前回の記事で紹介したようなマルチバースの実在に対して懐疑的な記事が日経サイエンス2011/12号に掲載されました。著者の George F.R.Ellis は次のように述べます。
「私は、別の宇宙の存在は証明されていないし、そうした照明はそもそも原理的に不可能だと考えている。多宇宙解釈の支持者は、物理的実在という概念をいたずらに拡張し、暗黙のうちに"科学の定義"を曲げている。」
要は、マルチバースというものが観測不可能である以上は「マルチバースは実在する」という仮説は反証不可能であり科学的仮説ではない、ということであり、極めて健全な見解とも言えます。とはいえ、この著者も宇宙の地平線の向こう側、いわゆる"ハツプル体積"の向こう側に関しては、ある程度の仮定を妥当なものと見なしています。
----引用開始------
この地平線で宇宙が終わっていると考える理由は特にない。地平線の向こうにも,私たちの周囲と同じような領域が数多く,あるいは無限に存在していてもよいだろう。その各領域では,初期の物質分布は異なっていたかもしれないが,同じ物理法則が支配している。現在,私も含め宇宙論研究者の大半はこのタイプの多宇宙解釈を受け入れている。テグマーク(Max Tegmark)が「レベル1」と呼ぶ多宇宙だ。
----引用終わり------
つまりエリスは「地平線の向こうも内側とほぼ同様だ」という仮定は妥当なものと考えているのですが、この場合のレベル1宇宙の描象は前回紹介のテグマークが描くような過激なものではないようにも感じられます。
しかしレベル2以上のマルチバースとなると、単に地平線の内側をそのまま変えずに外側に外挿するのではなく、何らかの方向転換が加わります。エリスはそれは拙いと考えているようです。
----引用開始------
空間は宇宙の地平線の先にも続いており,観測不可能な領域が広がっているという点については異論はないだろう。このような多宇宙の描像では,地平線の内側で得た情報をその外側に外挿することが許される。もちろん,遠くなればなるほど外挿は不確かなものになる。このとき,私たちには観測不能な地平線の外側の物理法則が私たちの知るものとは若干異なるだろうといった発想が生まれること自体は不思議ではない。
しかし,こうした既知の領域から未知の領域への外挿には,反証が不可能という大きな問題がある。
----引用終わり------
実のところ「地平線の内側で得た情報をその外側に外挿」しても良いか否かも反証は不可能です。にもかかわらず、こういう外挿についてはエリスは妥当だと考えますし、私も妥当だろうなと考えます。なぜでしょう?
観測不可能な領域についても「観測可能な領域と似たようなものだろう」と外挿することが妥当な推論だという考え方は、現在の我々には当たり前にも思えますが、天体に関しては「天界は地上とは別の法則が支配している」という考え方が昔は普通でした。それが、ガリレオに始まりケプラーからニュートンに至り完成した近代天文学において、天界も地上と同じ物理法則が支配するという考えになったのです。そして多数の星雲の距離が極めて遠く、宇宙は銀河系よりも非常に大きいということがわかり、宇宙の一様性と等方性、いわゆる宇宙原理が信じられるようになったのです。
実のところ、「天界と地上は別物」仮説も「宇宙は一様」仮説もそれまでの経験または観測結果から導かれたのだと言えます。古代の観測では、手の届かない星や太陽などの天界と地上の物体とはいかにも別のものに見えましたから、「天界と地上は別物」仮説が信じられたのも無理もないと言えます。しかし今や天界からの物質も持ち帰れる時代となり、少なくとも太陽系内と地球上とでは同じ物理法則が支配することは誰の目にも明らかとなりました。そして太陽のような恒星はどこにでもあると判明し、恒星の集まった銀河もどこにでもあると判明し、「宇宙は一様」仮説が観測範囲においては確認されたわけです。で、いつか逆にこれまでの宇宙とは異なる構造が遠くに観測されて「宇宙は一様」仮説がうち砕かれる可能性も原理的には存在します。
という訳で「観測されないものは不明だ」という科学の原則を厳密に適用すれば、観測範囲の一様性を観測されない範囲に外挿することも観測されない間は仮説でしかありません。しかし、数学においては、この仮説を正しいものして推論が組み立てられます。そのひとつが例えばペアノの公理系における数学帰納法の公理です。無限を対象とする数学とは、有限世界の情報をそのまま無限世界へどこまでも外挿してよいと仮定した世界を調べる学問だと言えるでしょう。
なお、レベル1宇宙での地平線の向こう側は必ずしも原理的に観測不能とは言えません。もしも宇宙膨張が減速する(加速度がマイナスとなる)ようなことになれば、地平線の向こう側が遠い未来には観測可能になってくるはずだからです。
