花房東洋情報 大愚叢林

大愚記 花房東洋 

すさまじい男の生き様  村山紘一

2012年10月31日 09時15分08秒 | 大愚記
日本アジア親善協会会長

 何十年前になるのか、ある慰霊祭の直会で咆哮してる男がいた。「東京で俺に飯でも食わせようと思うのが一人位いないのか」と。隣の阿部勉師範に「あやつは誰」と問うたら岐阜の花房東洋だと云う。当時人様に飯を食わせるのが趣味だった小生は、早速師範に通訳を頼み、一夕から一朝迄共にしたのが始まりである。
 創造力、実行力、統率力、また自己破壊力と彼のすさまじい男の生き様に時々とばっちりを受けながらも、なおその魅力に引き付けられて止まないのは小生だけではあるまい。
 大場俊賢兄との三人の交流、伊藤好雄さんの事、また高尚なる我が師範の下半身ヒストリーに立ち入りもて遊ぶ男でもある。
 二人でのアジア旅行、国内での会食等も数えきれないが、なぜか必ず「事件」が伴うのも忘れられぬ楽しい想い出である。
 時々小生を〝兄〟扱いをしてくれたが、一度たりとも〝兄〟としての振舞いのなかった慙愧の思いを引き摺りながら、花房東洋が如何なる生き様で楽しませてくれるのか覗き見するのが楽しみである。

花房東洋さんを〝追悼〟する 大原康男

2012年10月29日 07時27分34秒 | 大愚記
國學院大學教授

 原稿依頼を受けて正直なところ当惑しました。これまで特定の人物について文を草したことは何度かありましたが、たとえば、影山正治、葦津珍彦、田中清玄、毛呂清輝、田岡一雄、野村秋介といった顔触れでも明らかなように、すべて故人に対する追憶文であって、書評は別として現存する人を対象としたのは私の記憶を辿る限り皆無だからです。
 この点を花房さん本人に話したところ、「それならば、〝生前追悼文〟でいいではないですか」と即座に切り返されました。余りにも絶妙な返球なので、苦笑しながらも諒解せざるを得なくなった次第です。生前葬なるものは時々耳にするものの、〝生前追悼文〟など他で聞いたこともありません。かかる当意即妙なやりとりが花房さんの骨頂の一つでしょう。

 初めて花房さんに会ったのはいつだったのか、どこでだったのか、誰の紹介だったのか、ほとんど覚えていませんが、爾来、これという会合には必ずと言っていいほど、その茫洋たる独特の風格を帯びた顔が目にとまり(まさに「花房茫洋」!)、なぜか知らず一種の安堵感を抱きました。祖国を思う志操の高さと他者に対する繊細な気配りとが相侯って、民族派ネットワークの要にいるという存在感は今さら私が喋々するまでもありませんが、もう一つ、無芸大飲の私が逆立ちしても叶わない多彩な趣味人であることも周知の通り。
 そのおこぼれに与かったのが昨年九月十三日、数人の道友とともに琵琶湖に船を浮かべて仲秋の名月を観るという風雅な宴に招待されたことです。絶好の天候に恵まれ、湖上を渡る涼風に肌を和ませながら、安土城址の上空から昇る月を飽きずに眺めつつ、気を許した友らと盃を交わして語り合ったひとときは忘れることができません。その感激の余り、何十年かぶりに拙い腰折れの一首が頭に浮かんだのですから……。

   信長もひそと愛でけむ初秋の
    湖に輝ふ十六夜の月

 この機会に、私と違って五十年近くも歌作に勤しんできた母が妹と二人して長年住んでいる大津の実家に立ち寄り、たまたま妹が外遊中であったため、久しぶりに親子二人で語り合うことができたのは望外の幸せでした。というのは、今まで出産以外に生涯で一度も入院したことのなかった母がそれから一か月も経たない十月七日に九十六歳で急逝したからです。〝マザ・コン〟と自他ともに認める私にとって衝撃は大きく、まだその痛手から立ち直っていませんが、突然の発症の少し前に、まだ健康だった母と楽しく昔話に耽る最後の場を得たのは、まさしく花房さんのお蔭であり、感謝の申し上げようもありません。
 以上、思いつくままに粗辞を連ねましたが、果して〝生前追悼文〟になったでしょうか。

