神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

意識の無意識、無意識の意識。

2018年08月27日 | キリスト教
【通りの神秘と憂愁】ジョルジュ・デ・キリコ


 ウィキさんで「無意識」について引いてみますと、


・「意識がない」状態。(通常の心理学や精神医学での用法)

・心のなかの「意識でない」領域。(ジークムント・フロイトが提唱した精神分析学や、カール・グスタフ・ユングが提唱した分析心理学での用法)


 とあります。

 そんでもって、これからわたしが書くのは、無意識と意識についての、心理学的な知識に基づいた小ネタ☆というよりも、単にわたしが無意識や意識に抱いている漠然としたイメージの世界……ということで、よろしくお願いしますm(_ _)m


       ~無意識さんと意識さん~

 ――と、あるところに無意識さんと意識さんが一緒に暮らしていました。

 ふたりは同じ家に住んでいますが、意識さんは家の一階に、無意識さんは地下室に住んでいます。

 無意識さんと意識さんは、必要のある時にはなんとなくお互いに連絡を取りあったり、あるいは一緒に食事をしたり、お酒を飲んでそのまま同じベッドで寝てしまうこともあります。

 とはいえ、基本的には一応、それぞれ違う部屋に住んでいました。が、無意識さんは意識さんが意識しない時に突然部屋の中にいたり、自分の横に立っていることもありましたし、意識さんは自分で覚えていないだけで、よく無意識さんの部屋に入りこんだりしていました。

 ところで、無意識というのは意識できないから無意識というのですが、意識さんは時々無意識さんに嫉妬しています。いえ、怒りを抱くことさえあったかもしれません。自分の意識できない存在に嫉妬したり怒ったりするというのはなんともおかしな話ですが、とりあえず、その説明をしてみましょう。

 意識さんは毎日、休日以外は決まった時間に起き、そして仕事をするために会社へ出かけていきます。意識さんは自分の仕事にやり甲斐を感じていますが、仕事上の人間関係のことでは神経をすり減らしていました。ところが、無意識さんときたら毎日家の地階で好きな時間に起きて眠り、そして漫画を読んだりゲームをしたり、好きな時に美味しいものを食べたりして、気ままな暮らしを送っています。

 しかも、ゴミを分別して捨てるのも、税金の支払いをするのも、毎月の家賃の支払いをするのも、無意識さんではなく意識さんのしなくてはいけないことでした。

「無意識さん、あなたもたまには家賃を支払ってよ!」とか、「税金の半分くらいはあなたが負担して!」とか、「なんであなたはいつもゴミを分別して捨てないのよ!」などと言っては、意識さんは無意識さんに文句を言っています。「だってあなた、わたしと違って働きもせず、日がな一日ゴロゴロしてるだけなんだから、そのくらいしたって罰は当たらないでしょうよ!」

 このことに対する無意識さんの反応は、のれんに腕押しもいいとこでした。

 いつも「ごめんよ」とあやまったり、「今度はちゃんとするから」とか「次くらいはぼくが支払うよ」と、口ではそう言うのですが、実際にそんなふうにした試しは一度もありません。

 意識さんはいつも、そんな無意識さんに対し、「豆腐の角に頭をぶつけて死んじゃえ!」とか「うどんで首を吊って死ね!」と言ったりするのですが、無意識さんにはこの嫌味が通じず、「今度そうしてみるよ」などと、いつもへらへら笑ってばかりいます。

 そんなわけで、基本的に意識さんは無意識さんのことをほとんど相手にしていません。『あんなふうに堕落した人間になったら、わたしの人生終わりだわ』とばかり、無意識さんのことを自分の反面教師として生きていました。

 けれども、こんな無意識さんではありますが、たまに役立つこともあります。というのも、意識さんが疲れて帰ってくると、とてもいい香りのするアロマを焚いて待っていてくれたり、お風呂をわかしておいてくれたり、悩みごとの相談にえんえんと乗ってくれることもあるという、彼は相棒としてそのように意識さんを励ましてくれることがありましたから……。

 ある時、意識さんは仕事のプレゼンで大成功を収めました。そのプレゼンが功を奏して、彼女の企画が上司や同僚からとても高く評価されたのです。意識さんはこの日、意気揚々として家に帰り、まるで天狗にでもなったように無意識さんに自慢しました。

「あなたみたいに堕落した人にはわからないだろうけど、毎日コツコツ努力して生きてきて本当に良かったわ。それが今日、こんなにも報われたっていうことですもの」

 無意識さんはべつにこの意識さんの意見に反対しようと思ったわけではないのですが、でもちょっとくらい遠まわしに自分の功績について言及してもいいだろうと思い、こう言いました。

「そのプレゼン、書いたの僕だよ。君が書いてる途中で寝てしまったから、君の知らない間に仕上げておいたんだ。それに、プレゼンの時に君がガチガチに緊張してたから、僕はその後ろで一生懸命不安さんを羽交い絞めにしていたんだよ。君はまあ、無意識の僕のことをあんまり意識できないかもしれないけどさ」

 意識さんはこの時、(そうだったんだ……)と思い、恥かしさがこみ上げてくるのと同時に、なんだかがっかりしました。自分の功績と思ったことも実はそうではなく、いつも説教を垂れている相手が、実はこんなにも無償で自分を助けてくれていただなんて、思ってもみなかったからです。

