花房東洋情報 大愚叢林

大愚記 花房東洋 

大 愚 言 ・むかし書いた馬鹿読物(その二) 大愚叢林庵主 大愚東洋

2016年10月31日 17時26分23秒 | 大愚言
先の大愚言にて、むかし書いた戯話を発表したところ、思いの外、好評を博したので第二弾を余興として掲載する。
読切戯話 記憶喪失
「月刊パック」第二号(昭和四十七年八月二十日発行)掲載

「モシ、モシ、阿久津の兄貴ですか?」
「おう、健か・・・どうだい、あのコトはうまくいっているかい?」
「へえ、そりゃあ・・・あっしは、ドジを踏まないス!」
と、健は自信たっぷりに言葉をつづけた。
「奴等は、あっしが記憶喪失症になって、盗んだ3億円の隠し場所をすっかり忘れたと頭から信じていますよ。バカな奴等でさあ・・・」と、含み笑いをした。
「そうかい。すると、お前達三人が稼いだ3億円は俺とお前の山分けって事になるな。」
受話器を通して、血色のいい阿久津の顔がだらしなくほころびているのが感じられた。
「で、この金はどこへ隠したのだ?」
「それが兄貴、あっしは金を隠してホテルに帰ってきた時、足を踏みはずして階段から転がりおちましてね」
健は、ニヤニヤ笑いながら言葉をつづけた。
「その時、頭の打ち所が悪かったんでしょう、それ以来どうも記憶がぼやけて金の隠し場所を忘れましてね」
「バカヤロー、ふざけやがって!それとも俺を裏切るってぇのかい‼」
阿久津は鼓膜の破れそうな大声でどなった。
「め、滅相もねえ。なんであっしが兄貴を裏切ったりなんぞするもんですか。冗談ですよ、安心してくだせえ」
と、健はどもりながら弁解した。
「そうか、つい大きな声を出してしまってすまなかったな。だが、念のために金の隠し場所を聞いておかないとな・・・」
阿久津が気をとり直して金の隠し場所を聞こうとした時、ドアの外で話声が聞こえた。
「あ、奴等が帰ってきたようですから切りますよ。また、後で電話します。」
健はあわてて受話器をおいた。
「しかし、こんな金槌で殴って記憶喪失が直るのかい」
「お前、馬鹿だな。これがショック療法っていうんだよ。それとも病院にでもつれていけっていうのかい」
二人はそんな事を話しながら部屋に入ってきた。
「健、よろこべよ。お前の記憶を取り戻してやるからな。」
と、言いながら健を羽交いじめにした。
「おい!何するんだ、やめてくれ!」
と、健は絶叫したが羽交いじめにされていては、どうにも身動きがとれなかった「ガーン」と鈍い音が頭上でして火花が散った。目の前が真っ暗になって意識がうすれていくのを感じた。
「ど、どうなっているんだ・・・俺はこんなところで何をしているのだ・・・あんた達は誰だ・・・」
と、意識の戻った健がうつろな目で言った。健は金槌で殴られたショックで本当の記憶喪失になってしまったのだ。
「なんだ、やっぱり直らないじゃないか」
「うーん、前よりひどくなったようだな・・・」

(平成二十八年十月三十一日認)

大 愚 言 ・馬鹿の文章のお手本  大愚叢林庵主 大愚東洋

2016年10月31日 06時32分49秒 | 大愚言
僕が日本マレーシア協会の理事長をやっていた頃、会長だった塩川正十郎(元財務大臣)に「アンタの文章は役人みたいやなぁ。馬鹿が読んでも解るように書かなあかんわ」とお叱りを受けたことがあった。以来、心がけてはいるが、解り易い文章を書くというのは、中々難しいものだ。
そこで、師・三上卓の文章をここに紹介しよう。
師は俳句や書画は数多く残しているが、文章は稀である。

