お気楽ご夫婦日記

ええかげんなダンナと天然のカミサンの心温まる?日々の記録です。

鰻と枯山水

2008-07-26 | Weblog
なんせ今日びの鰻はゲンサンチがどーたら大変そうなうえ時期が時期なので、まずは行きしなに予約を入れておくことにする。

無人の店頭から奥に声をかける、すると見慣れない化粧濃い目のオクサンが出てきて、流石に主は奥で戦争か今日ばかりは?

白焼きと蒲焼を頼む。さて
どこに行こうかと、そこでようやく枯山水、であります。

ホントは、上鴨神社にいくぞ、と予告を入れていたのでカミサンはてっきりそのつもりでいたのですが、まー何故上鴨神社だと、その理由もこの前“下”だったので今度は“上”に行っとかんとキモチガワルイから、と言うダンナの融通の利かない性格による、

そんだけなので直ぐ変わって、西大路の上のほうまで来ちゃったからじゃあもう少し奥に行こうと、立命から進んでいくと『龍安寺』の看板
「寄る?」「寄る!」

で決定!

ダンナは学生時分から数回は来てる。カミサンは初めてだが、この前、嵐電の旅の巻きから行きそびれた感を引きずっていたようで彼女は、ただ

夏休みの京都、しかも知名度超メジャー級のお寺
なので少し心配なダンナ。

まー何はともあれいきましょー。


駐車場から灼熱の道を進むと、見覚えのある光景があらわれてやはり流石京都、ガイジンさんが多いですな。

そして声がでかいのだ彼ら。

これが本日ずーっと付いて回るガッカリで、ほんまにこの日の枯山水は日本人より外人さんのがぜんぜん多数派を占めていたのですね。

ほんまに声がでかいのだ彼ら。

ボクラが京都に来ているのに対し、彼らはニッポンに来てるのだからある程度しょうがないのですが、それにしてもやかましいこと^^;

このへんは、異国に行けば借りてきた猫のように大人しい日本人を見習っていただきたい^^;

近頃流行の“モッタイナイ”とか貴重な正の価値も、実は周りを取り巻いている斯様な負の価値観にある意味支えられて出来上がってもいることを、これは当の日本人でも判らないのが多いでしょうが、結果としてのイデオロギーだけを移植しても根付かないのはこゆところだろー。


ずずずずっと入って、石庭へ。

まずまーヒトが多いこと^^;
なので、

あれ?みたいなのが初見の感想、ダンナの。
なので
カミサンにいたってはきっと(・ ・。)え?なにこれ?

だっても石と砂がぼよーんと広がる狭っまい庭をそれは大勢のガイジンさんがワイワイとたむろっている光景がそこには、、

このように^^;ふつーにナニコレ感から入るのが正解きっと。

それが、
白砂の輝きからやがてそのうち、想像の世界に入っていけるのだが山水の美しさに普段触れ慣れているヒトには、

この日はそれどころじゃないのでカミサンには、ガイジンさんが五月蝿いので^^;

しかもこのお庭、残念ながら方丈には立ち入ることができず、つまり庭から極近い場所からしか見れない。

この前の円通寺ではっきり判った、「お庭はお座敷の奥から見るように出来ている」法則はきっとここにも当てはまるはず、
なので一生見れないベストポジションでは、ということになる。

ましてやワイワイガヤガヤウロウロなので、初めて触れる龍安寺石庭は
(・ ・。)え?なにこれ?

失敗したかなーと後悔し始めたダンナを尻目に、実はこの数分後にカミサンは覚醒するのである^^;























枯山水

2008-07-25 | Weblog
土用の丑、の前日のことです行ったのは。

そう性懲りもなくキョートキョートと、いったい何がいいのかこのフーフ、また京都。
それも鰻を買いに行くという、わざわざ(゜∀゜ )☆\( ̄▽ ̄*) なんでやねん!あほかい!!

