マスコミ、芸能界からも怖れられてい
る』云々とある。政治家がワイドショーで活躍?する時代にマッチした本なのかもし
れない。

しかし面白いか面白くないかと言えば、面白い本である。本のオビに、「なぜ」の
小泉、「だぜ」の麻生、「おせ」の角栄、などとあり、「あの政治家の話に、人はなぜひきつけられるのか?」とある。

小泉純一郎、安倍晋三、小沢一郎、渡辺美智雄、田中角栄、等々、みんなが知っている大物政治家の言論を分析して見せるのだから、読者にとっても共感するところが多く、ワイドショー的な興味もわいてくる。

言論は政治家の政治生命を左右する武器である。政治は言葉を介して行われる(カネもあるが?)。もちろん言葉や言論は政治家だけのものではない。普通の人々も言葉や言論を介して生きている。その点で、本書には参考になる教えも少なくない。

例えば、人間の会話における話し方には、「リポート・トーク」と「ラポート・トーク」の2つがあるという。前者は世の中の各種の情報をリポートするような事実に基づく話し方、後者は相手との心の交流を求めるような情緒的な話し方だという。

ラポート・トークは話し手と聞き手の心理的距離感を縮める。小泉純一郎は、このラポート・トークがうまいという。著者は小泉発言やデータ分析でそれを示す。言語学者の著者による著名政治家の具体的な言動観察を通して、言葉や言論の本質に迫る分析には一般人としても教わるところが多い。

言霊が死にかけている・2     ランダムトーク:山崎義雄

2007年11月17日 | Weblog
先に「言霊が死にかけている・1」の中で、先ごろ亡くなった作詞家阿久悠さんが、「言葉を失くした日本人」を嘆いている話を書いた。その続きだが、ある人がある店で、阿久さんの作詞した歌を唄っていたら、たまたま阿久さんが現れてそれを聞き、後で「この歌はもっと大事に歌ってもらいたいんだけどなー」と言ったという話を、聞いたか読んだことがある。阿久さんの言葉に込める思いの深さが分かる。
阿久さんは先の著書で、現代の若者像を「痩せに痩せさせた畑に蒔かれた種子、当
然のことに成長の栄養もなく、結実の精気もなく、ヒョロリとした茎と萎びた葉が風にそよいでいる」と比喩している。だから、『今の若者は「別に」とか、「どうってことはない」という日常語と同じで、「今」と「自分」以外のものが思考の軸にない』ことになる。
むかし、木枯らし紋次郎が吐いた「あっしには関わりのネーこってござんす」とい
う台詞は、江戸時代の人情、しきたり、モラルが背景にあるからこそアンチモラルの凄みやカッコ良さが出てくるのだ。ルールもモラルも地に落ちたいま、なんとかいう裸のお笑い芸人が「そんなのかんけーねー」と喚いている情けなさとは大違いである。
しかし阿久さんは、「今どきの若者は」と嘆いているのではない。先の「痩せに痩
せた土地」というのは親であり、ご近所のおじさんおばさんであり、大人社会のことである。阿久さんの問題意識はこちらに向いている。
「別に」「かんけーねー」で思い出したのだが、東照二著「言語学者が政治家を丸裸にする」という本がある。小泉純一郎始め多くの著名政治家の言論を分析した本だが、ここで引用したいのは、同書の本旨からは少し離れた1つの挿話だ。
それは夫婦の会話である。仕事を終えて帰宅した夫に妻が声をかける。
『妻:今日一日、どうだった? 夫:うーん、特に……  妻:……でも、何もないことはないでしょう。どうだった? 夫:いや、別に……  妻:あなたって、いつもそうなんだから。 夫:……(この後、会話が途切れる)』という身につまされる?話だ。
単に心を通わせたいだけの妻と、報告するほどの出来事はないと考える夫。その隙
間を埋めるのは「情感」だ。情感を伴わない言葉や会話は素直に思考回路に進入してに納まらない。「痩せに痩せた土地」を生き返らせるためにも、言霊が精気を取り戻すためにも情感という栄養素が必要だろう。 

言霊が死にかけている ランダムトーク:山崎義雄

2007年11月17日 | Weblog
コンビニでちょっとした総菜を買ったら、レジの女の子がそれを袋に入れながら「お箸の方はよろしかったでしょうか」と言った。これは、割り箸を要るかどうかを聞いているのだと理解して、「要らない」と返事をするまで一瞬の時間差を生じてしまった。
>「お名前さま、いただけますか」という敬語もどきの言葉は、大人の笑い話でよく出てくる。どこだったか忘れたが、私もそう言われて記名を求められたことがある。その若い女性に名前?上げられないね」といったらびっくりした顔をしていた。
近頃、本当に日本語がおかしくなってきた。特に若者が使っている仲間内の言葉は
男女の別もない雑な言葉で、大人社会で通用するレベルの言葉、改まった言葉への切り替えができない。敬語らしき言葉はめちゃくちゃだ。最近、日経新聞の「春秋」欄にこんな話が載っていた。『「言葉にはね、〈くらい〉ってものがあるの」と八十五歳になった漫才師の内海桂子さんが言っている。
「飯は食う、ご飯は食べる、御膳はいただくでしょ。丁寧ならいいってわけじゃありません」』。そういって内海師は今の漫才の連中が言葉を大事にしなくなったと嘆いているという。
確かに今時の若い漫才連中は、汚い言葉で騒ぎまくるのが多い。言葉が命の漫才師
が巷の若者と同じで、言葉の〈くらい〉など無頓着なのだ。ふつうの若者も大半は
「飯を食う」レベルで会話をしている。「ご飯を食べる」ぐらいなら言うかもしれないが、「御膳をいただく」となったら、理解不能でナニソレとなるだろう。
先ごろ亡くなった稀代の作詞家阿久悠さんの著書「清らかな厭世」には「言葉を失
くした日本人へ」という副題が付いている。その中で「今、言葉がない。誰も言葉を使わない。どのように言葉の語彙数を積み重ねても、心を通過しないものは言葉とは呼ばない。カラオケで歌詞を目で追いながら歌う人は、目と口の距離しか言葉はとどまらず、頭も心も通過していないのと同じである」と嘆いている。