商売は大きらい
「大夢」創刊号
(昭和四十七年十月二十五日発行)掲載 
私は生まれつき商売が下手で、大きらいである。しかし、川南君(注=戦後最大のクデター未遂事件「三無事件」の中心人物・川南豊作のこと)程ではないが資金や金の大事なこと、特に、その使い道の大切なことは誰よりもよく知っている。政治活動にしても、組織運動にしても、資金と人材がなければできない。人材は隠れた所にいくらでもいるが、資金は、その性質と使途で、生きたり死んだりする。「右翼の資金源を断て」と人は言うが、これは右翼に限らない。左翼でも、社会党でも、自民党でも同じことだ。資金源がなければ、彼らも存在しない。ただ運動や組織のための交換条件に、他人の財布や資金を狙うスリや乞食のまねは、しない方がよい。嘘も方便といって、目的の為に手段を選ばぬというような人間は、いるにはいるがさびしい限りである。
一番よい方法は、他人の世話にならずに、自分で作ることだ。ところが、自分で、金を作るのは中々大変である。

よし、俺はやって見せるぞと憤発して計画を立てたのが、昭和二十四年の「海烈号密輸事件」。三ヶ月間に、LST型一万屯級の貨物船延べ六十隻を動かして、五百億円の純利益を生み出し、国家改造を実現しようと、本気に考えたのはよかったが、米軍の寝返りに会って、同年八月の第一船「海烈号」を横浜で押さえられて、見事に失敗した。私は、米軍の軍法会議で実刑を食い、横浜刑務所で、三年の刑期を務めた。
それ以来、私は、俺には商売は向かないとあきらめた。事実、商売とは縁がない。四年前から、永興産業株式会社という小さな会社をつくり、私が社長で妻が重役である。商売の内容は、用品、雑貨の販売で、陸上自衛隊の売店(PX)である。

私が商売きらいだから、生一本で能力のある妻にまかしてある。妻は病身だが正直で親切で努力家だから、部隊の信用はあるし、隊員からは「小母さん、おばさん」となつかれて、良心的な品物を売って、親子三人の生活を僅かに支えて来た。
それが今度の事件で、何故かとたんに売れなくなって、妻は気が気でない。私が店に行くと却って邪魔だし、絶対にあいそを言わないから、売上げのマイナスを手伝うようなもの、最初から決して顔を出さないことにした。四年間、妻一人で店を守って来た今日になって、売上半減では妻には気の毒だが、仕方がない。当初の二年間妻は神田の問屋からの品物仕入の度ごとに、かつぎ屋をしてからだを酷使した。これでは、病弱の妻は、参ってしまう。そこで、荷車の代用にルノーのボロ車を月賦で買った。郷里の後輩で、自衛隊をやめたばかりの青年を運転手にやとったが三ヶ月で月給が払えなくなった。仕方なく、私が、教習所へ通って運転免許を取り、昨年三月から馬車引のまねをして現在におよんでいる。私はどう考えても、商売は大きらいで能のない男だ。妻の人知れぬ苦労には、頭が下がる。だから、私のボロ車の運転(馬車引きには、)私なりの気持がこもっている。妻が、こんなにがんばるのは、がんばらなければ飯が食べられないという理由の他に、一人息子の勉学への希望が強い。

今年満二十一歳になる忠(マコト)という長男がいる。早大理工科の四年生で、建築を学んでいる。これが、案外出来が良くてセンスもあり、昨年十月のメキシコでの世界学生建築展では「住宅集団の解決」という彼のグループの作品が一等賞を獲得するほどの才能をもった奴で、妻はこの子が可愛くて仕方がないらしい。おとなしいが、利かぬ気の芸術家肌の学生である。妻はこの子が卒業し就職する迄は、石にかじりついても商売はやめられないという。もう一人、娘が居たが、幼くて死んだ。
私の性格は、どう言うものか、一切家庭のことを考えない。それが民族のこと、青年のことになると、人一倍気になって考えこむ。私には持病はないが、数年来医者がびっくりする程の高血圧症になっている。平均二百三十から二百五十を上下する血圧計の目盛を前に医者は異常体質と言い、生命の保証をしない。それでも、私自身は何の自覚症状もなく快適である。但し年に一回位の心筋梗塞の発作が起きるときは少しこまる。
「私は畢生の念願として、ただ一つのことを果たして死にたい。今日までの私の過去の凡ては、そのためのささやかな準備行為であり本舞台は今後に約束されている。だから私は所詮、家庭とは縁がない」と言う私の気持を妻も子もなかばあきらめて、あまり問題にはしていないらしい。
「ただ一つのこと」これは、私にとって生き甲斐であり、喜びであり、秘中の秘である。

