花房東洋情報 大愚叢林

大愚記 花房東洋 

大愚言・大愚野老の「散歩のすすめ」 大愚叢林庵主 大愚東洋

2021年06月18日 09時58分21秒 | 大愚言
朝の散歩は気持ちいい。
新鮮な朝のおいしい空気を身体一杯吸って気持ちいい。
歩くときの呼吸は、座禅の要領である。歩く禅と心得ればよい。
そうすれば、天地初発の正大の気(横浜の人ではない)をもらうことができる。

また、行き交う見知らぬ人々と、朝の元気な挨拶ができて気持ちいい。
声を掛け合うことによって、その時間と空間が共有できて一体感が生まれる。

ところが、声を掛けても返事をしない人もいる。統計的にみると、何故か男性の老人に多い。

老人には、角が取れて丸くなるタイプと頑なに心を閉ざすタイプがあるようだ。

頑なに心を閉ざす老人は、世の中を暗くする。時には諍いの種にもなる。
若い世代にも悪影響を与える。

姫路の五仁會・竹垣悟会長から送られてきた「長生き音頭」でも聴いて、虚心坦懐、すっかり馬鹿になって、明るさを取り戻してもらいたいものだ。


令和三年六月十八日認

大愚言・ 大愚野老の「早起きのすすめ」 大愚叢林庵主 大愚東洋

2020年11月15日 03時57分09秒 | 大愚言
「一年の計は元旦にあり」と言うように「一日の計は朝にある」と僕は思う。

朝起きて、今日一日のやるべきことを予習し、心身を整え、しっかりと朝食を摂って、事に臨む。
朝は自律神経が活性化しているから、知識も栄養も吸収しやすい。極めて効率的なのである。
この一日一日の積み重ねが成長・成功につながる。
人の能力なんてものは、さほど大差はない。朝起きるかどうかで、その差が付くのである。
朝起きれないような人間は、一日を無為にやり過ごしているように見える。与えられた仕事をこなしているだけで、主体性がない。
主体性がない者は仕事を創り出すことができないし、人を指導・引率することもできない。

今まで注意して、多くの人を観察してきたが、なべてにそのようである。

十数年前、広島県呉市吉浦小学校の折出浩一校長が朝食のレシピを作り、各家庭で朝食を食べるよう指導された。それにより、遅刻や欠席が激減し、学力もアップしたという実例もある。以来「早寝早起き朝ごはん」は全国的に実施している小学校もあり、成果をあげている。

ここまで書いてくると、よほど僕が朝寝坊をダメといってるようだが、そうではないので誤解しないでほしい。
世紀の大スター・高倉健など朝寝坊の王様のような人だったし、朝寝坊でも功なり名を遂げておられる人は各界に沢山おられるとは思う。

かつて大愚言(2016/12/31付)で「鞍馬天狗」で有名な大スター・アラカンこと嵐寛寿郎が「先生」と言われることを拒否する僕に向かって「先生はモノ創る人でっしゃろ。だったら先生でんがな。ワテら役者は演じるだけでんがな」といったエピソードを披露したことがある。これは、アラカンの僕に対する「先生」と呼ばれる責任から逃げるなという戒めであった。
ここで「創る」と「演じる」についてアラカンは語っているが、早起きの問題は「創る」者と「演じる」者の違いではなかろうか。

「創る」を志す人間は早起きでなければならない、と僕は思う。


「高倉健からアホーと呼ばれた男」山平重樹著・かや書房刊。健さんの朝寝坊など知られざる素顔が描かれているお薦めの新刊。


僕の第三番目の導師・嵐寛寿郎扮する鞍馬天狗

令和2年11月15日認

大愚言 ・姓名ローマ字表記の皆様へのご提案 大愚叢林庵主 大愚東洋

2020年09月25日 15時11分22秒 | 大愚言
過日、京都大学法学博士の岡本幸治さんと久しぶりに杯を交わしたときの会話。

令和元年5月21日、外務省と文部科学省は記者会見で、これまで日本人名をローマ字で表記する場合「名〉姓」としていたが「姓〉名」としたいとの共同声明を行った。
予てより僕は「名〉姓」のローマ字表記に違和感を覚えていたので、大いに賛意を表した。
という話題からはじまった。

