神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

死という原初の暗闇。

2020年09月25日 | キリスト教
【輪光の聖母】オディロン・ルドン

 初めに、神が天と地を創造した。

 地は形がなく、何もなかった。闇が大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

 そのとき、神が「光よ。あれ」と仰せられた。すると光ができた。

 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光と闇とを区別された。

 神は、この光を昼と名づけ、この闇を夜と名づけられた。
 
(創世記、第1章1~5節)


 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 この方は、初めに神とともにおられた。

 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずできたものは一つもない。

 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

(ヨハネの福音書、第1章1~5節)


 わたしたちの脳は、光を感じるよりも、「これこそ本当の暗闇である」ということを認識することのほうが難しいそうです(^^;)

 どういうことかというと、光を認知するというのは、目から入ってきた情報を脳は感知して、光を感じる=明るいといったように判断するのでしょうが、暗闇、ということに関しては、「本当にこれが暗闇かどうか」というのを、物凄く疑うのだそうです。

 つまり、人が夜眠る前などに、明かりを消したあと――今の時代だと、まあ自分の部屋にいてそんなに脅威を感じるという人は、ほとんどいないのではないかと思われます(平和な国日本の場合、ということではありますが^^;)。

 ところが、これが遥かなる昔の、わたしたちのご先祖さまの時代となると、天幕というか、テントのようなものや掘っ立て小屋を建てて眠っていたわけであり、そうなると夜、暗闇のどこかかから獣、あるいは外敵などが襲ってくるかもしれず……となると、ものすごく疑いますよね。あの暗闇のどこかに自分を害する「何か」がいないかどうか、というのを。

 それで、今はすでに秋となり、怪談の季節も過ぎてしまった気がしますが、自分的に脳が「本当にこれが暗闇かどうかと疑う」という話を聞いて以来、「幽霊」といった存在も、実はそうしたところから生まれてくるのではないか――と思ったりしました。

 つまり、脳が暗闇のどこにも「何もいない」、「本当に何もいない」、「絶対ほんとに暗闇の中には何もいない」としつこく疑う過程で……一種のバグっていうんですかね。そんな形で幽霊が間に挟まってくるのではないかと。で、怪談なんて聞いたり、ホラー映画を見たりした夜なんかは、そうした作用がめっさ働くという、そうしたことなんではないかと(^^;)

 それはさておき、この原初の暗闇のような場所、わたしは自分がクリスチャンになる前、死んだら自分はそのような暗い、といっても死んだとしたら、「暗い」とすら認識することのない場所へ、自分は還っていくのだろうと思っていました。この「暗闇」=「死」と考えることを非常に恐れる人もいるとお聞きしますが、わたしはそれが「死」なら、そんなに怖いことはないと思っていました。ただ、自分の意識が自分の意識と認識することもなくなるだろうそうした暗闇に同化するとして――その前に肉体がどの程度苦しみや痛みを感じるのか、死に至る最後の最後、意識がなくなっていく過程というのは怖い気がする、と言いますか。

 けれどもその後、幸運にもイエスさまを信じることが出来、自分はイエスさまの十字架の罪の贖いのゆえに、すべての罪を赦され、天国へ行くことが出来ると知り……死生観が180度、まったく変わってしまいました。

 もし、わたしがイエスさまの復活の福音について知らないままでいたら、たぶんこのことが今もわたしの死生観だったのは間違いないのですが、なんというのでしょう。この世で色々なことを経験してきたゆえに、「人は死んだら天国へ行くだって?そんなウメェ話があるわけねーだろ」と言いますか、どうしてもそうした疑い深さを自分では捨てることが出来ないというのでしょうか(^^;)

 といってもわたし、他の人のことに関しては、ものすごーく素直に「おばあちゃんは天国へ行った」とか、「自殺した△□さんは今きっと天国にいる」とか、「交通事故で亡くなった友達の○△ちゃんは今ごろ天国にいるに違いない」とか、自分以外の人のことに関しては、「絶対天国にいる」と確信的なまでに思う子ではあったのです。

 もちろん、こう考えていくと、矛盾してはいるわけですよね。でも、自分がまだノンクリスチャンだった頃は、こうした矛盾に何故か気づいてなかったと思います。でも、イエスさまのことを知って、こうした種類の矛盾からは解放されたと思うんですよね。

 そして、日本は葬式仏教徒がとても多い国ですから、実をいうとわたしが最初に言った、「死後は自分の意識というのか、魂・霊のようなものは暗闇へ行く」、「そこにはもう痛みも苦しみも悩みも悲しみもない」……といった死生観の方は多いようで、わたし自身、クリスチャンになってから他の人にそのようなことを聞かされた時――かつての自分と考え方が同じだっただけに、どう言っていいかわかりませんでした(本当は即座にその場でイエスさまの福音や天国について語れたら良かったと思うんですけど^^;)。

 でも、かつては自分としては「正しい」と信じていた死生観が、イエスさまによって覆されてみると……こちらのほうが実際のところ、魂・霊の世界において豊かだということを、今は聖霊さまによってとても深く実感しています。

 また、この「魂」ということに関して、かつてわたしがそうだったように、「神はいるかどうかわからなけど、人には魂があるということだけは絶対に間違いない」といったように確信されている方というのも、とても多いと思います。

 まとめますと、「神はいるかどうかわからない・天国もあるかどうかはわからない・でも人には魂といったものが絶対にある」――わたしも、自分がクリスチャンになる前までは、何かそんな感じだった気がするのですが、イエスさまのことを信じた今は、「神さまは絶対間違いなくいらっしゃる・天国も絶対にある・人には魂といったものが絶対にあり、死後は天国でイエスさまとともに憩うことが出来る」……といったように、わたしの場合、矛盾のほうがまったく解消されてしまったというわけです。

 何故そうなるのだ……と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、教会でイエスさまのことを信じ、聖霊さまが与えられると、何故かそんなことになります(笑)。わたしも仏教のことは少しばかり知っているという程度ですが、仏陀に関していえば、歴史上実在したということは間違いないですし、その教えについてもまた、とても尊いものだと思います。けれども、仏典にはものすごーくいいこと書いてあると思いはしても、「神が絶対にいる」とまでは確信できない気がするんですよね(^^;)

 けれども、イエスさまを教会で信じた時以降、万能の霊である聖霊さまが、聖書でわからない箇所について解き明かししてくださったり、祈りにおいてもどう祈ったらいいか教えてくださったり……神さま、イエスさまから流れてくる霊的な力を聖霊さまが与えてくださることによって、「神さまはいらっしゃる・天国は本当にある・そしてわたしは死後に間違いなくそこへ行くだろう」――といったように、確信することが出来るようになるのです。

 わたしは今では、こちらの死生観のほうが、クリスチャンになる前に信じていた死生観よりも遥かに豊かと思いますし、機会を与えられた時に、そのようにひとりでも多くの方にお伝えしたい……といったように考える者へまったく造り変えられてしまいました。

 ですから、可能性は低いかもしれませんが、この記事をお読みになった方の中に、「わたしも同じように、<死>=<暗闇>と考えてた!」といったように思われていた方がいて、キリスト教やイエスさまの与えてくださる永遠の命のことに心を向けてくださる方がひとりでもいらっしゃったなら……と、そのように願います

 それではまた~!!





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