鎌田実の野球教室

元トラ戦士が分かりやすく指導!

金田さんからの助言

2009-11-28 09:20:40 | 私の野球人生
 私は今のバッティングフォームではプロでは通用しないと感じておりました。プロに入ってまだ5カ月、バッティングフォームは高校時代のままでした。高校時代のバッティングは「前で打て」と教えられていました。直球とカーブくらいの球種でしたからそれで十分打てました。

 しかし、プロではスピード感も違い、シュート、シンカー、スライダー、カーブなど変化球も多彩。前に打ちに行っていたのでは“詰まらされる”、“泳がされる”結果になることが多いと感じていた。

 バッティングは呼び込んで打つ方がいいのではないか…と思っていた矢先、ある試合の後、私のバッティングを見ていた金田正泰さんが私を呼び止め「鎌田、バッティングは呼び込んで腰で打つのだ」とバットを振る仕草をしながらアドバイスをしてくれました。

 金田さんは過去に首位打者を獲ったこともある人で、バッティングのコツを熟知している人からのアドバイスだっただけに、私は自分の考えに確信が持てました。

 しかし、私の体型や骨格、これまでの感覚などいつからどういうふうに矯正していくか―。これからの大きなテーマになりました。

一軍昇格

2009-11-26 13:32:25 | 私の野球人生
 1年目の7月頃、吉田さんが肩を痛められ、急きょ私が一軍に上がり、ショートに抜擢されました。監督はプレーイングマネジャーの藤村富美男さん。その藤村さんに見込まれてのデビューでした。

 素直に喜ぶべきことでありましたが、私は正直なところ、一軍にはまだ上がりたくはありませんでした。

 なぜなら2月のキャンプから始まってまだ5カ月が過ぎたところ、基本的な体力、技術がまだまだ備わっておらず、自信がなかったからです。

 前にも書いたとおり、私は“田舎者で照れ屋で内気で口下手”その上に3月生まれの早生まれ、何かにつけて晩成型で1つ1つ階段を登るように物事を進めていかないと、一足飛びにはできないタイプでした。考え方にしてもそうである。そのためにも大学に行って4年間のステップを踏みたかったのです。一流になるためには体力、技術の向上だけを計っても無理であり、内面的要素の強さ、経験など、それが晩成であればあるほど必要なのだ。

 それが年齢的にも大きく隔たりのあるプロの一流選手に混じっていきなりやるには余りにも力の差があり過ぎて逆に伸びしろを抑えてしまうのだ。

 同じ新人でも私と同期で日大三高からタイガースに入った左投げ左打ちの外野手、並木輝男選手もその打力を買われて1年目から1軍に起用され、大活躍した1人ですが、彼は生粋の江戸っ子、大先輩方の中にも臆することなく入っていき、江戸っ子弁で対等に会話する。酒も飲める、社交性も豊か。私とは正反対の性格であり、うらやましい限りでありました。

 1年目、私はショートで45試合に出場しました。デビュー戦は思い出せませんが、スタメン出場して15、6試合ヒットが出なかった記憶があります。高校を出たての私とプロ野球ではあまりにも力の差がありすぎたのです。

 特に広島戦、エースの長谷川良平さんのシュートのすごさには驚かされました。小柄な体型でしたが、モーションに一瞬のタメを作り、ややサイドハンドからリストを利かせた投法で内角にえぐるようなシュートを投げてくる。マウンドの表情も「なんだこの若造!俺のシュートが打てるか!バットをへし折ってやろうか!」と明らかにそんな表情で投げ込んでくる。気後れもしましたが、バットをいくら短く持っても詰まらされたものです。しかし、初ヒットはその長谷川さんからでした。内角シュートを体は左に向いて打球は右に飛んだどん詰まりのたまたまのヒットでした。シュート攻めでくるものを予想したから打てたのでしょう。

