書感とランダム・トーク

人間の本質を根本原理から追求研究する内容さらに遡っては生物・植物その他をサイエンス的原理から考察する。どうぞ御寄稿を!

諜報員たちの戦後 (書感-狸吉)

2007年06月20日 | Weblog

諜報員たちの戦後-陸軍中野学校の真実 斎藤充功(みちのり)著 2005年 角川書店 1,600 陸軍中野学校は昭和13年から終戦まで7年間存在し、その間2131名の秘密戦要員を送り出した組織である。終戦後ルバング島で一人で戦っていた小野田少尉もここで教育された。

本書は平成16年の留魂祭に参列した著者が、全国各地の中野学校関係者を訪ね歩き、さまざまな質問をして聞き書きを記したノンフィクションである。その調査行のいたるところで、著者は「中野は語らず」の厚い沈黙の壁に直面する。 しかし、その壁を乗り越え、中野学校の概要、卒業生たちの戦後の生き方、幻の教材発掘など、多くの知られざる事実を明らかにした。終戦間近、命令により米軍捕虜を斬殺した回顧談など、当事者が語るだけに実に生々しい。

中野学校卒業生の中には前歴を生かし、自衛隊や政府の諜報機関創設に携わったり、GHQに潜入した者もいる。進駐軍も彼等の特殊能力を積極的に活用したようだ。下山事件も進駐軍と中野学校出身者が仕組んだ事件らしい。ここでも著者は「中野は語らず」の壁に突き当たり、事件のカギを握ると目した人物と会いながら、告白を聞くことはできない。

戦後半世紀以上過ぎ、自分達も死を目前にしながら、部外者にはあくまで黙秘を続ける姿勢は理解しがたい。これは若いときに刷り込まれたマインド・コントロールが今でも作用しているのではなかろうか?オウム真理教と一脈通じるものがあると感じた。


よくわかる「三国志」名将完璧ファイル   寄稿者:散歩道

2007年06月20日 | Weblog
「三国志」名将完璧ファイル 執筆者:渡邊義浩 発行所:㈱廣済堂

前書きに ”名将の生きざまを探る、三国志演技」” とあり、内容は「蜀」・「」・「呉」の名将、そして「群雄」の名将伝という配列で、人間像を中心に講談風に書かれていて、面白く読める。各名将の後に必ず「美女列伝」として、南国の情熱を秘めた孫呉の美女とか、悲劇のヒロインとかが書かれていて、人間くさい面からの中国の昔が窺われてくる。


劉備・諸葛孔明・曹操・孫権などなど断片的に聞いたことがある英雄達が出てくる。また、有名な言葉「死せる孔明ーーーとか、水魚の交わり」などの由来もあちこちに出てくる。
巻頭には三国志の六大決戦として、各名将が活躍する場面を纏めて解説してある。それを読み返しながら、各名将を読むと分かりやすい。

出来るだけ原書をそのまま読まなければと主張してきた筆者・散歩道としては、ちょっと気が引けるのだが、膨大で、なかなか読みきれない三国志を読む入り口として適当と思い紹介いたします

ランダムトーク    智到望

2007年06月18日 | Weblog
ランダムトーク    智到望
麩饅頭をご存知だろうか、私はこの饅頭が好きであるが、だからと言って何でも良いと言う訳には行かない。麩饅頭は、生麩で作った饅頭を云うが、この生麩を作るのは大変な作業である事を知っている、私の祖母が健在の折、時々秘密裏に作っており、いつも少ししか作れないようで、幼い頃は不満であった。

