神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

「本当のわたし」ってだれ?

2020年07月17日 | キリスト教

今回の記事は、前回の記事「イラスト版、13歳からのメンタルケア~心と体がらくになる46のセルフマネジメント~」の続きだったりしますm(_ _)m

 この46のセルフマネジメントの中の34に「本当の自分とはなにかわからなくなった」とあるんですね(^^;)


 >>本当のわたしがわからないということは、本当の自分はなんなのかという疑問を持ち、自分自身と向き合うことができているということです。

 では、本当の自分とはなんでしょうか。だれもが日常生活のなかで、その場の空気を読んだり、他人に合わせたりして、自分の思いとは違っていたとしても、その場にふさわしい自分になろうとしています。

 たとえば、家族の前ではだらしない自分、学校ではしっかり者で、頼られる自分。どちらもあなたなのですが、無理をしているときもあるでしょう。

 でも、本当の自分とはなんなのか、あせって悩む必要はありません。今、まさにあなたは「本当の自分」をつくり上げている真っ最中なのです。

(『イラスト版、13歳からのメンタルケア~心と体がらくになる46のセルフマネジメント~』合同出版さんより)


 そもそも、「本当のわたし」とはなんでしょうか?

 本のタイトルが13歳からの~とありますので、「あーハイハイ。十代とか二十代前半くらいに経験する、よくある「自分探し」とかいうやつね」と思われる方も多いかもしれません。

 けれども実際には、二十代後半でも三十代でも、四十代でも五十代でも七十代でも関係なく……「こんなの、本当のわたしじゃない」みたいに感じたりすることというのは、時としてあるものなのではないでしょうか。

 特に、「まったくやりたくない仕事」に長く従事していたり、「全然したいと思ってないことを、やらざるをえないという義務感」からずっと続けている――といった場合、「自分は今、本当のわたしになれていない」と強く感じるのではないでしょうか。

 今回はそうしたこととは視点が違うのですが(汗)、「13歳からのメンタルケア」を読んでいて、ふと思いだしたことがありました。

 個人的に、「本当のわたし」というのはようするに、「ありのままのわたし」ということなのではないかと思います。そして、多くの方が「わたしのような人間を『ありのまま』受けとめてくれるとは思えない。もっと何かしなきゃ」といった気持ちが心のどこかにあり……特に何かの新しい環境に入るといった場合は、大なり小なり多少は自分のことを粉飾するというのでしょうか。

 自分のことを虚栄からよく見せかけようと努力する――というよりも、誰しも何がしかのそうした力が少しくらいは働く、ということになると思います。たとえば、わたしがこれから約三か月くらい何かの資格を取るのにある教室の講習に通うといった場合、そこで三か月くらい二十名ほどの生徒とずっと一緒になるとします。

 まあ、とにかく三か月の間講習受けて、なんらかの実習やらテストやら提出物を提出したりすればその資格を取れるのだとしても……一日、午前中に二時間くらい、午後からも二時間くらい授業があるとした場合、合間合間に十分休憩やら昼休み休憩やらがあることを思えば、それなりに隣の人や前や後ろの人などと仲良くなれるのが理想ではないでしょうか。

 そして、ある程度仲良く出来る人がいると心に安心感が生まれますし、特にその中でも「この人とは本当に話あうなあ」、「一緒にいるだけで楽しい」という人が1人、あるいは2~3三人でもいると、明日明後日し明後日……と、最初は「かったるい」と思っていた講習に出かけていくのがむしろ、心楽しいようにさえ思えてくるかもしれません♪

 大体この段までやって来ると、「そんなに自分を良く見せかける」でもなく、「まあなんとなく仲良くできる人も出来て良かった」みたいになってくると思うのですが――<学校>という場所の難しいというのか、恐ろしいところは、クラス替えなどが行われるたびに「いつもそう人間関係がうまくいくとは限らない」というところではないでしょうか。

 しかも、三か月くらい何かのカルチャースクール等に通うのとは違い、小学校や中学校というのは義務教育ですから、自分の意志によって自由にやめたりすることは基本的に出来ませんし、子供は誰に何を言われなくても、そうした周囲の圧力を感じ、ほとんど脅迫的に「学校は行かなくちゃならない場所」と思い込んでいます。

 そして、ただ勉強をするという以外に、友達との人間関係を学ぶ、というのが、ある意味普通の勉強以上に大切だったりもして、いじめというほどひどいことでなくても、何か小さな友達との関係でつまずく、ということは結構あるというか、むしろあるのが普通と思います。

 自分のことを振り返って思うのは、「自分のことをうまく出せなくて苦しむ」ということであって、まあ、ありのままの自分を出して周囲に受け入れられなかったとすれば、それはもうしゃーないわけですよ(笑)でも、社会人になってからも、「自分はこういう人であることを求められてるっぽい☆」人間を演じたりすることをやめられず、こうしたことでは悩みが結構継続したような気がします(その結果として、「何を考えているのかわからない人」と思われることも多い、というか^^;)。

