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れすぃむり るーずなーめむ

一個研究現代東北回民史之人的日常記録。

Wカップで思い出すこと。

2006-06-13 09:55:59 | Fikrimce…
こんにちは。

昨晩はW杯での日本の初試合だったようですね。
結局はオーストラリアに敗れたようですが、
その結果に対する評価の如何はともかくとして、
各メディアにおける報道もサッカー一色といった感があります。

残念ながら(?)私はこのお祭りに乗り遅れてしまった組に入るもののようで、
昨晩も土曜にある勉強会の課題図書なんてのを読んでおりましたが。
先の日韓共催による大会の時は、結構色々と試合を見た覚えがあります。

中でもとりわけ思い出深いのが、スポーツ・カフェで見たトルコ・中国戦でしょうか。
当時私の担当教官をして下さっている先生と合同で研究をされたトルコ人の学者の方が、
学校の方にいらしていて、その方と一緒に観戦しました。

3-0といいスコアでトルコが快勝したので、こちらとしても満足したのですが、
観戦していて驚いたのは、こんな旗がトルコ国旗とともに会場で掲げられていたこと。
「亡命者」の人々による「示威行為」なのでしょうが、トルコも国としてこれを黙認していたのですかね。今でも気になります。

そういえば、今回の開催国にも彼らの「ロビー」が多く存在するようですが。
世界中の耳目が集まる中、彼らはまた何か行動を起こすのでしょうか。
サッカーそのもの自体とは余り関係ないですが、少し注意してみてみようと思います。

それでは。

どうなんでしょう。

2006-05-07 12:44:51 | Fikrimce…
こんにちは。
こちらにブログを移してから、所謂「時事ネタ」には触れてこなかったのですが。
昨晩こんな番組をやっていたのを見ましたので、そのことについて少し。

私は途中からしか見ていないので、
当番組の中身について如何こう言う資格はないかもしれませんが。
純粋に、24時頃から最後まで見た一個人としての感想としてですけれど、
正直「どうなの?」といった印象を受けました。

確かにアクチュアルな問題を論ずるシンポジウムの様子を放映するのはよいのですが、
コメンテイター等々の面で可也「偏向」があるのではないかと。
(大体、某シルクロード好き日本画家なぞを論者にする必要があったのかと)

それと、「日本文化」の立場から「中東問題」への認識、などというテーマ設定も、
如何にそれが「建設的」「肯定的」(若しくは「楽観的」)提言を引き出せたとしても、
他方では特定の「文化」を共有する/するべき人々に対して、
(「日本人」であれ、「アラブ人」であれ、「イスラエル人」であれ)
より一層固定的な見方を強めてしまうような可能性も持っているのではないでしょうか。

学者が同時代的問題に関心を抱かないのも大きな問題ですが、
安易に「~の立場から」などという「語り」をしてしまうのも、妥当なのかどうか。
そんな風に感じました。

それでは。

「輸入語」の一事例。

2006-03-22 18:46:28 | Fikrimce…
こんにちは。

先日の講演会と同じ日に、昔漢語を教わっていた台湾人の方の御宅で夕飯を頂いたのですが。その席で先日東南アジア・中国旅行から帰ってきた同輩から土産として本を数冊貰いました。
雲南・四川東部を経由してきたとのことで、土産本の内訳はチベット語の簡単な教本や雲南の少数民族の風俗だったりしたのですが、何故か「ウイグル人・カザフ人用の漢語の標準語発音教本」なんてのが一冊混じっていました。
恐らくトルコ語をやっていた私に気をきかせてくれたのでしょう。

で、その教本なのですが。
当然漢語に対応する「現地語」として、変形アラビア文字表記のウイグル語による説明が各章に附されていたりするわけですが、「漢語普通話(標準語)」の対訳として「Xänzu tili putuñxuasi」なんて表現が用いられていました。
putuñxua…要するに「普通話」の音Putonghuaをそのまま使っているようなのですね。

これはちょっと面白いなとウイグル語版googleで検索に掛けてみると、一応ネット上では幾つか同様の使用例が見受けられるようです。
もっとも、これが「辞書」に入るような「オーソドクス」な単語なのか、若しくは最近出来た「新訳語」であるかは、不勉強にしてわかりませんが。
ただ、「少数民族の子弟の為に漢語学習書」という非常に「政治的」な公的印刷物で使用されていることには、少し注意を向けてみてもよいのかもしれませんね。

最近こんな本を読み始めてみた為か、そんなことを感じました。

それでは。

「何ヶ国語できますか?」

2006-01-27 17:11:55 | Fikrimce…
こんにちは。
今回は「言語」に関することですこし。

以前の記事でモンゴル語の学習を始めた旨を書かせて頂きましたが、
日本ではどちらかといえば学習者が少ない言語の勉強などしておりますと、
「それってどんな言語/言葉?」なんてことを聞かれることもあります。
で、「語句の並び方で言えば日本語や朝鮮語に近い」とか、
「トルコ語なんかにも文法がよく似ている」などと言いますと、
「何ヶ国語やってるの?」なんて返事を呉れる人がいたりします。

「何ヶ国語やってるの?」「何ヶ国語できますか?」
日本においては、学習する(した)言語の数を聞く際、よく聞かれる表現ですね。
しかしながら、この「何ヶ国語」という、ある言語はそのままある「国家」と結び付けられるという前提を元にしたような表現には、少し違和感を覚えます。
例えば、「私は(現代)ウイグル語とサラル語とサリグ・ウイグル語を勉強しています」などと言った場合、言語の数から言えば三つですが、使われている「国家」の数は一つでしかないわけです。
ウイグル語も、サラル語も、サリグ・ウイグル語も、それぞれ「中華人民共和国」に居住する「少数民族」の言語ですので。
(もっとも、ウイグル人は旧ソ連領に逃亡・移住した人々も結構いますが)

「国家」を持たざる「民族」言語の存在や、
「公用語」が多数存在する「国家」というものが現実に多数存在する以上、
「一民族・一国家・一言語」といった認識に結びつきやすい表現は、余り使わない方が妥当ではないでしょうか。
考えすぎなのかもしれませんけれどね。

それでは。