神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

何も感じない自分を感じているだけ。

2021年10月20日 | キリスト教

 ちなみにこれ、不信仰系の記事ではありません(神さまの愛や聖霊さまの臨在を感じないとか、そういう^^;)。

 ただ、自分が鬱病っぽくなってた時のこととか、「死のう」とか思ってた時のことは、今も記憶の根底にあって、わたし自身の人格の基本をなすものだとは思っていて。

 それで、そういう時期も過ぎて結構時間が過ぎると、「あの時ほど苦しくはないにしても、これはこれで大変だな」といった問題については生じてきたり――そしてそういう時にふと、たま~に思いだすことがあるわけです。

 ――「何も感じていない自分を感じているだけ」だなんて、よっぽど人生の暗くてつらいところを通ってるってことなんだろうねと想像されると思うんですけど、自分的に「そうとは限らない」っていうのが結構あるなと思ってて。

 というのも、何か「つらくて大変なこと」が起きても……人間の快復の過程として、「ずっとそのままでいる」ということは出来ないわけです。起きた出来事があんまりショックで暫く呆然としていた時でさえ、水を飲んだりとか何か食べたりとか、眠ったり――そうした生理的欲求には逆らえませんし、そこで目が覚めるということを繰り返すうち、人はとりあえず「何かしなきゃいけない」。

 もちろん、まわりの人が何かと気を遣って、「今はまだ寝てなさい」とか、「美味しいものでも食べて、自分の好きなことでもしてなさい」と言ってくれる場合もあるかもしれません。でも大抵は、学校へ行くとか仕事するとか……家の掃除や炊事をするとか、人は生きてる限り、「とりあえず何かしなきゃ」いけません。

 で、よく人間は「習慣の動物だ」と言われるように、朝起きてするといったら、たぶん何か飲んだり食べたりすることでしょうし、そのために料理するとか、「何かする」ことがあるっていうのは、時と場合によっては気が紛れていいことでもあるかもしれない。でも、そもそもの「つらくて大変なこと」っていうのは、常に頭の隅にあるか、そちらの比重があんまり大きくて、食事もあまり喉を通らず、寝ようとしてもあまりよく眠れないということもあると思います。

 とにかく、自分が抱えている問題と向き合いつつ、同時に仕事をするといった日常生活もこなしていかなくちゃいけないわけで……家族にしても職場で会う人にしても友達にしてもその他の誰にしても「自分の問題とは直接関係がない」ので、その人たちが自分に望む姿というのを、これまで通りそっくりそのまま演じつつ――ふとひとりになった時には、その問題に押し潰されそうになっている……こうした時に、結構「何も感じていない自分を感じているだけ」ということがあったりするわけです。

 もちろん、普通はこう思うかもしれません。そういう時、「自分はつらいと思っている」とか、「自分は苦しいと感じている」、「自分は死にたいと感じている」……そう思っているなら、「何も感じていない」とは言えないんじゃないかって。でもまあ、経験のある人はわかると思いますし、逆に「そうした状態に自分は一度もなったことがない」という方というのは、ほとんどいないか、いてもよほどラッキーな、人生経験の浅い方だけではないでしょうか。

 それで、この「何も感じていない自分を感じているだけ」っていうのは結構危険な精神状態で、見た目的には家族にも職場の人にも友人などにも「いつも通りの明るい△□さん」といったようにしか見えておらず、その後本人が突然自殺したりしても――「ええっ!?そんなふうには全然見えなかった」ということが結構あったりするんですよね(^^;)

 ここはキリスト教について何か書くという主旨のブログなわけですが、そういう時、教会へやって来て救われる……という方がいらっしゃいます。教会で賛美を聞いていただけで涙が溢れてきたとか、キリスト教のことは何も知らないに等しかったけど、牧師さんの礼拝メッセージがまるで自分のことを言われたみたいだった――など、そうしたことがきっかけで、イエスさまの愛、聖霊さまの臨在に触れて救われる方がいらっしゃるわけです。

「何も感じていない自分を感じているだけ」……というのは、精神的にかなり危険な状態であるのと同時に、ある部分「心が空っぽ」にもなっているため、普段の健康元気な時なら「キリスト教?べつに、自分には宗教の力など必要ない」という感じであったにしても、心が弱く柔らかくされているため、神さまのメッセージやイエスさまの御手による癒しが入ってきやすい状態にもなっているわけです。

 ただ、聖書に書いてあるいわゆる「偽宗教」にそうした時に引っかかってしまわれる場合もあるし(実際、キリスト教を名乗る偽宗教は多いですよね)、そうした「何も感じていない心の虚しさ」をギャンブルや麻薬、アルコールで埋めることになってしまい、生きるか死ぬか、相当つらいところを通られてからイエスさまを信じることが出来た……という方もいらっしゃると思います。

 そして、イエスさまのことを教会で信じ、聖霊を受けると、その同じ「何も感じていない空っぽの心」にそのまま神さまの喜びが入ってきますから、そうした場合、本当に心の底から180度それまでの生き方を捨て、人生を根底から変えることが出来るわけです。


 >>あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

(コロサイ人への手紙、第3章9~10節)


 >>キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

(コリント人への手紙、第5章15~17節)


 不幸が中途半端なものだと、自分のそれまでの生き方の土台のようなものは、そう簡単には変えられないかもしれません。やっぱり人は、何か不幸なことがあって倒されても、それまでの従来通りの生き方を変えるというより――今までと同じ努力の方向性で1から土台を積み上げ、またそれが波でさらわれて絶望し、にも関わらず、やっぱりまた昔と同じ土台を築くことが自分の幸せに必要不可欠である……そう思うものかもしれません。

 イエス・キリスト以外の土台は必ずすべて崩される――というのが、簡単にいえば聖書の黙示録に書かれているこの世の終わりに起きることだと思うのですが、おそらく、クリスチャン以外の方は「本当にその日」がやって来るまで、「本当にその通りだった」ということがわからないと思いますし、と同時にそのことが「わかった」瞬間にはすべてが遅すぎたりもするわけですよね(^^;)

 一生懸命同じ方向性で努力してるのに、何故自分の人生はうまくいかないんだろう……という方がいらっしゃったら、是非イエスさまの招きを受けてみて欲しいと思います!


 >>何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

(ピリピ人への手紙、第4章6~7節)


 >>「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」

(マタイの福音書、第11章28~30節)


 主こそ、我らの救い主にして癒し主です。栄光在主!Praise the Lord !!

 それではまた~!!






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