吉田松陰論を通して 炭谷 茂

2012年10月27日 21時58分28秒 | 大愚記
元環境省事務次官
済生会理事長
学習院大学特別客員教授

 平成8年末のことである。私が当時勤務していた厚生省で、事務方のトップである厚生事務次官が多額の金額の授受による収賄で逮捕される事件が発生した。国民の生命と生活を守るという崇高な使命を有していた厚生省に対する国民の信頼と信用を一気に瓦解させる衝撃的な事件であった。この事件に何らかの形で関係する職員は、多数いることも判明し、広がりを見せた。厚生省職員の動揺は大きく、士気は低下、職務の停滞を招いた。
 こんな時に私は、かねてから尊敬している吉田松陰という人物によって公務員としての仕事のあり方と人間としての生き方を学び直す必要を感じた。
 こんな心境を当時日本マレーシア協会の理事長であった花房東洋氏に話したところ、その場で全面的に賛意を示し、協会の機関紙である「月刊マレーシア」に吉田松陰論を連載することを提案していただいた。私は、士規七則を元に執筆したい旨を話すと、数日後には国会図書館に所蔵されていた資料を沢山コピーして持参し、「何回にわたっても結構ですから、自由に松陰論をまとめてください」と暖かい言葉をかけていただいた。
 私は、ちょっと当惑した。日本マレーシア協会の機関紙という性格と松陰との接点は、全く見つからない。果たして松陰論を掲載させていただくのは適当なのか。そこは花房氏の優しいところである。「何も気にする必要はない」と気配りをされる。
 掲載は、平成9年7月号から5回に及んだ。マレーシアとの関連は、色々と考えていただいた。当時マレーシアの首相であったマハティール首相は、「歴史に学ぶこと」をモットーにしているが、混迷している今日の日本では松陰に学ぶことが有益だと連載に当たっての冒頭に書き加えていただいた。

☆    ☆

 連載を続けていくにつれ、松陰とマレーシアとの共通点が意外に多いことを私は、発見していく。マレーシアは、積極的な対外的開放策を取って国家の繁栄を促進していった。反対に松陰は、頑迷な攘夷論者と考える人もいるかもしれない。それは違う。彼は、海外の事情を詳細に把握したうえで国力を豊かにし、国家として独立繁栄して行かなければならないと考えていた。そのようにしなければ、アヘン戦争の結果、列強諸国に侵食された清国のようになるという危機感を抱いていた。佐久間象山によって海外事情を学んだり、ペリー来航時にアメリカへの密航を企てる挙にも出た。海外への関心は強く、マレーシアと同様に海外の成果を利用しようとした。
 マレーシアは、先進諸国に対して堂々と論陣を張り、国家としての誇りを示して来たが、松陰も日本国への愛は強烈そのものである。士規七則の第二則には日本が最も貴い国であることを知らなければならないと高らかに宣言している。
 花房氏は、松陰にもマレーシアにも通じている。私が連載の執筆を進めるうちに発見したことは、彼はとっくにこれを見抜き、私に執筆を勧めたのではないかと思うようになった。

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 松陰という人間の基礎を形成したものは、膨大な読書量、全国各地への旅、多様な人物との交流の3点である。士規七則の第五則には、書物を読むことの重要性を述べる。6歳の時から兵書や経書を読み、暗記し、11歳で藩主に兵学を講じたのは有名である。平戸、熊本などへの九州、白河、仙台など東北への旅など彼は、旅を重ね、多くのことを学ぶ。佐久間象山、安積艮斎など優れた学者からも貪欲に学ぶ。士規七則の第六則には、徳を身につけ、才能を磨くには立派な人物との交遊の必要性を述べる。
 私の見るところでは、花房氏も上記の三つの実践者である。古今の書物に渡る読書量は想像を絶する。これをしっかりと己のものとしていることは、その論述から推察される。マレーシア、中国等アジア各国をはじめ国内外に足を運び、見聞を広める。交遊も多分野に及ぶ。彼の思想は、松陰と同様な方法による裏づけを有している。

