神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

幸福税。

2019年12月12日 | キリスト教

 マーリン・キャロザースさんの「(神さまへの)感謝と賛美」を実践するようになってから、わたしも結構長いのですが……たぶんわたし、マーリン・キャロザース先生のこの教えを知ったことが、自分の<神経症>には一番効果があったのではないか、という気がしています(^^;)

 このマーリン・キャロザースさんの「感謝と賛美の教え」というのは、簡単に言うとしたら「人生上で起きてくる良いことも悪いことも、すべてのことを神さまに感謝する」ということで、聖書には喜びについての言葉がたくさん書かれているわけですが(聞いたところによると、喜びや賛美については八百くらい書き記されているとか)、


 >>神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

(ローマ人への手紙、第8章28節)


 >>いつも喜んでいなさい。

 絶えず祈りなさい。

 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

(テサロニケ人への手紙第一、第5章15~18節)


 特にマーリン・キャロザース先生の「感謝と賛美の教え」では、このふたつの聖書箇所が大きな土台となっていると思います。

「人生上のいいことも悪いことも感謝する」と聞くとなんとなく聞こえがいいですが、「いいこと」を感謝したり喜んだりするのは当然にしても、「悪いこと」を感謝したり喜んだりできる人というのは一般的にそう多くないと思うんですよね(^^;)

 ええと、これはわたしの記憶によると――今年の10月22日くらいに起きたことなんですけど、某アルバイトのために自転車に重い荷物を乗せ、自分の肩にも重いカバンをかけて出かけようとした時のことです。わたし、マンションの8階に住んでいるもので、それでもまあ窓から外の様子をよく見てたらわかったんでしょうけれども……外が思った以上の結構な土砂降りで、「どうしたもんかな」と思いました。

 雨が降ってるのはもちろんわかってましたが、それでもここまでの大降りとは予想してなかったのです。なんにしても、とにかく出かけていかなくてはなりませんし、目的地のほうへ向かいかけたところ――なんと!向こうからやってきた自転車と正面衝突してしまい、足などが水溜まりに嵌まりこみました

 重い荷物のほうも水溜まりのほうに落ち、すぐ拾い上げましたが、中のほうは少し濡れてしまったようでした。なんにしても、ぶつかった方のほうでも「すみません、すみません」とあやまられ、わたしのほうでも「こちらこそ、すみません、すみません」といった形でお互いにあやまりあって別れました。

 その時点で右手の指から血が出ていましたし、あとから確認すると、膝などにも痣が出来ていたわけですが……とにかく大した痛みもなかったことを、まず第一に感謝しました。そして、その後も雨の中で仕事をしなくてはならず、なかなか大変だったのですが、神さまに感謝しているうちにだんだんと風もやみ、雨も途中から小降りになってきました。

 わたし的な天気の見立てとしては、「これはとても突然やみそうにない」というものだったのですが、仕事が終わって別の場所へ移動している途中、雨がやみ、最後には虹がでたのです!!

 イエスさまの御名を崇めました。もちろん、わたしのためだけに突然雨がやんだわけでも虹がでたというわけでもなかったでしょう。けれども、これに類することをわたしは人生上で随分経験してきましたし、他のマーリン・キャロザースさんの「感謝と賛美の教え」を実践されている方は、これ以上のもっと多くの神さまの大きな業の表れを経験しておられます。

 ところで、ひとつ前の記事「神経症からの『回復の物語』」との関連で言いますと、神経症になっておられる多くの方が、「神に感謝したり賛美したりしたところで、なんの効果があるものか」と思われると思います。

 実際のところ、先の例のように、このくらいポジティヴシンキングなわたしが神さまに感謝しようと賛美しようと根本原因が取り除かれて癒されているわけではありません。ただしこれは、「だから神を信じることなど無意味だ」とか「教会にはすべての人を癒すほどの力などないのだ」とか、そうしたことを意味しているわけではありません(実際、イエスさまを通した癒しの御業が現在も数多く起こされており、中には奇跡としか言いようのない癒しの業も存在します)。

 たとえば、レベルⅣの末期癌の方であっても、教会で祈っていただいた時に癒されたという場合もあれば、神さまや周囲の方々の優しさと愛に包まれて、穏やかに静かに亡くなられた……といった場合とがあると思います。そして、わたし個人の神経症に関していえば、その症状があるゆえに「あれやこれが出来ない」ということで、行動のほうは制限されますが、行動できる範囲内で「ああしよう」とか「こうしよう」といったことは少しは出来るわけです。


 >>また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないよう、私を打つための、サタンの使いです。

 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。

 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

(コリント人への手紙第二、第12章7~10節)


