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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

右肩上がりの世界。

2023年02月18日 | キリスト教

 実はこの記事、一つ下の映画『サタデーナイト・フィーパー』の続きだったりします(^^;)

 あらすじ&感想については、大体そちらに書いた気がするので、今回はそちらの続きから、と思いました。。。

 主人公のトニーがダンスコンテストで優勝した際、自分たちよりもプエルトリコ人カップルのほうが上手かったのに、白人の常連客のほうを優勝させた……ということですっかり憤慨し、「みんな逃げて、荷物を人に押しつけあってる。失業してる親父はおふくろを怒鳴り、そしてオレたち白人はプエルトリコ人をいじめて鬱憤を晴らしてる。そんなことの繰り返しにはもううんざりだ!」みたいに言うシーンがあるわけですけど……まず順番に見ていくと、この映画の公開年が1977年ということもあり、今以上に「女性は家庭を守り、男は外でバリバリ働く」的風潮が強かったと思うんですよね。これは簡単に言うと、経済で強いカードを持ってるほうがお金を稼いでない側を抑圧しがちであり、さらにはトニーの父親のように失業中でも、その失業のイライラすらも奥さんや他の家族にぶつけるとか……その気持ちはわからないでもないし、トニーのお母さんのように絶望しつつ人生諦めてるというか、こうした家庭環境で育ったトニーが「オレは親父やおふくろみたいになるのはごめんだ!」ともがく気持ちというのもすごくよくわかる。

 つまり、映画の中でトニーがダンスパートナーとして選ぶステファニーと割と対等な雰囲気で描かれてるのは、そのあたりの影響が大きいと思うわけです。人間として助けあう=男と女が助けあう、白人とプエルトリコ人が助けあう……というのは、白人とプエルトリコ人の方のみならず、白人と黒人、東洋人やその他、人種や民族の違う人たちが助けあう、自分の抱えている人生上の荷物を不当な形で相手にぶつけることなく、対等で平和な関係を築いていく――というのがたぶん、今よく問題になってることの理想の解決法なのかなって思います。

 まあ、これもまた「言うは易し、横山やすし☆」というやつなわけですが(笑)、人種間とか民族同士で……ということの他に、わたしたちの身近なところでも似たようなことはいくらでもありますよね。学校でも職場でも結局、似た構図が生まれやすかったりもして、いじめというほどひどくなくても、強い立場にある人が弱い立場の人を抑圧したり、嫌な役目を押しつけたりとか、大体人間関係のトラブルの根本はそんなところにあると思う、というか(^^;)

 日本はアメリカほど色々な人種の方が入り乱れてひとつの職場で働くということは一般的でないにしても、わたしが海ドラや映画見ていて思うに、「問題は黒人だからとか東洋人だからとかユダヤ人だからとか、同性愛者だからというより……こういうことなんじゃないかなあ」と思ったことがあります。つまり、わたしがどこかの職場で働いていて、同じフロアで黒人の方と働いていたとする。ええと、べつにインド人の方でも中国人の方でも、そこらへんの人種は誰でもよくて……そういう場合、「相手のことが好きじゃないな」とか、「気が合わないな」と思ったとしたら――その部分は、相手が同じ日本人でも「この人、あんまり好きじゃない」とか「人種が違うからとかじゃなく、気が合いそうにない」と思う気持ちは同じでも、もしあまり親しみのない態度を取ったとしたら、「この人、わたしが黒人で差別意識を持ってるからこういう態度なんだ」と思われるかもしれないし、「インド人だから差別してる」と思われるかもしれない。

 それで、こうした中でトラブルが起きて口論になった場合……やっぱり喧嘩っていうのは相手の一番痛いところをグサリと突いてやろうと思うものなので、そういう時についうっかりにでも「この黒人野郎が!」とか、「カレーくさい奴とは気が合わないぜ」だとか、中国人は……ええと、なんだろう。とにかく、日本人に対しても「物真似するしか脳のない黄色いモンキーが!」とか、なんか色々ありますよね(言い回しがそれぞれ、過去に映画で見たお決まりのセリフっていうのがなんですが^^;)。