「私は、別の宇宙の存在は証明されていないし、そうした照明はそもそも原理的に不可能だと考えている。多宇宙解釈の支持者は、物理的実在という概念をいたずらに拡張し、暗黙のうちに"科学の定義"を曲げている。」
要は、マルチバースというものが観測不可能である以上は「マルチバースは実在する」という仮説は反証不可能であり科学的仮説ではない、ということであり、極めて健全な見解とも言えます。とはいえ、この著者も宇宙の地平線の向こう側、いわゆる"ハツプル体積"の向こう側に関しては、ある程度の仮定を妥当なものと見なしています。
----引用開始------
この地平線で宇宙が終わっていると考える理由は特にない。地平線の向こうにも,私たちの周囲と同じような領域が数多く,あるいは無限に存在していてもよいだろう。その各領域では,初期の物質分布は異なっていたかもしれないが,同じ物理法則が支配している。現在,私も含め宇宙論研究者の大半はこのタイプの多宇宙解釈を受け入れている。テグマーク(Max Tegmark)が「レベル1」と呼ぶ多宇宙だ。
----引用終わり------
つまりエリスは「地平線の向こうも内側とほぼ同様だ」という仮定は妥当なものと考えているのですが、この場合のレベル1宇宙の描象は前回紹介のテグマークが描くような過激なものではないようにも感じられます。
しかしレベル2以上のマルチバースとなると、単に地平線の内側をそのまま変えずに外側に外挿するのではなく、何らかの方向転換が加わります。エリスはそれは拙いと考えているようです。
----引用開始------
空間は宇宙の地平線の先にも続いており,観測不可能な領域が広がっているという点については異論はないだろう。このような多宇宙の描像では,地平線の内側で得た情報をその外側に外挿することが許される。もちろん,遠くなればなるほど外挿は不確かなものになる。このとき,私たちには観測不能な地平線の外側の物理法則が私たちの知るものとは若干異なるだろうといった発想が生まれること自体は不思議ではない。
しかし,こうした既知の領域から未知の領域への外挿には,反証が不可能という大きな問題がある。
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実のところ「地平線の内側で得た情報をその外側に外挿」しても良いか否かも反証は不可能です。にもかかわらず、こういう外挿についてはエリスは妥当だと考えますし、私も妥当だろうなと考えます。なぜでしょう?
観測不可能な領域についても「観測可能な領域と似たようなものだろう」と外挿することが妥当な推論だという考え方は、現在の我々には当たり前にも思えますが、天体に関しては「天界は地上とは別の法則が支配している」という考え方が昔は普通でした。それが、ガリレオに始まりケプラーからニュートンに至り完成した近代天文学において、天界も地上と同じ物理法則が支配するという考えになったのです。そして多数の星雲の距離が極めて遠く、宇宙は銀河系よりも非常に大きいということがわかり、宇宙の一様性と等方性、いわゆる宇宙原理が信じられるようになったのです。
実のところ、「天界と地上は別物」仮説も「宇宙は一様」仮説もそれまでの経験または観測結果から導かれたのだと言えます。古代の観測では、手の届かない星や太陽などの天界と地上の物体とはいかにも別のものに見えましたから、「天界と地上は別物」仮説が信じられたのも無理もないと言えます。しかし今や天界からの物質も持ち帰れる時代となり、少なくとも太陽系内と地球上とでは同じ物理法則が支配することは誰の目にも明らかとなりました。そして太陽のような恒星はどこにでもあると判明し、恒星の集まった銀河もどこにでもあると判明し、「宇宙は一様」仮説が観測範囲においては確認されたわけです。で、いつか逆にこれまでの宇宙とは異なる構造が遠くに観測されて「宇宙は一様」仮説がうち砕かれる可能性も原理的には存在します。
という訳で「観測されないものは不明だ」という科学の原則を厳密に適用すれば、観測範囲の一様性を観測されない範囲に外挿することも観測されない間は仮説でしかありません。しかし、数学においては、この仮説を正しいものして推論が組み立てられます。そのひとつが例えばペアノの公理系における数学帰納法の公理です。無限を対象とする数学とは、有限世界の情報をそのまま無限世界へどこまでも外挿してよいと仮定した世界を調べる学問だと言えるでしょう。
なお、レベル1宇宙での地平線の向こう側は必ずしも原理的に観測不能とは言えません。もしも宇宙膨張が減速する(加速度がマイナスとなる)ようなことになれば、地平線の向こう側が遠い未来には観測可能になってくるはずだからです。
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