当時の閣僚の反応というと、鈴木五輪相は「もう少し国民的な議論を見定めて決めて行くべきだ」、河野外務相は「各国の国際報道機関に対して姓優先の表記をして頂くよう要請したい」、菅官房長官に至っては「これまでの慣行もあり考慮すべき要素が多々あるため、先ず関係省庁で何ができるかを検討したい」といささか間の抜けた発言をしている。
このような重大な変更については、閣内の意思統一が充分なされてから発信すべきで、閣僚の勝手な発言に任せておくべき問題ではない。
首相が日本政府としての明確な判断を国民に向けて示すべきであるが、先の発言をするような菅新首相には期待は出来ない。

古来から、東アジアで発達した漢字文化圏では、姓を先に名を後にしてきた。それが日本の慣習伝統である。
明治以降、我が国では欧化主義が日本の生存のため不可欠として、流行思潮となり、欧米人との接触も多くなったことから、彼らの慣習に合わせて姓名を逆転して定着していったのである。
さらに、戦後の義務教育において、もっと国際人にならなければならない、そのためには国際社会の共通語である英語を身に付けなければならないというので、自己紹介する際にもわざわざ姓名を逆転したりする。
この「主体性のなさ」「国際化=欧米化という偏狭な常識」のおかしさにそろそろ気が付いた方がよいのではなかろうか。
かの明治日本が生んだ代表的国際人である岡倉天心は、日本文化論の英文著作においてローマ字で姓優先のサインをしている。

そこで、岡本博士からのご提案。
日本人が姓名をローマ字表記する場合、例えば「HANAFUSA Toyo」のように、姓は大文字、名は最初の1文字の他は小文字とすれば、どれが姓か名か迷わずに済む。この表記は外国人にも解りやすく、親切で便利であろう。

日本人としての主体性をもって「姓優先のローマ字表記」を広めようではないか。
と居酒屋の片隅で、齢八十五と七十四の時代に取り残された野老同士が語り合ったのである。  


令和2年9月25日認

大愚言 ・生野義挙ーやる馬鹿とやらぬ馬鹿  大愚叢林庵主 大愚東洋

2020年09月08日 16時14分46秒 | 大愚言
文久三年八月、尊皇攘夷の志士たちが幕府の天領である大和五條代官所を占領する大和天誅組の変が起きた。

その頃、但馬では、嘉永七年の但馬沖に外国船が通過する事件を切掛けに海岸防衛の気運が高まり、その備えのため農兵組結成の準備が進められていた。

文久三年九月、朝廷・幕府から許可が下り、北垣晋太郎(養父郡)、中島太郎兵衛(同)、太田六右衛門(朝来郡)、進藤俊三郎(同)ら但馬の豪農たちが集まり、農兵組立会議が開かれた。
但馬に潜伏中だった平野国臣(筑前藩浪士)や美玉三平(薩摩藩浪士)らも加わり、先の天誅組に呼応する形で生野代官所占拠を提案、その決行日を十月十日と決定した。
挙兵の総帥には、京都を落ちて長州に居る七卿の一人・澤宣嘉とし、平野国臣と北垣晋太郎が説得に向かうこととなった。

平野らの説得に応じた澤宣嘉はじめ奇兵隊第二代総督の河上弥市(南八郎)ら二七名は、文久三年十月二日深夜、三田尻(山口県防府市)を発ち同月九日、播磨港(現姫路市)に到着した。
ところが情勢は急変していて、天誅組は既に壊滅していたのである。

ここで、生野での挙兵は中止して再挙を期そうという平野国臣ら慎重派と挙兵を決行しようという南八郎ら決行派に分かれ、激論が交わされた。これが有名な南八郎の歌

議論より実を行へなまけ武士
國の大事を余所に見る馬鹿

である。
結局、南八郎らの決行論により、十一日夜半、生野代官所を占拠することになった。

一方、代官所側も挙兵の動きを察知していて、既に救援の密使を出石藩・姫路藩・豊岡藩などに派遣していた。
諸藩の出兵を知った南八郎らは、これを迎え撃つため妙見山に布陣した。
ところが、生野代官所にある本陣では、再び解散論と決行論が持ち上がり、南八郎不在のまま解散が決定された。
十三日夜半、総帥の澤宣嘉は本陣を脱出した。平野国臣らの浪士たちも十四日の早朝にかけて脱出し、生野義挙は実質的に破陣したのである。