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 士規七則は、松陰26歳の時に野山獄中で徒弟玉木彦介の元服を祝して書いた武士の心得としての七条である。私がこの解説を試みたのは、15年前の厚生省の大混乱のときだったが、日本を含め世界各国が歴史的な混乱をしている今、これを読み返して見ると得る事が大変多い。要は、人間としての原理原則を認識し、それに従って行動することである。
 士規七則の最後の第七則では「死して後已むの四字は、言簡にして義広し。堅忍果決、確乎として抜くべからざるものは、是れを舎きて術なきなり」と述べる。松陰が最も重視した項目なのだろう。安政の大獄で彼が敢えて不利なことを自ら述べて処刑されたのは、この項目の実践だったのだろう。彼は、読書、旅、交遊によって己を磨き続けたのは、単に知識を豊富にするためではなく、実践のためである。
 花房東洋氏は、吉田松陰が士規七則によって示した途を具体的実践的に歩み続けてきたのだと思う。

花ある花房東洋さんと花なき平凡教師のご縁 岡本幸治

2012年10月26日 06時34分54秒 | 大愚記
法学博士
大阪国際大学名誉教授

 近頃初恋の愛くるしい彼女の名前も、我が子の誕生日も忘れるお歳となったせいか、花房東洋さんと初めて会ったのはいつだったか、思い出せない。多分僕が大学卒業後勤めていた三井物産を飛び出し、京都は鷹峯の小さな曹洞宗の修行寺(晩年の沢木興道老師がおられた)でしばしばタダ飯を食わせていただいていた頃かと思う。その後僕はなろうと思ったことのない大学教師の職を大学の恩師から恵まれたが、「縁有ラバ住マリ縁無ケレバ去ル、清風ノ白雲ヲ送ルニ一任ス」(大智禅師の偈の一節)という雲水の心掛けだけは持ち続けて、西日本各地の国公私立の数大学を招かれるままに移り歩いた。最後に、老親の面倒を見るため京都の家内の実家を建て替えて移り住んだところ、これがなんと花房さんの生家のごく近くであり、訪問を受けてご縁が結ばれることになった。
 この間花房さんについては、、マレーシア協会の会報でそのご活躍を承知していただけである。実は「花房」も「東洋」もかつて僕が出会ったことのない氏であり名なので、ペンネームだと信じていた。「東洋」は実名ではないらしいと最近ようやく知ったが、彼の志の在処を良く表している。そしてペンネームではない「花房」は、いささか志に反してごく平凡な教師人生を送ることになった僕から見ると、花も実もあり成功や失敗もあった波乱に満ちた人生航路を明るく彩る、羨ましいほどにぴったりの姓である。

 平成二十二年の五月に、花房さんの活動の根拠地であった岐阜を訪問し大夢館で一泊させてもらった時、建物の外観から内部の装飾に至るまで、細やかな美的感性が行き届いていることに驚いた。便箋から出版物の類いに至るまで、花房さんが使用するもの作るものには、僕には全く欠けている芸術的な何者かがある。大阪の高校時代に美術やデザインなどの勉強をしていたと聞いて、なるほどと思ったが、花房流にはその名の通り花があり、美がある。
 人間にとって最も重要な価値として、哲学者・倫理学者は通常「真善美」を挙げている。 キリスト教文明で育った欧米人特にアメリカ人などは、これらの価値の中では最初に挙げられる「真」を最も重視するが、日本人は最後に出てくる「美」を遙かに重視するところが異なっている。この特性は大和島根に豊かな四季折々の自然の恵みと色彩の変化によって育まれてきたものであろうが、日本人にとっての「美」は、視覚的・外面的な美に限られてはいない。人間の生き方、目に見えない倫理観にまで及んでいるのだ。

