鎌田実の野球教室

元トラ戦士が分かりやすく指導!

神戸大海事科学部硬式野球部へ

2015-01-24 11:41:45 | 私の野球人生

私が今教えている神戸大学海事科学部硬式野球部は部員数が毎年少なく、現在10人で春の大会(4月)は新人が間に合わずこの人数でやらなければ仕方がない。

最近は何とか1大会1勝はできるようになって(東大よりはよい)楽しみも増えてきたと思っていた矢先、また心配事が増えてきた。秋の大会は9月だが、最上級生の4年生7人が就職活動に入るため、4月には新入部生が少なくとも6人入ってこないと9人に届かなくなる。

野球は小学校以来とか、中学校以来という皆さんでも十分に野球が楽しめるチームです。その人たちも3年間やりますと目を見張るような成長を見せている。

神戸大学海事科学部に入学されるみなさんは、ぜひ挑戦してみてください。


名遊撃手・吉田義男(5)

2010-02-25 18:09:23 | 私の野球人生
 吉田さんとの二遊間コンビとしてこんなプレーも一例紹介しよう。

 一死走者一塁で打者がショートに二塁寄りゴロを打ってきた。その打球はヒットエンドランがかかっており、一塁走者はスタートしていた。そのために二塁フォースプレーが間に合うかどうか分からなかったが、万が一にも間に合わずとも一塁がアウトにできるから私は内心、二塁に送球して欲しいと思いながらベースに入ろうとしていた。吉田さんも私と同じ考えだったのだろう。二塁近くのゴロを寄り早くトスするために滅多にしない「グラブハンドトス」をしてきた。それしか間に合わないと思ったからだ。

 私はそれを受けてより早く送球できるジャンピングスローで一塁に投げ、ダブルプレーを完成させた。「阿吽の呼吸」とはこういうプレーのことをいうのだろう。

名遊撃手・吉田義男(4)

2010-02-23 18:07:30 | 私の野球人生
 こんなプレーもあった。無死走者二塁のとき、サードゴロまたはショートゴロを二塁送球して二塁走者をタッチアウトした後、二塁手は素早く一塁に送球をしてダブルプレーをとる。このプレーをやろうとするときには、2つの条件がある。

 1つは「プルヒッターの時」であり、2つはあらかじめ「このプレーをやるぞ」という目配せが必要だ。なぜなら二塁手は走者にタッチをするために早くベースに入る必要があるからだ。打者が右にも左にも打てる自在性のある打者のときは二塁に早く入れないから難しい。このプレーは万が一にも二塁が間に合わないときには一塁だけでもアウトにできるものだ。二塁走者は打球がサード、ショート方向に飛ぶとどんな走者でも一端サード方向に体重が移るもの。3、4メートル塁から離れて体重が右にかかると戻れない。戻ったとしても間に合わない。

 このプレーはサードゴロのときの方がやりやすい。なぜならサードから二塁送球の方が、走者と交錯しないからだ。ショートゴロのときは、二塁走者と交錯することが多く、やりづらいもの。

 しかし、吉田さんは打球が飛んで来たときに走者の離塁と送球が交錯しない打球のときを見計らって二塁に送球をしてくる。瞬時の判断プレーだが、二塁手は二塁に投げて来そうなときと投げてこないときを見極めてそのプレーに対応しなければならない。プレーのチャンスは少ないが、一度そのプレーでアウトになった走者は次に走者となったときには、離塁が怖いはずだ。


名遊撃手・吉田義男(3)

2010-02-21 18:07:08 | 私の野球人生
 3つ目は、1をやりながら2を頭においてやる判断力、直感力の素晴らしさでしょう。内野手をやる人は大体の人はそれができるものだが、吉田さんの場合はそのやり方が素早いのだ。

 無死または一死走者二塁のとき、ショート、レフト、センターの中間点の小フライに対しては、二塁走者は落球に際してハーフウエイにいるも。吉田さんはそれを見透かして二塁に背中を向けたままで捕球。そして次にジャンピングスローだ。ジャンプ。上空で体勢を反転して二塁に送球してアウトにする。

 走者はショートが背中を向けている為に捕球が見えないことと予想より早過ぎる二塁への送球に戻り切れないのだ。このプレーを見た名将・三原監督は試合後「吉田は後ろにも目がついているのか」とぼやいた。