そーこの日、枯山水眺めにいく予定じゃなく、滋賀は草津のボーズのところに鰻の蒲焼を持っていってやろぅという計画だったのでし実は。


一度二度買い付けて、その日の自らへのお土産にしてた北野天満宮横の小さなウナギ屋。

有名な店でもない、格別極上、究極至高に美味いわけでもない、ただ午後の3時ころ、その少し前にこの屋の主が仕上げたほくほくの蒲焼が、店頭では一尾か二尾上手い具合に残っているので、

一番初めはその匂いと、その慎ましやかな風情についふらふらと買ってしまったのですが、

二度目は、甘すぎず鹹(から)すぎず、かと言って物足りなくもないタレの仕上げと、ふんわりと蒸しあげた身のしっかりと厚みのある、また脂もあってその味わいに、購買欲を絶つ理由はなく、

しかもこの屋の一軒おいた向こうにこれも小さな饅頭屋があり、
そこからぼくらの車のナンバーを目ざとく見つけ、おばあちゃんが「三重から来なさったかい?」と出てきて、

「ええそーです伊勢です、」と返すと「私は亀山や」「おやおやこれはこれは」と
ふるさとの知己に遠い異国で出くわしたわけでもあるまいに、ぽんっと話が生まれて、

じゃあ三度目は、土用を控えた今日の日に、京都ついでならいっちょ買っていくかとなるのは物の道理事の通りで、おばあちゃんもいるかな?とそれも楽しみに、やってきたのですね。
しかもこのフーフ毎度毎度ここまで来ておいて、高速越しにだが、ほんの数百メートル向こうにいる長男坊のところには寄っていかないまったくもって。

道が出来て近くになってもなぜか遠い。
外に出した、という意識があるのでね、そんなもんです。

それと、会うと別れがつらくなるので、あえて見ないようにしていた。

だから土用のウナギという理由がないと寄れない。

喜ぶぞきっと^^


途中でカミサンが電話する。
留守電。
「おかしーなー今日は午後からの授業のはず」とカミサン

さすが母親、そんなことまで知っているのか。

少し後、出てくる。
「今日はなー京都来とるんさー」今日“も”やろ、と思うダンナ。
「ウナギ買って持ってったるわ!おる?」

試験期間だったらしい。
ウナギを食ってがんばんなさい、というワケで今回はタイトル、間違ったかな?




みたらしだんごの2

2008-07-24 | Weblog
太古の森の生き残り。それが糺(ただす)の森で、
かつてここいらへん一帯が山城原野であった頃の植生が今に残るところだということです。

ダンナはもーそれだけで感激してまって、“京の都”以前の京都は実はミヤコでもなんでもない、只のド田舎だったという、よく考えれば当たり前のことなのですが、

こゆ、時の流れ系の諸行無常的なモンに極めて弱いこのダンナ^^;
わかってイタダケルでしょーか?


その太古の森の中を涼やかな小川が流れている。

それがね、
OGAWA=これや!というくらい小川で、全国の小川さんが自分の姓に誇りをもてるほどステキで、
昨今もーどんな地味な河川でも護岸と称して、めったやたら川底から岸辺まで、意地汚いコンクリートで封鎖する偽小川ばっかしになってしまった日本で、ここには
それは見事な小川がその中に存在している。

森の木々は高く高く、葉の茂りが真夏の日光をここちよい揺らぎに変えて、どーだい?今日の調子は、と訪れる人々に語りかけるよーに葉と枝を鳴らしている、

その下を、
あっちへ行っては戻り、こっちを歩いてまた進み
川辺に下りて水を掬い、離れて眺め寄っては返ししながら、ずーっと歩いていました。


森の道の一段落した広場には大鳥居。

しかしその右手にある杜の小道のほうがよっぽどあり難い気がして歩いてゆくと、小川の流れが二つに割れたその処に、小さな可愛い中州があって、それは社のない神様のもともとの土地だと書いてありました。

原初のカミはそのような、なんでもない中州や林や巨木にあって、それが見えるヒトビトがまず崇め奉り、その結果が“社”というカタチを造り、その様式を吟味し祭事を捧げることにより、
継続させること
自らの心の戒めとすること、すなわち

それをもって、人の世を「善」たらしめる事を願い、社会的な翻訳作業に勤めた人たちの技、それが宗教の本質であるなら、信心深さというのは極めて職人的な心根、ということになります。

決してムヤミヤタラニ信じたわけじゃない、始まりはそゆことですきっと。


鳥居を潜っていよいよお参り。

みたらしの社もおまいり。
そこに湧き出す小川の始まりの水と共に上るあぶくが「みたらし団子」の発祥。

次に特別拝観で、神様のお供えもの(神饌)を調理していた大炊殿(神様の台所)を見て帰り道、

行きしなの森が、やけに薄いのに気がつきました。


おんなじように涼やかで颯爽と、でもよくよく見れば、カワの流れの中に石畳が見え隠れ、森のソコには本来あるはずの豊かな下草も賑やかな低木も、ない

すっきりと人間向けにされた瀕死の木々、虚構の森。

もとはもっともっともっと大きな森が、
ミヤコとなった京の戦乱で失われ、近代の開発で失われ、現代の快楽により狭められ、、

いまここにあるソレは、本当の森なのだろうか?森の名残を留めた幽霊なのだろうか?