しかし、脱出した多くの浪士たちは、途中で討死・捕縛・獄死した。
平野国臣も豊岡藩に捕縛され、京都の六角獄舎に移送され、斬首されるという悲惨な最期を遂げた。

妙見山に布陣していた南八郎ら十三人は、生野義挙の瓦解を知るや、山麓の山伏岩で全員自刃して壮絶な最期を遂げた。

南八郎の辞世
後れては梅も桜におとるらん
魁てこそ色も香もあれ

このように失敗に終わった天誅組の変と生野義挙は戦略・戦術的に杜撰であり稚拙であったかも知れないが、その後の倒幕運動において、藩総力を挙げて組織的に挑まねばならないことを示唆した「維新の魁」となった。

さて、やって南八郎のような馬鹿になるか、やらずに平野国臣のような馬鹿になるか。
同憂諸賢はどちらを選ばれるか。

附記その一:南八郎は相当な人物であったようだ。
高杉晋作が「投獄文記」で
「私を知る者は天下に多いが、我が心を知る者は土佐の吉村虎次郎と我が藩の河上弥市(南八郎)のみ」
と言わさしめ、二一歳の南を奇兵隊第二代総督に任命するほどであった。

附記その二:生野義挙の中で僅かではあるが、明治まで生き残った者は次の通り。
北垣晋太郎(改め国道)は、高知や徳島県令、北海道長官など歴任。京都府知事では琵琶湖疎水事業を成している。
進藤俊三郎(改め原六郎)は、遊撃隊長として戊辰・上野・函館戦争を歴戦。実業家となり鉄道公社・横浜正金銀行など興している。
特筆すべきは、小山六郎である。南八郎の縁で奇兵隊に参戦。維新後、郷里・但馬に帰るが、新政府の藩閥的専制と幕府と変わらぬ農民の苦しみに憤り、上奏文を残し自決した。
正に上奏文・抗議文とは、このように決死のもので、今世では軽々しく重味がなくなっている。

(令和二年九月八日認)

大愚言 ・魚釣島にボートで渡った馬鹿  大愚叢林庵主 大愚東洋

2020年07月31日 20時42分30秒 | 大愚言
今を去ること四十年前、昭和55年7月20日午後0時30分、尖閣列島・魚釣島南岸に一艘の手漕ぎボートが上陸した。
当時、日本政府が日中国交回復の間(はざま)にあって、棚上げにしている尖閣列島の領有権を明確化するために、我ら同志が相謀って決行したものであった。
実行者は渡辺尚武氏。
氏は昭和50年7月、北方領土に特攻渡泳し、不法に占拠されている貝殻島に戦後初めて「日の丸」を高揚し、日本の純然固有の領土たることを内外に向けて証明した烈士である。
この計画は、一年前より資金作り、体力作り、航海法、天測法や測候術などの猛訓練に励みながら時機を待っていたのである。
決行を7月、後方支援本部を先の大戦において、一億国民の身替りとなり、祖国防衛の楯となって、沖縄決戦で神上がり給うた英霊を祀る沖縄県護国神社(宮司代務者・大野康孝)に定めた。
本部には大夢館の服部愛山老や僕・花房東洋らが結集し、諸準備を着々と進めていった。六分儀やコンパスなどの航海用具や生活物質を調達、手漕ぎボートには「網走丸」と命名された。
7月13日、渡辺氏は決行の出発地・与那国島に渡り、最後の調整をして、19日未明、魚釣島に向けて出発したのである。
因みに、与那国島から魚釣島は海上直線にして80海里(約150キロ)もあり、途中は海の難所として地元漁民も恐れる激流逆巻く「海の河」黒潮海流があるのだ。
渡辺氏の3メートル足らずの「網走丸」での航海は、誰がみても絶対に不可能だといわれ、無謀な行為と考えられたのである。
しかし、ボートで行くから暴徒というのは、洒落にもならず短絡的である。
何故なら、渡辺氏は前述した通り、着々と準備・用意をした上での行為であった。絶海の中にあっても、確実に自分の位置を割り出せる天測法(六分儀と時計で星や太陽の運行を測る法)や海上気象学、黒潮海流の緻密な分析・観測データなどを完全にマスターし、体力作りも怠りなく、その上、靖国の御加護を得るべく、御守を肌身離さず携帯していたのである。
渡辺氏の決意が如何なるものであったのか、決行前・最後の手紙をここに掲げる。
「昨日、石垣島を発ちまして魚釣島上陸の為の特攻基地・与那国島に到着しました。台風接近の影響で途中、海上は大時化(シケ)となり、船は木の葉のように翻弄され、海の恐ろしさをまざまざまと体験させてくれました。まるで数十階のビルディングのような大高波を、頭からザンブザンブとかぶりながら俺は必死で前部甲板に立ち続けていましたが、実は身の毛もよだつ恐ろしさだったのです。やがて台風も遠のき、海も穏やかになるでしょう。その時、俺は俺の行為が〈男の思想〉であることを内外に向けて証明してみせます。きっと成功します。お元気で。渡辺尚武」
このようにして渡辺氏は、翌20日わずか30時間という驚異的な速度と正確さで、決死行を完遂したのである。
これを神業といわずして何といおう。旧約聖書の出エジプト記で、モーゼが退かせた故事の如く神路が拓かれたのである、
決行完遂を確認した僕らは、海上保安庁及び沖縄県警やマスコミ対策などに奔走した。
海上保安庁では、尖閣列島に対する見解を質したところ
「尖閣列島は日本の領土です。だから我々が領海警備に当たっているのです、だから尖閣列島に行かれることに異存はありません。但し、船舶航海法を遵守してください」(森下警備課長談)
とはいえ、あの手この手の法解釈により、規制強化して我々の尖閣列島行を妨害阻止しようとしているのは、今も変わらない。
また、日本政府は中国を刺激することを恐れ、この決死行を報道管制によって、闇に葬ってしまった。