名遊撃手・吉田義男(2)

2010-02-17 18:02:30 | 私の野球人生
 2つ目はひざの柔軟な使い方である。

 内野手の資質のポイントとして足首、ひざの強さと柔軟な使い方がある。私は入団時、その2つに強さはあったのだが、柔軟な使い方ができず荒削りのプレーが随所に出ていたものだ。

 ショートゴロ三遊間寄りゴロを一塁側の観客席に悪送球とかショートゴロバックホーム時に慌ててバックネットにダイレクトでぶつけたり…。急いだときのスローイングや力を入れたときのスローイング時にひざが突っ立つから悪送球につながる。

 吉田さんのスローイングは正確だ。ひざが突っ立たない。ひざを曲げたままの低い姿勢で柔らかく使い、スムーズに投げられる。強さと柔軟な使い方ができるのだ。それを端的に表現できるプレーが、前述のクイックスローであり、今一つは三遊間緩めのゴロに対してのひざの使い方である。

 三遊間緩めのゴロに対しては、一端サード方向に進み、次に前にダッシュ気味に一塁方向に左傾斜のひざの柔軟な使い方が必要だが、この使い方ができる人は少ない。しかし、吉田さんはそれを苦もなくやれる人であった。

 私もその両ひざの動き、使い方を見よう見真似で私の技術の一つとして取り入れさせていただいた。これができると左打者で足の速い打者に対しても内野安打を防げるのだ。この両ひざの使い方ができるようになってから私の悪送球は陰を潜めた。

名遊撃手・吉田義男(1)

2010-02-13 18:01:02 | 私の野球人生
 過去、現在を問わず日本球界ナンバーワン遊撃手は、やはり吉田義男さんでしょう。ショートとしての資質を全て兼ね備えた人でした。バランスのとれた身体能力と内面的要素、スローイング力、足腰の強さ、バネ、柔軟性、俊敏性、直感力、判断力、反射神経、観察力、積極性、応用力、洞察力などこれだけ兼ね備えた人はそうないないものだ。

 吉田さんの技術の中でも特に優れたプレーをここで紹介しよう。

 1つ目は、やはり野球ファンをうならせた捕るが速いか投げるか速いかのクイックスローだろう。通常の送球は捕球後にワンステップ送球かノーステップ送球だが、吉田さんのクイックスローはバウンドをうまく合わせ、右足に体重を乗せたまま捕球をし、捕球と同時に投げるのだ。そのためには右手に正確に速く持ち替える技術が必要だ。

 吉田さんのグラブは私の平たいグラブとは違い、やや深めのグラブであったが、それでもピタッと吸い捕るように捕球、捕球と同時に右手に持ち替えていた。ジャックルがないのだ。ジャックルするとこのプレーはできない。

 それとバウンドを合わせるフットワークの良さだ。クイックスローができる高さは、下は腰の高さから上は顔の高さくらいの位置で捕球ができることだ。それより低過ぎても高過ぎてもできない。なぜなら、右足一本に全体重を乗せたままで捕り、その姿勢のまま捕ると同時に左足を前に踏み出して投げるのだから姿勢を崩して投げることはできない。その為には、まずダッシュをしながらフットワーク良くバウンドをその高さに合わせることだ。

 次に送球だが、10メートルくらいの距離ならともかくショートの位置から一塁までの長い距離のスローイングを左足のステップをするとはいいながら右足一本で捕球、送球をほぼ同時に行うものだけに簡単ではない。足腰の強さとスローイング力、ジャックルをしない技術がなければできるものではない。

松葉式殺人トレーニング

2010-02-03 08:32:07 | 私の野球人生
 昭和30年代のキャンプはまだ寒い地でハードなトレーニングメニューが多く、体力、気力勝負であった。私が入団した昭和32年春のキャンプは2月1日から。これは今と同じだが、その前1月15日からは自主トレーニングと言われながらなぜか全員参加で実技に入る前の体力強化が雪のちらつく甲子園球場で行われた。

 そのときのトレーニングコーチは、当時スポーツトレーニングの大御所であった松葉徳三氏だ。そのトレーニングがあまりにもハードだったので「松葉式殺人トレーニング」として有名になった。

 当時のスポーツトレーニングは、現在のような多種多様なウエートトレーニング器具などはなく、鉄アレー、バーベル、ハンドグリップなど簡単な限られた器具のみであり、主として下半身強化のトレーニングを行った。

