花房東洋情報 大愚叢林

大愚記 花房東洋 

花房先生印象記 李 賛東

2019年07月08日 10時37分32秒 | 大愚記
北京農業大学教授

 故羽田辰男弁護士から花房東洋先生に関する話はよく伺っていましたが、お目に掛かれたのは二〇〇六年の秋です。娘の阜美が大学に入学し、久しぶりに一緒に岐阜に帰った時に羽田先生のご主催で私のための賛東会が開かれ、その会場に先生がいらっしゃったのです。私の席から少し離れた席に座っている先生の姿は几帳面で、お医者さんのイメージでした。
 その日は挨拶のみであまり話ができなかったのですが、その後北京で二回お目にかかりまして、いろいろお話を伺いました。上海で事業を起こし、有名な胡錦華さんが会社の顧問を担当していること、数回結婚され、子供さんが一二人いらっしゃるなどびっくりしました。
 パワフルな方です。

 一回目北京でお目にかかれた時に王府井の五つ星ホテルのレストランで食事をし、翌日北京の西にある有名なお寺を案内することになりました。大学から西に行くのが近かったので、知り合いの運転手が花房先生の名前の書かれた紙を持ってホテルに迎えに行きました。王府井は北京の繁華街で、ホテルが多くあり、王府飯店というフォーマルなホテルと王府井飯店という普通のホテルが一キロ離れたところにあります。私は花房先生は偉い方なので、王府飯店にお泊りと思って、運転手をそのホテルに送りましたが、実は王府井飯店にお泊りでした。
 とても質素な方です。

 タクシーの運転手がやっと王府井飯店に行き、先生を乗せて、大学の宿舎に辿り着いたのは、二〇〇七年一〇月一八日の月曜日の午前一〇時過ぎでした。その日は私の住むビルの地下室で殺人事件があった翌日で、私服の警察がまだビルの周りにいました。私の家は六階ですが、三階に住んでいた中年の女性が地下室で一八歳の警備員に殺された事件でした。事情聴取で家のドアをノックされた時に見たことのある、ちょっと太った若い警察が一階の入り口近くの芝生に座っていました。花房先生がタクシーの中で、その人を指差しながら警察だろうとおっしゃいました。私はびっくりしました。「どうしてわかりましたか」と伺ったら、「臭う」と答えました。
 鋭い感覚の方です。

 北京の西にある山の上までタクシーで走り、譚澤寺をゆっくりと見学し、近くの農家で昼ごはんを頂きました。お話のなかでは携帯もあまり使わないようでした。二人で写真を撮り、大きく引き伸ばして岐阜の皆さんに見せるとおっしゃていましたが、取り出したカメラがフィルムを巻く十数年前の形で、今の中国ですらあまり見かけなくなったものです。シンプルな生活をされる方で、二〇世紀に残されたような感じでした。
 北京を離れてまもなく、先生から連絡がありました。昔の友人が在中国日本大使館に勤務していることを知り、近いうちに再度北京を訪れるとのことでした。楽しみに待っていたのですが、訪中予定の二日前に電話がありました。旅券の期限切れで今回はキャンセルですとのことでした。その後しばらくして再度中国訪問を計画しましたが、数日前に特別な事情で来られなくなり、結局三回目にやっと訪中は実現し、昔の友人で、当時日本大使館の筆頭公使である方、日本テレビやTBS北京事務所の方にお目にかかりました。花房先生のお陰で私も素敵な友人が沢山増えました。
 大らかないい方です。

 二〇〇八年三月末に羽田先生のお家でホームパーティーがありました。そのときに花房先生が越乃寒梅一升瓶をお土産に持っておいでになり、羽田先生がおいしい手料理を作ってくださいました。また、いつものように熱心にいろんなお酒を皆様に注がれ、楽しい一晩を過ごしました。翌日午前に羽田先生と岐阜市の安藤教育長を訪問し、これから青少年交流活動に協力することを相談し、私はそのまま空港に向かい、岐阜を去りました。羽田先生との最後の晩餐会でした。その最後の晩餐会に花房先生が同伴されたことは不思議です。