正に、馬鹿の文章のお手本だ。
(平成二十八年十月二十七日認)


大 愚 言 ・むかし書いた馬鹿読物(その一)  大愚叢林庵主 大愚東洋

2016年10月25日 06時45分49秒 | 大愚言
今から四十四年前、僕が岐阜のレジャー新聞「月刊パック」に読切戯話と称して連載した馬鹿読物を余興として紹介してみよう。
読切戯話 パチンコ
「月刊パック」(創刊号 昭和四十七年七月十五日発行)
パチンコ=二十世紀に日本で発祥した大衆遊戯。ハンドルを強く押して金属で作られた玉をはじき上げ、うまく穴に入れて商品をもらう遊戯。
マー坊ちゃんは、柳ケ瀬のパチンコ屋で一時間余りパチンコを楽しんでいた。いや楽しんでいたのは、はじめの五分程で後は悔しさと悲しみにふるえる手を執念という卑しげな心でようやく押さえて、パチンコの玉をはじいていたのである。
はじめ玉を百円で買い求めこの台の前にたった時の希望に燃えたあの明るい表情は、どこへ消え去ったのだろうか。この百円をもとでに小柳町あたりでしゃぶしゃぶをつつき、一杯やってサウナで汗でも流そうといった望みは、ひとつひとつこの穴の中へ吸い込まれてしまった。

となりのオヤジは受け皿に玉を一杯つめるばかりか容器に二杯もとっている。それを横目で眺めながら生唾をゴクリとのんでファイトをもやすのであった。そうしているうちに、財布も底をついてしまった。すっかり、しょげきったマー坊ちゃん、店を出ようとしてパチンコ玉が一個おちているのをみつけた。おぉ、これは神様のお恵みだ!その玉をひろい、知っている限りの神仏の名前を叫んで玉をうった。チャラチャラとたよりない音ではあったがマー坊ちゃんにしては、我が子の産声にも等しい歓びであった。一個の玉が十個になった。この十個の玉で何分か後には、あのオヤジのようにこのパチンコ屋の玉を全部とりつくしてやる。しかし、その意気込みも空しく十個の玉は帰るべきところへ帰ってしまった。
「あぁ、ついてないわ」マー坊ちゃんは、外国映画の俳優がよくするジェスチュアの中から肩をすぼめるのを引用してみたが、あまりサマになっていないようだった。

それから、マー坊ちゃんは市民センター近くの屋台で安酒をあおっていた。「人生とは何ぞや」とつぶやいてみては、哲学者のように苦悩スタイルをやってみたが人生より先程のパチンコのことが頭に来てどうにもならないのだ。そんな想いを流し込むかのようにまた安酒をあおるのであった。「もう程々にしやぁ」とオバハンに言われたのは、深夜の二時を過ぎていた。このガメツそうなオバハンがそんなことを言う筈がないのだが、マー坊ちゃんが飲み過ぎて何も注文しないのでそう言ったのだ。マー坊ちゃんは、たたき出されるようにして表へ出た。どうにも思うように歩けないので、歩道に座りこんだ。
「一寸飲み過ぎたな」気分が悪い時、無理にはいた方が楽になると人に聞いた事を想い出したので喉に手を突こんでみた。突こんだ手を出すか出さないかで、すぐ胃の中のものがつきあがってきた。ジャラジャラ、景気のいい音がして、パチンコ玉が口からワンサワンサと飛び出てきたもんだ。

(平成二十八年十月二十三日認)

