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れすぃむり るーずなーめむ

一個研究現代東北回民史之人的日常記録。

「塩とパン」。

2007-04-26 20:26:58 | Lisan-i Etrak
こんにちは。
件の「旅行記」の翻訳を今期中にアゲてしまおうと、
先日担当教官の先生に頼んで、
再度オスマン語-オスマン語辞典の辞書を借り受けたのですが。
(Ş. Sâmî, Kâmûs-i Türkî, Akdam Matbaası, 1317)

別件で調べものをしている時に、
「塩tuz」の項目で、
「塩とパンの義務Tuz etmek hakkı」という欄を目にしまして。
少しく懐かしさを感じましてね。

というのも、
幾度かこちらにも書かせて頂いておりますけれど、
私が卒論で扱ったのは近現代新疆の事例でして、
京都大学の濱田正美先生の論考なども当然色々と参考させて頂いたのですが、
その中に東トルキスタンにおける「塩の義務」に関するモノが御座いまして。
(「塩の義務と聖戦の間で」『東洋史研究』52-2,1992)
中世トルコ語から始まる「メシを食わせて貰ったモノに対する恩」に関する、
塩に纏わる「慣用句」について、色々と勉強させて頂いたのですけれど、
あらためてオスマン語辞典で同様の項目を見つけると、
何か考え深いモノがありますね。

ちなみに。
同「辞書」での語句の説明は、
「Şükürân, Müntidârlık」とのことです。

それでは。

「いらっしゃい」する…?

2007-02-28 12:26:02 | Lisan-i Etrak
こんにちは。
引越しの準備に本棚の本を丸々箱詰めしてしまった結果、
ここ数日の間、就寝前に読むモノが無くなってしまい、
偶々仕舞い忘れていた少しばかりの資料に目を通したりなどしておりますが。
昨晩久方振りに以前複写した戦前のタタル語雑誌の記事を見ていると、
“xoş âmadî kıldı”なんて表現を見つけて、「ふーん…」となりました。

“xoş âmadî”というのは、「(あなた)よく来ましたね」、
つまり「いらっしゃい」という意味のペルシア語。
“kıldı”というのは、
「する」という意味のタタル語動詞kıl-に過去を表す接尾辞di/dıが付いたものでして。
要するに、上の表現は、「歓迎する」という意味の、
ペルシア語の文とタタル語の動詞の複合表現なわけですね。
オスマン/トルコ語でもそうですけど、アラビアorペルシア語由来の言葉が、
「する」「なる」等の動詞と結び付いて用いられることは一般的ではありますが、
(しばしば言及されることではありますけれど、
日本語語彙中の「漢語+する」という表現を想起して頂ければよろしいかと)
その場合でも、名詞/形容詞+動詞というパタンが殆どでして。
今回見たような事例は見たことが無かったので、
ナカナカ面白いな、と。

もっとも、今まで私が読んだことがあるモノなんて、
ホント笑ってしまうくらい少ないので、
実は結構ある用法なのかも知れないですけれどね。
それでも、自分が知らなかった表現を見つけることって、
コトバに関心があるものにとっては、
小さな楽しみの一つではあると思います。

それでは。

“Kulu” ve “Kuli”。

2006-12-28 22:01:08 | Lisan-i Etrak
こんにちは。

昨日実家までの帰途において、
『環』別冊の満鉄特集に目を通していたのは、
既に書かせて頂いた通りですけれど。
同書所載の岡田和弘氏による「満鉄総裁列伝」文中にて、
「一口に苦力(ヒンズー語)というが…」というのを目にし、
「おや…」と思いまして。

周知の如く、
「苦力」というのは、「クーリー」と読むのが一般的のようで、
近代以降の植民地におけるインド人・中国人人足の総称として、
使われていたようですけれども。
その語源としては(一々詳細を示す煩を省かせて頂きますが…)
ヒンドゥー語、タミル語、サンスクリット語等々、
諸説あるようでして。
どうやら漢語には東南アジア経由で入ったんじゃないか、
と考えられているように思うのですけれど。

でも、
一応「オスマン語」なんて勉強したニンゲンとしては、
クーリー→クルKulという発想をしてしまうわけでして。
クルというのは、「奴隷」を意味するトルコ系言語の語彙なんですが、
アラビア文字でそうした言語が書かれていた時には、
qūlとか、qul/qolと綴られておりまして。
で、「なんちゃらの奴隷」なんて書かれる場合には、
「なんちゃら」が「奴隷」を修飾するのを限定することを示すよう、
qulの後ろにīという音価の文字が添えられる規則になっていたのですよ。
つまり、「なんちゃら・クーリー」になるわけで。
そこから流れ流れて「苦力」に行き着いたんではないかと。

トルコ語由来の言葉が南アジアにどれほど流入しているのかについては、
私不勉強にして殆ど知らないのですが。
ただ、イランでは一応人名なんかで「~クリー」が残っているようなので、
(Emāmqolī, Hoseynqolī, Heydarqolīなど)
あちらの方にも、イスラーム化後にqulという語が入っていても、
おかしくないんじゃないのかなあ、なんて思ったりもするのですが。
どうなんでしょうね。ただの妄言でしょうか。

それでは。

NHKのトルコ語(ミニ)講座第1回 観賞。

2006-10-04 15:54:55 | Lisan-i Etrak
こんにちは。
以前こちらでも紹介させて頂いた、
NHKの「アジア語楽紀行」でのトルコ語編、いよいよ始まりましたね。

私も早速第1回を見てみましたが、
最初はベタながらもメルハバとイイギュンレルでした。
確かに挨拶は重要ですから、数分間の番組であれだけやれれば十分でしょう。

あと、出演者の女性が舞踊をされている方というのには、
ちょっと興味を惹かれました。
あちらの舞踏なんかにも少し興味がありますので(見る専門ですけれど)。
Müge Yahşiさんとおっしゃるのですよね。
確かにyahşiな方ですね(笑)

次回は買い物編のようです。
一度あちらへ行かれてみたいと思われてらっしゃる方は、御覧になられてみては。

それでは。

知識の海。

2006-08-24 16:29:33 | Lisan-i Etrak
こんにちは。
昨晩何となく机の上のト英辞典を取って捲っていまして気がついたのですが、
現代トルコ語の「海」deryaに「賢い」とか「賢者」なんて意味があるのですね。
既にご存じの方からみれば、「何を今更」ということなのでしょうけれども。

西のトルコ語でそんな意味があるなら、「東のトルコ語」ではどうなんだろうかと、
ついでにウイグル語のdäryaについても少し調べてみましたが。
ぱっとみた感じ、該当するような語義は見あたりませんでした。

deryaもdäryaも、ペルシャ語のdaryāに由来していますので、
ならばペルシア語はこれ如何に、と手持ちの辞書を見てみますと、
daryā-e ‘elm「知識の大海」なんて語句が載っていました。
現代トルコ語のderyaの「賢き」云々というのは、
こういったイメージに近いのでしょうか。

そういえば、モンゴル語のdalayもそんな様な意味が有りましたよね。
海から「知識」にイメージが結びつけられる事例は、あるのかもしれませんね。