たしかに、夜の闇さえ押しやって四六時中電波が飛び交い、テレビの垂れ流しをは
じめ言葉の洪水に溺れるほどの現代において、情感を伴って耳に入り、脳の判別を経て胸に修まる言葉や会話が、どんどん失われていくようだ。饒舌になり、希薄になり、言葉の力が弱まっていく。言霊が死にかけているのかもしれない。


日本絶賛語録   書感:六甲颪

2007年11月16日 | Weblog
日本絶賛語録 村岡正明編 小学館     
この頃入ってくるニュースは心を暗くするものばかりでうんざりする。曰く「息子が親を刺す」「中学生が先生を襲う」「防衛省幹部が商社幹部とゴルフ数百回」・・・。本当に日本人は駄目になったのだろうか。昔はそうではなかった事を約100人の日本礼賛の実例を取り上げている。 時代は安土桃山時代から昭和の初め頃までで証言者は著名な外人ベルツ、モース、タゴールからゴッホ、アインシュタイン、ライシャワーまで及んでいる。その内容は多彩であり日本人の礼儀正しさ、勤勉さ、知的能力の高さ、独特の芸術感覚と宗教観、女性の美しさの他天然自然の美しさへの感動等々である。中でもブルノー・タウトの「泣きたくなるような桂離宮の美しさ・・・」 クローデルの「彼等は貧乏だ。しかし世界一高貴だ・・」を読むと今の我々は身が縮む思いである。
何故こんなに日本人は駄目になってしまったのであろうか。敗戦によって日本の悪い所だけでなく、長所も捨ててしまったのだろうか。欧米の物質文明に圧倒され、倫理観を失ってしまった結果だろうと思うし同時に後輩を指導すべき我々も責任を感じる。
確かにこの賛辞語録は外人の見たもので「あばたもえくぼ」的なところはあるが、読み直して本当に立派な日本に立ち返れるかを反省する原典と思いたい。
[2007/11/16]

ファースト・ジャパニーズ ジョン万次郎   書感:藤田

2007年11月09日 | Weblog
中濱武彦著 講談社 2007年9月
なぜ、アメリカに行き着いたのか?そこでどんな生活をしていたのか?
どのような気持ちを持ち続けていたのか?
日本に戻ってからどのような生き方をしたのか?

暴風雨により土佐沖から無人島であった鳥島に流されてしまい、偶然
アメリカの捕鯨船が通りかり134日目に救助された。当時鯨油は重要な
資源でアメリカから日本近海まで一航海3~4年もかけてやってきていた。

石油に置き換わるまでの歴史を知る上でも面白い。

彼らは水や食料の補給を必要としていたが、鎖国体制の日本は一方的に
追いやっていた。ジョン万次郎は外から日本という国をみて、遅かれ
早かれ日本はこのままでは外国にやられてしまうという危機感を持ち、
なんとしてでも日本に帰るという気持ちを冷静に持ち続けていた。

帰国資金をゴールドラッシュで得て、10年ぶりに薩摩藩の統治下だった琉球へたどり着いた。
そして、日本の近代化に名前の出てくる人たちが彼の門下生であった
ことを知り、いつの時代であっても、歴史とはいろいろなところで複雑に
絡み合っていることをあらためて認識しました。

そして、ジョン万次郎という人の生き方に感銘を受けました。  藤田 昇

鏡の中世界を覗く    ランダムトーク:六甲颪

2007年11月08日 | Weblog
鏡の中の世界はよく観察すると不思議な原則が働いていることが分かる。これを兄弟の対話の形で示してみることにする。
弟「お兄ちゃん。鏡は面白いね。僕は右利きだけど左でバッテイングしている姿がかっこよく写っているよ」

兄「それはそうだ。鏡の像は重ね合わせの原理で図の点線で示した軸線で折り返すと重なるように写っているので左右が入れ替わるのだ」

弟「そうか。しかし妙だなあ。左右は反転するが、上下は何故かわらないの?」

兄「良い点に気がついたな。確かに凸レンズの像は上下左右とも反転するので問題は単純だが、鏡はそうは行かない。しかし図のように上または下に鏡の対称軸を設定すると湖面に映る景色のように倒立像が得られる。この像をI3またはI4とするとこの二つは同じであるが上下は反転し同時に左右も反転している。つまり

    I3=I4=Rの上下と左右反転像

これに対してI1とI2は左右だけが反転しているつまり

    I1=I2=Rの左右反転像

結果として鏡はどう置こうと左右は反転する性質が残されてている。ここから先はわからないよ.」

以上     [2007/11/7]