大 愚 言 ・大馬鹿の大西郷と大愚叢林 大愚叢林庵主 大愚東洋

2016年10月21日 07時25分39秒 | 大愚言
わが大愚叢林では、かつて西郷南洲翁の「大西郷遺訓」の輪読会をしていたことがある。
その「大西郷遺訓」の中に
生命も要らず、名も要らず、官位も金も要らぬ人は、御し難きものなり。
然れども此、御し難き人に非ざれば、艱難を共にして國家の大業を計る可からず。
という件がある。
それを頭山満翁が
命も欲しい名も欲しい。位も金も欲しいのが、上から下まで一杯に押し寄せる。大丈夫児は、人を容れんければならぬ、人に容れられては相済まんとあったが、人に容れられるどころか、命に容れられ、金に容れられるのがウヨウヨしとるよ。何にせよ、容れられるのに決まっとる。大きいのは股倉にもはさまらんよ。
地位を得れば長生きがしたい。金が出来れば地位が欲しい。どこまで行っても肉の奴隷、欲の奴隷となって、浅ましい人生を追いつめるのじゃ。
と評されている。
「金も名誉も命も要らぬ」とは、正に大馬鹿の代表のような言葉である。
ここら辺りが大愚叢林の大眼目である。

大西郷は、明治維新という大業をなした後、新政府の要職に在って、その職を投げ棄て、野に下り、盟友・大久保利通らの政府軍と敗ける戦と知りながら、後進らと共に挙兵し、城山にて自刃し果てている。
見事に「金も名誉も命も要らぬ」という言葉を体現されているではないか。
大西郷と明治維新の指導者と並び称される吉田松陰にしても、アメリカへの密航を企てて下獄し、訊問されてもいないのに、老中・間部詮勝暗殺計画を自白し、武蔵野の刑場の露と化した。
大西郷にしても、松陰にしても常人から見たら全く理解の範疇を超える愚行であろう。しかし、その愚行が明治維新の原動力となったことは、歴史が証明するところである。
僕の祖父・花房兼平は、一〇歳のとき、大西郷について参戦し、城山の決戦の際、明日の日本を託され、大西郷の子息・菊次郎らと共に帰されている。
その後、祖父は菊次郎と京都に移り住み、菊次郎は京都市長となり、祖父は役人になった。
さすれば、わが大愚叢林も大西郷の馬鹿の正統な継承者ということになる。
その大西郷が来年の大河ドラマになるという。
さて、原作者の林真理子は大西郷の馬鹿をどこまで描けるだろうか。

(平成二十八年十月二十日認)

大 愚 言・馬鹿の道号について 大愚叢林庵主 大愚東洋

2016年10月14日 21時51分22秒 | 大愚言
大愚叢林ブログの同人一覧をご覧あれ。
わが小庵では、同人諸兄に「愚」を配した道号をつける約束事がある。それは僕の号「大愚」から起因する。
「大愚」は師・三上卓の号「大夢」(晩年は大悲)と師から拝与された「馬鹿になれよ桜青葉に向きて云ふ」の句から命名したものである。
かつて、僕が畏敬してやまない東大寺管長だった清水公照老師に「偉そうな号をつけたな」と冷笑かされたことがあった。
そこで、僕が「老師の号ほどではありません」とヘラズ口を叩いたら、当分口を聞いてもらえなかった。
後に知ったことだが、「大愚」はあの良寛和尚の号であった。なるほど、過分に偉そうな号であった。
僕の道友・森田忠明は若くから「狂雲」と号していたが、何とあの一休禅師の号であった。彼もそうとは知らずに号していたようだ。
それを互いに知ったとき、二人して「図らずも、良寛和尚と一休禅師とは・・・」と、その奇遇を肴に馬鹿酒に酔い痴れたものである。
そうとなれば、良寛和尚目当てに大愚道を歩いてみようと、歩いてはみたが、馬鹿酒が効き過ぎての千鳥足。足をとられてドブに嵌まるわ。崖から堕ちるわ。満身創痍の人生だった。
やっぱり良寛和尚にはなれそうにもない。
今更ながらに、公照老師の「えらそうな号をつけたな」のお言葉が、僕の胸を深く抉るのである。

(平成二十八年十月十五日認)