この地とともに。
しんくうかん
第389話「私的とかちの植物嗜考・コケモモ」
―家出とフレップ―
『何だこのガキ!!親に向かって・・・出てけぇ』
『あぁぁ出てやる!!こんな家』
両親がまともに話あう光景はまずない、和やかとは程遠い家庭だった。
徐々に夫婦喧嘩の激しくなる環境は、長男の私が高校に入るころピークとなる。
山が大好きだった私。高校入学すると躊躇なく山岳部に入る。
夏休みを前にしたある日、山岳部の顧問は、「夏休みに、一週間かけて羅臼岳登山と知床半島横断を計画するけど、行かないかい」。
知床旅情の歌の大ヒットで、全国から観光客が押し寄せていて、それに呼応してのた計画だったらしいが母親に話すと、当然即却下。
とある作家の、「家庭の不和は貧乏のはじまり」それを、絵にかいたような家庭、叶うはずなどはない。
夏休みに入り、おりしも十数名の部員を引率した先生が出発すると云う前の日夜、飲んで深夜に帰宅した父の怒鳴り声で目が覚める。
また始まったと布団をかぶっていると、枕元で弟が「兄ちゃん大変だ!!」。
玄関口で互いに叫びつかみ合う二人、母親はちぎれた下駄の鼻緒を握り、血染めで引き裂かれたワイシャツ姿の父親の額からは、どくどくと血が噴出している。
まるで凄惨なプロレスの場面、何か、ものすごく悲しくなった私は、喚き散らした。
かくしてその夜、夏休みに山へ行こうと用意していたキスリングザックを背にして、家を飛び出したのだ。
近くの河原で野宿した翌朝、ふらふらと、聞いていた集合時間に、駅へ行く。
どこでどうなったのか記憶はないが、みんなと釧路行の列車に乗っていた。
多分事情を聴いた先生に、「一緒に行くべ」となったのだと思う。
だって、ポケットにはいくらもなかったはずだから…。
半島横断にはそんなに興味はなかったが、何もかも忘れものすごく楽しかった七日間で、今にして思うとあれもこれも親父のおかげ―。
羅臼岳に登頂して、羅臼側に下る稜線の岩場で「あったフレップだ!!」。
先生の掌に握られていた、まだ緑色が残る小豆ほどの実を齧る。パリパリ、何と言う歯ごたえ、酸っぱいのに後から甘味がきてリンゴのようだ。
千㍍近くの岩場の周囲に生育するので、周りを探し味わいながら下山した。
“フレップ”はアイヌ語名で「果物の意味」らしく、コケモモという名を知ったのは、写真で生活ができるようになってから。
家を出た父親が戻ってきたのは、それから5年後の、新聞記者をしているときだった。