
【湖上を歩く聖ペテロ】フランソワ・ブーシェ
それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群集を解散させておられた。
それから、群集に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。
夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。
イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。
しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。
というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。
しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。
というのは、彼らは、まだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。
彼らは湖を渡って、ゲネサレの地に着き、舟をつないだ。
そして、彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついて、そのあたりをくまなく走り回り、イエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運んで来た。
イエスがはいって行かれると、村でも町でもでも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。
(マルコの福音書、第6章45~56節)
イエス・キリストの生涯について書かれたマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書をそれぞれ読んでみると――五千人の給食の記事に続いて、マタイとマルコとヨハネの三人がイエスさまが湖の上を歩いて来られたことを書いています。
そして、この三人の記述の中で、わたしが一番印象的だと思うのが、マタイの福音書の記述だったりするんですよね(^^;)
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群集を帰してしまわれた。
群集を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。
しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
すると、ペテロが答えて言った。
「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」
イエスは「来なさい」と言われた。
そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。
そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。
「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」
そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。
(マタイの福音書、第14章22~33節)
多くの人々の病いを癒し、悪霊の追い出しをし、男子だけで五千人の人々を満腹にさせただけでなく――今度は広い湖を歩いて渡ってきただと!?んな馬鹿な……
というより、ここまで来ると、ノンクリスチャンの方々はこう思われるのではないでしょうか。
「えーとね、欧米の人たちって、ほんとにこんなことがあったとか信じちゃってるわけ?
」といったように。
いえ、実際びっくりですよね。向こうの人々って、日本人以上に合理的で科学的かつ理性的な判断に優れていると思うのに、その中の多くの方々がこのイエス・キリストの行ったことを信じ、彼が終わりの時、終末の日に再びこの地上に来られると信じてるのって
そして、この四つの福音書をすべて読んでみると、マタイとマルコの記述に差異があるように、それぞれ同じことを書いていながら福音書記者によって独自性があったり、あるいは書かれてあることに若干の矛盾を含んでいたりします。
けれど、特にキリスト教を信じているわけでもなく、ただ<歴史的事実>としてイエス・キリストについて研究している方々や、あるいは宗教学者といった方々も、「まあ、確かに昔このような奇跡を行った男がいたのは事実であろう」といったことについては概ね認めていると言ってよいと思います。
ところで、最初はイエスさまの言葉を信じて信仰の一歩を踏み出したペテロですが、疑った瞬間に湖に沈みそうになってしまいました。
もし簡単に言うとすれば、イエス・キリストのことを信じるかどうかというのは、そういうことなのではないでしょうか。
わたしも、仮に自分の信仰がいかに増し加わろうとも、湖の上を歩けるようになる……とは思わないのですが(そういう意味ではわたしもペテロ同様信仰が薄いのです^^;)、イエスさまが広いガリラヤ湖の荒ぶる波をお鎮めになったり、その上を歩いて渡られたといったことは、100%絶対にそうであったのだろうと信じています。
何故なら――イエス・キリストを神の子、主として信じ、聖霊が与えられると、自然に当たり前のこととしてそうなってしまうというか。つまり、クリスチャン、キリスト教徒の集まりというのは、「ああ、あなたも<アレ>を経験してお信じになったのですね」といった人々の集まりといっていいと思います。
ゆえに、この言葉ではどうにも表しえない例えていうなら<アレ>としか表現しようのない事柄を通してイエスさまを信じた方々というのは、『父と子と聖霊の御名によって』の、聖霊の一致ということをとても大切にします。
このことはキリスト教信者しか経験しえない秘蹟であり、経験した人々はみな当然クリスチャンとなり、もしキリスト教についてその教義や聖書が成立した歴史的経緯などについていくら精通していたとしても――聖霊さまの力をまったく感じない方であれば、キリスト教徒にならずに終わるということも当然ありえます。
つまり、クリスチャン、キリスト教徒の秘密というのは、そういうことではないかなと思うんですよね。
聖書全体を信仰や聖霊さまの解き明かしを通してでなく、ただの<物語>として読んだ場合……「ここのところとか、ちょっと矛盾してるのでは?
」とか、「旧約聖書の神が命じた聖絶ということが理解できない
」といったようなことはいくらでも出てくるかもしれません。
けれど、一度聖霊のバプテスマを経験してしまうと――仮にわたしが「やっぱりキリスト教徒やめる!」なんて理性的に思ったとしても、まあまず信じなくなるのは不可能なのです(^^;)もしわたしがたった今そうしようと決意しようものなら、ジャイアンに殴られてボロボロになったあとののび太くんのように、霊的には相当ひどい状況に追い込まれることになるでしょう。そして思うんですね。「やっぱりイエスさまを信じてたほうがいいや!」みたいに(笑)
もちろん、こうしたことを書くと、ある方々は「それってある種の洗脳なんじゃねえの?