 松葉式トレーニングは、器具を一切持たずその場で立ち、座り、寝転んで約1時間半、休みなしの柔軟体操である。つま先、足首、ひざ、太もも、腰、背、腹、手首、腕、握力、ひじ、肩と身体の全ての部分の強化と柔軟性を持たせるためのトレーニング。中でもメーンイベントはスクワットの一種である「足の踏み替え100回」だ。それのみの運動で100回ならよいのだが、その前にひざの運動系トレーニングを何回もやった後の足の踏み替えになるのだから前の疲れが残っているからしんどい。その運動が終わるとひざが震えていた。

 その次にハードだったのが腹筋だ。一種類1回だげではなく、何種類も何回も重ねる。2人1組の腹筋に1人腹筋、新人であり元来まじめな私は最前列の講師の前で全ての運動を手抜きなしでやるから大変だった。

 それが終わると次は甲子園名物となった「アルプス登り」である。甲子園球場のアルプススタンドは大体60段くらい。はじめは下から1段ずつ駆け足で登る。次は片足で登る。その次は1段飛ばして上がる。ここまではまだよいのだが、次は人を背負って登る競争だ。負けると罰則では敗者同士の競争となる。これはきつかった。

 100キロもある重量級の選手もおれば60キロ台の軽量級の選手まで。大体は似通った同士でやるのだが、時にはあぶれた重量級を背負って登るハメにもなる。100キロもあれば競争どころではなく、アルプススタンドの途中くらいまでが精一杯。上記のメニューを何回か繰り返してやる。もうヘトヘトである。

 このメニューが1月中の約15日間続くのだが、この期間は合宿所に帰っても外出する気持ちにもなれずもっぱら身体を休めることに努めたものだ。
「松葉式殺人トレーニング」は入団から3年間続いた。

 今、キャンプでそれと同じトレーニングを行うと「クレイジー」といわれるだろうが、当時はそれが通常のキャンプであった。それどころか、そういうトレーニングのお陰で守りでファンを魅了するプレーヤーが目白押しであった。

 もちろん、キャンプのトレーニングだけではなく生まれ持った資質と育った環境が名プレーヤーを育てていったわけだが、今はなぜかそういうプレーヤーが出てこなくなった。

 なぜそういうプレーヤーが出てこなくなったのか…。今後のブログでそれを掘り下げてみたい。


キャンプ

2010-02-01 08:00:23 | 私の野球人生
 プロ野球のキャンプも昔に比べると温暖の地で合理的、科学的に行われるようになった。選手にとっては誠にありがたい話ではあるのだが、果たして現状のやり方でよいのかどうか…。

 守備面で特筆すべき名プレーヤーが出てこなくなったからだ。もちろん、1カ月のキャンプで名プレーヤーを育てられるようなものではないが、意識づけはできるはずだ。

 阪神のキャンプでもここ数年、守備練習(特守)は人目の少ないサブグラウンドで行われていたようだが、これでは選手の励みにもならない。守備はメーングラウンドを使って、ファンの目や歓声を受けて意欲が出てくるもの。

それによって守りの強化を意識づけられるものだ。今年の真弓阪神は昨年のキャンプの反省からメーングラウンドを使って守備練習をやると宣言している。私は大賛成である。選手の意識が違ってくるだろう。

ただ、守備の名人作りをする前にしっかり下半身強化のトレーニングをしておかないと故障したりハードなノックについていけないことにもなる。名プレーヤーは強いスローイング力と強靭な下半身の持ち主から生まれ育てられるものだからだ。

セカンドコンバート

2010-01-06 23:24:53 | 私の野球人生
 1年目、私はショートとして45試合に出場しました。そのときのプレーが認められ、2年目からはセカンドにまわることになりました。肩を痛めて休んでいた吉田さんも完治してショートに復帰。それ以後、吉田さんとの二遊間コンビが形成されたのです。二塁にまわった私は、一塁があまりにも近いため自慢の強肩も見せられず、ダッシュ力も動きそのものに何か持て余し気味でした。もっと動きたいのに動く必要がないという感じだ。躍動感を出せないポジションだから地味で目立たなくなっていくのが二塁手だ。

