神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神が、脳をつくった。

2021年09月13日 | キリスト教
【脳科学者も神がつくった】(笑)


「神が、脳をつくった」??まあ、「それがどーした☆」という話のような気もしますが、10コくらい下の記事で、「神は、脳がつくった」という記事をいくつか書いたことと、少しだけ関連しています(^^;)


 >>それはあなたが私の内臓を造り、
 母の胎のうちで私を組み立てられたからです。

 私は感謝します。
 あなたは私に、奇しいことをなさって
 恐ろしいほどです。
 私のたましいは、それをよく知っています。

 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、
 私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。

 あなたの目は胎児の私を見られ、
 あなたの書物にすべてが、書きしるされました。
 私のために作られた日々が、
 しかも、その一日もないうちに。

(詩篇、139編13~16節)


 もちろん、神さまが人間を造ったのだとすれば、脳のみならず、当然眼球も肝臓も膵臓も心臓も……37兆2000個くらいあるという細胞のひとつひとつ、そのすべてを造ったのも、究極神ということなのでしょう。

 脳科学的には、もし人間の脳の中に神がいるとしたら、それは側頭葉だろう――みたいに言われているそうですが、これは側頭葉てんかん患者の方が、発作中に神と出会うなど、宗教的な体験をすることがあるとわかっているからだそうです(『脳の中の幽霊』V・S・ラマチャンドラン先生著、山下篤子さん訳/角川文庫より)。

 また、人が神さまのことを考えたり、祈ったりする時にも大体同じ領域が発火することがわかっているとのことなのですが、問題なのは「人間に何故、そのような脳領域が存在するのか」ということなのではないでしょうか。

 もちろん、科学者の方は言います。「人間にそもそも最初からそのような脳領域が存在すること=神がいるとは言えない」と。ただ、人間の体全体、脳全体のすべてにおいて、「必要のない箇所などひとつもない」ように、「何故かはわからないにせよ、それは人間に絶対不可欠な場所である」のは間違いないわけです。

 人間の中にもしそうした脳領域がまったくなく、神を信じる可能性がゼロ%であった場合何が起きるかというと――おそらく、脳の全体が今のわたしたちほど正常に機能しないのではないか、という気がします。つまり、問題は「神を信じる・信じない」ではなく、「そのような存在がいるかもしれないし、いないかもしれない」という仮定が、脳のすべてが健全に働き続けるためには、とても重要なことなわけです。

 たとえば、部屋に自分ひとりでいる時、わたしたちは「誰もいないし、誰も見ていない」と思うでしょう。けれど、想念のどこかに「でも、神さまは見ているかもしれない」といった思いが、(特にやましいことなど何もなくても)ふと思い浮かぶことがあると思います。

 このわたしたちの、「人間の存在すら超越した、不可視の存在」が見ているかもしれない……という感覚は、基本的に人類すべてに共通の感覚です。また、草や木、花などに、なんらかの精霊的存在が宿っていると想像したり、太陽が怒ったり月が微笑んだり、風が囁いたり……こうした擬人化の延長線上に、人間は<神>を造ろうとする強い傾向があるのではないか――それは、人間の脳の構造がそのように造られているからだ、ということらしいのです。

 そうやって自分たちのまわりを見渡してみますと、世界の神話や民話的なものはその系統のものが非常に多いと思うわけですが、キリスト教の神というのは、まず真っ先に「わたしはそうした人間の頭が造りだした偶像の神とは違う」といったように言ってるんですよね(^^;)

 神さまがモーセに十戒を与えたのは有名な話と思いますが、この十戒の第一戒は「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」というものであり、第二戒が「偶像礼拝の禁止」ということなわけです。つまり、日本の神社仏閣などにある木彫りの像的なものなど、人間は自分の手で造ったに過ぎないものを<神>であるとして祀ってみたり、あるいは少し変わった形の大きな石を安置して、「あの石には自然の神が宿っている」と言ってみたり……簡単にいえばこれが「偶像礼拝」ということであり、わたし自身、自分がキリスト教徒になるまでは、そうしたことには一切目が開かれませんでした(簡単にいえば、霊的に盲目だったということです^^;)。

 何故かといえば、わたしはもともと仏壇とか神棚を拝む行為というのが大好きでしたし、観光旅行などに出かけて、「~~伝説の岩」ですとか、そうしたものに対し妙に有難がる傾向が非常に強く、その他お地蔵さんなどに対しても「ハハ~っ!!」という感じで、黄門さまの印籠を見せられた悪代官の如く、心の中で最敬礼するっていうんでしょうか。もともとそうした信仰深いタイプの人間だったのです。

