鎌田実の野球教室

元トラ戦士が分かりやすく指導!

伝説の二遊間3

2009-11-16 13:55:59 | 私の野球人生
 私は高校からプロ入りするつもりはありませんでした。大学に行くつもりだったのです。当時は東京六大学野球の早慶戦が人気で、野球の華でもありました。私は慶応に憧れていました。その慶応から特待生としての誘いもあり、100パーセントその気になっていました。

 ところが、いざその時になって母と長男から待ったがかかったのです。我が家は母子家庭、父親は私が生まれて10日後に31歳という若さで肺炎のため亡くなっていました。その時私は0歳。上には5歳、8歳、9歳の兄がいました。父が亡くなって以降、母は女手ひとつで男ばかりの4人兄弟を育て上げたのです。

 母は上の2人を大学まで出したのですが、それが精一杯だったのでしょう。3番目から下になると疲れてきていたのです。母は「みのる、プロに入っておくれ」という。長男は「今がチャンスだ。人生には2度のチャンスがある…。大学に行ってケガでもしたらどうする」と私に大学を諦めるよう説得しました。私にも反論はありましたが、最後は母の労を見るに偲びず、やむなくプロ入りの決心をしました。
ただ、プロ入りにも私なりに条件がありました。「阪神入りではなく、中日なら入ってもよい」と母と長男に伝えました。

 阪神には吉田選手がいるからとてもじゃないが、レギュラーにはなれないと思ったからです。

 中日は当時、牧野茂さん(元巨人コーチ)がショートを守っていましたが、年齢的にもピークを過ぎていました。私はファームで何年か下積みをして基本を積んでおけばそのうちチャンスはあるだろうと思っていました。レギュラーをつかめる可能性のあるチームでなければ将来がないから、当然の考えです。

 しかしながら、いざ中日と契約する時になって大逆転が起きたのです。中日のスカウトが私のことで中日球団と仲違いし、私とともに阪神に連れ込もうとしたのです。私は契約の席までそのことは知らなかったので、中日と契約するつもりで行ったその席でそのスカウトは母親と長男の目の前に大金を積んで切り出したのです。

 昭和32年は契約金の規定があり、大学出身者は250万円まで、高校出身者は150万円まででした。しかし、高校出の私に対して大学出身者と同額の250万円を提示、月給も6万円を用意していました。

 ちなみに昭和32年当時の250万円というと甲子園近辺で70坪くらいの土地付き住宅が買えた時代で、大学出の銀行員初任給が1万2700円。1万円札が出たのが、1年後の昭和33年でした。

 スカウトは「『中日球団は全国大会に出ていない選手に大金は出せない』というのです。そんなことをいうチームは放っといて私と一緒に阪神に入って欲しい。阪神はこの通り、どうしても欲しいと言っていますから」と言って千円札でまとめて250万円を家族の前に差し出しました。その場は一瞬静まり返り、私は唖然とし、考える力もありませんでした。

 そして母が思い切ったような口調で切り出しました。

 「みのる、阪神に入っておくれ」

 私は何も話す気分にはなれませんでした。もう破れかぶれ!!どうにでもなれ!!という心境でした。そして思いもしなかった「阪神入り」が決まったのです。