小麦粉から蛋白質だけを取り出したものが生麩で、これを如何して作るのか私には知る由も無く、貴重なものとの印象は頭の隅に残っている。
先日、経営者仲間の研修会で、琵琶湖周辺を訪れた際の事、余暇時間に長浜の黒壁街を訪れてみた。この町が、観光客目当ての町づくりであることは、新婚風の若者と第二の人生を愉しむ老夫妻、そして旦那を置き去りにして来たおばさん軍団であることから、その目的は確かに達せられている。
我々の住む東京や横浜では、なかなか目にしない麩饅頭がここで売られているのを目にして嬉しくなり、買ってみたのであるが、これは私の知る麩饅頭より遥かに質の悪いものであった。京都に近い事から、さぞかし旨いだろうとの期待が見事に外れた。
長浜は、歴史的に重みのある土地であるが、このところ、商店街がさびれて地元の商工会が町おこし事業を始め、その効が奏したと言うことで話題になっており、その点に興味が有った。しかし、この麩饅頭もそうだが、手打ち蕎麦と名を打つ店にもガッカリした。こんな事をしていると、折角観光地として再生した町も元の木阿弥になるのは目に見えている。
思うに、京都に近いことや、ここの歴史を考えると観光地として訪れる客の期待は高いはずである。横浜から450kmの道のりを車で飛ばして来た者として、限りなく京都に近いこの地だから、私自身も期待は大きかった。
長浜と言う町、その長浜城も彦根城建設にその素材が使われて、再建には資料が散逸し困難を極めたと言われている。その彦根城は重要文化材であり、世界遺産の有力候補である。一方長浜は、新幹線から逸れたこともあろうが、だからと言って卑屈になる必要は無い、ご存知秀吉の最初の居城であり、千代の生まれ故郷であり山口一豊の居城でもあった。
観光無客を欺くことは自分の首を絞めることに繋がる、私の郷里秋田に比べれば恵まれたロケーションである。

美 機械式計算機の世界―手回し計算機を中心として 寄稿者:辻修二

2007年06月13日 | Weblog
美 機械式計算機の世界―手回し計算機を中心として 
渡邉祐三 ブレーン出版 2007年


機械式計算機といえば、日本では「タイガー計算器」がすぐ思い浮かぶ。本書によれば、大阪で金属加工をしていた大本虎次郎が、その名も「虎印」のブランドで計算機をつくったのが1923年だそうで、初期のモデルはドイツの計算機とそっくりだったというから、洋の東西を問わず何事も模倣から始まるのである。日本では江戸時代から算盤が普及していたため、機械式計算機の発明は遅れたが、その後同社は日本最大の機械式計算機メーカーとして1974年までに約48万台もの計算機を製造した。
著者は、そのタイガー計算機で30年以上機械式計算機と関わり、現在も90台以上をコレクションするいわば“生き証人“で、計算機修理技術をマスターするために彫金教室にも通ったという。本書には、状態良く保存、修復された日本を始めドイツ、イタリア、イギリス、アメリカなど世界の91機種、104台の機械式計算機ごとに、製造国、製造年、機械番号、桁数、サイズ、そして計算機にまつわる詳細なデータが書き込まれ、貴重なデータベースでもある。さらに、機械式計算機を知り尽くした著者が自ら撮影したという100点以上のカラー写真は、その機能美を余すところなく表現していて、写真集としても見事である。
航空機、自動車、テレビ、携帯電話、…。20世紀の最後の100年は、長い人類の歴史の中でもとりわけ革新的な科学技術が数多く生まれ、近代化へと疾走したハイテクの世紀だった。 しかし、その恩恵がすべての国に平等にもたらされたかといえば、必ずしもそうではない。ものづくりへの創造力や意欲、そして技術開発への才能や勤勉さを持ち合わせた国だけが新しい文明を享受できたのも現実である。
今日のコンピュータにつながる先駆的役割を果たした機械式計算機もまた、その時代の最先端の精密加工技術と材料を駆使してつくられたことを考えれば、この精巧で同時に人間的香りのする機械への興味の度合が、その国の技術基盤や工業水準を推し量る一つのバロメータといえるのかもしれない。人類が歩んだ技術進歩の道標の一つとして、マニアックなノスタルジーではなく長く語り継ぐべき貴重な産業遺産である。
その意味で本書は、機械式計算機に対する著者の深い敬意と情熱に満ち溢れた、崇高なオマージュといっても過言ではない。



