花房東洋情報 大愚叢林

大愚記 花房東洋 

大 愚 言・慎太郎って馬鹿なの?  大愚叢林庵主 大愚東洋

2016年08月14日 21時37分55秒 | 大愚言
先の東京都知事選において「大年増の厚化粧」と不如意な発言をして、小池百合子を圧勝させてしまった石原慎太郎に「慎太郎って馬鹿なの?」とか「あれでは利敵行為だ」とか「ボケたか?老害だな」などと批判の声があがっている。
彼の名誉のために言うが、彼は決して馬鹿でも、ボケたのでもない。若い頃からの放言癖なのだ。
大親友であった三島由紀夫や実弟の石原裕次郎にでさえもそうであった。
プライドとジェラシーとコンプレックスの三重奏からなる彼特有の性癖である。
彼が初めて参院選全国区に出馬したときの同志であり、戦友でもあり、恩人でもあった小池勇次郎の娘・百合子ゆえにその性癖が再発したのではなかろうか。
少し古い話になるが、衆院選の最中、同じ選挙区の対立候補の選挙ポスターに「朝鮮人帰れ」というシールが不法貼付されるという事件があった。それが彼の指示であろうが、なかろうが、彼の監督責任は免れない。
そこで、盟兄・野村秋介らと徹底糾弾したことがある。
彼も潔く責任を認め、深く反省したので、事なきを得た。
その直後、頼みもしないのに、河野一郎建設相私邸焼き討ち事件の野村をモデルにした「ある行為者の回想」という短編小説を「新潮」誌上に発表した。
そんなサービス精神の持ち主でもある。

また、彼が東京都知事在任中、三国人発言が問題になったことがある。
彼は「差別意識があって言った訳ではない」と抗弁した。
そんなある夜、僕は行きつけの赤坂のバーで、面識のある解放同盟の組坂繁之委員長と出会し、同席し飲むことになった。
会話の中で、「明日、都庁に石原知事を訪ね、三国人発言に対し抗議をする」とのことであった。
そこで、僕が知事に謝罪させる秘策を提言した。
その秘策とは、知事との開口一番「チンタ!」と呼ぶこと。チンタとは彼の湘南高校時代の渾名である。
そう呼ばれたら、彼は必ずムッとする。
そこで、すかさず組坂委員長はじめ全員が土下座をして詫び「失礼しました。つい親愛の余り、渾名で呼んでしまいました。ご気分を害されたらお許しください。決して馬鹿にした訳ではありません」と口上を述べる。
そして「ところで、知事は三国人発言について差別意識はないと仰いましたが、言われた側は深く傷ついております。私共も知事を渾名でお呼びして気分を害されたので、土下座して謝りました。知事も彼らに謝罪してください」と畳み掛ける。
と言ったような作戦である。
組坂委員長は大いに感心されていたが、それを実行されたか、どうかは確認していない。
慎太郎が馬鹿とは思わないが、賢人の馬鹿は小賢しい。
いずれにせよ、わが大愚叢林の馬鹿とは、全く次元が異なる。

平成二十八年八月十一日認

大 愚 言 「馬鹿をやらなきゃ映画は変わらない」 大愚叢林庵主 大愚東洋

2016年08月08日 09時06分36秒 | 大愚言
最近、カップヌードルのCMでビートたけしが「おい、本気で馬鹿やんなきゃ世の中変わんないよ」と言っている。
確かに、馬鹿でなきゃ世の中変わらない。
しかし、めっきりお利口さんで、おエラいさんになったたけしに言われても説得力に欠ける。

たけしといえば、盟兄・野村秋介がプロデュースした「斬殺せよ」(監督・須藤久)に出演してくれたことがあった。
あるテレビ番組で問題発言をして、その詫状代わりの出演ではあったが、彼が出てくれたお蔭で、今でもDVDレンタルの売上げが好調だ。
主役は須藤監督の兄弟分であった鶴田浩二が決まっていたが、鶴田の急逝により相手役であった若山富三郎が演ることになった。
その若山の代役がたけしであった。
その若山も当初は何かとゴネていたが、野村がお灸を据えて以来、野村を「センセー」と呼ぶようになって、撮影も円滑に行くようになった。

この映画の内容は二・二六事件を背景にしたとても素人受けするような代物ではなかった。
東映はそれを承知で、製作と配給を引き受けてくれて、全国公開に踏み切ったのである。
あの頃は、東映も野村も須藤も若山もたけしもみんなが馬鹿だった。
いまは馬鹿がいなくなって、子利口なサラリーマンばかりが増え、冒険をしなくなった。
安全路線でいく風潮だ。
これではいい映画が作れる訳がない。
馬鹿をやらなきゃ映画は変わらないのである。

(平成二十八年八月六日認)



大 愚 言 「馬鹿でも蚊に刺されたら痒い」   大愚叢林庵主 大愚東洋

2016年08月08日 08時58分29秒 | 大愚言
夏目漱石の名作「草枕」の冒頭に、

智に働けば角が立つ
情に棹させば流される
意地を通せば窮屈だ
兎角にこの世は住みにくい
という有名な件(くだり)があるが、馬鹿の集まるわが大愚叢林では、智とか情とか意地とは、全く無縁である。
智に働けば角が立つかもしれぬが、馬鹿だから智に働けないから角が立たない。
情に棹さし流れても、馬鹿だから流されようがない。
意地を通せば窮屈かもしれぬが、馬鹿だから窮屈を窮屈と感じない。
故に、馬鹿にとってこの世は自由自在で、住やすいのである。

ところで、禅家の公案に「蚊に刺されぬ方法とは如何」という公案がある。
故・中川宋淵老師の公案だそうだ。
答えは「蚊に布施をせよ」。
そう思えば、刺す蚊も刺された人もない、今を行ずるのみということらしい。
なるほど、蚊が刺すのを刺すがままにして、蚊にわが血を施すぐらいは一向に構わぬが、しかし後から痒いのが困る。
いくら馬鹿でも痒いものは痒いのだ。
禅家のように、中々悟得は出来るものではない。
馬鹿に出来るのは、蚊に刺された痕を、爪で十文字にして遊んで愉しむぐらいのものだ。

(平成二十八年八月二日認)