徳島キャンプ2

2009-11-23 18:52:04 | 私の野球人生
 「鎌田、トスだ!」と藤村さんが言う。次は私がトスバッティングの番。藤村さん、吉田さんの2人が守りです。

 私は2人の大スターを目の前にトスバッティングで向かい合うことになったのです。2人の迫力に圧倒され、ただ必死でした。

 “バットの芯に当てて交互に打ち分ける”自分に言い聞かせながら必死でした。私の打球を2人が前から右から背後からフットワークを使いながら軽やかにトスプレーを演じ合う。2人ともグラブにボールが吸い込まれるように入っていく。ジャグルやファンブルがない。ボールを操っている。

 お客さんはその2人の一挙手一投足に時には笑い、時には歓声を上げ、最後には拍手喝さいでした。これがプロ野球か…。私はそう思ったのでした。

 夕食後、地元徳島の人たちによる「阿波踊り」が大広間でありました。30分ほどその人たちのお披露目があった後、選手も混じって踊ることになりました。

 「鎌田!踊れ!」と何処からか声がかかりました。新人でキャンプに参加したのは私だけでした。「田舎者で照れ屋で内気で新人」とそろえば人前に出て踊るなど勇気はありません。

 しかし、大先輩からの指名を断ることはできません。谷底に突き落とされるような心境でありましたが、冷や汗をかきながら踊った記憶があります。初キャンプの印象は強烈だっただけによく覚えていました。

徳島キャンプ1

2009-11-19 12:46:23 | 私の野球人生
 1年目初のキャンプは確か、徳島の蔵本球場でした。私は1年目から1軍に帯同させてもらいました。期待の星だったからかも知れません。

 2月、キャンプ初日は雪がちらつく寒い日でした。球場に行くバスの中は、物干し竿バットで有名な大スター藤村富美男さんを筆頭に渡辺博之、後藤次男、徳網茂、白坂長栄、梶岡忠義、田宮謙次郎さんなど30代半ばを過ぎた大先輩の方々を目の前で見て、3月生まれで17歳の私にとっては「おじいちゃん軍団」に見えました。

 ウオームアップが終わり、キャッチボールになった時、思いもかけないことが起こりました。日本一の名遊撃手の吉田さんが私の前に来て「キャッチボールやろうか」と、笑顔で話しかけてくれたのです。私はびっくり仰天、帽子を取り「お願いします」と頭を深々と下げました。

 何故、私を選んでくれたのだろう…。緊張感いっぱいでした。吉田さんは「今日は寒いから軽く投げろよ」と気遣ってくれました。しかし、気持ちが高ぶっていたこともあり、ついつい力が入り、軽く投げられなかったことを覚えています。

 次はトスバッティングでした。今度は藤村さんに呼び止められました。3人1組のトスバッティング。1人が打ち2人が守る。はじめは藤村さんがトスバッティングを行った。真っ芯に当てた打球がワンバウンドできっちり返ってくる。そして守っている2人に交互に打ち分けてくる。

 その打球を捕った吉田さんは私にトスプレーしてきました。捕球した位置からトス、そして自分の身体の後ろに手をまわして背後からトス、グラブトスなどフットワークを使いながらだ。私もそれを真似してトスプレーをしたのですが、吉田さんのようにするとジャックルしてしまう。

 吉田さんのトスは速い。捕球すると同時にボールが来る。合わせるのが大変でした。私が捕球するとクイックスローで投げるように身構えて待っているのだからついつい焦ってしまいます。藤村さんのトスバッティングは約10分くらいであったが、それが終わると寒い日だったにもかかわらず私は汗びっしょりになっていました。

伝説の二遊間3

2009-11-16 13:55:59 | 私の野球人生
 私は高校からプロ入りするつもりはありませんでした。大学に行くつもりだったのです。当時は東京六大学野球の早慶戦が人気で、野球の華でもありました。私は慶応に憧れていました。その慶応から特待生としての誘いもあり、100パーセントその気になっていました。