 「美しく(清く、潔く)」生きそして死んで行くことが、我らの歴史では高く評価されてきた。その反対である「汚い(醜い、潔くない)」生き方や振る舞いは、市井の庶民においてすら軽蔑され否定された。この場合の「美」とは外見の美ではなく、その人の内面に深く関わり行動にも現れてくる精神的な価値判断の基軸なのである。
 最近刊行したミネルヴァ書房の日本人評伝シリーズの一冊『北一輝』の序章において、僕は北一輝を「日本改造浪人」と表現した。浪人にもいろいろあるがこの場合の浪人とは、「その位にあらずとも……国家の経綸に志す者」であり、「政府または人民より頼まるるに非ずして自ら好んで天下の事に当る」人物を指している。実は浪人に関するこの表現は、大夢館の一階で偶々見つけた木村篤太郎氏(吉田内閣その他で閣僚を歴任)の色紙に書かれていた文句に惹かれて、花房館長にお願いしてコピーを送っていただき、そのまま引用させてもらったものなのである。
 志那革命の支援活動に献身していた北が上海で知り合い生涯の契りを結んだ女房すず子は、戦後ある婦人雑誌の記者の質問に答えて「北は革命家でも政治家でも学者でもない。自分自身の生涯を一枚の絵のように綺麗に描きあげようと努力した芸術家ではなかったでしょうか」という感想を述べている(序章参照)。これは苦楽を共にした伴侶ならではの、なかなか味のあるユニークな人物評であると思う。
 花房さんも結局のところ革命家・政治家・学者の類いではなかったが、その生き方には芸術家の刻印が残っている。願わくは、その特性である美的センスにいよいよ磨きをかけられ、三分の二世紀にわたる「戦後の垢」が累積して薄汚くなってしまった我らが祖国の美化・浄化に、いろいろ知恵と想像力を発揮していただきたいと心から願っている。

 僕と花房さんの人生行路は大きく異なっているが、祖国とアジアに対する志には通底するものがあると感じている。二十一世紀はアジアの世紀になるという見通しのもとに、大阪で関西の学者と共に立ち上げた「二十一世紀日本アジア協会」はその一つである。
 古希を超えること五歳、徒に馬齢を重ねた僕は、靖国の庭で会おうと言い交わして祖国のために散華された先人たちに恥かしくないように、及ばずながら日本真生(単なる新生ではない!)の努力を重ねたいと考えている。この春、靖国の桜が花開く頃に京都で立ち上げた〈日本真生塾〉がそれである。「一隅照灯」を実行し、「美しき日本」を創建する志を持った草莽の士の種を、この国から絶やさぬようにしたいと願っている。
 この方面における多くの体験知・経験知をお持ちの花房大人には、京都紫野に閑居して養老に励むという生き方は最もふさわしくないものである。指導層に小愚・小賢の目立つようになった祖国に今後とも喝を入れ続ける「大愚」として、祖国日本の〈真生〉のため、更なるご活躍とご奮進をいただきたい。喝!

私の心の中の花房東洋先生 余 志遠 

2012年10月26日 06時19分10秒 | 大愚記
中国冶理荒漠化基金代表

一、花房東洋先生との出会い
 二〇〇二年の半ば、世界中はサーズという伝染病が拡がっていた。当時、中国の国家主席に登場したばかりの胡錦涛は全力投球して中国全土、特に北京と上海など流動人口の激しい都市に対して、厳しい対策を実施しました。
 多くの在留日本人が避難帰国する中、わざわざ中国へやって来た人がいました。
 それが花房東洋先生でした。
 花房先生とは上海の浦東空港であることから知り合いとなりましたので、私から日本居酒屋の「栄」というところへ誘いました。店は満席だったので最初はカウンターで飲み始めたのですが、暫らくすると、店のオーナーが、私のいつもの席に案内してくれました。そうすると、私の友人である在上海日本国総領事館の田尻和宏首席領事が隣の席で日本人同士で飲んでいました。私は田尻さんに「こちらは花房さんです」と紹介したら、田尻さんはすぐ立ち上がって「花房東洋先生ですか」と言い「実は外務省から電話があって〝花房東洋先生が上海に訪れられている。先生の仕事と安全の面で協力するように〟と指示されていました。この電話は私が受けたのです」と説明されました。
 偶然な出会いで、私は日本外務省に重要視された花房先生を首席領事の田尻さんに紹介できたことで、とても面子がたったという感じが致しました。