 そして、「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です(ルカの福音書、第16章10節)」と聖書にあるように、とにかくそれがゴマ粒程度の取るに足りないことでも、小さなことからはじめていくのが肝心だと思います。たぶんこれは森田療法とも一致することですし、神に頼ることにしたから、今後はカウンセリングの必要はないというのではなく(吟味が必要ですが、祈りの中で「わたしが癒すからもう病院へ行く必要はない」と語られることはあります)、心療内科などに通って薬をもらったり、さらにその上で教会でも祈ってもらったり、個人的にも祈ったり……「いや、でもあなたは癒されてないんでしょ?」と思われるかもしれませんが(笑)、わたし個人は仮に癒されなくても、他の方のために祈る気持ちはいつでも満々ですから、根本原因が取り除かれるといったことがなくても、ある程度の症状の寛解といったことが起きてくるかもしれませんし、以前は考えられなかった行動範囲の拡大、前は出来なかったことが少しずつ出来るようになるかもしれない、あるいは何より気持ちの持ちようとして――イエスさまのことを信じ、聖霊さまの満たしを受けることで、<魂の静穏>と言いますか、またそれ以上の喜びに包まれながら生きるということは、十分可能だということです(その他、鬱症状の緩和、自殺するといったことについて考えなくなる……といったことが起きてくると思います)。

 つまり、イエスさまのことを信じていないノンクリスチャンの方がマーリン・キャロザース先生の御著書である「獄中からの讃美」「讃美の力」などを読まれて、「なるほど。きっと人生上のありとあらゆることに感謝するといった基本姿勢で生きたとしたらば、確かに何かが変わってくるに違いない」と考え、同じようにされた場合でも、ある一定の効果はあるでしょう。

 けれども、イエスさまのことを信じているクリスチャンが同じことを行った場合……とにかく違うのは、「聖霊さまから送られてくる喜びの力」ではないかという気がします。わたしの場合ですと、神経症の根本原因が取り除かれなくても、とにかくそのことを喜び感謝する力が与えられ、それゆえに霊的には常に幸福な状態でいることが出来ます。

 また、神経症が癒されなくても、他の経済的困難といった窮乏について祈った時には応えていただけたり、とにかく「癒されるか・癒されないか」以上の喜びと幸福に包まれて生活できるということ――それはもしかしたら、100%完全に癒されるということよりも幸福なことかもしれない……とさえ、時として感じることがあります。

 さて、今回の記事タイトルは「幸福税」というものですが、もし人間的な考え方をしたとしたら、どしゃ降りの雨の中、自転車同士でぶつかってすっ転んでも、それは「他のことで幸福が戻ってくるだろうから、これは税金とでも思って感謝しよう」とか、そうしたことになるかもしれません。

 けれども、神さまにある、イエスさまから聖霊さまを通して与えられる力というのは、そうしたことではないのです。ある程度「そのように自分の思考を持っていく」という訓練の部分もあるかもしれませんが、とにかく「相手のほうが自分よりも衝撃が軽くて怪我もなさそうで良かった」、「靴の中に水がしみ込んじゃったけど、そのことも主に感謝!」、「カバンが水溜りに落ちたことも主に感謝!」……ということが、何かやせ我慢的にそう思いこむというのではなく、即座にそう思い、また聖霊さまから送られてくる無償の喜びの力によって、次の瞬間には「♪るるんら~」といった気分になることさえ出来るということなのです。

 マーリン・キャロザース先生御自身もおっしゃっておられるように、マーリンさんの「(神さまへの)感謝と讃美」を続けていると、実践生活が長くなるにつれ、ちょっと狂人じみた思考法と行動感覚になるかもしれませんが――たとえば、「あの人はあんな目にあってもまだ神を信じている!」とか「自分は癒されると信じているらしい」など――けれども、続けていると必ず虹がでるような、素晴らしい人生的瞬間に出会うことが出来るのです。

 また、これはあくまで個人的なことですが、「癒されない効能」というのも、多少はあるように感じてもいます。やはり、自分に常に痛みや苦しみがないと、他の人の癒しを祈る場合において、それはどこか他人ごとなんですよね(^^;)いくら相手の身になって祈ろうと思っても、「自分がたったの今痛みを感じ苦しんでいる」ようには祈れない。神経症の症状のある人というのは、「ああ、神さま。わたしはいつでも命がけでいなくてはなりません。一体いつまでこんな惨めな状態でいなくてはならないのでしょう」という精神感覚が常にありますから、他の方の痛みや苦しみを鋭敏に感じつつ祈る……というところが間違いなくあるのではないでしょうか。

 そして、ひとつ前の記事を書いていてふと思いだしたのですが――そういえばわたし教会で、「神経症が癒されるように祈ってください」と言ったことは一度もなかったことを思いだしました。そのことの結果として「人間関係がうまくいかない」といったことが起きてくるので、「職場の人間関係がうまくいきますように」と祈っていただいたことはあっても、「神経症そのものが治りますように」と祈っていただいたことはありませんでした。

 というのも、神経症というのは、統合失調症の方がかつては精神分裂病という衝撃的な病名で呼ばれていたように……「神経質な人がなる病気?」といった感じで、一般的に理解されない向きがあると思い、そう祈っていただくことはしなかったのだと思います(あと、具体的な症状について口に出して言うのが嫌だったというのがあります^^;)

 ところで、今回の記事タイトルは「幸福税」ですが、「今のこの苦しみは、のちに幸福になるための税金なのだ」といった思考法も、ある場合は確かに有用であるのかもしれません。けれども、イエスさまのことを信じて聖霊さまを受けたほうが――「神さまからの愛にも、わたしたちからの神さまへの愛にも、税金など一切かからない」といった、無償にして無制限の愛の注ぎかけを受け続けていくことが出来ると思います。

 それではまた~!!





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