神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神がもし暗黒の地であるならば。

2021年10月06日 | キリスト教
【改悛するマグダラのマリア】ジョルジュ・ド・ラ・トゥール


 >>あなたがた、この時代の人々よ。
 主のことばに心せよ。
 わたしはイスラエルにとって、荒野であったのか。
 あるいは暗黒の地であったのか。
 どうしてわたしの民は、
『私たちはさまよい出て、
 もうあなたのところには帰りません』
 と言うのか。

(エレミヤ書、第2章31節)


 もちろん、神さまは暗黒ではありません。

 けれども、神は光のみならず暗黒をも支配しておられる……という意味では、この世界に存在するありとあらゆる暗黒も主の支配下にある、とは言えるでしょう(もちろん宇宙のブラックホールも!)。

 そして一口に暗黒といっても、色々な暗黒、闇があります。

 暗黒と聞いて連想するものは、人によってそれぞれ違うかもしれません。

 宇宙の真空のような物質的な意味での闇、あるいは地上の夜の暗闇、わたしたちの心の闇、そしてもっとも恐ろしいと思われるのが、イエスさまが十字架上で経験された、御父との霊的断絶という、霊的な暗闇です。

 イエスさまは目の見えなかった盲人の方を癒された時、パリサイ人らから責められました。そのことに対し、イエスさまは「あなたたちこそ目が見えていない」といったように言われたわけですが……これは、肉体の目は見えていても、あなたがたは霊的には盲目だ、と言われたわけですよね(^^;)

 旧約聖書は創世記から始まるわけですが、その第1章は次のように始まります。


 >>初めに、神が天と地を創造した。
 
 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

 そのとき、神が「光よ。あれ」と仰せられた。すると光ができた。

 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。

 神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。

(創世記、第1章1~5節)


 わたしの持っている聖書の注釈には、>>永遠の初めではなく、この世界の創造の初めを意味する。と書かれています。また、聖書にそのように書かれているわけではありませんが、永遠には当然、終わりがないからこそ永遠なわけです。また、この永遠の始まりについて、人間は今後とも知ることはないのではないでしょうか(ビッグバンの前はどうだったのかとか、宇宙の終わりはこうなる……といった予測についてなど、科学的推論は色々あると思いますが、それらのことを証明できたとして、標準理論なるものにも穴があるように――そのくらいのことなのではないかなあ……と、素人的には想像してしまいます)。

 また、自分的に光よりも先に闇があった――というのも、面白いと思いました。その前までおそらく、闇は自分が闇であるとはわかっていなかった気がします。擬人化する必要はありませんが、光が創造されて初めて、闇は己が何者かがわかったのではないでしょうか。


 >>私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
 そこでも、あなたの御手が私を導き、
 あなたの右の手が私を捕えます。

 たとい私が
「おお、やみよ。私をおおえ。
 私の回りの光よ。夜となれ」と言っても、
 あなたにとっては、やみも暗くなく
 夜は光のように明るいのです。
 暗闇も光も同じことです。

(詩篇139編、9~12節)


 暗闇も光も同じこと……確かに、神、主にとってはそうでしょう。

 けれども、人間にとってはそうではありません。わたしたちは暗闇にあっては、多くの場合一体いつ、何がどうなるのだろう……そう思い、不安におののいてしまいます。

 また、新約聖書は四つの福音書から始まるわけですが、そのうちのひとつ、ヨハネの福音書は、次のように始まります。


 >>初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 この方は、初めに神とともにおられた。

 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

(ヨハネの福音書、第1章1~5節)


 闇はこれ(光)に打ち勝たなかった……イエス・キリストは言うまでもなく(霊的な)光である方ですが、他に御自身の持つ称号のひとつとして、「ことばでもあられる方」という名前を持つ方でもあられます。


 >>神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

 そのさばきとは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。

 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

(ヨハネの福音書、第3章16~21節)


 >>わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

(ヨハネの福音書、第8章12節)


 霊的ないのちの光とは――永遠に消えることのない光、ということです。

 よく、人が死にゆく時に、「彼の命の光は今にも消えゆかんとしていた」みたいに言いますよね。

 けれども、このイエス・キリストの持つ、神としての彼が源泉となっている霊的ないのちの光から目を離さず一心に見つめ続ける者は、他の世の光が投げかけるものと、その光によって生じる闇や影といったものに、心を惑わされることがありません。

 人の苦労といったものはよく、「人生の荒波に揉まれる」といったように表現されたりしますが、イエスさまの弟子たちがガリラヤ湖で荒波に心を乱されたように、わたしたちの人生に対する対応というのも、多くはこの弟子たちと同じようなものと思います。

 ペテロといった弟子たちの対応は、イエスさまがすぐそばにおられるにも関わらず、「何故主は眠っておられるのか」、「何故我々を助けてくださらないのか」というものでした。

 ところが、わたしたちも人生で苦難に出会うと、この弟子たちとまったく同じ対応をします。「もしや神さまは眠っておられて、人間たちの苦難を見ていないのではないか」、「何故わたしたちがこんなに困っているのに助けてくださらないのだろう」と……。

 この世の艱難といったものは、やがて影のようにすぎゆくと言いますが、艱難の最中に放り込まれている人間たちにとってはそうではありません。1秒が1時間のようにも、1時間が1週間のようにも感じられる――世の暗い時代の様相というのは、常にそうしたものでした。

 そうした中で、この世界が誕生した時から光があり、イエス・キリストによって掲げられた霊的いのちの光は、今も変わることなく輝き続けています。


 >>主はこう仰せられる。
「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、
 心が主から離れる者はのろわれよ。

 そのような者は荒地のむろの木のように、
 しあわせが訪れても会うことはなく、
 荒野の溶岩地帯、住む者のない荒地に住む。

 主に信頼し、
 主を頼みとする者に
 祝福があるように。

 その人は、水のほとりに植わった木のように、
 流れのほとりに根を伸ばし、
 暑さが来ても暑さを知らず、
 葉は茂って、
 日照りの年にも心配なく、
 いつまでも実をみのらせる。

(エレミヤ書、第17章5~8節)


 冒頭の聖書箇所はエレミヤ書からのもので、エレミヤが預言者として活躍した時代、イスラエルはこの上もなく暗い時代だったと思います。

 そして、こちらの引用も同じくエレミヤ書からのものですが、旧約時代を生きたエレミヤとは違って、この世界は今、イエスさまにあって霊的ないのちが隠されていない、本当に恵まれた時代なのではないでしょうか。

 それまでは覆いをかけられたように隠されていた霊的いのちが、今は世の隅々までも地を照らしているからです。この光を、自分の手や心で隠すことなく、堂々と高く掲げ、ますます信じる者とされていきたいと願います(福音伝道によって、ひとりでも多くの方がイエスさまを信じることによって!)。

 それではまた~!!




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