」とか、「宗教の力ってやっぱ怖えな
」とお感じになるかもしれません。ただ、前回も書いたように宗教の世界っていうのはそのくらい<深い>ものがあるっていうのは確かだと思います。
わたし、確か去年の十月頃だったでしょうか。ちょっとした偶然(?)のようなものによって、仏典を読むことになったのですが、仏陀の教えの中にはようするにキリスト教が言っているのと同じ教えというか、共通性のようなものが多く含まれていると知り、結構驚きました。そして、この仏典を読んでいて一番思ったのが、「やっぱり日本人受けするのキリスト教じゃなく、仏教の教えのほうだな~
」なんて、あらためて思ったものでした。
けれど、そう思うにも関わらず、何故わたしはイエス・キリストを救い主であると信じるキリスト教のほうを信じ続けるのか、またキリスト教と仏教の教えのオイシイところ(いいところ☆)をそれぞれ自分に都合良く抜粋して信じる――ということにならないのは何故かといえば、やっぱりそれも聖霊さまのバプテスマを受けているそのせいだと言っていいと思います。
また、イスラム教は、旧約聖書+新約聖書+コーランを聖典としている宗教なので、わたしまだコーランのほうは読破してないものの、それでも彼らが何故ああしたニュースに報道のあるようなことを行うのかについては、ある程度理解しているつもりです。
ようするにユダヤ教は旧約聖書のみを聖典とし、キリスト教は旧約聖書+新約聖書を聖典としているため、結局キリスト教についてわかっていると、西欧の精神・文化であるとか、イスラム教についてもわかるところが結構出てくるというか。
こうしたことは、わたしがクリスチャンになってからよく理解出来るようになった副産物的なものだったとは思うのですが、いつか仏教とキリスト教の共通性ですとか、イスラム教との違いといったことについてわかりやすく書けるといいな~と思っていたりします(^^;)
では、最後に一種の比較として、ヨハネの福音書から同じ記述を抜粋して、今回の記事の終わりとしたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。
そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。
湖は吹きまくる強風に荒れはじめた。
こうして、四、五キロメートルほどこぎだしたころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。
しかし、イエスは彼らに言われた。
「わたしだ。恐れることはない」
それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。
その翌日、湖の向こう岸にいた群集は、そこには小舟が一隻あっただけで、ほかにはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっしょに乗られないで、弟子たちだけが行ったということに気づいた。
群集は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。
そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。
「先生。いつここにおいでになりましたか」
イエスは答えて言われた。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、食べて満腹したからです。
なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです」
(ヨハネの福音書、第6章16~27節)
それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群集を解散させておられた。
それから、群集に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。
夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。
イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。
しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。
というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。
しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。
というのは、彼らは、まだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。
彼らは湖を渡って、ゲネサレの地に着き、舟をつないだ。
そして、彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついて、そのあたりをくまなく走り回り、イエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運んで来た。
イエスがはいって行かれると、村でも町でもでも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。
(マルコの福音書、第6章45~56節)
イエス・キリストの生涯について書かれたマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書をそれぞれ読んでみると――五千人の給食の記事に続いて、マタイとマルコとヨハネの三人がイエスさまが湖の上を歩いて来られたことを書いています。
そして、この三人の記述の中で、わたしが一番印象的だと思うのが、マタイの福音書の記述だったりするんですよね(^^;)
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群集を帰してしまわれた。
群集を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。
しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
すると、ペテロが答えて言った。
「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」
イエスは「来なさい」と言われた。
そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。
そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。
「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」
そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。
(マタイの福音書、第14章22~33節)
多くの人々の病いを癒し、悪霊の追い出しをし、男子だけで五千人の人々を満腹にさせただけでなく――今度は広い湖を歩いて渡ってきただと!?んな馬鹿な……