四十年たった今、渡辺尚武のような馬鹿は出てこないのだろうか。
理屈はもう要らない。行動あるのみである。どんどん尖閣列島に押しかけて、既成事実を積み重ねることだ。
安全地帯で理屈だけこねていたら、シナ人とやらにナメられるだけである。

令和2年7月31日認


左から大野康孝氏、渡辺尚武氏(昭和56年6月沖縄県護国神社にて)


左から服部愛山老、僕(昭和55年7月石垣島にて)


前列左から長谷川裕行氏、僕、笠原正敏氏、後列左から中平大作氏、大野康孝氏、佐野博満氏(昭和55年8月那覇港にて)


大愚言 ・子沢山な馬鹿親父の独白  大愚叢林庵主 大愚東洋

2020年07月15日 07時53分19秒 | 大愚言
「貧乏人の子沢山」と言うが、僕の家族は正しく、それを絵に描いたようなものだ。子供は、53歳のオッサンを筆頭に15歳の男子まで、十二人五男七女の構成である。
特に、子供が好きだった訳ではなく、成り行きといった方が当てはまる。要は、避妊や堕胎を好まなかったのだ。
「子供は自分の食い扶持を持って生まれてくる」という信念?から、妊娠したら出産するというのは当たり前で、自然の流れであった。(生命は己の意志からではなく、神から与えられたものだから)
だからといって、それほど裕福だった訳ではない。むしろ明日の米にも事欠くといった状態に近かった。特に「国民前衛隊事件」の出所後など、家具・家電の売り食い暮らしであった。しかし、子供が食い扶持を持って生まれてきたかどうかはわからないが、何故か不義理や借金もせずにやってこれた。子供を授かった限り、自分なりに頑張ったのでもあろう。それを、子供が持って産まれた食い扶持と言うのかも知れない。

勿論、一人腹ではない。母親は五人いる。
「英雄色を好む」と言うが、
色を好むから英雄という訳ではない。ただ惚れっぽいのである。分かりやすく言えば助平なだけである。
僕は隠し事が出来ない質なので、全てオープン、だから兄弟姉妹みんな仲良しだ。有難い。

