北京農業大学教授
故羽田辰男弁護士から花房東洋先生に関する話はよく伺っていましたが、お目に掛かれたのは二〇〇六年の秋です。娘の阜美が大学に入学し、久しぶりに一緒に岐阜に帰った時に羽田先生のご主催で私のための賛東会が開かれ、その会場に先生がいらっしゃったのです。私の席から少し離れた席に座っている先生の姿は几帳面で、お医者さんのイメージでした。
その日は挨拶のみであまり話ができなかったのですが、その後北京で二回お目にかかりまして、いろいろお話を伺いました。上海で事業を起こし、有名な胡錦華さんが会社の顧問を担当していること、数回結婚され、子供さんが一二人いらっしゃるなどびっくりしました。
パワフルな方です。
一回目北京でお目にかかれた時に王府井の五つ星ホテルのレストランで食事をし、翌日北京の西にある有名なお寺を案内することになりました。大学から西に行くのが近かったので、知り合いの運転手が花房先生の名前の書かれた紙を持ってホテルに迎えに行きました。王府井は北京の繁華街で、ホテルが多くあり、王府飯店というフォーマルなホテルと王府井飯店という普通のホテルが一キロ離れたところにあります。私は花房先生は偉い方なので、王府飯店にお泊りと思って、運転手をそのホテルに送りましたが、実は王府井飯店にお泊りでした。
とても質素な方です。
タクシーの運転手がやっと王府井飯店に行き、先生を乗せて、大学の宿舎に辿り着いたのは、二〇〇七年一〇月一八日の月曜日の午前一〇時過ぎでした。その日は私の住むビルの地下室で殺人事件があった翌日で、私服の警察がまだビルの周りにいました。私の家は六階ですが、三階に住んでいた中年の女性が地下室で一八歳の警備員に殺された事件でした。事情聴取で家のドアをノックされた時に見たことのある、ちょっと太った若い警察が一階の入り口近くの芝生に座っていました。花房先生がタクシーの中で、その人を指差しながら警察だろうとおっしゃいました。私はびっくりしました。「どうしてわかりましたか」と伺ったら、「臭う」と答えました。
鋭い感覚の方です。
北京の西にある山の上までタクシーで走り、譚澤寺をゆっくりと見学し、近くの農家で昼ごはんを頂きました。お話のなかでは携帯もあまり使わないようでした。二人で写真を撮り、大きく引き伸ばして岐阜の皆さんに見せるとおっしゃていましたが、取り出したカメラがフィルムを巻く十数年前の形で、今の中国ですらあまり見かけなくなったものです。シンプルな生活をされる方で、二〇世紀に残されたような感じでした。
北京を離れてまもなく、先生から連絡がありました。昔の友人が在中国日本大使館に勤務していることを知り、近いうちに再度北京を訪れるとのことでした。楽しみに待っていたのですが、訪中予定の二日前に電話がありました。旅券の期限切れで今回はキャンセルですとのことでした。その後しばらくして再度中国訪問を計画しましたが、数日前に特別な事情で来られなくなり、結局三回目にやっと訪中は実現し、昔の友人で、当時日本大使館の筆頭公使である方、日本テレビやTBS北京事務所の方にお目にかかりました。花房先生のお陰で私も素敵な友人が沢山増えました。
大らかないい方です。
二〇〇八年三月末に羽田先生のお家でホームパーティーがありました。そのときに花房先生が越乃寒梅一升瓶をお土産に持っておいでになり、羽田先生がおいしい手料理を作ってくださいました。また、いつものように熱心にいろんなお酒を皆様に注がれ、楽しい一晩を過ごしました。翌日午前に羽田先生と岐阜市の安藤教育長を訪問し、これから青少年交流活動に協力することを相談し、私はそのまま空港に向かい、岐阜を去りました。羽田先生との最後の晩餐会でした。その最後の晩餐会に花房先生が同伴されたことは不思議です。
花房先生は賢く、ご自分の考え方をしっかり持っていらっしゃる方で、話も面白い方です。素敵な友人を紹介してくださった羽田先生に感謝しています。