二、GPSで在留日本人の安全保障の事業展開 二〇〇二年当時、在上海に登録した日本人の人数は約六万人でした。治安が良い大都市といわれる上海でも公安局の発表によると、毎月、平均二、三名の日本人が殺されたり、怪我をしたりする被害にあっているとのことでした。
 花房先生は〝これを何とかしないといかん〟と言われ、私は上海市金山区の公安局長・沈永根と知人でありましたので、そのことを相談しました。沈局長は上海市内の車の防犯GPSシステムを研究し、実用化した人です。座席の下にGPSを設置し、車が盗まれた場合、公安局内のコントロールセンターに電話すると、この車の行方がすぐに画面に写し出されます。センターで一つボタンを押すと被盗車がエンストになり、パトカーがかけつけて犯人はそのまま逮捕されます。このGPSシステムのお陰で上海市内は数年間、車の盗難事件は一件もなかったのです。
 この実績の上で、花房先生は京セラの携帯電話に、このGPS機能をつけることを考えられて、武漢大学と連携、ソフトの開発を始めました。三ヵ月後、すべて完成し、公安局内にコントロールセンターを設置しました。在上海日本人にこの携帯電話を持たせて、緊急事態の場合、携帯のボタンを長く押すとセンターに通報、すぐに対応します。
 ここまで出来て、これから利益が上がるというときに、花房先生は「これからは私の仕事ではない。役目は終わった」と辞めてしまわれました。

三、花房先生と「中外交流」
 二〇〇三年に私と人民日報の記者・殷春山と友人・顧授根が「中外交流」という月刊グラフ誌を託されて、全国各地を訪れました。取材・記事・広告など清華大学理工学部卒の私に編集のような仕事は苦手で、どう前に進めるか困っていたところ、花房先生が出現し、専門的な立場から助言協力してもらえました。
 また、取材の仕事で江蘇省の揚州市の市長を訪問するとき、花房先生にも同行してもらいました。花房先生は揚州のことは何も知らないのに、揚州に向う車の中で学習して、揚州市長と会談するときは、堂々と外交官のような態度で揚州について語っていました。それから、私達は「中外交流」の取材には花房先生を同行するようになりました。浙江省の紹興酒の古里・紹興市や諸葛亮孔明の故郷・蘭湲市など、諸葛孔明村では案内人の小柄な田舎美人(一八歳ぐらい)に「日本人は怖いと思っていたけど優しい」といわれ、とても喜んでおられました。
 また、ある市では役人の対応が悪いと途中で怒って帰ってしまわれました。全然知らない街なのに、どうして一人でホテルに帰れたのか、不思議でした。でも、翌朝は皆で仲良く記念写真を撮りました。
 いい旅でしたネ!またご一緒したいです。

四、子供を一〇〇人まで作りたい
 花房先生は「明日僕の五番目の女房が上海に来る、、余さんも一緒に夕食しませんか」と誘われました。五番目の奥さんは、お腹に三ヶ月の子供を妊娠しているという事でした。実は、花房先生は法的な結婚は三回だけで、三番目の奥さんは会社を運営し、全ての事業を支え、特に度量が広い。花房先生と子供が出来た愛人に給料を支払うことになっております。
 花房先生は「子供を一〇〇人まで作りたい」と私に言いました。私は「歳の所為で多分無理でしょう」と答え、私の親友の陸久之先生を紹介しました。
 陸先生は一九〇二年、上海生まれ。一九二四年日本早稲田大学卒、上海で新聞社を設立、解放区に薬品などをずっと手配したそうです。当時、上海で地下活動している周恩来の安全もよく手配した事があったらしいです。だから、一九六六年に始まったプロレタリア文化大革命時に、周恩来は陸久之先生を軍隊に保護するよう指示を出し、陸先生の命を守ったのです。なぜ当時の革命紅衛兵は陸久之の命を狙ったのか。実は、陸先生は蒋介石の娘婿でもあったのです。陸先生の結婚は三回でした。一回目は日本に留学時代、中国駐日大使の娘、二回目は、上海防城軍司令・湯恩伯の姉、三回目は蒋介石の二番目の妻、陳潔如の養女の陳瑶光でした。陸先生は肌が白くて、綽名は「小梅蘭芳」といって、大変な女好きで沢山の女と交際しました。陸先生は蒋介石の娘婿ですが、国民党の右派からは親共とみられていました。陸先生の経営する新聞社が強行閉鎖され、南京東路・冠龍写真館の二階にある事務所の家賃が払えず、私の姉が五〇〇万元の小切手を渡したそうです。それから私と陸先生の交際は始まりました。

