こんにちは。
昨日に引き続き、本日の午前中も件の発表用レジュメ作りをしておりました。
ある程度形にはなっているものの、
実際に発表するに当たっては、やはり2・3懸念すべき問題が。
その中でも「面倒臭い」のが、「呼び名」の問題、
つまり、文中の「用語」に関する問題でありまして。
私が扱っている時代というのは、
ここ100年の日本の歴史の中でも、
最も「イスラーム」というものに対して朝野の注目が集まった時期の1つでありまして。
それ故、当時の「イスラーム研究/認識」を知る上で手がかりとなるような、
同時代の関連書籍というものにはことかかないのですけれど。
何分急に起こった「ブーム」故か、「学術研究」以外の関心から書かれた本というのがかなり多く、
「イスラーム」に相当するような「用語」だけを見ても、
「イスラーム」「イスラム」「イスラム教」「回教」「回回教」「フイフイ教」「マホメット教」と、
まあかなりのヴァリエイションに富んでいるようで。
要するに、「用語」/「呼び名」の共有化というものが、全く出来ていなかったみたいなのです。
これらをそのまま引用すると、当然発表を聞く側に混乱を与えてしまうことになるので、
さてまあどうしたものか、と現在思案中。
違った「呼び名」を使うことによって、当時の著述家が異なった概念を含ませようとしていたかどうかも、甚だ怪しいですしね。
それでも、まだ「回教」だの「イスラム」だのと言った手合いはまだよいわけでして。
これが「民族」という厄介なコトバと結びついて、「回教民族」などという「用語」「呼び名」として用いられているのを目にすると、
「もうイヤ」という気分になります。
今現在使われる所の「ムスリム」という語/「呼び名」によって意味される人々と、
この「回教民族」を同列に扱っていいものか、分かりかねますし。
「回教」を信奉する諸「民族」一般を指しているか、
「回教」を信奉する諸集団を一個の「民族」として見なしているのか、
「回教」を信奉するある特定の「民族」のことを言っているのか。
文脈によって判断しようにも、何分「大風呂敷を広げた」「論評」が少なくないため、
ひょっとしたら、これを書いている連中は大して注意もせずにこの「呼び名」を使っているのではという気にもなってきます。
こんな風に多数の「呼び名」が混在し、且つ無定見に使用されているのを見ますと、
「ああ、扱う事象への「名前付け」という行為は、疎かにしては不味いのだな」
と、あらためて感じます。
「名は体を表す」などと言いますけれども、
実際のところ、「名が体を規定」している場合も多々あるわけで。
一見分かりやすいように見える「呼び名」を多数の事例に当てはめることで、
ある特定の事物に付されたイメージが、「名前」とともに他者にも付与され、
結果、個々の事例の実態が分かりにくくなってしまうこともあるのではないかと思います。
「道ノ道トスヘキハ常ノ道ニアラス、名ノ名トスヘキハ常ノ名ニアラス」
大学入学後に暫く「ハマって」いた『老子』のコトバを思い出しました。
「名」をあくまでも相対的・暫時的なモノとして割り切るのも1つの手ではありましょう。
しかしながら、学問的蓄積の共有化という観点から見れば、
やはり何らかの(随時更新されていくとしても)「定名」が必要な気がします。
その為には、私が扱っている時代の事例の吟味なども含めて、
様々な領域に携わる人々が、意見のすり合わせを行う必要もあるのでしょうね。
とてつもなく時間と根気がいることなのでしょうけれど。
それでは。
昨日に引き続き、本日の午前中も件の発表用レジュメ作りをしておりました。
ある程度形にはなっているものの、
実際に発表するに当たっては、やはり2・3懸念すべき問題が。
その中でも「面倒臭い」のが、「呼び名」の問題、
つまり、文中の「用語」に関する問題でありまして。
私が扱っている時代というのは、
ここ100年の日本の歴史の中でも、
最も「イスラーム」というものに対して朝野の注目が集まった時期の1つでありまして。
それ故、当時の「イスラーム研究/認識」を知る上で手がかりとなるような、
同時代の関連書籍というものにはことかかないのですけれど。
何分急に起こった「ブーム」故か、「学術研究」以外の関心から書かれた本というのがかなり多く、
「イスラーム」に相当するような「用語」だけを見ても、
「イスラーム」「イスラム」「イスラム教」「回教」「回回教」「フイフイ教」「マホメット教」と、
まあかなりのヴァリエイションに富んでいるようで。
要するに、「用語」/「呼び名」の共有化というものが、全く出来ていなかったみたいなのです。
これらをそのまま引用すると、当然発表を聞く側に混乱を与えてしまうことになるので、
さてまあどうしたものか、と現在思案中。
違った「呼び名」を使うことによって、当時の著述家が異なった概念を含ませようとしていたかどうかも、甚だ怪しいですしね。
それでも、まだ「回教」だの「イスラム」だのと言った手合いはまだよいわけでして。
これが「民族」という厄介なコトバと結びついて、「回教民族」などという「用語」「呼び名」として用いられているのを目にすると、
「もうイヤ」という気分になります。
今現在使われる所の「ムスリム」という語/「呼び名」によって意味される人々と、
この「回教民族」を同列に扱っていいものか、分かりかねますし。
「回教」を信奉する諸「民族」一般を指しているか、
「回教」を信奉する諸集団を一個の「民族」として見なしているのか、
「回教」を信奉するある特定の「民族」のことを言っているのか。
文脈によって判断しようにも、何分「大風呂敷を広げた」「論評」が少なくないため、
ひょっとしたら、これを書いている連中は大して注意もせずにこの「呼び名」を使っているのではという気にもなってきます。
こんな風に多数の「呼び名」が混在し、且つ無定見に使用されているのを見ますと、
「ああ、扱う事象への「名前付け」という行為は、疎かにしては不味いのだな」
と、あらためて感じます。
「名は体を表す」などと言いますけれども、
実際のところ、「名が体を規定」している場合も多々あるわけで。
一見分かりやすいように見える「呼び名」を多数の事例に当てはめることで、
ある特定の事物に付されたイメージが、「名前」とともに他者にも付与され、
結果、個々の事例の実態が分かりにくくなってしまうこともあるのではないかと思います。
「道ノ道トスヘキハ常ノ道ニアラス、名ノ名トスヘキハ常ノ名ニアラス」
大学入学後に暫く「ハマって」いた『老子』のコトバを思い出しました。
「名」をあくまでも相対的・暫時的なモノとして割り切るのも1つの手ではありましょう。
しかしながら、学問的蓄積の共有化という観点から見れば、
やはり何らかの(随時更新されていくとしても)「定名」が必要な気がします。
その為には、私が扱っている時代の事例の吟味なども含めて、
様々な領域に携わる人々が、意見のすり合わせを行う必要もあるのでしょうね。
とてつもなく時間と根気がいることなのでしょうけれど。
それでは。