 そういえば、過去において、“華麗な”とか“俊敏な”とか“躍動感あふれる”などと形容された二塁手の記憶はない。

 1年目、遊撃手として専門家からも評価され、認められたが、2年目から専門ポジションでもあるショートができず、目立ちようのないセカンドというポジションにコンバートされたのも不運だった。それもこれも名手・吉田さんがショートにいる阪神だったからだ。これが中日なら「ショート・鎌田」として躍進し、阪神・吉田、巨人・広岡と並び称されるプレーヤーになっていたことは間違いない。

 人生、一流になる人は多少の道順が狂っても自らの力でもぎ取れるものだが、並みの人間では運、不運は大きく左右する。

 2年目にベテラン白坂さんが引退し、新たに二塁手候補として3、4人のライバルがいました。足の速いTさん、長打力のあるAさん、Kさんなど入れ替わり立ち替わりでした。ショートの吉田さんはタイプの違った3、4人もの二塁手を相手にしなければならなかったわけで、これは大変だったと思います。

 逆に二塁手の人たちも名手・吉田さんに合わせなければならないわけで、これまた大変だったのです。

 通常の遊撃手とは違い、一呼吸も二呼吸も速いプレーに合わせなければならないからです。私はそのために一にも二にも守備重点に練習をしました。吉田さんの相手ができるようにです。

 二塁をはじめたときには一塁が近いことからショートよりも易しいと思っていましたが、このプレー、あのプレーをこなすうちに色々と難しいプレーに突き当たるのが二塁手です。

 端的にいうと、遊撃手は主として左方向への動きなのでリズミカルに動けるのですが、二塁手は走者が一塁、一、二塁、一、三塁、満塁などになると左への動き、右への送球。右への動き、左への送球の両方になるからリズミカルにというわけにはいかない。それはダブルプレーがあるからだ。

 ワンプレーの動きに型を作らなければ正確さが出せない。その場限りの動きではミスが出やすい。そのためにこのプレーの練習、あのプレーの練習が必要なのだ。しかも1つ1つのプレーを素早くしないと吉田さんにはついていけない。

 二人で特別に“これ”といった練習はしなかったが、二、遊間はダブルプレーをいかに数多くとれるかが最大のテーマ。その観点から一塁に速く投げるためにはどうすればよいか…。自分はどの位置にボールを投げてもらうべきか、お互いチェックし合ったことはあるが、これは特別なことではありません。ただ「ここに投げて下さい」と指摘すると寸分違わずその位置に投げてくるのが吉田さんでした。

 このことが代表するようにお互いが個々の技術と1つ1つのプレーをより高いレベルに設定して鍛錬し、相手の能力を熟知し、相手の意図するプレーに合わせられる動きができることが名コンビと成りえる条件でありましょう。

 2年目は大変でした。二塁を守るのは初めてだし、ショート吉田さんの速い動きに合わせるのにも苦労しました。

天覧試合(5)

2010-01-01 21:00:45 | 私の野球人生
 あの一球が勝負だった。村山さんの無念さが手に取るように分かった。私は二塁から「負けるな!頑張れ!」と大きな声をかけた。

 長嶋さんの集中力も頂点に達していた。色白の顔が首筋にかけて赤みを帯び、大きく深呼吸をして次の投球を待つ。こんなしぐさを見せる長嶋さんは危ない。両者とも冷静さを保っているように見えるが、内心は殺気だっていた。

 守っている我々にもそれが伝わってくる。「サア来い!長嶋!」私は守備位置から大きな声をかけた。気合負けしないためだ。

 そしてカウントは2-2、運命の一球だ。私は次の球は、外にフォークかカーブがよいと思ったが、あれがボールだからあれ以上のボールを投げるのは至難の業である。捕手の山本さんは外角のサインを出したが、村山さんはそのサインに首を振り、内角直球に出し直した。

 「イカン。危ない!ボールになれ!!」と、私は直感的に思ったが、次の瞬間、長嶋さんは左足を開き、その球を待っていたかのように内角高めをたたいた。レフトのポール上を大きな弧を描いてスタンドに入る大きなホームランであった。長嶋さんは一瞬立ち止まって、自分の打球を確認してから一塁に走り出した。

 それを見て村山さんは一瞬「ファウルでは…」と頭をよぎったのだと思う。村山さんは天覧試合の話が出るたびに「あれはファウルだ」と言い続けたが、照れ屋の村山さんはその話が出るとその場をつくろう言葉がなく、「あれはファウルだ」と冗談とも本気ともとれる言い方で言い続けたのであろう。