わからなくなってきました。


社と森は切り離してはいけない。
ぼくらの心が折れるから。

それほど弱々しい生き物なのですワレワレ人間というのは。


森の薄さは、あとから思い返してみて、のハナシですが、また植物や森の知識など全くない素人の的外れの批判なのか、杞憂なのか

いや、
杞憂であればそれに越したことはない訳で、その方が寧ろ嬉しく喜ばしいことなのでありますが、、、

お賽銭さえケチるこのフーフが、森の再生のために置かれた募金箱に、ヒラリと一枚紙幣を預けて、せめてもこの時間の、お礼の挨拶を置いて帰ってきたのでありました。

みたらしだんごの寺

2008-07-20 | Weblog
どこかというと、もー最初に言っちゃいますが“下鴨神社”
7月に入ってすぐ行きますた。

何故ここを選んだかというと、、、


わすれた^^;

ので、
カミサンに聞いてみると、
「まえ、出町柳から叡電で鞍馬いったとき、、」
「あっ!そーやそーや」

その駅の近く、高野川と賀茂川の合流地点にある高名なお社に、今度行こーね♪
と言っていたのですねそん時そー言えば。

で、行ってきたのでした。


ここは分かりやすい、その合流して鴨川となる両川のYの字の付け根にある。

前とおんなじ地下駐車場に止めてポッカリ地上に出る、と
しかしもー位置関係が良くわからん。

いや川がね、つまり三つあるので。

Yの付け根の左上が→A賀茂川、
右上が→B高野川、
下の棒が→C鴨川なので、
今この横を流れてるのがAかBかCかで、その流れを辿った行く先が狙い通りなのか、スカなのか、良くわからんのですこの二人には。

付け根の合流地点が目視できれば判るのだがバカでも。
それが見えないのでここでは、そこでなんとか出町柳駅舎を向こうの方に見つけて、ようやく今たっている場所のどっち向きかを理解する。
ヘ(_ _ヘ)☆\(-_- )脳みそにGPSでも付けとけ!

兎にも角にも、付け根の真ん中に歩いて行けばナーニ京都のこと、きっと看板がある。

すると、、【←下鴨神社】
ほらね!あったー^^


てこてこてこと歩ってゆく。暑い。流石京都。

静かな京の町屋の間の、木立の残る一本道を北に突き当たったところ、
そこに下鴨の森の入り口がサーッと開けていました。

下鴨本通りから東に、御蔭橋をわたる道を境界線にして、まるで結界のように

その先に現われたのは目を疑うような、そうだったのです。

円通寺へ2

2008-07-17 | Weblog
北山通りをさらに北にはいったころから、深泥池のあたり、

この付近は、すっかり大都会と化したこの町のなかで、昔からの山里の古い京都が、宅地の間にまだ少し残っています。

円通寺はそんな洛北の山間の集落の細い道を曲がりくねった、さらにその先にありました。

小さな小さな門構え。境内も広くない。こじんまりとまとまった感じが慎ましやかに見えるほど。

まちがっても「京都のお寺」というブランド力に偏っていない存在で、

ここはただ一点、後水尾(ごみずのお)上皇という、皇室史上まれに見る粋人プロデューサーの作品である稀代の借景庭園による自己定位、
あるいはその評判のみで、人々を惹きつける孤高の寺院なのであります。


履物を脱いで狭い渡り廊下に続く受付のところには、この寺院のご住職
とおぼしき初老のしぶい和尚さん。

「二人お願いします」と道場破りのよーに気合をいれて堂の中に進む。

本堂のお座敷、そこから庭園を望むその場所もすぐソコ、短い廊下を折れたその先にあるのですが、

その前の受付の脇にトイレがあります。
その案内板が、ご不浄だったか厠だったか忘れましたが、木の引き戸に掲げられており、一瞬これは昔のお便所が見学できるようになっているのかしら?と思ったら本当のお便所、使える。

