このあたりは都のアダシノ、すなわち葬送の地だそうであります。
それがいつのまにか、ヒトビトが寄り付き家を作り田畑を起こし、山に分け入り薪や炭焼きの為の道をこしらえ、
おそらく昭和の中ごろには、絵に描いたような里山の景色がここにはあったはずです。
同時に野辺おくりされた魂を鎮めるべく、いくつかの寺院が興され、
遠方の山々に古よりおわす神々のための社が設けられ、
また、その山のはるか向こうからは
日本海から、都人のために数限りない干し魚を運ぶ人たちの道が続いていました。
京の西のはずれには(ざっと辿っただけでも)このような事々があり、それらの一つ一つが幾重にも折り重なり、この地の景色の向こう側に、目に見えぬ値打ちをつけたしてくれております。
思えば、わかりやすい“古都の風景”というよーな場所の事じゃなくても、そんな奥行きはあるはずで、
きちんと勉強をすれば、日々の暮らしのなかには本当はもっと価値あるものが満ちているのですから、
勉強
というのは、本来そういう楽しいものであります。
んで、
勉強をしないので道を間違えたこのふーふ
たどり着いたのはどうやら清滝というところらしーと、
これは後になって判ったのですが。
新しい、車の走れる道路を嵐山の手前からずーっと北に上って行くと、
徐々に道は細くなり
やがてぽっかりとトンネルが現われます。
もとは嵐山から愛宕山に続く鉄道の単線のトンネルのようであります。
一方通行の長い信号待ちを経て、徒歩で行かれる方もあり慎重に抜けると、
小さい広場、バス停のようで
そこから山肌と清流の間を車一台がやっとの道を「ここは通ってもいいのかしらん?」と不安な気持ちで走っていくと、下った先には見事な京の山里の風景が待っていました。
橋の袂に観光客用に設えた広い土の駐車場、
そこにひとまず車を置いて、
そのときは、いったいここはどこじゃろ?となんにも知らないまま、
帰ってようやくこのあたりが紅葉狩りの山歩きのメッカであると、
また
かつては、清滝遊園地、愛宕遊園、愛宕山ホテル、愛宕スキー場など
一大観光地として整備され、それがいまではすべてが元に戻ってしまっていることなどをしりましたが、
そのときは
ぼくらにすれば、あたりまえの山間の田舎のとびきりステキな風景と、
そこに集結したハイキング仕様のおっちゃんおばちゃんの群れがひしめく異様な光景に
ただただ目を丸くしていたのであります。
それがいつのまにか、ヒトビトが寄り付き家を作り田畑を起こし、山に分け入り薪や炭焼きの為の道をこしらえ、
おそらく昭和の中ごろには、絵に描いたような里山の景色がここにはあったはずです。
同時に野辺おくりされた魂を鎮めるべく、いくつかの寺院が興され、
遠方の山々に古よりおわす神々のための社が設けられ、
また、その山のはるか向こうからは
日本海から、都人のために数限りない干し魚を運ぶ人たちの道が続いていました。
京の西のはずれには(ざっと辿っただけでも)このような事々があり、それらの一つ一つが幾重にも折り重なり、この地の景色の向こう側に、目に見えぬ値打ちをつけたしてくれております。
思えば、わかりやすい“古都の風景”というよーな場所の事じゃなくても、そんな奥行きはあるはずで、
きちんと勉強をすれば、日々の暮らしのなかには本当はもっと価値あるものが満ちているのですから、
勉強
というのは、本来そういう楽しいものであります。
んで、
勉強をしないので道を間違えたこのふーふ
たどり着いたのはどうやら清滝というところらしーと、
これは後になって判ったのですが。
新しい、車の走れる道路を嵐山の手前からずーっと北に上って行くと、
徐々に道は細くなり
やがてぽっかりとトンネルが現われます。
もとは嵐山から愛宕山に続く鉄道の単線のトンネルのようであります。
一方通行の長い信号待ちを経て、徒歩で行かれる方もあり慎重に抜けると、
小さい広場、バス停のようで
そこから山肌と清流の間を車一台がやっとの道を「ここは通ってもいいのかしらん?」と不安な気持ちで走っていくと、下った先には見事な京の山里の風景が待っていました。
橋の袂に観光客用に設えた広い土の駐車場、
そこにひとまず車を置いて、
そのときは、いったいここはどこじゃろ?となんにも知らないまま、
帰ってようやくこのあたりが紅葉狩りの山歩きのメッカであると、
また
かつては、清滝遊園地、愛宕遊園、愛宕山ホテル、愛宕スキー場など
一大観光地として整備され、それがいまではすべてが元に戻ってしまっていることなどをしりましたが、
そのときは
ぼくらにすれば、あたりまえの山間の田舎のとびきりステキな風景と、
そこに集結したハイキング仕様のおっちゃんおばちゃんの群れがひしめく異様な光景に
ただただ目を丸くしていたのであります。