 花房先生は賢く、ご自分の考え方をしっかり持っていらっしゃる方で、話も面白い方です。素敵な友人を紹介してくださった羽田先生に感謝しています。

吉田松陰論を通して  炭谷 茂

2019年07月08日 10時36分10秒 | 大愚記
元環境省事務次官
済生会理事長
学習院大学特別客員教授
 
 平成8年末のことである。私が当時勤務していた厚生省で、事務方のトップである厚生事務次官が多額の金額の授受による収賄で逮捕される事件が発生した。国民の生命と生活を守るという崇高な使命を有していた厚生省に対する国民の信頼と信用を一気に瓦解させる衝撃的な事件であった。この事件に何らかの形で関係する職員は、多数いることも判明し、広がりを見せた。厚生省職員の動揺は大きく、士気は低下、職務の停滞を招いた。
 こんな時に私は、かねてから尊敬している吉田松陰という人物によって公務員としての仕事のあり方と人間としての生き方を学び直す必要を感じた。
 こんな心境を当時日本マレーシア協会の理事長であった花房東洋氏に話したところ、その場で全面的に賛意を示し、協会の機関紙である「月刊マレーシア」に吉田松陰論を連載することを提案していただいた。私は、士規七則を元に執筆したい旨を話すと、数日後には国会図書館に所蔵されていた資料を沢山コピーして持参し、「何回にわたっても結構ですから、自由に松陰論をまとめてください」と暖かい言葉をかけていただいた。
 私は、ちょっと当惑した。日本マレーシア協会の機関紙という性格と松陰との接点は、全く見つからない。果たして松陰論を掲載させていただくのは適当なのか。そこは花房氏の優しいところである。「何も気にする必要はない」と気配りをされる。
 掲載は、平成9年7月号から5回に及んだ。マレーシアとの関連は、色々と考えていただいた。当時マレーシアの首相であったマハティール首相は、「歴史に学ぶこと」をモットーにしているが、混迷している今日の日本では松陰に学ぶことが有益だと連載に当たっての冒頭に書き加えていただいた。
      ☆    ☆
 連載を続けていくにつれ、松陰とマレーシアとの共通点が意外に多いことを私は、発見していく。マレーシアは、積極的な対外的開放策を取って国家の繁栄を促進していった。反対に松陰は、頑迷な攘夷論者と考える人もいるかもしれない。それは違う。彼は、海外の事情を詳細に把握したうえで国力を豊かにし、国家として独立繁栄して行かなければならないと考えていた。そのようにしなければ、アヘン戦争の結果、列強諸国に侵食された清国のようになるという危機感を抱いていた。佐久間象山によって海外事情を学んだり、ペリー来航時にアメリカへの密航を企てる挙にも出た。海外への関心は強く、マレーシアと同様に海外の成果を利用しようとした。
 マレーシアは、先進諸国に対して堂々と論陣を張り、国家としての誇りを示して来たが、松陰も日本国への愛は強烈そのものである。士規七則の第二則には日本が最も貴い国であることを知らなければならないと高らかに宣言している。
 花房氏は、松陰にもマレーシアにも通じている。私が連載の執筆を進めるうちに発見したことは、彼はとっくにこれを見抜き、私に執筆を勧めたのではないかと思うようになった。
☆     ☆
 松陰という人間の基礎を形成したものは、膨大な読書量、全国各地への旅、多様な人物との交流の3点である。士規七則の第五則には、書物を読むことの重要性を述べる。6歳の時から兵書や経書を読み、暗記し、11歳で藩主に兵学を講じたのは有名である。平戸、熊本などへの九州、白河、仙台など東北への旅など彼は、旅を重ね、多くのことを学ぶ。佐久間象山、安積艮斎など優れた学者からも貪欲に学ぶ。士規七則の第六則には、徳を身につけ、才能を磨くには立派な人物との交遊の必要性を述べる。
 私の見るところでは、花房氏も上記の三つの実践者である。古今の書物に渡る読書量は想像を絶する。これをしっかりと己のものとしていることは、その論述から推察される。マレーシア、中国等アジア各国をはじめ国内外に足を運び、見聞を広める。交遊も多分野に及ぶ。彼の思想は、松陰と同様な方法による裏づけを有している。
☆     ☆
 士規七則は、松陰26歳の時に野山獄中で従弟玉木彦介の元服を祝して書いた武士の心得としての七条である。私がこの解説を試みたのは、15年前の厚生省の大混乱のときだったが、日本を含め世界各国が歴史的な混乱をしている今、これを読み返して見ると得る事が大変多い。要は、人間としての原理原則を認識し、それに従って行動することである。
 士規七則の最後の第七則では「死して後已むの四字は、言簡にして義広し。堅忍果決、確乎として抜くべからざるものは、是れを舎きて術なきなり」と述べる。松陰が最も重視した項目なのだろう。安政の大獄で彼が敢えて不利なことを自ら述べて処刑されたのは、この項目の実践だったのだろう。彼は、読書、旅、交遊によって己を磨き続けたのは、単に知識を豊富にするためではなく、実践のためである。
 花房東洋氏は、吉田松陰が士規七則によって示した途を具体的実践的に歩み続けてきたのだと思う。


