>>エリシャは言った。
「主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる。
『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られるようになる』」(※1セアは7.6リットル)
しかし、侍従で、王がその腕に寄りかかっていた者が、神の人に答えて言った。
「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」
そこで、 彼は言った。
「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」』
(列王記第二、第7章1~2節)
>>十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、
わたしの家の食物とせよ。
こうしてわたしをためしてみよ。
――万軍の主は仰せられる――
わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、
あふれるばかりの祝福を
あなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
(マラキ書、第3章10節)
胆振東部地震が起きて、十日以上が経ちました。。。
たぶん、わたしの住んでるところは一番被害的なものが少なかったと思うのですけれども(汗)、止まっていた電気・水道は夕方には復旧しましたし、現在、電気さんや水道さん及び水さんに感謝する日々を送っています(^^;)
ただ、物流なども回復するのがとても速かったと思うのに、スーパーなどに特定のものがない状態というのがありまして、個人的には牛乳やある特定のパンなどが手に入らなくても、まあ他に食べ物もあるし、もっと困ってる方がたくさんいらっしゃることを思うと……どうということもないことではあるんですよね、ほんとに。
ただ、やっぱり聖書の語る「終末の日」が来たら、このくらいでは済まないということや、阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本の震災や西日本豪雨のことなど……被災者の方が今もどれほど苦しい思いやつらい思いをされておられるか、身に沁み入る思いがしています。
それで、ですね。わたしが個人的にスーパーになくて「ちょっぴし残念☆」みたいに今思ってるのは、豆腐とヨーグルトなのですが、このこともとても感謝しています。ただ、スーパーに行くたびにないもので、笑いつつ主に感謝しているのですが(笑)、それでもやっぱり、たったこれだけのことでもすごく考えさせられました。
あの、仮に豆腐やヨーグルトやいつも食べてるパンがスーパーになくても……他に食べるものがないわけではないのですから、それで今わたしは「笑いつつ主に感謝」することが出来るのです。でもあの、スーパーに物がない状態が、これから一月も続いたとしたら、絶対笑えませんし、感謝も出来なくなるのではないか――と、そう思いました
しかも、ある特定の商品がないというのではなく、他に缶詰類やお菓子類など、とにかくスーパーの棚という棚に買えるものが何もない……という状態になったら、神さまに対して本当にそのことを感謝し賛美できるかどうか……と思うと、自分が普段日常でしている、「あらゆることについて主を感謝し賛美しよう」――なんていうことは、本当に薄っぺらなんだなと、あらためて思わされたのです(^^;)
それで、ここから書くことは震災の被害のこととは切り離し、あくまで聖書の中に書かれていることとして読んでいただきたいのですが(汗)、今のようにあらゆる物がふんだんに溢れるようになるまで――昔(といってもそんなに昔でもないですよね^^;)は飢饉といったものが本当に深刻でした。
旧約聖書にも、食べるものが何もないので、お互いに取り決めて最初の日に自分の子を煮て食べ、次の日に隣の家庭の子を煮て食べることになっていたのに、母親が子どもを渡さないのです……というお話が出てきます(怖っ!)
今回、冒頭に引用した聖書箇所は、列王記第二、第7章からなのですが、その前の第6章に次のような記述があります。
>>この後、アラムの王ベン・ハダデは全軍を召集し、サマリヤに上って来て、これを包囲した。
そのころ、サマリヤには、ひどいききんがあった。そのうえ、彼らが包囲していたので、ろばの頭一つが銀八十シェケルで売られ、鳩の糞が一カブの四分の一が銀五シェケルで売られるようになった。
(列王記第二、第6章)
シェケル(1シェケルは11.4グラム)やカブ(1カブは1.3リットル)なんていう説明をしなくても、これがどのくらい深刻な飢饉だったのかがわかります
そして、神の人エリシャはこのような状態の時に、>>『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られるようになる』と預言したのです。
こののち、驚くべき神さまによる逆転劇があり、アラムの陣営は恐慌に陥り、イスラエルは戦わずして主によって勝利を得ました
>>主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、彼らは口々に
「あれ。イスラエルの王が、ヘテ人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲うのだ」
と言って、夕暮れになると、彼らは立って逃げ、彼らの天幕や馬やろば、すなわち、陣営をそのまま置き去りにして、いのちからがら逃げ去ったのであった。