「えーとね、欧米の人たちって、ほんとにこんなことがあったとか信じちゃってるわけ?

いえ、実際びっくりですよね。向こうの人々って、日本人以上に合理的で科学的かつ理性的な判断に優れていると思うのに、その中の多くの方々がこのイエス・キリストの行ったことを信じ、彼が終わりの時、終末の日に再びこの地上に来られると信じてるのって

そして、この四つの福音書をすべて読んでみると、マタイとマルコの記述に差異があるように、それぞれ同じことを書いていながら福音書記者によって独自性があったり、あるいは書かれてあることに若干の矛盾を含んでいたりします。
けれど、特にキリスト教を信じているわけでもなく、ただ<歴史的事実>としてイエス・キリストについて研究している方々や、あるいは宗教学者といった方々も、「まあ、確かに昔このような奇跡を行った男がいたのは事実であろう」といったことについては概ね認めていると言ってよいと思います。
ところで、最初はイエスさまの言葉を信じて信仰の一歩を踏み出したペテロですが、疑った瞬間に湖に沈みそうになってしまいました。
もし簡単に言うとすれば、イエス・キリストのことを信じるかどうかというのは、そういうことなのではないでしょうか。
わたしも、仮に自分の信仰がいかに増し加わろうとも、湖の上を歩けるようになる……とは思わないのですが(そういう意味ではわたしもペテロ同様信仰が薄いのです^^;)、イエスさまが広いガリラヤ湖の荒ぶる波をお鎮めになったり、その上を歩いて渡られたといったことは、100%絶対にそうであったのだろうと信じています。
何故なら――イエス・キリストを神の子、主として信じ、聖霊が与えられると、自然に当たり前のこととしてそうなってしまうというか。つまり、クリスチャン、キリスト教徒の集まりというのは、「ああ、あなたも<アレ>を経験してお信じになったのですね」といった人々の集まりといっていいと思います。
ゆえに、この言葉ではどうにも表しえない例えていうなら<アレ>としか表現しようのない事柄を通してイエスさまを信じた方々というのは、『父と子と聖霊の御名によって』の、聖霊の一致ということをとても大切にします。
このことはキリスト教信者しか経験しえない秘蹟であり、経験した人々はみな当然クリスチャンとなり、もしキリスト教についてその教義や聖書が成立した歴史的経緯などについていくら精通していたとしても――聖霊さまの力をまったく感じない方であれば、キリスト教徒にならずに終わるということも当然ありえます。
つまり、クリスチャン、キリスト教徒の秘密というのは、そういうことではないかなと思うんですよね。
聖書全体を信仰や聖霊さまの解き明かしを通してでなく、ただの<物語>として読んだ場合……「ここのところとか、ちょっと矛盾してるのでは?


けれど、一度聖霊のバプテスマを経験してしまうと――仮にわたしが「やっぱりキリスト教徒やめる!」なんて理性的に思ったとしても、まあまず信じなくなるのは不可能なのです(^^;)もしわたしがたった今そうしようと決意しようものなら、ジャイアンに殴られてボロボロになったあとののび太くんのように、霊的には相当ひどい状況に追い込まれることになるでしょう。そして思うんですね。「やっぱりイエスさまを信じてたほうがいいや!」みたいに(笑)
もちろん、こうしたことを書くと、ある方々は「それってある種の洗脳なんじゃねえの?


わたし、確か去年の十月頃だったでしょうか。ちょっとした偶然(?)のようなものによって、仏典を読むことになったのですが、仏陀の教えの中にはようするにキリスト教が言っているのと同じ教えというか、共通性のようなものが多く含まれていると知り、結構驚きました。そして、この仏典を読んでいて一番思ったのが、「やっぱり日本人受けするのキリスト教じゃなく、仏教の教えのほうだな~

けれど、そう思うにも関わらず、何故わたしはイエス・キリストを救い主であると信じるキリスト教のほうを信じ続けるのか、またキリスト教と仏教の教えのオイシイところ(いいところ☆)をそれぞれ自分に都合良く抜粋して信じる――ということにならないのは何故かといえば、やっぱりそれも聖霊さまのバプテスマを受けているそのせいだと言っていいと思います。
また、イスラム教は、旧約聖書+新約聖書+コーランを聖典としている宗教なので、わたしまだコーランのほうは読破してないものの、それでも彼らが何故ああしたニュースに報道のあるようなことを行うのかについては、ある程度理解しているつもりです。
ようするにユダヤ教は旧約聖書のみを聖典とし、キリスト教は旧約聖書+新約聖書を聖典としているため、結局キリスト教についてわかっていると、西欧の精神・文化であるとか、イスラム教についてもわかるところが結構出てくるというか。
こうしたことは、わたしがクリスチャンになってからよく理解出来るようになった副産物的なものだったとは思うのですが、いつか仏教とキリスト教の共通性ですとか、イスラム教との違いといったことについてわかりやすく書けるといいな~と思っていたりします(^^;)
では、最後に一種の比較として、ヨハネの福音書から同じ記述を抜粋して、今回の記事の終わりとしたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!

夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。
そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。
湖は吹きまくる強風に荒れはじめた。
こうして、四、五キロメートルほどこぎだしたころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。
しかし、イエスは彼らに言われた。
「わたしだ。恐れることはない」
それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。
その翌日、湖の向こう岸にいた群集は、そこには小舟が一隻あっただけで、ほかにはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっしょに乗られないで、弟子たちだけが行ったということに気づいた。
群集は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。
そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。
「先生。いつここにおいでになりましたか」
イエスは答えて言われた。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、食べて満腹したからです。
なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです」
(ヨハネの福音書、第6章16~27節)
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