 けれど、自分がクリスチャンになってからわかったのは、「人間の手になる木彫りの像を拝んでみたり、同じく人が作った石の像を拝んで、一体なんになるのか?」ということが、ハッキリわかったわけです。このあたりの目がもし開かれなかったとすれば、こうした木彫りの像や石の像を破壊することに対して、わたしは今も「なんというバチ当たりな……」と思い、非常に怒ったことでしょう。

 そういったわけでわたし、もともとあまり霊的に鋭いタイプでないので――本当に霊的に鋭いタイプの人というのは、仏像や毘沙門天像など、そうしたものには「霊的な何か(悪霊的なもの)」が宿っていることがあるが、それは人間が有難がって拝むべきものでなく、むしろ悪しきものである……といったことが直感的にわかるそうです。でもわたしは霊的に鈍いがゆえに、教会で聖霊を受けるまで、そうしたことにはまったく目が開かれなかったんですよね(聖霊には、真理とそうでないものからくる霊を見分ける力があります)。

 そのですね、確かによく考えるとわかることなんですよ(^^;)わたしの今住んでるところから歩いて15分くらいでしょうか。そのくらいのところにお寺があって、そこには結構大きなサイズの毘沙門天像(だったと思う)が2体、対のような形で立っています。正直、おっかない顔をしてるせいもあって、すごく怖いです。夜中にやってきて、そこを通って真っ暗な寺で過ごせとか言われたら、泣いちゃいそうなくらい(笑)。

 けれど、クリスチャンになった今はわかるわけです。「あれらはただの像であって、確かに悪霊的なものが宿ってることがあるので注意が必要だけれど、ああしたものを拝んだところでなんにもならない」ということが(というか、過去のわたしはこうした存在にお賽銭を投げて実に有難がっていたわけですが、今はそのあとに感じた「何か良いことをして、清々しい気持ちだ」といった気持ちも、ただの錯覚であるとよくわかります)。

 もっとも、こうした考え方というのは日本人には馴染みのないものですし、あんまりこのあたりを強調しすぎると、「やっぱりキリスト教っちゅうのはおかしもんやな」と思われてしまうので、再び科学のほうに話を戻しましょうか(笑)。

 キリスト教由来の、悪魔(サタン)と呼ばれる存在がいるかどうかはともかくとして、悪霊や幽霊といった存在はいると、かなりのところ真剣・本気で信じている方というのは、たくさんいらっしゃると思います。また、確かに人間の脳の中にもこうした「何かいる」という強い気配を感じやすい領域があり、人が幽霊を見たりする時にはそのあたりが活性化しているのではないか……という、推論もあるようです。

 でもこのあたりは、「脳の誤作動」によって人は悪霊的な存在や死んだ人の幽霊を感じたりするのではなく――「科学的には証明できねえかもしんねっけど、ああした存在は本当にいるんだあっ!!」と主張される人のほうを支持する方というのは、かなりのところ多いと思うんですよね(^^;)

 不思議なことに、それがキリスト教の神でなくても、他の宗教でも大体神と悪魔、あるいは悪魔的敵対勢力、悪霊や幽霊、鬼といった存在というのは……大体がセット販売(?)です。もし悪魔/悪霊といった存在を証明することが出来れば、それすなわち神がいるという証明にも近いことになるでしょうし、あるいは悪魔/悪霊がいないと証明できるのであれば、神や天使など存在しないという証明になるかもしれません。

 何を言いたいのかというと、こう考えてきてみただけでも――その存在を信じる・信じないは別として、とにかくその存在はわたしたちの脳にあまりに深く根を下ろしていて、決して消すことが出来ないということです(また、それはわたしたちの心、魂から由来していることなので、ある意味当然のことでもある……というのが、わたし個人の思うところです^^;)。

 もちろん、これが「神がいる」ことの証明とは決してなりませんが、わたしたちの脳にわたしたちの意識というものが、まるで目に見えない糸によって縫いつけられてでもいるように……人間に意識なるものが発生すると、「神の存在」という根源的な問題、「生きていることには意味がある」ということに関連する、「世界が<ある>ということには意味がある」と、強固なまでに信じようとする傾向が、ほとんど生まれながらに人に備わっているということは、なんとも不思議なことのような気がします。

 そして、人が神を否定したり、生きていることには意味がないと虚しさを感じたりする時……それは自分の外部の環境が悪かったり、不幸によってプレッシャーを受けている場合がほとんどで、そのあたりの生存条件さえ良ければ――やはり、人は容易く「やっぱり神さまはいらっしゃるわ!」となるでしょうから、やはりこのあたりの人間の「脳の感じ方」は、実に興味深いものがあると思うのです(^^;)。

 それではまた~!!






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