話変わるが「貧乏人の子沢山」で思い出したエピソードをひとつ。
昭和50年代から平成にかけて日本テレビ系列で「ルックルックこんにちは」という人気番組があった。
パイプ煙草を燻らせながら、大阪弁で「大体やねえ」という口癖でお馴染みだった辛口評論家・竹村健一が仕切っていた。そういえば、アシスタントは現・東京都知事の小池百合子だった。
いつの頃だったかは忘れたが「少子化問題」をテーマに、衆議院議員の塩川正十郎と野田聖子がコメンテーターとしてゲスト出演したことがあった。
聖子議員が「働く女性を支援するために子供を安心して産めるような環境づくり、そのための助成金制度を確立することが、少子化問題の解決につながる」といった主旨の発言をした。
それに対し、塩川議員は「金貰えるから子供産むなんてけしからん。昔から貧乏人の子沢山て言うて、金の有無やない」と厳しく反論。
それに聖子議員が「フランスは助成金制度を施行することによって、人口が増えたという実例があります」と強弁すると、塩川議員は「そんなもん、金目当ての黒ん坊が集まって、フランス中、黒ん坊が増えただけやないか」。
この発言には、野田議員はじめ全員が唖然。
番組終了後、竹村が塩川議員に「えらいもんでんな。僕があんなこと言うたら、今頃クレームが殺到して炎上ですけど、先生やったら何もおまへんわ」と不思議がっていた。

今となっては、遠い遠いお伽噺のようなエピソードである。

令和2年7月15日認

大 愚 言 ・「万事休す」は馬鹿のすすめ 大愚叢林庵主 大愚東洋

2020年05月12日 09時46分42秒 | 大愚言
久しぶりの大愚言。今回の稿は、外出自粛で暇をもて余している御仁、ストレスが溜まっている方々などに呈する。

江戸の初期に「乞食桃水」と呼ばれる異端の禅僧がいた。どこが異端かというと、寺は持たない、必要以上の布施は受けない、無理に渡せば他に与えてしまう。癩病病みの小屋に乞食らと共に暮らしているというほどのものであった。
桃水のことは、後に曹洞の高僧・面山瑞方が書き残した「桃水和尚伝賛」という著作のみである。その中で、面山和尚は「忽然と現れ、それほどの足跡も残さず、一人の後継ぎも持たず、忽然と去って行く桃水は散聖(さんしょう)であった。その散聖が危機に瀕した歴史を支えた」と讃えている。

その桃水が、法弟・雲歩の弟子である慧定に与えた一偈

慧定分明須らく直に休すべし
休休休の処亦何をか休せん
喫茶喫飯他にもとめず
慧定分明万事休す

一般的に「万事休す」とは、万策尽きて施す術(すべ)がないときに用いられるが、この場合「休す」を「休息」と捉えるべきであろう。
僕なりに拙訳すれば

歩くのが辛くなったら、背負った荷物を振り捨てて休んでごらん
休んで休んでなお休み
喉が渇けば茶を飲んで、腹が減ったら飯を食う
これぞ万事休すと心得よ

その意は
人は果てなき欲望のために、仕事を背負って走り続けている。行き着く先は決まっているのに、何でそんなに急ぐのか。
まずは休んでみよう。
そして、自分の人生を見詰め直してみよう。本当に要るものと要らぬものを見極めて、要らぬものは捨てて捨てて捨てきろう。
裸一貫、捨てるものがなくなったら何も怖いものはないよ。
これが「万事休す」という絶体絶命の覚悟と心得よ

コロナ対策よりも、この現象を問題提起と捉えて、「万事休す」の大覚悟で、折角の休息を甘受すべきだと、僕は愚考する。
どんな対策よりも、乞食桃水の爪の垢でも煎じて飲んだ方が、特効薬になるのではなかろうか。

追記:休息(レスト)を無くす(レス)とレストレス、つまりストレスとなる。従って「万事休す」ればストレスもなくなる。しかし、休息をとることがストレスになる人もいるようだ。こういう人は仕事の亡者と知るべし。

令和二年五月十二日認

大 愚 言 ・秋の夜の馬鹿な夢(承前) 大愚叢林庵主 大愚東洋

2019年11月15日 18時37分07秒 | 大愚言
前回の大愚言で記述した通り、夢の中の須藤久監督が語った拉致問題をテーマにした戯曲の企画を記憶を辿りながら書き上げた。わが大夢館祖霊社では、須藤監督をはじめ夢の中の登場人物の御霊を全て祭祀しているので、書き上げた戯曲を奉上した。その上で、ここに発表することにした。

「無題」戯曲風に 
(原案・須藤久/構成・花房東洋)