 「野球は筋書きのないドラマだ」とよく言われるが、野球の神様が「天覧試合」のために筋書きを作っていたかのような名勝負だった。
長嶋さんのホームランはテレビ放送打ち切り3分前であったと聞いた。幾多の野球選手の願望と夢を果たした長嶋さん、「天覧試合」は敵、味方を越えて我々にとって終生の思い出となった。

 その後、プロ野球は隆盛の道をたどり、日本は高度成長期に向かって走り出した。


天覧試合(4)

2010-01-01 18:00:33 | 私の野球人生
 4-4で迎えた八回表、阪神はチャンスを逃した。一死二、三塁の好機に二塁走者が巨人の投手藤田―遊撃手広岡(達朗)さんの息の合った牽制プレーに刺され、勝ち越し点が取れなかったことが、何といっても痛かった。

 そのプレーが起こる前に阪神は、スクイズもあることから確認のタイムをとっていたのだ。牽制プレーは阪神のタイムが解けた直後に敢行された。巨人のタイミングがよかったのだ。

 八回裏、阪神の投手は村山さんに代わっていた。巨人の攻撃は1番からだったが、村山さんは完ぺきな投球で三者凡退に打ち取った。
そして九回裏、巨人の攻撃を迎えた。

 陛下のお帰りは、はじめ9時15分だったらしいが、九回終了まで延びた。テレビ放送は9時15分までだったらしい。あと少しだった。

 九回、巨人の攻撃は長嶋さんからだった。

 長嶋さんは前の試合まで8打数無安打と当たりが止まっていたようだが、ムード派の長嶋さんは、そんなことは論外。阪神戦になると打ちだすのだ。この試合でも1打席目にレフト前ヒット、2打席目は五回にレフトへ同点ホームランを放っていた。打ち出すと手がつけられないのだ。その当たっている長嶋さんを先頭打者として迎えること自体が阪神にとってすでにピンチであった。

 後続打者も当たっているだけに出塁させる訳にはいかない。村山さんの投球は、初球が外にはずれてボール、2球目は外角カーブでストライク、3球目は内角速球、これをファウル。このファウルはよくバットが振れていた。内角は危ない!と、私は思った。セカンドのポジションから見ると右打者の動きはよく分かるのだ。長嶋さんは大体、内角球を待ち、外の変化球に対応するタイプ。その外角への対応が人並み外れて速く、どのコースにもついていけるから弱点がない。特に勝負どころで力を発揮する。

 村山さんは長嶋さんに5球投げたが、問題の1球は打たれた球よりも前の1球にあったと思う。カウント2-1から村山さんは決め球にフォークを選んだ。外角低めいっぱい。「ヨーシ!三振だ!」と私は思った。

 長嶋さんは例のごとく両膝を内側に絞り、ハーフスイングでバットを止め「ボール!」と大きな声で叫んで、アンパイアを呼応させるかのように見送った。アンパイアはそれにつられるように「ボール」と判定した。

 私は「入っているじゃないか」と二塁から思わず叫んだ。それまでも巨人戦ではよくあったのだ。「長嶋ボール」というヤツだ。

天覧試合(3)

2010-01-01 15:00:04 | 私の野球人生
 試合前のシートノックは両軍ともに選手の表情、動きがどことなく硬く、いつものように流れるような動き、リズムがなかった。

 阪神の先発投手は、エースの小山正明さん。球種は速球とカーブ、パームボールで針の穴を通すコントロール抜群の投手といわれた。巨人を相手にしても大体は2、3点以内に抑えていた。

 巨人の先発投手は、エース藤田元司さんだ。2年前には新人王を獲得。速球とタテに割れる大きなドロップが武器。この試合まで14勝2敗と絶好調だった。ただ、当時の阪神打線は藤田投手のような正統派投手は得意としていた。

 19時、プレーボール。一、二回は両軍ともに動きが硬い。先手をとったのは阪神だった。三回、四球と投手・小山さんのヒットで1点を先制。その後は追いつ追われつのシーソーゲームとなった。

 五回、巨人は長嶋、坂崎(一彦)の連続ホームランで2-1と逆転。六回、阪神は吉田(義男)、三宅(秀史)がヒット、藤本(勝巳)の2ランホーマーで4-2と再度リードした。