 で、その後も、三か月くらいどっかでアルバイトするとか、何かの講習を受けて資格を取るといった場合――まあ、似たようなことは繰り返されるわけですよね。人間関係のほうが割とうまくいっているというか、自分のことをある程度そのまま出せる環境にさえあれば、そこでの仕事がいかにつまらないものであれ、それは結構楽しいものにも変化しうる。でも、気の合わない人ばかりに囲まれていると、そのたったの三か月がいかに長く感じられるか、「なんでもいいからとにかく早く終わってくれ」程度のものに変わりうるか……。

 それで、中学や高校などの場合、それぞれが三年もあるわけじゃないですか。

 たまに、人生の間の「たったの三年じゃないか」、「この三年を耐え忍べば、おまえはその後、どんなことにも耐えてゆける」的におっしゃる方がいますが、わたし的にはこの意見に大反対なんですよね(^^;)

 もちろん、「嫌々ながら続けたことが、その後耐えた分だけの実をつけさせた」とか、そうしたことは確かにあります。でも、三十を過ぎてからの三年と、十代の三年とでは、そもそも時の流れが違います。この時に、挫折感は少なく、達成感が多いという思春期を過ごして大人になるというのと、挫折感ばかりが多く、達成感の少ない十代を過ごして社会人になる……というのは、雲泥の差、天と地ほどの開きがあるといっていいと思います。

 今、「自己肯定感」ということがよく言われたりしますけれども、挫折する、何をやってもうまくいかない、勉強の成績もよくないし、スポーツもダメ、学校に友達もいない……といったことがあって、親や周囲の圧力から学校に通い続けたといった場合、その後、就職してもうまくいかず、仕事もすぐやめてしまう――そして引きこもりに……とかって、それは果たして本人が悪いことなのか、という問題があるのではないでしょうか(^^;)

「とりあえずお母さん/お父さんが学校に行けというから嫌々ながら行ったけど、何ひとつとしていいことなどなかった」……といった場合、「だからわたし/俺は引きこもりになったんだよ。だからお父さん/お母さんが悪いんだ。僕は何も悪くない」と言われたら――かなりのところ困ってしまいますよね。そうは言っても、息子さん/娘さんの将来のことを考えたら、なんとかして働いてもらいたい、親だって永遠に生きているのではないのだから……と、どの親御さんも思われることと思います。

 なので、「とにかくなんでもいいから黙って学校へ行ってくれる子がいい子」などと思わず、自分の子がどこか無気力で、何か聞いても「べつに」としか答えなかったら、その時点で結構要注意と思います。大抵の親御さんは聞くでしょう。「今日、どうだった?」みたいに。で、息子さんとか娘さんのほうがスマホを操作しながら、「べつに」とか「いつもと同じ」みたいに答えてきた場合、まあ、それでもいいわけですよね。友達とのラインのやりとりで忙しくて、親の言うことに答えるのも面倒くさいとか、親の言うことよりゲームのほうが大切とか、そういうことなら

 でも、この時、親御さんがある種の面倒くささから子供から出ている「サイン」を見逃す、というのは、本当はあってはいけないことです。本人が面倒くさそうに「べつに」とか「いつもと同じ」と言っているなら、「まあ、いいか」と流してしまうほうが親御さんのほうでも楽かもしれない。でも、「何かちょっとおかしいな」とか、「本当は何かあるのではないか」と思ったら、「べつにってことがあるか!水たまりに青空が映ってて綺麗だったとか、少しは何かあるだろうが!!」と言ってみたりして、「何怒ってんの、馬鹿じゃないの」みたいな感じだったら、まあ大丈夫なのだと思います。あとは学校で「こんなことがあった、あんなことがあった」みたいに、「しょうがないな」という感じで少しは話してくれるなら。

 十代の息子さん/娘さんというのは、まず普通は親に「本当はこう思ってる/感じてる」みたいなことはほとんど話しません。特にいじめられてるといった場合、話しても親に心配をかけるだけで、なんの解決にもならないと思ってるでしょうから、よほど突っ込んで聞かない限り、「本当はこういうことで困ってる」とは、親には告白してこないでしょう。

 でも、親のほうで少しでも、「いつも通りを装う」自分から出ている「困っているサイン」をキャッチしてくれた……ということを感じた時、「本当のわたし/俺はこう思ってるんだよ、考えてるんだよ」ということを話してくれるのではないでしょうか。

 当初書こうと思ってたこととは、実は少し話が変わってしまったんですけど(汗)、とりあえず、長くなってしまったので、これはこれでしてしまおうかと思います(^^;)

 それではまた~!!





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