故羽田辰男弁護士から花房東洋先生に関する話はよく伺っていましたが、お目に掛かれたのは二〇〇六年の秋です。娘の阜美が大学に入学し、久しぶりに一緒に岐阜に帰った時に羽田先生のご主催で私のための賛東会が開かれ、その会場に先生がいらっしゃったのです。私の席から少し離れた席に座っている先生の姿は几帳面で、お医者さんのイメージでした。
その日は挨拶のみであまり話ができなかったのですが、その後北京で二回お目にかかりまして、いろいろお話を伺いました。上海で事業を起こし、有名な胡錦華さんが会社の顧問を担当していること、数回結婚され、子供さんが一二人いらっしゃるなどびっくりしました。
パワフルな方です。
一回目北京でお目にかかれた時に王府井の五つ星ホテルのレストランで食事をし、翌日北京の西にある有名なお寺を案内することになりました。大学から西に行くのが近かったので、知り合いの運転手が花房先生の名前の書かれた紙を持ってホテルに迎えに行きました。王府井は北京の繁華街で、ホテルが多くあり、王府飯店というフォーマルなホテルと王府井飯店という普通のホテルが一キロ離れたところにあります。私は花房先生は偉い方なので、王府飯店にお泊りと思って、運転手をそのホテルに送りましたが、実は王府井飯店にお泊りでした。
とても質素な方です。
タクシーの運転手がやっと王府井飯店に行き、先生を乗せて、大学の宿舎に辿り着いたのは、二〇〇七年一〇月一八日の月曜日の午前一〇時過ぎでした。その日は私の住むビルの地下室で殺人事件があった翌日で、私服の警察がまだビルの周りにいました。私の家は六階ですが、三階に住んでいた中年の女性が地下室で一八歳の警備員に殺された事件でした。事情聴取で家のドアをノックされた時に見たことのある、ちょっと太った若い警察が一階の入り口近くの芝生に座っていました。花房先生がタクシーの中で、その人を指差しながら警察だろうとおっしゃいました。私はびっくりしました。「どうしてわかりましたか」と伺ったら、「臭う」と答えました。
鋭い感覚の方です。
北京の西にある山の上までタクシーで走り、譚澤寺をゆっくりと見学し、近くの農家で昼ごはんを頂きました。お話のなかでは携帯もあまり使わないようでした。二人で写真を撮り、大きく引き伸ばして岐阜の皆さんに見せるとおっしゃていましたが、取り出したカメラがフィルムを巻く十数年前の形で、今の中国ですらあまり見かけなくなったものです。シンプルな生活をされる方で、二〇世紀に残されたような感じでした。
北京を離れてまもなく、先生から連絡がありました。昔の友人が在中国日本大使館に勤務していることを知り、近いうちに再度北京を訪れるとのことでした。楽しみに待っていたのですが、訪中予定の二日前に電話がありました。旅券の期限切れで今回はキャンセルですとのことでした。その後しばらくして再度中国訪問を計画しましたが、数日前に特別な事情で来られなくなり、結局三回目にやっと訪中は実現し、昔の友人で、当時日本大使館の筆頭公使である方、日本テレビやTBS北京事務所の方にお目にかかりました。花房先生のお陰で私も素敵な友人が沢山増えました。
大らかないい方です。
二〇〇八年三月末に羽田先生のお家でホームパーティーがありました。そのときに花房先生が越乃寒梅一升瓶をお土産に持っておいでになり、羽田先生がおいしい手料理を作ってくださいました。また、いつものように熱心にいろんなお酒を皆様に注がれ、楽しい一晩を過ごしました。翌日午前に羽田先生と岐阜市の安藤教育長を訪問し、これから青少年交流活動に協力することを相談し、私はそのまま空港に向かい、岐阜を去りました。羽田先生との最後の晩餐会でした。その最後の晩餐会に花房先生が同伴されたことは不思議です。
花房先生は賢く、ご自分の考え方をしっかり持っていらっしゃる方で、話も面白い方です。素敵な友人を紹介してくださった羽田先生に感謝しています。