山陰、日本海に面した喫茶店。海の景色が売り物だけに、この店は海側に沿って細長く作られている。海側に四人掛けのテーブルがずらりと九席並んでいる。僅かに、十人席と八人席のグループ用テーブルが奥にあるだけである。後は長いカウンター席となっていて十人ほど並んで座れるようになっている。
特別、観光地という訳でもないのだが、その日本海の景観が評判を呼んで、平日でも大半が埋まっている。土・日・祝日になると駐車場は満車となり、諦めざるを得ない客が続出する程の賑わいである。
店の前がバス停になっており、大きな国道が走っている。その向こうには、日本海が広がっているという風景である。
今日は建国記念の日、二月十一日。例によって店内満杯の午後のことであった。店の前に停車したバスから一般客に混じって四人の黒服姿の男達が降りてきた。
バスが去った後も、四人の男達は何処へ行くでもなく、設けられている粗末な待合用のベンチに座っていた。
そこへ、六歳と三歳の姉弟が母親に連れられて通りかかった。
男達は、やにわに立ち上がると、この母子に襲いかかり、頭から麻袋を被せて連れ去ろうとした。
店内からはガラス越しに、この有様は丸見えであり、店内は大騒ぎになった。

客一「人さらいだ!」
客二「そうだ、これは大変だ!」

その時、一人の客が立ち上がって言った。
客(大学教授)「皆さん、私は東京の大学で社会科学を教えている者であります。皆さん、落ち着いてください。これはまさか〝人さらい〟なんかではありません。なんかのパフォーマンスなんです。騒ぐほどの事ではありません。」
客三「そんなこと言ったって、あの母子は必死で抵抗し、泣き叫んでいるではありませんか。」
客(新聞記者)「皆さん、私は朝陽新聞の記者ですが、我々マスコミの目もあるその前で〝人さらい〟という犯罪を平気で犯すバカがいるでしょうか。そんなことありえない事です。」
客四「じゃあ、あんな迫真の演技をして、これは一体何の宣伝だと言うのですか」
客(出版社員)「私は、岩浪書店という出版社に勤めていますがね。お陰様で今、日本は一日に百冊以上の新刊本が出版されるというほどの理性にあふれた国なんです。この事から考えても、この国で〝人さらい〟なんて事が堂々と平気で行われるなんて事はありえないと思いますよ。日本は世界でもトップを誇る出版大国なんですから」
客五「では、あのお母さんの必死の抵抗も全部お芝居だと言うんですか」
客(大学教授)「そうです。テレビのコマーシャルと同じですよ。 あれを〝人さらい〟という犯罪だと言うのは〝でっち上げ〟です」
客六「〝でっち上げ〟ですって。私達が目の前で見ている事を、大変だと見ている通りの事を心配しているのが何故〝でっち上げ〟になるんですか」
客七「そうだ、私達はありもしない事をあるように言っているのではない。今、みんなの目の前で起こっている事を言っているのに何故〝でっち上げ〟と言うんですか」
客(新聞記者)「そうではないのです。先生が仰っているのは、今時〝人さらい〟などという犯罪は学問上ありえないということを仰っているのです。私も新聞記者の端くれです。本当に〝人さらい〟なら、これは大スクープになります。しかし、我々は新聞記者だけに、皆さんの目に直接うつらない世界の出来事も広く見ています。その新聞社の目から見ても〝人さらい〟という事は起こり得ないことなのです。」
客七「それなら、今ここにいる全員が目にしている〝事実〟はどうなるのですか」
客(出版社員)「本を出版して生計を立てている私がこう言うのはどうかと思いますが、皆さん、本の読み方が足りないのではありませんか。目の前で起こっている事柄が宣伝パフォーマンスか、それとも重大な犯罪か、それは皆さんの日頃の読書の教養度によって分かれるものだと思いますよ。社会に関する本をもっと読んでくだされば、パフォーマンスか犯罪か、ということは自ずから明らかになるのではないでしょうか」

表では四人の男達と必死でもみ合っていた母親が漸く男達の手から脱出し、店に飛び込んでくる。

母親「皆さん、助けてください。いま皆さんが見ておられる通り、子供達が見も知らぬ男達にさらわれました。どうぞ止めてください。子供達はこのままでは、どうやら海へ連れて行かれようとしています」
客八「何かの宣伝パフォーマンスではなかったのですか」
母親「パフォーマンスなら、どうして母親の私が皆さんに〝助けてください〟と訴えているのですか」

