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大愚言 ・生野義挙ーやる馬鹿とやらぬ馬鹿  大愚叢林庵主 大愚東洋

2020年09月08日 16時14分46秒 | 大愚言
文久三年八月、尊皇攘夷の志士たちが幕府の天領である大和五條代官所を占領する大和天誅組の変が起きた。

その頃、但馬では、嘉永七年の但馬沖に外国船が通過する事件を切掛けに海岸防衛の気運が高まり、その備えのため農兵組結成の準備が進められていた。

文久三年九月、朝廷・幕府から許可が下り、北垣晋太郎(養父郡)、中島太郎兵衛(同)、太田六右衛門(朝来郡)、進藤俊三郎(同)ら但馬の豪農たちが集まり、農兵組立会議が開かれた。
但馬に潜伏中だった平野国臣(筑前藩浪士)や美玉三平(薩摩藩浪士)らも加わり、先の天誅組に呼応する形で生野代官所占拠を提案、その決行日を十月十日と決定した。
挙兵の総帥には、京都を落ちて長州に居る七卿の一人・澤宣嘉とし、平野国臣と北垣晋太郎が説得に向かうこととなった。

平野らの説得に応じた澤宣嘉はじめ奇兵隊第二代総督の河上弥市(南八郎)ら二七名は、文久三年十月二日深夜、三田尻(山口県防府市)を発ち同月九日、播磨港(現姫路市)に到着した。
ところが情勢は急変していて、天誅組は既に壊滅していたのである。

ここで、生野での挙兵は中止して再挙を期そうという平野国臣ら慎重派と挙兵を決行しようという南八郎ら決行派に分かれ、激論が交わされた。これが有名な南八郎の歌

議論より実を行へなまけ武士
國の大事を余所に見る馬鹿

である。
結局、南八郎らの決行論により、十一日夜半、生野代官所を占拠することになった。

一方、代官所側も挙兵の動きを察知していて、既に救援の密使を出石藩・姫路藩・豊岡藩などに派遣していた。
諸藩の出兵を知った南八郎らは、これを迎え撃つため妙見山に布陣した。
ところが、生野代官所にある本陣では、再び解散論と決行論が持ち上がり、南八郎不在のまま解散が決定された。
十三日夜半、総帥の澤宣嘉は本陣を脱出した。平野国臣らの浪士たちも十四日の早朝にかけて脱出し、生野義挙は実質的に破陣したのである。

しかし、脱出した多くの浪士たちは、途中で討死・捕縛・獄死した。
平野国臣も豊岡藩に捕縛され、京都の六角獄舎に移送され、斬首されるという悲惨な最期を遂げた。

妙見山に布陣していた南八郎ら十三人は、生野義挙の瓦解を知るや、山麓の山伏岩で全員自刃して壮絶な最期を遂げた。

南八郎の辞世
後れては梅も桜におとるらん
魁てこそ色も香もあれ

このように失敗に終わった天誅組の変と生野義挙は戦略・戦術的に杜撰であり稚拙であったかも知れないが、その後の倒幕運動において、藩総力を挙げて組織的に挑まねばならないことを示唆した「維新の魁」となった。

さて、やって南八郎のような馬鹿になるか、やらずに平野国臣のような馬鹿になるか。
同憂諸賢はどちらを選ばれるか。

附記その一:南八郎は相当な人物であったようだ。
高杉晋作が「投獄文記」で
「私を知る者は天下に多いが、我が心を知る者は土佐の吉村虎次郎と我が藩の河上弥市(南八郎)のみ」
と言わさしめ、二一歳の南を奇兵隊第二代総督に任命するほどであった。

附記その二:生野義挙の中で僅かではあるが、明治まで生き残った者は次の通り。
北垣晋太郎(改め国道)は、高知や徳島県令、北海道長官など歴任。京都府知事では琵琶湖疎水事業を成している。
進藤俊三郎(改め原六郎)は、遊撃隊長として戊辰・上野・函館戦争を歴戦。実業家となり鉄道公社・横浜正金銀行など興している。
特筆すべきは、小山六郎である。南八郎の縁で奇兵隊に参戦。維新後、郷里・但馬に帰るが、新政府の藩閥的専制と幕府と変わらぬ農民の苦しみに憤り、上奏文を残し自決した。
正に上奏文・抗議文とは、このように決死のもので、今世では軽々しく重味がなくなっている。

(令和二年九月八日認)


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