木戸脇の壁が天井から半分程度のところで止めてあり下半分は空間に抜けていて、そこに設えられた手水鉢は竹の簾に柄杓が二つ、むろん内から使うのですが、外からも眺めることができて、

それが妙に良い。

昔のお便所は木のユカで、その高床の部分に小窓のような通風孔などあって、開放的ゆえに衛生的で、抗菌とか防虫とか大層なくせにやけに不潔っぽい現代のぴかぴかトイレよりも明らかに位が高いのですが、

ここのそれは流石に上皇の別荘跡なもんですから最高位の風格。(当時のもんじゃないけどねきっと)


んなとこでストップしてんじゃねー^^;というわけですが、なんか直ぐ先に進みたくなくなるような場所なのですね。

じっくりゆっくり時間を使いたくなるような。


ただまぁおトイレでぐずぐずしてるのも何なので先に進みますと、、

真っ直ぐの窮屈な廊下をくいっくいっと曲がった先、その廊下の続きの縁側の奥に広々とした本堂の空間、いや大寺じゃないので本当はそれほどの広さはないが、そこから前が

どこまでも広いのです。


ここで過ごした僅かな時間の感興は、特にモノに書くようなことじゃあなしに、絵画を見たとき音楽を聞いたとき本物の美味いものを食ったとき、その感動が色合い風合いや味わいが、本来どのように表現されるのが筋なのか、

それが「筆舌に尽くしがたい」という言葉の意味なのだと、しみじみと腑に落ちる、そういうことだと思われますので。


ただし、竹林が失われていたスデニ。

これは翌日、ここを紹介してくれた後輩から「ありました?まだ」と言われて
二日越しに、はたと気がついたのですが実は。

このとき実に普通の光景に、ダンナは出会っていたということ、
開発許可の出た評判の風景が、どの程度残っているのかという第三者的なものの見方など出来ず、

ただそのお庭の石組み、生垣、もみじの枝ぶり、遠景の山の形
それらの姿のよさが飛びぬけているだけでね、

田舎のうちの前の道から見える、お大師さんの小山にある5本の杉の木の向こうの空、
夕暮れ時、家の廊下から小川越しに眺めていた小高い丘の竹林、
小学校に通う曲がりくねったあぜ道の坂の上の雲、

