
【善きサマリア人】フィンセント・ファン・ゴッホ
>>2001年に、東京の新大久保駅構内で、プラットホームから落ちた男性を救おうとして、二人の男性が線路に降りたものの、結果的に三人とも死亡してしまったという事故がありました。
今時、不慮の死であっても、よほどのニュースバリューがないとメディアは大きく扱おうとしません。ところが、この場合は違いました。翌朝、新聞各紙は一面に、これを大きく報道し、犠牲となった二人の行為を英雄的なものとして称え、悼んだのです。
ある英字新聞も第一面に「Two Samaritans」という大見出しでこれを報じました。「二人のサマリア人」という見出しは、聖書を読んだことのない人には理解しにくいものだったかもしれません。これは、聖書の中に書かれている有名なたとえ話の一つです。

(『置かれた場所で咲きなさい』渡辺和子さん著/幻冬舎より)
「善きサマリア人」と聞いても、日本人的にはあんましピンと来ない……というほうが一般的ですよね(^^;)
わたしも、トップ画のゴッホの「善きサマリア人」の絵を画集で見たのは、確かクリスチャンになる前で、その時はこのタイトルと絵に対して「?
」としか思ってなかった気がします。
なので、聖書からこの「善きサマリア人」についての箇所を引用してみたいと思いますm(_ _)m
>>すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。
「先生。何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」
イエスは言われた。
「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか」
すると彼は答えて言った。
「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』また『あなたの隣人(となりびと)をあなた自身のように愛せよ』とあります」
イエスは言われた。
「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」
しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。
「では、私の隣人とは、誰のことですか」
イエスは答えて言われた。
「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
ところが、あるサマリア人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。
『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います』
この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」
彼は言った。
「その人にあわれみをかけてやった人です」
するとイエスは言われた。
「あなたも行って同じようにしなさい」
(ルカの福音書、第10章25~37節)
簡単にいえば、これはイエスさまの別のお話の黄金律、「自分にしてもらいたいことを相手にもしてあげなさい」という実践であり、当時の律法学者やレビ人(祭司階級にある人々)はいかに自分たちが律法を守っているかを誇示してはいても、「自分の隣人を愛する」ということについては実質的に守っていない……ということに対する、イエスさまの痛烈な批判でした。
そして、渡辺和子さんの本の「愛は近きより」というこの箇所を読んだ時にわたしが思いだしたのが、実は後藤健二さんのことだったんですよね。
いくらフリージャーナリストとはいえ、シリアという極めて危険な土地で、湯川遥菜さんという一度イスラム国から解放した人がもう一度捕まったことで……再び助けようとしたところ、今度は自身も捕虜となり、最終的に殺害されるということになってしまいました
最初、この事件が報道されたばかりの頃、後藤健二さんがキリスト教徒だとはまったく知らないで「助かりますように」と祈っていたのですが、その後お亡くなりになったあとで、後藤さんがクリスチャンであったことを知りました。
当時、随分「何故!?」ということが取り沙汰され、「後藤さんは湯川さんのことは諦めて見捨てるべきだった」という意見もあったと思います。
けれど、後藤さんがクリスチャンだったと聞いた瞬間に「嗚呼……」という気持ちと同時に、そのことが何故だったのかがわかる気がしました。
その時、後藤さんの頭には聖書のイエスの「善きサマリア人の教え」のことがあったのだろうとか、そういうことではなくて……ただ、聖書全体の教えが「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」ということと、「汝の隣人を汝自身のように愛せよ」というこのふたつのことにかかってくることから……善きサマリア人として、後藤さんは湯川さんのことを見捨てるということは出来なかったのだろう、と思ったんですよね
事件が起きてかなり時が経過した時……あるラジオのDJさんがこの後藤健二さんの事件に触れられたことがありました。そしたら、後藤さんの友人である方がメッセージを送ってくださって、「今はもう健二のこの事件のことは、多くの方が忘れてしまっているでしょう。【中略】わたしはキリスト教徒ではありませんが、彼はおそらくわたしたちのこともその信仰によって祈っていてくれたのだと思います」……本当はもっと長く、心に沁みるお話だったのですが、こうしたことをメッセージしてくださっていて、とても感動したのをよく覚えています。
正直、後藤健二さんの死というのは、「殉教である」というように、多くのクリスチャンの方は受け止めていると思います。
それがジャーナリストの方でなくても、いずれまた日本人が世界のどこかでこうしたテロの犠牲になるということは起きてくるでしょうし、それはあなたかもしれないし、わたしかもしれない……というくらい、身近な危険にもなって来ていると思うんですよね。今の時代は本当に。
わたしと同じように、「殉教」された方というのは、天国で一際高い位置におられる……と感じているクリスチャンの方は多いと思います。そうした意味で、後藤さんの死というのは、神にあって価値ある死であったということを、これからまた何度も想起することになるだろうと個人的には思いますし、そうした方というのは間違いなく他にもたくさんおられるのではないでしょうか。。。
わたしも、これから後藤さんの本を読むなどして、「アラブ世界」、あるいは「イスラム教世界」について学び、今後起きてくるだろう黙示録の時代のことについても、備えをしようと思っていたりします(^^;)
それではまた~!!
>>2001年に、東京の新大久保駅構内で、プラットホームから落ちた男性を救おうとして、二人の男性が線路に降りたものの、結果的に三人とも死亡してしまったという事故がありました。
今時、不慮の死であっても、よほどのニュースバリューがないとメディアは大きく扱おうとしません。ところが、この場合は違いました。翌朝、新聞各紙は一面に、これを大きく報道し、犠牲となった二人の行為を英雄的なものとして称え、悼んだのです。
ある英字新聞も第一面に「Two Samaritans」という大見出しでこれを報じました。「二人のサマリア人」という見出しは、聖書を読んだことのない人には理解しにくいものだったかもしれません。これは、聖書の中に書かれている有名なたとえ話の一つです。