 小山投手がいつものできならこのまま試合を押し切れるのだが、この日はさすがの小山さんも重圧があったのか七回に一死から坂崎にヒットを許し、続く6番・王選手に2ランホームランを浴び、4-4の同点にされた。

 王選手はこの年、早実から巨人に投手として入団したが、打力を買われて打者に転向、天覧試合のメンバーの中では20歳の私よりも若い19歳だった。まだ一本足打法でもなかった。開幕から期待され起用されていたが、26打席ノーヒット、この試合まで67打数11安打3本塁打、打率・164と不振だった。

 小山さんは、2-0と追い込み低めのボール球で誘いをかけたがその球に手を出さず、カウント2-2になってから次の内角高め速球で空振りさせるつもりの球が甘く入り、同点2ランを喫した。

 高校出の新人がこの大舞台の大事な場面、阪神のエースから奪った千金の一打。後述する長嶋さんの強烈な一発の陰に隠れてはいるが、将来“世界の王”を約束する一発であり、強い星の下に生まれてきた底力を感じた。

 思えば王選手は投手の甘い球には絶対的に強いものがあったし、長嶋さんは投手の決め球をも強打する。2人の象徴するものが、この試合で出たのである。

天覧試合(2)

2010-01-01 12:00:46 | 私の野球人生
 天覧試合を語るには、「長嶋―村山」の対決は切り離せない。両者とも新人の時からその実力、スター性はずば抜けていた。

 村山さんは大きな投球フォームから豪快に投げ込む剛速球と落差のあるフォークとカーブ。プロの選手もまともにスイングさせてもらえないほどの力があった。

 当時、彼の投球フォームを称して「ザトペック投法」と呼ばれた。“一球入魂”常に全力投球であり、真っ向勝負だった。危険球など投げたのを見たことがなかった。特に巨人戦、ONに立ち向かっていく闘争心は、殺気立っていた。ナインはその猛々しさに勇気付けられたものだ。

 対する巨人の長嶋さんは、守りでは全身「これバネ」のごとく躍動感にあふれるダイナミックな動きでファンを魅了。三塁手である彼の前にセーフティーバントなどする気になれなかった。

 打撃は大きく動きのあるバックスイング。そしてシャープなスイングから弾き出される打球の速さは強烈で前進守備のときなどは怖さを感じた。また、チャンスでの勝負強さは群を抜き、満塁でも歩かせた方が得策だと思ったことが何度となくあった。

 巨人の監督は水原茂さん。スマートでサードコーチスボックスからサインを出すしぐさは絵になった。日本茶が大好きだが、この日の試合に備えてお茶断ちをしていたと聞いた。水原さんは兵役に3年、シベリアで抑留生活4年の戦争経験者だけに天皇陛下に対する思いは極めて強い。

 対する阪神の監督はカイザー田中氏。昭和33年に監督に就任、初期タイガース時代に若林投手とバッテリーを組んだインサイドベースボールを持ち味とした名捕手で温厚なジェントルマンだった。

 母が日本人の日系二世、天皇を神と崇める母の姿を見て育った監督は就任早々、ハワイから二塁手用グラブを買って来て、私にプレゼントしてくれた。日本にはまだよいグラブがない時代、私に期待してくれていたのだ。私はそのグラブを大切にし、破れるとタコ糸で繕いながら8年間使用した。

 試合前のミーティングはいつもより時間をかけた。

 「今日は総力戦になると思うから全員、心の準備をしておくように…。天皇陛下様にナイスゲームをお見せしよう」という内容だ。

 スコアボードに巨人、阪神両軍の先発メンバーが発表されていた。そうそうたるメンバーだ。その中に「2番、セカンド鎌田」が入っていた。

 私は自分の名前を見て思った。

 陛下もその名前を見られるであろうし、陛下の解説役を務める方も私の紹介をしているであろう。日本中の野球ファンがテレビでその名前を見ているであろう。居並ぶ名選手の中に私が2番打者として入るのはまだ早い。そんな実力も実績もない…と、自分で思った。

 監督が私の将来を期待して経験を積ませてやろうと起用してくれたのだろう。何としてもその期待に応えなければと胸が熱くなった。

天覧試合(1)

