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大愚言 ・魚釣島にボートで渡った馬鹿  大愚叢林庵主 大愚東洋

2020年07月31日 20時42分30秒 | 大愚言
今を去ること四十年前、昭和55年7月20日午後0時30分、尖閣列島・魚釣島南岸に一艘の手漕ぎボートが上陸した。
当時、日本政府が日中国交回復の間(はざま)にあって、棚上げにしている尖閣列島の領有権を明確化するために、我ら同志が相謀って決行したものであった。
実行者は渡辺尚武氏。
氏は昭和50年7月、北方領土に特攻渡泳し、不法に占拠されている貝殻島に戦後初めて「日の丸」を高揚し、日本の純然固有の領土たることを内外に向けて証明した烈士である。
この計画は、一年前より資金作り、体力作り、航海法、天測法や測候術などの猛訓練に励みながら時機を待っていたのである。
決行を7月、後方支援本部を先の大戦において、一億国民の身替りとなり、祖国防衛の楯となって、沖縄決戦で神上がり給うた英霊を祀る沖縄県護国神社(宮司代務者・大野康孝)に定めた。
本部には大夢館の服部愛山老や僕・花房東洋らが結集し、諸準備を着々と進めていった。六分儀やコンパスなどの航海用具や生活物質を調達、手漕ぎボートには「網走丸」と命名された。
7月13日、渡辺氏は決行の出発地・与那国島に渡り、最後の調整をして、19日未明、魚釣島に向けて出発したのである。
因みに、与那国島から魚釣島は海上直線にして80海里(約150キロ)もあり、途中は海の難所として地元漁民も恐れる激流逆巻く「海の河」黒潮海流があるのだ。
渡辺氏の3メートル足らずの「網走丸」での航海は、誰がみても絶対に不可能だといわれ、無謀な行為と考えられたのである。
しかし、ボートで行くから暴徒というのは、洒落にもならず短絡的である。
何故なら、渡辺氏は前述した通り、着々と準備・用意をした上での行為であった。絶海の中にあっても、確実に自分の位置を割り出せる天測法(六分儀と時計で星や太陽の運行を測る法)や海上気象学、黒潮海流の緻密な分析・観測データなどを完全にマスターし、体力作りも怠りなく、その上、靖国の御加護を得るべく、御守を肌身離さず携帯していたのである。
渡辺氏の決意が如何なるものであったのか、決行前・最後の手紙をここに掲げる。
「昨日、石垣島を発ちまして魚釣島上陸の為の特攻基地・与那国島に到着しました。台風接近の影響で途中、海上は大時化(シケ)となり、船は木の葉のように翻弄され、海の恐ろしさをまざまざまと体験させてくれました。まるで数十階のビルディングのような大高波を、頭からザンブザンブとかぶりながら俺は必死で前部甲板に立ち続けていましたが、実は身の毛もよだつ恐ろしさだったのです。やがて台風も遠のき、海も穏やかになるでしょう。その時、俺は俺の行為が〈男の思想〉であることを内外に向けて証明してみせます。きっと成功します。お元気で。渡辺尚武」
このようにして渡辺氏は、翌20日わずか30時間という驚異的な速度と正確さで、決死行を完遂したのである。
これを神業といわずして何といおう。旧約聖書の出エジプト記で、モーゼが退かせた故事の如く神路が拓かれたのである、
決行完遂を確認した僕らは、海上保安庁及び沖縄県警やマスコミ対策などに奔走した。
海上保安庁では、尖閣列島に対する見解を質したところ
「尖閣列島は日本の領土です。だから我々が領海警備に当たっているのです、だから尖閣列島に行かれることに異存はありません。但し、船舶航海法を遵守してください」(森下警備課長談)
とはいえ、あの手この手の法解釈により、規制強化して我々の尖閣列島行を妨害阻止しようとしているのは、今も変わらない。
また、日本政府は中国を刺激することを恐れ、この決死行を報道管制によって、闇に葬ってしまった。

四十年たった今、渡辺尚武のような馬鹿は出てこないのだろうか。
理屈はもう要らない。行動あるのみである。どんどん尖閣列島に押しかけて、既成事実を積み重ねることだ。
安全地帯で理屈だけこねていたら、シナ人とやらにナメられるだけである。

令和2年7月31日認


左から大野康孝氏、渡辺尚武氏(昭和56年6月沖縄県護国神社にて)


左から服部愛山老、僕(昭和55年7月石垣島にて)


前列左から長谷川裕行氏、僕、笠原正敏氏、後列左から中平大作氏、大野康孝氏、佐野博満氏(昭和55年8月那覇港にて)



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