(『置かれた場所で咲きなさい』渡辺和子さん著/幻冬舎より)
「善きサマリア人」と聞いても、日本人的にはあんましピンと来ない……というほうが一般的ですよね(^^;)
わたしも、トップ画のゴッホの「善きサマリア人」の絵を画集で見たのは、確かクリスチャンになる前で、その時はこのタイトルと絵に対して「?

なので、聖書からこの「善きサマリア人」についての箇所を引用してみたいと思いますm(_ _)m
>>すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。
「先生。何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」
イエスは言われた。
「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか」
すると彼は答えて言った。
「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』また『あなたの隣人(となりびと)をあなた自身のように愛せよ』とあります」
イエスは言われた。
「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」
しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。
「では、私の隣人とは、誰のことですか」
イエスは答えて言われた。
「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
ところが、あるサマリア人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。
『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います』
この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」
彼は言った。
「その人にあわれみをかけてやった人です」
するとイエスは言われた。
「あなたも行って同じようにしなさい」
(ルカの福音書、第10章25~37節)
簡単にいえば、これはイエスさまの別のお話の黄金律、「自分にしてもらいたいことを相手にもしてあげなさい」という実践であり、当時の律法学者やレビ人(祭司階級にある人々)はいかに自分たちが律法を守っているかを誇示してはいても、「自分の隣人を愛する」ということについては実質的に守っていない……ということに対する、イエスさまの痛烈な批判でした。
そして、渡辺和子さんの本の「愛は近きより」というこの箇所を読んだ時にわたしが思いだしたのが、実は後藤健二さんのことだったんですよね。
いくらフリージャーナリストとはいえ、シリアという極めて危険な土地で、湯川遥菜さんという一度イスラム国から解放した人がもう一度捕まったことで……再び助けようとしたところ、今度は自身も捕虜となり、最終的に殺害されるということになってしまいました

最初、この事件が報道されたばかりの頃、後藤健二さんがキリスト教徒だとはまったく知らないで「助かりますように」と祈っていたのですが、その後お亡くなりになったあとで、後藤さんがクリスチャンであったことを知りました。
当時、随分「何故!?」ということが取り沙汰され、「後藤さんは湯川さんのことは諦めて見捨てるべきだった」という意見もあったと思います。
けれど、後藤さんがクリスチャンだったと聞いた瞬間に「嗚呼……」という気持ちと同時に、そのことが何故だったのかがわかる気がしました。
その時、後藤さんの頭には聖書のイエスの「善きサマリア人の教え」のことがあったのだろうとか、そういうことではなくて……ただ、聖書全体の教えが「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」ということと、「汝の隣人を汝自身のように愛せよ」というこのふたつのことにかかってくることから……善きサマリア人として、後藤さんは湯川さんのことを見捨てるということは出来なかったのだろう、と思ったんですよね

事件が起きてかなり時が経過した時……あるラジオのDJさんがこの後藤健二さんの事件に触れられたことがありました。そしたら、後藤さんの友人である方がメッセージを送ってくださって、「今はもう健二のこの事件のことは、多くの方が忘れてしまっているでしょう。【中略】わたしはキリスト教徒ではありませんが、彼はおそらくわたしたちのこともその信仰によって祈っていてくれたのだと思います」……本当はもっと長く、心に沁みるお話だったのですが、こうしたことをメッセージしてくださっていて、とても感動したのをよく覚えています。
正直、後藤健二さんの死というのは、「殉教である」というように、多くのクリスチャンの方は受け止めていると思います。
それがジャーナリストの方でなくても、いずれまた日本人が世界のどこかでこうしたテロの犠牲になるということは起きてくるでしょうし、それはあなたかもしれないし、わたしかもしれない……というくらい、身近な危険にもなって来ていると思うんですよね。今の時代は本当に。
わたしと同じように、「殉教」された方というのは、天国で一際高い位置におられる……と感じているクリスチャンの方は多いと思います。そうした意味で、後藤さんの死というのは、神にあって価値ある死であったということを、これからまた何度も想起することになるだろうと個人的には思いますし、そうした方というのは間違いなく他にもたくさんおられるのではないでしょうか。。。
わたしも、これから後藤さんの本を読むなどして、「アラブ世界」、あるいは「イスラム教世界」について学び、今後起きてくるだろう黙示録の時代のことについても、備えをしようと思っていたりします(^^;)
それではまた~!!

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