怪人・花房東洋の生き方 木村三浩

2019年07月08日 10時31分09秒 | 大愚記
一水会代表

花房東洋という人物を一言で表現するならば、「怪人」という言葉がぴったりのように思われる。「怪人」とは文字通り「あやしい人」ということである。
 じつはこんなエピソードがあるのだ。国民前衛隊という組織から、時の総理であった竹下登に拳銃が送られる事件があった。警察は捜査を徹底して、拳銃を送付したKを逮捕、起訴した。その公判には、私も『レコンキスタ』の取材で訪れたのだが、あるとき、裁判官がKに「あなたが送った拳銃は誰からもらったものですか」と質問したところ、Kは傍聴席を振り向きながら指をさして「あそこに座っている花房東洋氏からもらったものです」とやってしまったのである。公判廷が一瞬、唖然となったことは言うに及ばず、裁判を傍聴しに来ていた数人の警官もメモを取るなど、ザワザワとなった。
むろん、名指しされた当の花房東洋氏にとっては青天の霹靂。結局、花房氏は逮捕されることになったが、不起訴となった。
なんとも「怪しい人」にまつわるちょっとした話であるが、まさに人生を懸けて「怪しさ」を漂わせているといえる。

もっとも、花房東洋氏の「怪しさ」は、とどのつまり本人が抱いている思想に根源があるようだ。つまり、体制を転覆させようとする維新的思想に由来されるのだが、幕末維新時にタイムスリップしたような粋な立ち居振る舞いや、常人にはちょっと敵わない「酒道」を持っている点である。これについては、私など深夜の一時、二時ごろまでが酒の飲み方の限界だが、花房東洋氏は延々二、三日酒を飲み続ける技を持っている。体力も丈夫ながら「心頭滅却すれば火もまた涼し」ではなく、「酒飲滅却すれば酔いもまたなし」という具合に、延々と酒を酌み交わすのである。そして、共感を覚えさせる。挙句、花房氏のペースに巻き込まれてしまうのである。これはなかなかできることではない。
昭和五十五年十月号から月刊『レコンキスタ』で連載された今村裕氏の「花房東洋の育児日記」熱愛篇、破滅篇、番外編、怒涛篇、開拓篇、掠奪篇、歌唱篇は、今日読んでもいろいろと示唆に富む文章で、その破天荒ぶりを赤裸々に語っている。