2010-01-01 09:07:10 | 私の野球人生
 あれから50年。あれだけ緊張した試合は、後にも先にもなかった。
 昭和34年(1959年)6月25日、昭和天皇、皇后が初めてプロ野球を観戦された「天覧試合」だ。

 天皇陛下を神と崇め、幾多の人たちが「天皇陛下万歳!お国のために…」で戦中に戦い、そして育った私たちの世代にとっては、恐れ多いイベントであった。

 終戦から14年、世の中は復興の足音高く近代日本へと変革の様相を呈しはじめていた。天覧試合の2カ月前の4月10日には、皇太子、美智子様がご成婚。お2人が馬車でパレードされる様子がテレビに映し出されると、国民は興奮のるつぼ。1500万人を越える人々がテレビの前にクギ付けになった。

 白黒テレビはこれを機に普及し、前年の昭和33年には東京タワーが完成、1万円札が発行され、昭和34年にはペギー葉山の「南国土佐をあとにして」が一世を風靡した。

 プロ野球は昭和33年、戦前から職業野球をリードしてきた巨人の川上哲治さん、阪神の藤村富美男さんの両雄が現役を引退した。

 思えば私が子供の頃、巨人が私の故郷、淡路島・洲本にオープン戦に来た。私は巨人と川上さん見たさにその試合を見に行った。巨人のベンチ近くまで行くと選手が焚き火をしながら談笑していた。その輪の中に川上さんがいた。太い声で何やら話をしていたが、私は胸がドキドキしたものだ。

 その試合で川上さんは、ライトの石垣を越える場外ホーマーを放った。今でもそのホームランは覚えている。赤バットの川上、青バットの大下(弘)、物干しざおの藤村さん。子供の頃は、パッチン(メンコ)の写真でしかお目にかかれなかった大選手と例え2年間でも同じグラウンドで同じ土を踏みながらプレーができる幸せをかみしめていた。

 そして両雄が引退すると、その2人に代わるようにして同年、巨人に長嶋茂雄さんが入団、翌年の昭和34年、天覧試合の年には阪神に村山実さん、巨人に王貞治選手が入団した。3人は近代プロ野球の重鎮となり、その後の日本プロ野球を支えていった。その契機となったのが、天覧試合であった。

KBA第二期生募集中


 昨年、私が結成したKBA(カマタベースボールアカデミー)では、来年度の新入部員(現在小学6年生)を募集しています。  

 詳細については、募集ポスター募集要項をご覧ください。

初めての巨人戦(7)

2009-12-30 09:13:56 | 私の野球人生
 藤田投手の表情はこれまで以上にこわばり、目は私を凝視してきました。私は三振が怖かったから初球から振っていこうと決めていました。初球、天井から落ちてくるような落差のある大きなドロップ、それを上から叩くように振って空振り。私は上から叩くバッティングでしたが、藤田投手のドロップは大きくブレーキがある。一旦、上に上がって落ちてくる感じです。

 ボールの軌道を見極めて待ちの体勢で捕らえればいいのだが、ボールが上がったところで叩こうと追っかけるから当たらない。まだまだ見極めと技術が未熟だったのだ。

 そして2球目、同じようなドロップが低めに来た。これも空振り。これまでの3打席で投げてきたドロップより落差があったし鋭かった。それだけ気合が入っていたのでしょう。私の振りを見れば次もカーブが来るだろうと予感はしました。「何としても当てないと」と私は必死にボールに食らいついていきました。当てに行こうとすること自体が間違っているのですが、そのときは必死だった。

 3球目も前の球と同じような低め一杯のドロップ。それをかろうじてファウル。観客席から何ともいえないどよめきが耳に入ってきた。あと1球空振りすればゲームセットだからです。私はそのドロップがもう少し高めに来てくれと願っていました。そして4球目もまたドロップだった。それもバットが届きにくい低め一杯。私は前のめりになってバットば空を切った。ゲームセット。観客席から大きな歓声とどよめきが入り混じって耳に入ってきた。

 サードコーチスボックスからベンチに戻ってきた藤村さんは「ヨシ、ヨシ、次だ!次だ!」と誰にとはなしに言われました。私は申し訳ない気持ちで一杯でした。

 後楽園球場の巨人阪神戦、新人の初舞台は攻守に明暗を分けましたが、私にとってそれが後々に大きな影響を及ぼすのです。

KBA第二期生募集中


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