これらと同種の、魂のソコの印画紙に焼き付けられた風景が、ここ円通寺庭園にもあったから、返って

竹林の喪失など、気づく暇がなかったのであろーと思われます。


そこには竹林の替わりにヒトの家の屋根が見えました。


景観条例を制定した京都の無能がその屋根の上に乗っかっています。

本来受け付けのところで没収されるべきカメラで、いま2008年に訪れる観光客のミナサンは、この庭園の断末魔の光景を撮ることが出来ます。

さっきの和尚の抗議の意思の思いっきり詰まった英断です。


ほどなく境内に彼の説明の声が流れてきます。

こゆものの価値を知らないことにかけては天下一品のカミサンが、しんみり聞き入っているのは、その声からしたたり落ちる住職の無念の思いで、

それは目の前に広がる美しい風景以上に、ボクラの心にしみました。


同様の綱引きは近年毎日のように、日本の世界のどこかで巻き起こっている騒乱の一種で、

たとえば、
近日公開の“ぽにょ”の舞台だとも言われる、美しい瀬戸内の一漁村の風景を台無しにする架橋道路建設事業の是非をめぐって、

遊びにくる無責任な観光客の楽しみと、
昔からそこで人生を送ってきた住人の利便性

それを天秤にかけるような物言いで、あたかもまことの真実を見極めるような論争に置き換えて行われている、茶番劇なのであります。

住民の生活を守れ、という物言いの中に、坊主の袈裟から覗く刀のごとく見え隠れする恥知らずな利権。

論争する価値などまったくない。

とっとと、美しい風景のほうがそこで暮らす人々の快楽よりも優先するのだと、
そー正直に言っちゃえばいいのに。


今回の道行きで、いろんなことを考えたのですが、

本当に美しいものを見ておかないとしっかりと、あまり美しくないもの、がそのうちに見極められなくなってくること、

審美眼というのは、優劣をつける為のものでも、真実を見極める眼力でもない、

ただひたすら、美しいものを心から楽しむ力であると、そのことを一番に思いました。

円通寺へ

2008-07-13 | Weblog
今回はずっともう最近、7月11日の話です。

この間能登、そのあとまた一日京都の下鴨神社に行ったりしているのですが、それらを一度飛ばしてみます、
まずまず特別の理由はないんですが。

まぁあえて言うなら、ずっと時間軸に沿って書き進めているリズムをちょっと変えてみようと、するとどーなるか試してみよ、と、いうことですね。


さてそんなわけで
円通寺

どゆお寺さんかというと、、、行くまで全く知りません今回。

よくモノを知ってる後輩から、ぜひ行って見てくださいと薦められて、これはしめた!と、ヒトからの情報は毛色が違うので楽しみなのです。

そいつが言うには、そのお寺には見事な借景庭園があって、でもその風景もこの付近の開発が認められて、じきに見れなくなってしまうのだということでした。


まずはいつものルート、インクラインを右手に南禅寺から白川通りで銀閣まで、そのままこの道を北上するのは初めてだったのですが、ここからはこの通り、一気に様相がかわります。

狭い二車線の真ん中分離帯に、名前の知らない緑の噴水のような広葉樹が連なり、そして左右両側には歩道を分ける銀杏並木が、秋に色づくころよりもきっと今が一番綺麗だろうと続く。

京の大掛かりな街並みは少しずつ薄まり、北山通りに曲がってからは木立の中にシャレた店々がならぶ通りをしばらく走り、このあたりかな?という角を曲がってまた北に、
するとそこには円通寺

はなく、ふつーの古い住宅地田んぼもあるような。

道を間違える^^;

運良くこの辺りの案内看板があって、もすこし東、通り越した、細い道をずこずこ戻ると深泥池の看板発見!
「そのちかくです」と教えてもらったのを思い出し、そちらに踏み込む。

車が入っていいのかな?と思うような道はくいっと曲がってそのまま、その国の天然記念物のお池はすぐわきに広がっていました。

素人目にもそこは、貴重な生物や植物の宝庫であるとわかる、様々な水生植物の葉や茎や小さな花が水面すれすれに広がって、少し水のツラが広がる場所にも湖面直ぐ下にはナニカの影が見え隠れしている。

すっきりしない雑然としたその湖面は、まとまりのない調和、という矛盾した言い回しでしか表現できないほど美しいものでした。

岸辺の切りは極めてファジーで、水から続く湖底がゆるゆるといつの間にか陸になるその場所には、葦だか蒲だか残念ながらダンナにもむろんカミサンもわからない、しかし田舎の湖沼のそばで見た覚えのあるようなしゅっとした草々、そこに胴の細い糸トンボやハグロトンボに似たカワトンボが一様にひらひらと舞っている。

このお池は氷河期のころからここにあって、しかも流れ込む川のない、雨水と地下水だけで維持されている奇跡のような場所なのです。

それがヒトというどの生物よりも獰猛な種の生活圏のど真ん中に、あらよっと出てきたのが不思議な感じでした。

あとで調べてみるとやはりブラックバスやブルーギルという、当人(魚?)達に罪はないのですが、外来の悪役連中も生息しているらしい。
ましてや、岸辺3メートルの小道は車も通れる、そこでエンジンかけてエアコン入れてどっかのおっさんが車中の昼寝を決め込んでいるという、

これは周囲せめて100メートルは車両通行不可にして、入場料金を取って公園整備をせんといかんやろ!と、オレが(宝くじに当たったら)きっと実現してやろうじゃないかと、ダンナが見当違いに意気込むほどの状況ではありますが、