科学する心の復活(1)    投稿者 六甲颪

2007年06月13日 | Weblog
                科学する心の復活(1)
       ------------若者の理工系離れ----------
第二次世界大戦が始まる少し前に時の橋田邦彦文部大臣から「今必要なのは科学する心を持つことである。日本の役に立つ大発見大発明がどんどん出来るようにあらゆる手を打ちたい」の号令がかかり、早速大学理工系の研究費の増額、理工系学生の大幅な増加などが実施された。この事は第二次大戦が始まると日米の新兵器の開発レベルに大きな差があることが明らかになってきたからである。まずアメリカ軍に装備されたレーダー装置で日本の得意とした夜間戦闘や空襲が不可能になり、最後には原子爆弾の登場により日本は敗戦を余儀なくされた。
結果として理工系増員等の施策は戦争に役立たなかったが、戦後漸く航空関係の技術者は自動車エンジンの開発に動員され、更に半導体研究にも電子回路技術者が頑張り他分野でも理工系技術者が活躍し、日米の技術格差の是正に役立って来たと言われている。
 しかし全般的には日本人の平均的資質は文系であり、理系は現実社会では少数派である。欧米でも文系優勢の国が多いが、日本と違うところは文系の人でも科学的知識と能力が日本人より遙かに高い点である。文系の人でも自宅周辺の修理造作や電気機械製品の故障修理は自分で出来るし、その材料の知識も豊富であるのには驚くほどである。
 この頃になって日本では「若者の理工系離れ」が問題になってきたが、このままでは理系の人材がますます不足してくるであろう。テレビでは占星術師が怪しげな予言をしたり世論は非科学的方向に進んでいる。今こそ首相が先頭に立って「科学する心の復活」を呼びかけ直ちにその具体策を展開して貰いたい。[2007/06/12]

インターネット革命( 日本橋閑話より抜粋) 寄稿者:散歩道

2007年06月11日 | Weblog
インターネット革命
日経CNBCの社長をしておられた桐山勝氏は現在明星大学講師その他で講演などでご活躍中の合間を縫って、メールで日本橋閑話という題名で各種の情報を発信しておられる。同氏の許可を得て、ITに関する記事の一部をご紹介する。世の中が恐ろしい勢いで変化しつつあること読み取って頂ければ幸いです。散歩道

グーテンベルクの活版印刷革命(1447)以来の発明。米国防総省がソ連の人工衛星成功に伴いコンピュータの分散管理をすすめる中で生まれた技術で、1969年の4大学のコンピュータ連結をもって民間利用の嚆矢とする。1995年以降、新興IT 企業は次々に上場、日本にも波及した。

 
資料④米国のサイト利用者ランキングと主要新聞(日経07.5.8)
           サイト利用者(百万人) 時価総額(億㌦)
   1、ヤフー         129      420
   2、タイムワーナー     118      806
 3、グーグル        115     1465
 4、マイクロソフト     114     2924

資料⑤米主要紙の発行部数(日経07.5.3,06.10-07.3平均)
             発行部数(千部)  前年同期比増減率(%)
1、USAトゥデー          2278        0.2
2、ウォール・ストリート・ジャーナル 2062        0.6
3、NYタイムズ           1120       ▲1.9
4、ロサンゼルスタイムズ       815       ▲4.2

資料⑥日本の新聞
読売新聞1007万、朝日新聞827万、毎日新聞400万、日本経済新聞302万、産経新聞213万
宅配制度は明治初年の販売規制から始まり昭和10年代に確立。
販売店の収入は売上高+折り込み広告取り扱い手数料
販売部数は公称で、新聞社によっては30%近くが押し紙との説もある。

7. 日本のメディア産業事情(註:4年前の資料なので、今はインターネットが圧倒的に増えている筈)
 資料⑦日本のメディア市場規模(2003)13兆9374億円=GDPの2.6%
テレビ:3兆6323億円 出版:2兆6248億円 新聞:2兆3576億円
音楽:1兆5133億円  インターネット:1兆4788億円  映像:1兆0982億円   ゲーム:1兆0186億円 ラジオ:2138億円