 ところが、いざその時になって母と長男から待ったがかかったのです。我が家は母子家庭、父親は私が生まれて10日後に31歳という若さで肺炎のため亡くなっていました。その時私は0歳。上には5歳、8歳、9歳の兄がいました。父が亡くなって以降、母は女手ひとつで男ばかりの4人兄弟を育て上げたのです。

 母は上の2人を大学まで出したのですが、それが精一杯だったのでしょう。3番目から下になると疲れてきていたのです。母は「みのる、プロに入っておくれ」という。長男は「今がチャンスだ。人生には2度のチャンスがある…。大学に行ってケガでもしたらどうする」と私に大学を諦めるよう説得しました。私にも反論はありましたが、最後は母の労を見るに偲びず、やむなくプロ入りの決心をしました。
ただ、プロ入りにも私なりに条件がありました。「阪神入りではなく、中日なら入ってもよい」と母と長男に伝えました。

 阪神には吉田選手がいるからとてもじゃないが、レギュラーにはなれないと思ったからです。

 中日は当時、牧野茂さん(元巨人コーチ)がショートを守っていましたが、年齢的にもピークを過ぎていました。私はファームで何年か下積みをして基本を積んでおけばそのうちチャンスはあるだろうと思っていました。レギュラーをつかめる可能性のあるチームでなければ将来がないから、当然の考えです。

 しかしながら、いざ中日と契約する時になって大逆転が起きたのです。中日のスカウトが私のことで中日球団と仲違いし、私とともに阪神に連れ込もうとしたのです。私は契約の席までそのことは知らなかったので、中日と契約するつもりで行ったその席でそのスカウトは母親と長男の目の前に大金を積んで切り出したのです。

 昭和32年は契約金の規定があり、大学出身者は250万円まで、高校出身者は150万円まででした。しかし、高校出の私に対して大学出身者と同額の250万円を提示、月給も6万円を用意していました。

 ちなみに昭和32年当時の250万円というと甲子園近辺で70坪くらいの土地付き住宅が買えた時代で、大学出の銀行員初任給が1万2700円。1万円札が出たのが、1年後の昭和33年でした。

 スカウトは「『中日球団は全国大会に出ていない選手に大金は出せない』というのです。そんなことをいうチームは放っといて私と一緒に阪神に入って欲しい。阪神はこの通り、どうしても欲しいと言っていますから」と言って千円札でまとめて250万円を家族の前に差し出しました。その場は一瞬静まり返り、私は唖然とし、考える力もありませんでした。

 そして母が思い切ったような口調で切り出しました。

 「みのる、阪神に入っておくれ」

 私は何も話す気分にはなれませんでした。もう破れかぶれ!!どうにでもなれ!!という心境でした。そして思いもしなかった「阪神入り」が決まったのです。

伝説の二遊間2

2009-11-13 08:56:59 | 私の野球人生
 私が阪神に入団した昭和32年には吉田さんは、日本一の名遊撃手で牛若丸と称されておりました。大リーグのチームが来た時もアメリカに連れて帰りたい選手は?とのアナウンサーの質問に大リーグの監督は必ず吉田さんの名前をトップ挙げておりました。守備範囲が広く、俊敏で肩が強く、ジャンピングスロー、クイックスローなどすべてに秀で、躍動感あふれるプレーを演じられる名遊撃手でありました。

 特に捕るが速いか投げるが速いかのクイックスローの素早さにファンは魅了され、そのプレー見たさに球場に足を運び、拍手喝采を送った人たちが大勢おりました。

 吉田さんのプレーを初めて見たのは、プロ入りした時ではなく、高校3年生の時に甲子園に阪神の試合を見に行った時です。三塁側のスタンドから見ましたが、甲子園の黒土の上を打者が打った真っ白いボールがショートの吉田さんに飛ぶと、吸い込まれるようにグラブに入る。それを素早く右手に持ち替え、糸を引くような送球が一塁に送られる。捕球からボールの握り、球離れまで三塁側からは全てボールが見える。その一連の動きは絵に描いたようにきれいでありました。それを見て感動しました。「これがプロか…」と。