当のダンナもそこをぶいぶい車で通り抜けているのだから、だめですなこれは。


でもここは後に回して、まずは円通寺はどこじゃろかい?と思っていたら看板。

深泥池からさらに山手に、細い道を住宅の間を縫って迷いながらようやくたどり着きました。

そのお寺のことは次回に。

しかしまず、こちら昔の風景を一度、ご覧になっておいてください。

京都度々

2008-07-11 | Weblog
小さな記念広場は京の町を見下ろす高台。
そこにインクラインのかつての始まりがあるのですが、いまだに水は満々とある。

琵琶湖からやってきた水の流れは、ソノ場所で一旦向きを変えて先ほどの発電所方向に進むのですが、

ソノ場所は小腸から大腸に向かう消化管のなかの盲腸にあたる要素を持っております。

なんやよーわからんでしょうが^^;それが蹴上船溜であります。

ここの構造はそれはもぅ筆舌に尽くしがたい風雅の極みてなもんで、水際の危うさがハンパない。

船溜に押し寄せる水の固まりは、インクラインの最上部に向かって緩やかにこそげ落ちそこからは、半分水につかった巨大な台車が船底を引き受け、一瞬小高い峰を越えたせつな、今度は一転、奈落の底まで、逆落とし真一文字にすべりこむ。

その様相は今はもうないのですが、このエリアは、その一連の仕業をわずか十数メートルのこの静かな区間の風景だけで切り取り、今に貼り付けているような気がしました。

清少納言が男の子で、疎水開通の時代に生まれていたら、どのようなモノハヅクシを充てるだろう、

心ときめくもの?、見飽きぬもの?、勇壮なるもの?

事実当時の京の人々はこの前代未聞の壮大な仕掛けを一目見ようと、この蹴上の地に押し寄せたそうでありますが、

その孫の世代のダンナのほうがキット、このときの押し寄せ度は上を行っていたかもしれん。


高揚の後は静寂が訪れます。

インクラインを今度は二人、さびた線路と朽ちかけた枕木を踏んで下りてゆく。
もう舟を積んだ巨大な台車を、後方に気にする必要もない道行きです。


終点の南禅寺船溜は、疎水の記念館と公園になっていて、その歴史の記録が山盛り詰まった館内を見て歩き、噴水に感嘆し、

結局その後、平安神宮の付近にも足を伸ばしたのですが、ここいらはもぅ赤いでっかい鳥居が興ざめなばかりで、途中によったコンビニで傘を忘れて引き返し、おかげで足が棒になって帰ってきますた。


しばらく疎水はもういいや、疲れた。
あまりに感激すると、なんかその後一瞬空っぽになるんだよなー。

京都はちょっと間をおこうと、それでも、空前絶後と言ってもいいくらいの一日

やっぱりじきにマタ来そうだなと思い直し、帰路に着くダンナでありますた。

京都へ三度

2008-07-11 | Weblog
この前の哲学の道の時分は、新緑が跳ねくり回っていた京都。

それがこのころは、もうすっかり大人になった木々の緑は落ち着きと深みを増して、盆地のソコを吹き渡る熱風にしっかり応えるように、ざわざわと力強くゆらいでいる。

しかし南禅寺のその場所だけは、澱みをともなった別の濃度が感ぜられました。

圧倒するような歴史のマボロシが、レンガの建造物を受け皿に、とよとよと、押し流れてきているのですからそれは当然のこと、
水路閣上隙間のないミズの塊は、明らかに平成ではなくメイジから流れてきているのであります。

当日の写真がないのが残念ですが、現代の風景写真からむかしを、ボクラはしっかり見て取れる。そして未来に対して責任ある行動をとらねばという感情を沸き立たせることが出来る。これが“KYOTO”の価値です。

その“KYOTO”は実は、“KURASHIKI”や“ASUKA”や“MATUE”に出向かずとも、ワレワレのごく近くにもあってネ
イヤ今ここが“ISE”だからという事じゃなくて、

芽吹く若葉から夏の青葉、川原の葦の葉影に沈む底石の苔のぬめり、
はためく洗濯物ごしに輝くお天道様が、山の端に降れる間際の赤の揺らめき、
里山のあぜ道に轍の後を浮かせる名もない草々から、連なる深山の暗闇へ向かう光のフェードアウト、

それらをすくい上げて感じる愛でる、その気持ちの中にこそ未来につながるムカシがある。

液晶の大画面から放出されるステレオタイプのバラエティに、限られた人生の時間を浪費するほど、ヒトは未発達な生命ではないと信じたいものであります。

画を捨て、陽光のなかを歩こう
歩けば見えるものがきっとある、

みたいな。

で、なんの話でしたっけ?
そーだ水路閣だ^^;