資料⑧日本のメディアの企業数と従業員数(2003)
    企業数    従業員数
出版   4311     96300人
広告   4233     91819
民間放送  193      27217
新聞    113      54436  cf.新聞販売店は21000店、従業員は44万人
NHK           11859

日本の地名の意外な由来   寄稿者:散歩道

2007年06月09日 | Weblog
日本の地名の意外な由来   著者:日本博学倶楽部  

我々が何となく使っている各地の地名の由来を調べると意外と面白いことを発見する。東京には富士と言う名前がついたところが沢山あるが、これはビルなどがなった昔は明らかに富士山が見える所だったことわかる。大分前に、東京都は税金を使って地名を変更してしまったのは誠に残念だ。

八重洲:東京駅の丸の内の反対側は八重洲である。この名の由来は江戸時代にさかのぼる。徳川家康に雇われて外交・貿易の顧問となった「ヤン・ヨーステン」が幕府から拝領して与えられた屋敷の有った所が「やよす河岸」と呼ばれていた。それが1954年昭和29年に八重洲となったと言う。

北海道:古くから蝦夷地と呼ばれていたが、江戸時代に廃藩置県が行われた。律令制のもと北海道を除く日本列島は「五畿」と「七道」の区域に分けられた。
「七道」は東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道のことである。この中に北海道がなかったので、蝦夷地を「北海道」と名づけられたとの事。

烏山(栃木県那須烏山市):那須の殿様で資之と言う人がいた。その弟の資重は兄より評判が良かったので、兄は面白くなく弟を殺そうと考えていた。その事を知った弟が「烏山」の稲積という城に逃げこんだ。弟を慕った家来がどんどんそこに集まってきた、大きなお城を作る必要に迫られた。

その時、一羽の烏が金の幣束を咥えてきて山の頂上に落としてくれた。弟は「カラスは熊野権現さまのお使いと言うから、そのお使いではないか」と1418年にその山に城を築き、烏城と名づけた。その後何度かの戦いでも、敵はここには足を踏み入れなかったと言う。
ここ時代は、カラスが敬まわれていたという事と合わせて、地名の由来を知ることは面白い。
ただし、よく知っているところの解説などでは、ちょっとそうかなと首をかしげる部分もある。散歩道

『ゾウの時間ネズミの時間』  寄稿者:散歩道

2007年06月09日 | Weblog
ゾウの時間ネズミの時間 著者:本川達雄 東大理学部生物学卒 91年より東京工大理学部教授 主な著書「サンゴ礁の生物たち」「細胞のバイオメカにクス」「歌う生物学」「Biology of Echinodermata」
先に『本当の本』のメンバー杉山さんとの共著で二分の一人間を提唱したことがある。地球上の人間の適正なサイズを考察して、現在の人間は少し大きすぎるのではないかとの問題提起をした。

ここに紹介する『ゾウの時間ネズミの時間』は大分前に既に購入してあったのだが、改めて読み直して見ると、動物のサイズの違いによる諸問題を実に基本原理的に詳しく,かつ、統計的なデータの裏づけを提示して論じてあることを再認識した。
本書の題目の意味は、動物の大きさによって、夫々の時間に対する感じ方が違うと言う意味で、まず、我々人間は、とかく、自分を基準に考えることを反省させられる。
動物のサイズによって違う要素として、時間感覚・エネルギー消費量・生息密度・走る飛ぶ泳ぐ能力などに関して、大小による一長一短を原理的に実に分かりやすく考察している。そのほか、なぜ車輪動物はいないのか?とか面白い観点からの議論もあって、読んでいて楽しい
また、面白いだけではなく、巻末に、しっかりした数学的根拠も分かりやすく提示されていて、学術的にも優れた論文となっている。