さて、花房東洋氏といえば、五・一五事件の首謀者であった三上卓先生や、日本再建法案大綱を上梓された片岡駿先生とは格別の師弟関係を以て青年期を過ごされた人物だ。とりわけ片岡先生からは「君子の交わりは 淡きこと水の如し 志士の交わりは 濃きこと血の如し」という詩を贈られ、それをモットーにして同志関係を結んでいる。
 このエピソードについて、平成四年に朝日新聞本社で壮絶な自決をされた野村秋介先生は、『獄中十八年 右翼武闘派の回想』(現代評論社)の中で、次のように語っている。少々長いが、野村先生の優しさと花房氏に寄せる期待感があふれている文章だ。
 「この(花房)東洋君と私が初めて逢ったのは、千葉を出獄した年の初夏のことであった。ある友人の紹介であった。武道着の紺色の袴を付け高下駄をはいた風貌は、それでいて別段奇異の感じではなく、眼光の鋭さを除けば、まことに颯爽とした清潔な感じの青年であった。私が東京の蒲田で、「山河」という小さなお店を開店したのを伝聞した彼は、無性に逢いたくなったと言って、何と岐阜から夜中にタクシーで飛んできたことがある。さすがの私も呆れ返って二の句がつげなかったが、いまの時代には重宝な青年だなと嬉しかった。」
 「東洋君が「国民前衛隊」なる非合法実践部隊をひそかに結集してYP体制打倒の一翼を担って決起しようとしたらしい。
 昨年(昭和五十二年)十二月八日、全愛会議や青思会など、在京右翼団体が中心になって、総勢四千人ほどの右翼、民族派を集め、華々しく〈反ソ・デー〉を展開した。北方領土奪還を高らかに謳って、天下に民族派の意気を示そうと意図したのであろう。東洋君は当日の正午に、日比谷野外音楽堂において、その集会が開催されるのをふまえ、同時刻を狙ってソ連大使館なり、アメリカンクラブなりを占拠して「檄文」を撒き、全国から参集した若き民族派の人々に、強烈にYP体制打倒の檄を飛ばそうと謀ったのである。
狙いはオリジナルがあって、成功すればかなり効果もあったろう。いま我々の側の運動で求められているのは、こういうユニークな、旧態的パターンを越えた発想なのである。「お祭り」やら「勉強会」やらも結構である。毎年恒例になっている「反日教組キャンペーン」も悪くない。しかし、そのパターンが、まるで判を押すように、旧態的姿勢を連綿として守るだけでは、元来包含されるべき思想的及び政治的変革のエネルギーは、いつの間にやら蒸発して、〈運動〉という名の形骸だけが、いたるところにゴロゴロ転がっているという風景をつくり出すことになる。運動の停滞と死滅は常にこの軌道を辿る。この事実を直視するなら花房東洋の発想はかなりユニークであり、成功していれば面白い効果も望めたろうという所以はここにある。常に角度をずらした発想が必要なのである。」
と述べている。若いころより奇をてらってユニークな活動をしてきたのは、思考が柔軟であったということではないか。また、人生のわびさびではないが、いろいろな経験を積まなければできないことかもしれない。その甘さも酸っぱさも経験しているから、人としての雰囲気が出ているのだろう。

また、花房東洋氏のもう一つの断面には、芸術的な才があるということである。本の装丁やデザインなども手掛け、和を基調とする色彩がモチーフにされた作品が多いように思われる。そして、もう少し掘り下げていうならば、人生そのものが芸術のように破天荒であり繊細で、臆病であり大胆。破壊的であり建設的であるという、絶対矛盾の自己同一を重ねるような生き方を送っているように感じられる。
それを見事に示しているのが、数々の重要な書籍や資料を、後世のために編集刊行したことである。秀逸なのは『「青年日本の歌」と三上卓 民族再生の雄叫び』(島津書房)、片岡駿『史料・日本再建法案大綱』再刊(島津書房)、小島玄之『クーデターの必然性と可能性』(小島玄之論文集刊行会)、『原爆投下への審判 アメリカの主張と反省』(新盛堂天地社)、『世界興亡図表』復刻版、CD『青年日本の歌』私家版、CD『神州男児熱血歌唱祭』私家版など、しっかり世に送っていることである。たしかに型破りなところも多々あるが、「大夢館」をはじめ、常に形を残しているのである。「単なる酒道と決めつけるなよ」とのニラミであるように思えてならない。

 さて、花房東洋氏について語る中で、三上卓先生たちとのふれあいから気づくことは、昭和維新に懸けた当事者たちの義憤に、己の思想を一体化させようという心情が多く汲み取れる点である。「言うは易く行うは難し」というが、もちろん苦労、苦悩も多々あったであろう。人との邂逅、別離、さまざまなことがあったに違いない。しかし、花房東洋氏の「怪人」的生き方は、何か大きな包含力によって支えられているように思えてならない。それは、維新革命の天命を常に考察しているからではないか。
 来年、五・一五事件決起から八十周年に際し、岐阜護国神社に「五・一五関係資料館」を建設するという。歴史とともに天命を忘れぬ行者としての在り方だ。
 「野火赤く 人渾身のなやみあり」赫々たる血潮を絶えさせない志と形が、またここに示されるのである。