しばらくソノまわりを、あっちにフラフラこっちにウロウロして、最後にソノ上に登ってみる。

水路は思いのほか狭い。
下の建造物と釣り合いが取れんなーと思うほどに。

でも水の流れは太くて速い。
間違いなく子供はその勢いに吸い込まれてウキウキはしゃぐ筈です。

なので二人の子供^^;はソノ流れを辿って上流のほうにひたすら歩ってゆく。
ナンゼンジはこのよーにしてあっと言う間に終了。

テクテクテクテクと進んでいくとやがて蹴上の発電所のあたりに出ました。

おおっ!やはり続いていたか、とダンナ感激。

この周辺もなにもない、スポーンと開けてわけのわからん施設の柵や水路やパイプが無造作にごっそり、そのエリアの高低に固まって放り出されていますた。

このアザトサのないぶっきら棒な広がり感がたまらん((o(> <)o))☆\(--;)このどヘンタイが!


その先の広場には疎水の父、田辺朔郎氏の銅像がすっくと立ち、そこがインクラインの始まりでした。








京都再び

2008-07-09 | Weblog
もう少し後の、またまた京都行きの話、
ですから
再びなどという生易しいモンじゃなく、ミタビヨタビなのですが本当は。

この日は特段目的地はなく、と言って毎回まぁそのよーな感じっちゃ感じなのですが、名神高速を東インターで降りてもなお、行き先が決っていないということなのであります。


インターを下りてそのまま西に一直線、山科をずーっと抜けて、御陵から蹴上を経て市内に突入する経路がウチラのいつものルートで、

流石にこんだけ同じ道を走ってると、最初のうち御陵(みささぎ)を「これなんて読むんやっけ?えーと、あっ!マタタビや!」(実話)といっていたウチのカミサンも、最近は見事に読み上げるのでありますが、

もひとつ毎回、市内に入る目印に登場するのが、インクラインであります。


インクラインというのは傾斜鉄道という意味で、旅客営業用のケーブルカーに対して、産業用のものがそのよーな呼称で呼び習わされています。

大文字の山から南禅寺に下ってその先、京の町はわかりやすく大きな盆地を形成しているわけですが、琵琶湖からやってきた疎水はそのくぼ地に向かって一気に流れ下っていきます。

その流れがあまりに急なもんだから、もともとの疎水の主役であった船便は急流すべりのていで、あぶなくて下れない。
そこでこの区間、舟をよっこらせと貨車に乗せてレールの上をそろそろと降ろすのです。

それがインクライン、

であったのですが、その遺構がちょーど、蹴上の坂の下りの右手に現われるといよいよ京都だ、というわけです。


以前、銀閣から若王子神社に至る哲学の道を歩いたとき、その終点で大地に潜った疎水の流れは、そのインクラインよりはすこーし北っ側の南禅寺から続くものであったわけで、そこにある疎水のシンボルというべき“水路閣”へはまだ行ったことがなくて実は、

今日はそれ!

で南禅寺へ。


お断りをしておきますがマズ、今回は別段面白おかしいエピソードは出てまいりません。
そんなに毎回毎回面白話はないので。

また、なんか持って回った社会風刺や政治批判もありません。
毎回毎回そんなことを考えてる閑はないの。


で、いよいよ南禅寺。

車を置いててくてく歩っておりますと、この大寺はかなりの観光客がいてにぎやか。

途中巨大な山門を眺めて奥のほうに進むと、右手にその威容は出現いたします
びしっ!と。

朽ち果てた枯葉のような風景になじんだ色合いで、めがね橋の橋脚がいくつも連なったような水路閣が、真一文字の横っ面を見せて木々の間からのぞくさまは、

逆さ木漏れ日、とでも表現したらよいのか光の代わりに、うずたかく積もった時間の輝きで迫ってくるよーなものであります。

だから南禅寺なんか本当は、今日はどーでもいいので。




太秦広隆寺から嵐山天竜寺

2008-07-06 | Weblog
広隆寺は帷子ノ辻から乗り換えて直ぐの駅でおりる。

そのカタビラノツジから東行きは、線路が道路に乗り入れて一所昔の路面電車のようになる。

いつの話やねん!というくらい昔、ダンナは紫野大徳寺前から、この路面電車に乗って大学に通っていたので(あんまし行きませんでしたが)それはもぅ懐かしくなる。

昨今では、複数車両の新交通システムと称して、軌道も整備され明るくゆれない路面電車もあるようですが、
やはりロメンは、一両でガタゴト走らなくっちゃ詰らない。

ちょーどダイガクを余分に一年かかって出た年あたりから、京都の町にも地下鉄がやってきたのでありました。
だからダンナは今思えばですが、古都の幸せな学生たちの最後にすべりこんだことになる。