何回かに分けて紹介するに足る内容であるが、取り敢えず全般を紹介しました。散歩道

メビウスの帯  書感投稿者 藤田 昇

2007年06月07日 | Weblog
メビウスの帯  クリフォード・A・ビックオーバー著 吉田三知世訳
 日経BP社 2007年4月発行 ¥2,200

私が中学生であった頃「メビウスの帯」という名前を知っていたかどうかは定かではありませんが、紙とはさみと糊を使って友達同士で遊んだ記憶があります。

本書では「メビウスの帯」を利用した手品や、数々の工業製品や利点などにも触れております。最近では3角形矢印のリサイクル表示マークもこの「メビウスの帯」を利用していることをあらためて知りました。

「メビウス」の存命中は数学者より、天文学の普及に尽力したことで有名であったと思われると著者は述べています。メビウス(1790-1868)の頃は優れた数学者の多くは天文学者でもあったそうです。
「メビウス」は、小さな三角形をいろいろな方法でつなぎ合わせた表現全般に興味をもっていて、そのなかにねじれがあり、しかも面が一つしかないような形状があったこを見つけた。
多面体の体積の決定という論文の中に体積を持たない多面体があることを示しており、この体積を持たなく面が一つしかない「メビウスの帯」が広く知れ渡ったのは彼の死後のことであったと著者は述べています。

また、「メビウス関数」と名付けられた特殊な整数関数(全ての自然数を-1, 0,+1 の3つに分ける)の研究者であったことも知りました。整数関数でありながらπが使われているのにびっくりしました。最初は、何の目的のためにこんなことを研究していたのだろうという疑問がありましたが、当時最先端の数学であったのであろうという感じがしてきました。関数そのものは私にはむずかしすぎましたが、真理の探究のためにこの関数を見つけたという情熱は伝わってきました。


理解できないところは飛ばして、興味のある所だけ読んで堪能しました。挿し絵やパズルも楽しませてくれた一冊でした。

藤田 昇

漢文(中国文)の時制欠如について   寄稿者 六甲颪

2007年06月01日 | Weblog
漢文(中国文)における時制(Tense)の欠如について  寄稿者 六甲颪

前々から気がついていたのであるが、漢文や中国文には時制という考えが欠けているのではないかと思いGoogle等で調べたところ次のことが分かった。
1 欧米の言語で話したり文章を書く場合、動詞の時制を正確に言わないと文章が成り立たないことは中学校時代の英文法時間にたたき込まれた。つまり動詞には現在、過去、過去分詞と変化し時間経過によって厳密に使い分けられてまた未来には英語の場合willとかshallが付けられて整然としている。しかし漢文の動詞にはその区別が全くないので、日本では送りがなとして「き」とか「けり」をつけて過去を示し、「む」や「らむ」を付けて未来とか推量を示した。つまり古来からある日本の言葉には欧米語と同じく時制を使っていた。

2 それでは中国では時制を全く使わずに文章上の混乱は生じなかったのであろうかと言う疑問が湧くが、中国の漢詩や歴史を眺めると混乱は殆ど生じていない。つまり古い話を
記述するときまず年代を明らかにして読者をその年代に引き戻す方法をとっている。従って読者は過去の時代に移行しているので現在形の文章で何の違和感もないことが理解できた。但し中国の動詞には時制は全くないが文章の終わりに「了」とか「已」にが付加される程度である。例えば朱喜の「偶成」という七言絶句では

 少年易老学難成 一寸光陰不可軽 未覚地塘春草夢 階前梧葉已有秋声

これは池にほとりに春草が生えて来た楽しい夢が覚めないうちに階段の前にある桐の葉が已に落ち始めているというような時間経過を苦労して表現している。

3 このように時制を欠いた言語もありうることを記したが中国人が時制の明確な欧米の文章を翻訳する時や中国文を欧米文に翻訳するとき、日本人以上に苦労するのではないかと思われる。
参考文献:「漢詩の鑑賞と吟詠」 志賀一朗著 大修館書店 2001年6月発行
     Google:漢文の過去表現法 「古典語過去助動詞の研究史概観」5.6
[2007/06/01]