そこへ、この店の店長が出てくる。

店長「皆さんのこれまでの色々な議論を聞いておりましたが、この店の責任者として提案します。今から皆さん全員のお客様で集会を開くことといたしましょう。そこで、私達はどうするべきかを話し合いましょう。先生、記者、出版社の皆さんもよろしゅうございますね」

三人は黙らざるを得ない。

店長「お母さんが子供達を連れ去られたと訴えておられるのですから、これは何者かによる〝拉致事件〟と認めざるを得ないと思いますが如何でしょうか」

表では二人の子供達は担がれて国道を渡り、すぐ先のゴムボートに乗せられようとしている。

全員「異議なし」
客九「署名だ。皆で署名して〝拉致反対〟の意志を表示しよう」
全員「それはいい、それはいい」
店長「署名簿を何か用意してください」
客十「反対運動するには金も要る。皆さん、お母さんに千円ずつのカンパをしましょう。お母さんを助けましょう」
母親「そうではなく、今ゴムボートに乗せられようとしている子供達を取り返してほしいのです」
客(新聞記者)「それがねお母さん、お母さんの気持ちはよくわかりますがね。この国の法律では私達が直接取り返してはいけないことになっているのですよ。あくまであの男達と話し合いで解決しなければ再び戦争の道に繋がるのです」
母親「そんな事を言ったって、子供達が何者かに暴力で拉致されるという事は、もう戦争が始まっているのと同じなのではありませんか」
店長「まぁまぁお母さん、皆一生懸命、署名とカンパで応援しようと言っているんですから、それでよしとしてください。さあ皆さん、署名とカンパをお願いしますよ」

客達、全員立ち上がって、いそいそと署名をし、千円札をカンパ箱に入れる。

客(大学教授)「皆さんはあれだけ〝犯罪〟ではないかと私を責めた。今、皆さんの中にはざっと三十人ほどの男性がいらっしゃる。今なら間に合いますよ。そこのドアから走り出て子供達を奪い返せばよいではありませんか。どうぞ〝犯罪〟だと言った皆さんは行動なさってください。少し沖に見える外国船らしき船に移されたら、もう手遅れですよ。今すぐなら間に合います。どうぞ行動してください」
全員「署名しよう。そしてカンパもしよう。運動とはそういうものなんだから、出来る事からやりましょう」

全員で署名、カンパをして、店長 それをまとめて、母親に渡す。
母親、もうものが言えない。黙って受け取るとふらふらと店を出て道路を横切り、海辺に立って、沖に出てしまったゴムボートを見送る。

店長「皆さん、ご苦労様でした。さあ、元の席へお戻りください。お騒がせしたお詫びに旨い熱いコーヒーをサービスしますので」

客達、それぞれ自分の席へ戻り、飲みかけのコーヒーや食べかけのサンドイッチ、ケーキなどに手を伸ばす。
ゴムボートの子供達は外国船に移され、折も折、行き交う自衛艦や海上保安庁の警備艇の間を悠々と遠ざかっていった。
店内は何事もなかったように、日常のざわめきと笑い声で一杯となった。

店の表には「喫茶リバティ」と書かれた煤けた看板が倒れかかって立っている。

(令和元年十一月十日認)

大 愚 言 ・秋の夜の馬鹿の夢 大愚叢林庵主 大愚東洋

2019年11月09日 09時58分40秒 | 大愚言
実に生々しい夢を見た。目醒めて、記憶があるうちに書き記してみた。登場人物を知らない方には申し訳ないが、読み流して頂きたい。

濃霧の中、巌流島に向かう宮本武蔵よろしく一艘の舟に独り乗り、川を往く。
霧が少しずつ退いていくと、対岸に大勢の人だかり。
近づいてみると、わが師・三上卓がいつもの仏頂面で立っている。
周りには、高弟の吉野詮(水戸山翠会長)、佐々木麗吉(日本文化教育協会理事長)、飯嶋勇(日本防衛協会理事長)、木暮山人(参議院議員)、青木哲(三上卓秘書)、土生良樹(マレーシア興亜青年道場主宰)、野尻稔(マシモ製薬会長)や義仲寺住職の斉藤兼輔らがにこやかに手を振っている。みんな故人だ。ということは、ここはあの世で、この川は三途の川だ。