(列王記第二、第7章6~7節)
この時、神さまがらい病の人たちを用いて、このことを当時のイスラエルの王に知らせたということも素晴らしいのですが、長くなるので今回はとりあえずそのことに触れずにおき(汗)、こうしてアラム軍の包囲網がとかれてのち、預言者エリシャの預言は見事成就しました。
つまり、アラム軍は陣営に色々な物を残して逃げていましたから、そこにあったものを奪った結果として、>>『上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られるようになる』という、到底ありえそうもないことが本当に実現したのです。
>>そこで、民は出て行き、アラムの陣営をかすめ奪ったので、主のことばのとおり、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られた。
王は例の侍従、その腕に王が寄りかかっていた侍従を門の管理に当たらせたが、民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。王が神の人のところに下って行ったとき話した神の人のことばのとおりであった。
神の人が王に、
「あすの今ごろ、サマリヤの門で、大麦2セアが1シェケルで、上等の小麦粉1セアが1シェケルで売られるようになる」
と言ったとき、侍従は神の人に答えて、
「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」
と言った。
そこで、彼は、
「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」
と言った。
そのとおりのことが彼に実現した。民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。
(列王記第二、第7章16~20節)
いえ、これは本当に驚くべきことで、自分の子を煮て食べる……というくらい追い詰められていた人々を救うために、神さまは迅速に事を成し遂げてくださいました。
もちろん、「神が神なら、何故そこまでになる前に人々を救わなかったか」とか、神さまの言葉を信じなかった侍従が最後は死んでしまった……というのも、なんだか残酷な気がしますよね(^^;)
でも本当に、聖書というのは遥か昔に書かれた、今という現代を生きる我々にはまったく関係のない書物――というのではなく、時代がいくら変わっても、人間というものの本性が変わらぬ以上、歴史は繰り返すと言いますか、物凄く多くの教訓的、また信仰的出来事を含む書物だと思います
あの、この侍従の人が預言者エリシャのことを信じられなかった気持ちも、正直わかりますよね(^^;)
わたしがもしこの時代に生きていたとしたら、むしろ自分や家族や友人などが飢え苦しんでいる惨状のことを思い……エリシャのことをもしかしたらぶん殴ってるかもしれませんしね。「なんという無神経なことを言う奴だ!」と、そう思って
いえ、もしかしたらお腹がすいて、誰かを殴る体力も気力もないかもしれませんが、とにかくそんな感じではないかという気がします。もし仮にエリシャの言ったことを信じられるとしたら――「あの高名な神の人の預言者であるエリシャさまのおっしゃることだから」ということで、せいぜいが「もし、そうなったらいいですよね(弱々しい微笑み☆)」という程度の信仰ではなかったかと想像します。
そして、この侍従が死んだ件については、物語としてサラリと読む分には残酷なように感じられるかもしれませんが……>>「しかし、侍従で、王がその腕によりかかっていた者が」とありますから、民たちはききんで飢えていても、王やその家族や聖職者など、王宮にはまだ何か食べ物がある状態ではなかったかと想像します
ですから、この侍従は毎日、何かしらの食事は出来ており、王の側近中の側近でしたから、民たちが飢えて死んでも、自分はそれよりは間違いなく長く生きながらえられる――という若干の余裕があったのではないでしょうか(もちろん、それと同時にいずれ敵に攻め込まれるか王宮にも食べ物がなくなるという絶望もあったと思いますが)。
いえ、わたし聖書のここの記述って、「神さまがらい病の人たちを用いてくださって素晴らしい!」とか、「そうだよ、そうだよ!何分エリシャはあの大預言者エリヤの後継者だからねえ」みたいな感じで読むだけだったんですけど……実際のところ、わたしが持ってる信仰というのも、この侍従と大して変わらないんじゃないかって今回つくづく思わされました。。。
なんにしても、神さまは心砕かれ、自分を低くする者のそばにいてくださいますから、地震や自然災害のことについてはこれまでも祈ってきたとはいえ、これからまたさらに心して自然の与えてくださる恵みに感謝しつつ、神さまにさらに祈りを深くしていきたいと思わされる出来事でした
それではまた~!!
※現在は、ほぼ、(わたしの住む市内では)スーパーやコンビニでも通常どおり大体の物が買えるようになりました。でも、今回のことは本当に<主の日>に備えるという意味でも、油(聖霊)を用意していなかった娘のようにならないためにはどうしたらいいか、というか、実際のところわたしも油を用意していなかった側の娘ではないかと思わされる出来事でした。今回の経験は、防災的な意味でも、信仰的な意味でも、決して忘れることはないのと同時に、被災地・被災者の方の一日も速い復旧や心身の回復についてお祈りしております。
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