道路の真ん中に設えられたステーションに降り立つと、目の前には大きく立派な山門がありますた。

見覚えなし、たぶん来てない。

すると学生時分に確かに見た記憶のある半跏思惟像は、どちらの方だったのだろー?


市内に忽然と現われる大寺は、しかし境内に入ると一気にどこかの山の裾野か田畑の真ん中にあるような静けさ。

百科事典で馴染みのお姿は、大きく近代的な宝物殿の奥中央に、一番ぜいたくにスペースをとっておられました。

母娘の二人連れが前で座ってずーっと、仰ぎ見ておられる横を、やはり木のお堂の風景が生む雰囲気のないこのよーなところでは、長く見る気にならないので、するするっと一周して出てきますた。

こーゆー状況は、どーするのが一番良いのだろうと、やはり考えざるを得ないのはシロートの浅はかさか。


そーなるとお膝元の神宮さんの遷宮というシステムは、文化的なあるいは宗教的な意味合いなど感知せずの素人にも、よくわかるきちんとした結果を出していると思う。

白木のまっさらなお宮の輝きから、いにしえの空間を感じられるのはひとえに神宮の巨大な森のおかげである。

ありがたいありがたい。


再び電車に乗り込み、さて今度は嵐山。

前の方に腰掛けて、行く先の線路と、車窓の家々や林やそれに続くお社、幅60センチほどのかわいい踏み切り、の風景を楽しみ、なんせ今日のメインはこの列車ですから、行く先の少々のはずれは気にしないのであります。


嵐山まで結構な人が乗り合わせていて、それも土地の人と遠来の観光客、異国からの訪問者と京都ならでは。

終点に着くと、半数の人は左っかわ渡月橋の方向に、もう半分は右手に折れて、ボクラも天竜寺へ。

このときちょうど、少し雨が振り込んでくる。

長い参道を歩いてお寺のほうに向かう。

ここの庭園も実際に見るのは初めて。

ほとんど人たちが、履物を脱いでお寺の建物に上がりこんで回るほうに行くのですが、ボクラはお庭に出てお池を回るほうにむかいますた。

雄大な池と雄大な庭園、そして雨に煙る背景の雄大な山の風景は、この都の西のはずれ、山と川が重なる茫々とした場所に細々したお庭を作ってもしょうがないとでも言うような作者の思惑を、勝手に想像しても、それが妙に納得できる。

雨を気にせず、また気にならずの小一時間の彷徨を楽しみ、その後渡月橋からもう一度雨に煙る山々を眺めて帰ってきますた。


そして帰りの電車、途中から異国のおじさんが一人乗り込んできてダンナの横の席に腰掛けました。

地図を見ながら車窓と社内のあちこちを、交互にきょろきょろしている。

竜安寺前のアナウンスを確認して、降りる準備をする彼が突然ダンナに、

「どっちのドーア、ヒカキマースカ?」とたった一両の電車のドア、降車の案内を乞うてみえたので、

「おー!りょうほーオープンね、オーケー?」と流暢な英語で^^;答えてあげると、

「オーセンキュー」と後ろのドアのところで待っているが、停車後も一向にオープンしないドア。
終着駅以外は前しか開かんかったのねこれが。

彼は大慌てで前のドアに走ってゆき、無事降車。

そしてまもなく動き出した車窓から、こちらに苦笑いしつつ手を振ってくれますた^^;

こちらも満面の苦笑いをたたえ手を振り返すダンナ。

サミットを控え、あやうく日米両国に深刻な溝を作るところであった。


そのご、車に戻り、お目当ての白焼きを買おうと思ったら、「白焼きは売り切れです、言っててもらったら焼いてたんやけど…」とタレ付しか残ってなくて、

でもソレを買って帰りますた。
うまかったっす。

今度来たときは白焼きだ、と
今回の道行きとは何の関係もないエピソードで、この日の京都も無事終了です。