 私は高校時代、ショートだったのです。阪神には吉田さんが健在でしたから一番入りたくなかったチームです。それが何故阪神に入団することになったのか…。そのいきさつを次回で紹介します。

伝説の二遊間1

2009-11-10 21:05:44 | 私の野球人生
 先日、あるTV局の企画で吉田義男さん(元阪神遊撃手、元監督)と“二遊間”というタイトルで対談があった。

 これまで個別に二遊間、もしくは内野手について話をすることはあったが、2人そろっての対談ははじめてだった。

 50年近くも前のことを思い出しながらアナウンサーの質問に答えていくのだが、昨日のように鮮明に覚えていることとまったく思い出せないこと、どうだったかなと半信半疑のことなどが交錯していた。

 吉田さんは年齢的には私より6歳年上であり、プロ年数的には5年先輩にあたる。その吉田さんとコンビだったといいながら、その差は大きく、熟年同士というわけではなかった。昭和32年、私がタイガースに入団した時、吉田さんは既に日本一の名遊撃手だった。高校出の新人の私とでは、技術、力、何かにつけて差があり過ぎた。私がある程度力をつけた時には、既に吉田さんは年齢的にピークを過ぎていたのである。

 私は内野手として16年、吉田さんは17年とプロ年数は長かったが、私が近鉄に3年間移籍したこともあり2人の“二遊間”コンビとしては8年くらいだったと思う。

 対談のテーマだった吉田さんとの“二遊間”についてはもちろん、想い出に残るプレー(シーン)、あの時この時を取り上げながら野球教室と平行しながら私の野球人生を振り返ってみようと思う。

 

一塁手の守り3

2009-11-06 08:59:28 | 少年野球
牽制時のタッチプレー

 走者一塁、牽制時のタッチプレーにもコツがある。走者一塁のときの右利きの一塁手の構え方は図1のように足を位置する。図2のように塁をまたぐと走者の方向にボールが逸れたときに捕球しにくいからだ。

図1


図2


 スタンスをやや広めにとり両膝を曲げ、低い姿勢で構える。グラブを持つ左ひじも縮めて構える。図1はベースの前に足を置くから走者との位置がやや離れる。その分、投手からの牽制を捕球するときはできるだけひじを縮めてボールを引きつけ、走者の近い所で捕球することが大事だ。

 腕を伸ばして捕球すると走者と離れることとなり、走者へのタッチが遅くなる。捕球はボールが弾かないようにネットのスソ部分で深く捕り、ミットを内側にひねりながら片手でタッチをする。ミットの振りと同時に左足ひざも内側(ベース方向)に曲げながらタッチをする。グラブのひねりと左足ひざの内側への動きを同時に素早くさせることで鋭いタッチができる。

一塁手の守り2

2009-11-01 10:27:43 | 少年野球
3-6-3のダブルプレー

 無死または一死一塁で一塁ゴロの3-6-3のダブルプレーはなかなか成立しない。それは一塁手の2つの動きが難しいからだ。

 右利きの一塁手が一塁ゴロを捕球後、二塁に送球するとき、ライン上を走る走者に当たらないようにラインの内側にまずワンステップして素早く移動することが大事。そして二塁の内側に送球する。

 ゴロ捕球が一塁からあまり遠く離れていない位置なら自分で一塁に戻るのだが、その戻り方は、まず一塁ベースを先に確認することが大事だ。一塁手は投げた二塁の方を見ながら一塁ベースに戻る人が多く見られるが、それだと一塁を踏みそこなうことが多い。二塁に送球した後は、まず一塁ベースを確認して右足でベースを踏んでから二塁方向を見る余裕が欲しい。それでも十分間に合うからだ。KBAの一塁を守る子供たちは、それで間に合うことをやっと分かってきたようだ。