場面変わって、民族陣営の重鎮・古賀不二人、片岡駿、毛呂清輝、中村武彦、大井清や服部愛山(陶芸家)、佐伯宣親(九州産業大学教授)、杉田有窓子(書家)、辻田宗寛(興国禅寺住職)、西垣内堅佑(弁護士)、大野康孝(本渡諏訪神社宮司)らの顔ぶれが集まっての大宴会である。
どうも僕の歓迎の宴らしい。
みんな盃を酌み交わし、語り合い愉しそうだ。中でも、時々僕の方を見る毛呂先生の優しい眼差しが印象的だ。
途中から濱谷信雄、野村秋介が加わってきた。相変わらずの空気を読まない自分勝手な二人の毒演会。でも、それがとても懐かしく嬉しい。
隣から酒を注いでくれる者がいるので、ふと見ると、阿部勉だ。阿部が何を言ったのか分からないが、阿部が立ち上がり、僕も立った。

阿部についていくと、そこは洞窟だった。
中に進んでいくと、島津書房社長の村瀬博一と映画監督の須藤久がいた。須藤は生前、安倍晋三首相らと共に、拉致被害者問題を世界に広く訴えようと映画を企画していた。
その須藤が「東洋さん、僕との約束を果たさないまま、ここに来ましたね」と言ってきた。
僕は彼と約束をした憶えがないので、黙っていると、拉致問題をテーマにした戯曲らしき企画を語り出した。
話が終わると、阿部がいつもの口調で「まぁ、まぁ」と言いながら、僕を舟に乗せた。
舟に乗ると同時に、暗闇から一転、光の世界になって、目が醒めた。

なんとも、生々しくも不思議な夢であったが、須藤の話に基づいて、その戯曲を書くことにした。
次回の大愚言に発表する。

(令和元年十月二十日認)

大 愚 言 ・人の顔が覚えられない馬鹿  大愚叢林庵主 大愚東洋

2019年08月06日 11時45分02秒 | 大愚言
僕は人の顔が覚えれない馬鹿である。
どれぐらい馬鹿かというと二十数年前、僕が外務省の外郭機関・日本マレーシア協会の理事長をしていた頃の話、東京・永田町の憲政記念館で「アジアの経済」というシンポジウムを開催した。控室でパネラー諸氏と打合せをしていたところ、受付係が「理事長、お客様です」と青年を案内してきた。その青年から「お久しぶりです」と挨拶されたのだが、どうしても思い出せない。「失敬、どちらさんでしたか?」と尋ねたら「お父さん、息子の仁(長男)ですよ」と言われ、ようやく気がついた次第。息子にはいまだ恨まれている。
事程左様に、人の顔が覚えれないのである。特に、女性は覚えれない。付き合っている女性と喫茶店で待ち合わせしても、相手の顔を確認する自信がないので、早めに行ってサングラスをして本を読んでいる。相手から声をかけてくれるのを待つという案配である。
息子の一件と同じ頃の話だが、新宿歌舞伎町の風林会館前で、付き合って間もない女性と待ち合わせをした。例のごとく、早めに行ったところ、笑いながら手を振る女性がいる。随分早いなと思いながら「お待たせ、どこへ行く?」と尋ねると「どこでもいいよ」と応えるから「じゃぁ、ホテル行こか」「いいよ」てなことで、
近くのラブホテルへ行き、致していた。最中、携帯電話が鳴るので出たら「まだぁ?」と女性の声。待ち合わせしていた女性である。えっ!ではこの腹の下にいる女性は誰?吃驚仰天して、大慌てでシャワーを浴び服を着て、風林会館に戻った。女性が笑いながら手を振っている。この女性だったのかと思いながら「お待たせ、どこへ行く?」と尋ねた。その女性が応えた。「どこでもいいよ」

久しぶりの大愚言なのに、お粗末な内容で恐縮至極。
それにしても、最初の女性は誰だったのか?金を要求されなかったので商売女ではない。
もしかして、僕と同様、人の顔が覚えれない馬鹿だったのか?

(令和元年七月三十日認)