「ごめんなさいね、わたし。いつもなんだかあなたに対して偉そうにして……」

「いいんだよ。意識さんあっての僕だし、僕がいて意識さんが自己表現できるっていうことが一番大切なことなんだから」

 こうしてふたりはその夜、美味しいシャンパンを飲みながら食事をし、素晴らしい自己充足という名のベッドの中で眠りに落ちていきました。意識さんと無意識さんはその夜、お互いをしっかりと抱きあって、とても幸せでした。

 もちろん、明日になればまた、意識さんは無意識さんに対して文句を言い、無意識さんはへらへら笑って豆腐の角に頭をぶつけては、「食べ物を粗末にしないでちょうだい!」と意識さんに叱られるという、そんな毎日がはじまるのですが……。


 ――この小話になんか深い意味でもあるのか……と言われると、いえ、特にべつに全然なんにもないのです(笑)

 ただ、2個下くらいの記事にも書いたとおり、わたし結構「真の自己になる」とか「本当のわたしになる」とか、そういった系の自己啓発本とか、あんまり読みはしませんけれども(読まないのかよ!笑)、雑誌にたまに載ってるそうした系の記事は結構好きなのです。。。

 そうした系の本に書いてあったことのひとつに、「幸福」=「自己実現できるか否か」ということが書いてありまして、このこと自体には多くの方が頷かれると思うのです。「言われてみると確かにそーだな」みたいに。

 スピリチュアル系の本や自己啓発本などと一緒に、「瞑想~本当のわたしになるために~」といった瞑想系の本もよく置いてあると思うのですが、割とこの中でも近ごろ人気なのが「マインドフルネス」の本ではないでしょうか。

 この「マインドフルネス」という思想や概念についてはわたしもかなり好きですが、でもこの瞑想ということと祈るっていうことは本当にとてもよく似ています。

 イエスさまに聖霊さまを通して祈るということは、祈りの言葉を申し上げるのと同時に、その時々の状況によって、すごく雑念がいっぱい入ってくることがあるんですよね。それに、間近に迫った心配事があるから、切羽詰ってよりよく祈れることもあれば、その逆に今日の午後、ものすごく脅威に感じることがあるからこそ、気が散ってまるで祈れないということもあると思います(でも、そんな状況下でも継続して祈り、聖霊さまに頼るなら、神さまの助けによって祈れるようになっていくんですよね)。

 それで、祈りの言葉の言葉の間というのは、本当に無意識の瞑想状態で支配されている瞬間というのが必ずあります。そして、そうした中で祈れる時こそ、聖霊さまとの繋がり、イエスさまとの繋がり、神さまとの繋がりをよりよく感じ、聖霊さまを通してイエスさまの力が注がれる……ということがあると思うんですよね。

 そして、瞑想やマインドフルネスといったことと、こうしたキリスト教の祈りとの違いは何かというと、瞑想やマインドフルネスっていうのは、自己の無意識世界の中にある、なんらかの第三の通路というのでしょうか。自己の力、能力を超えるためのそうした通路を見出し、何か自己を超えた「大いなる偉大な力」をそこから感じる……といった感じのことなのではないしょうか(あ、インドの瞑想系の本にはもうちょっと色々突っ込んだことが書いてあったと思うんですけど^^;)。

 でも、わたしは自分の無意識の力に頼って、そこからの自分の眠れる力を解放し、自己実現を果たしたいとは思いませんし、それよりも、聖霊さまを通してイエスさまに祈り、100%自分の力ではない、神さまからの力をそちらから注がれたほうが――ずっと幸福だと思っています♪


 >>もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られるのですか。

 そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。

 そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。

(コロサイ人への手紙、第2章20節~23節)」


 そのですね、自己実現って結局、自分のエゴであり、欲望なんですよね(^^;)

 それで、瞑想するとそうした自分のエゴが引っ込み、欲望自身も薄まるように感じるとは思うのですが、>>「肉の欲しいままな欲望に対しては、なんのききめもないのです」……という、そうしたところが結構あるように思います。。。


 >>何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

(ピリピ人への手紙、第4章6~7節)


 イエスさまに聖霊さまを通して頼るっていうのは、自分自身の力をゼロにして、神さまからの御思いに満たされるということだと思うのですが、無意識さんと聖霊さまが似ているようでいてまったく違うのは、無意識もまた結局、自分の領域に属するものであり、そこから大いなる力に満たされる経験をしたとか、大いなる存在からの偉大な力を感じたとか、そしてその存在がわたしにこう語るのを聞いた……ということは、他の宗教などにも言及のあることですが、わたし自身はそれらと聖霊さまというのはまったく別の存在の、神さまからの霊であると断言することが出来ます。

 そして、>>人のすべての考えにまさる神の平安が、わたしたちの心と思いをイエスさまによって守ってくださるというのは、瞑想して得られるリラックスした状態というのとは、かなり違うことではないかと思うのです。ヨガ&マインドフルネスって、何故流行るのか理由は物凄くわかりますけれども、イエスさまに祈るというのは、わたしたちの思いの至らない、考えを超えたところで神さまが愛によってわたしたちを守り助け導いてくださるということですから。

 この方に、これからも日々信頼し、信仰を強められ、イエスさまによって歩んでいきたいと、心からそのように願っています

 それではまた~!!





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