 その~、なんというかですね。わたし自身はたぶん根本的に(人によって事情が違うので、本当のところはわからないけれど)、白人か黒人か東洋人かユダヤ人かアラブ人だから△□……というのは、たぶんただの言いがかりで、人は自分よりも「弱い誰かに嫌なものを押しつけてなんかスッキリしたい」という衝動を持ってるものなんだろうなっていうことなんです。

 なんていうか、その時たまたまムシャクシャしてて、一度か二度、そんなふうにしてしまった、でも今はそのことをとても反省している……っていうのであれば、救いはあると思う。でも、家庭レベルで見ても世界の人種問題的なことを考えてみても、そうじゃないと思うわけです。家庭に、いつでも「自分の鬱憤晴らしのためにイヤなものを押しつけてくる」父親なり母親がいたら、子供は逃げたくなるでしょうし、旦那さんが奥さんに十数年にも渡ってそんなことをしていたら、離婚しないのが不思議なくらいでしょう(でも、子供はまだ子供なので、そんな家庭でも逃げられないし、奥さんにしても経済的自立が難しかったら、離婚もせず、耐えるしかないかもしれない)。

 国レベルで見たとしたら、今ロシアがウクライナにしていることが、根本原因として似たところがあると思います。ロシアはかつての「大国」としての威信があるので、自分が(というかプーチン大統領が)、「ロシアよりも格下」と見なしている国が楯突いてくることに対して、到底我慢がならない。そしてこれがもしアメリカだったら、いわゆるプア・ホワイトっていう、白人の方が成功している黒人の方に対していい感情を持っていない場合があるっていうのも――かつて、「少なくともあいつらよりもオレたちは上だった」って言うんでしょうか。いえ、黒人の方だけでなく、この論理でいくと「黄色人のサルが何を言ってる」とか、とにかく有色人種がデカイ顔するのが気に入らないなど……人って、一度「自分が抑圧できる対象」を見つけると、何かの病気みたいに、そこから血を絞りとって一滴も流れなくなるまでそうすることがあるっていう、この部分が一番問題なのかなって、そう思いました。。。

 まあ、わたしも父が母に暴力を振るったことはなくても、大体似たような形で「精神的な血を絞りとって一滴も残らないほど搾取される姿」というのを見て育った口ですし、そうしたことって、学校のいじめなら、クラスでいじめられてるひとりの子にのみ、生贄としての犠牲を求め、血が一滴も残らないほど絞り取られて自殺するということが現実でもあると思う。職場でのいじめの場合、そうなる前に退職することのほうが多いかもしれませんが(わたしも、ここはそーゆー感じの職場だなと思い、勤めてすぐ辞めたことがあります)、『サタデーナイト・フィーバー』、ただの娯楽作かと思いきや、わたしに実はそんなことまで考えさせたという(^^;)。

 以前、いじめのドキュメンタリーか何かで、「いじめは何故よくないかって?そりゃ、弱い者いじめは楽しいさ。でも、自分がいじめられる側になったら堪ったもんじゃないと思うからそんなことはしない。基本的にはそういうことなんじゃないか?」みたいに十代の子が語っていたことがありますが、でもみんな共通して「いじめが悪いってことはみんなわかってる。でもいじめがなくなるってことはないと思う」って、決まって答えるんですよね。

 これって、今にして思うと結構怖い言葉だったんじゃないかと思います。学校のいじめに関してのドキュメンタリーだったと思うのですが、これでいくと、「戦争はよくないってみんなわかってるけど、これからも戦争がなくなるってことはないと思う」、「人種差別はよくないってみんなわかってるけど、人種差別がなくなるってことはないと思う」……そういうことでもあるんじゃないかなって気がするので(^^;)

 それで、タイトルの「右肩上がりの世界」ですが、それでも、自分のほうが相手よりも力が強いと思っていい気になっていると――大体「右肩をへし折られるような痛い目にあう」瞬間というのが、必ず訪れるものなのではないでしょうか。。。

 最近、とある本で、「ライオンがネズミを殺さずに逃がしてあげ、このネズミがライオンが人間に捕まった時、手の綱をほどいて逃がしてあげた」という内容の絵本があるというのを読みました。フランスの有名な童話だそうですが、この世界もそうした優しい、互いに助けあえる世界であって欲しいと、そんなふうに願います

 それではまた~!!






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