 私の姉・胡静嫻は、戦前に中国に来た新潟県出身の勝海源一郎(田中角栄元首相の少年時代の恩人・中日国交回復の足がかりとなった人)と結婚し、日本名・静子と名乗り、八人の子供ができました。蘇州と無錫に紡績工場を営んでいましたが一九六三年、日本に帰国しました。その時、私は北京の清華大学在学中で勝海との連絡を絶ちました。「海外関係」は一切絶ったのです。もし勝海のような「海外関係」があると判ったら、清華大学で同期生の現・国家主席になった胡錦涛と共に共産党へ入党することはなかったでしょう。
 花房先生が陸久之と逢ったとき、陸先生は一〇二歳でした。陸先生は「日本語は忘れてしまいました」と言いながら、日本語でペラペラ交流されました。全然ボケておりません。陸先生の一〇〇歳の誕生祝賀会を、上海市人民政府が主催で政府の大礼堂で盛大に開かれました。海外からも息子・娘・孫・曾孫を合わせて一〇〇人以上やって来ました。
 陸先生は旧友・ゾルゲの伝聞を気にされていたのですが、花房先生から贈られた「ゾルゲ」のDVDを満足そうに観ていました。
 「一二〇歳へ進軍」を目指した陸久之先生は二〇〇八年の旧正月の初二の朝、ヨーグルトを飲んだ後、息をひきとられました。終年一〇六歳、病気もなく苦痛もなく人生の幕を閉じられました。
 花房先生、陸久之先生に負けないようにこれからもがんばってください。



私が感じた東洋さんの「匂い」 頭山興助

2012年10月25日 09時08分46秒 | 大愚記
農村資源開発協会理事長
ゆずり葉連句の会同人

 花房東洋、誠に晴れやかな良い名前ではありませんか。
 世間には何回聞いても一向に覚えられない名前がよくあるものである。勿論若い頃から花房東洋と云う名前は身近かに聞いて良く知っていたが池田憲彦(龍紀)さんの紹介で初めて会ったのが四十前後の頃だったと思う。
 彼とはそれが初対面でしたが私の二人の兄(故統一、立国)とは前々から、三上卓先生の会など、志の合った人達との会合では良く顔を合わせていた様でした。その頃の小生には兄達が居たせいで下世話な事ばかりに興味があったのでしょう。仲々本当の青年運動家と話す機会はありませんでした。しかし初対面の私の事を良く理解してくれていて、元来家の堅苦しさから逃げ街に居場所を求めていた私でしたから、洒脱な花房氏との付き合いは急速に近まり、特にマレイシア協会が池袋から麹町に越して来てからは、その近所にいた私と彼と一体の様な毎日を過ごしていました。今思えば、私にとって運動家としての基本を身につけた非常に大切な時期であったと思います。
 その頃の彼は何時も死のうと思っている男であった様に思う、だからこそ、昼でも夜でも一晩中でもこの世の生を楽しんでいるのだろうと感じた。

 私の子供の頃、父親の周りに居た黒龍会の方達や戦後、三国人から東京の街を守ろうと立ち上がり、そのまま皇居前広場の血のメーデー事件以後反共運動戦線にところを変えた特攻帰りの当時の青年たちに共通する匂いを彼から感じたし、又私の父秀三と共に五・一五事件に連座した三上卓先生と師弟の仲にあった彼に、早く亡くなった父親の遺言の様なものを見出そうとして居たのかもしれない。
 兎も角その後「ゆずり葉の会」を作り二人とも猛烈に俳句遊びに熱中した。そしてその会で沢山の有能な素晴らしい同志を得た。今私が携わっている多くの若者達によるモンゴル、中央アジア、インドネシア、クルド、台湾、日本古来農業精神、反日本戦後教育、真の近代史を学ぶ集い、などの集まりの基礎は全部と言って良いくらいこの時期に基礎がためが出来たのだと今振り返ればそう想われる。
 今まで私を支えてくれた方達が随分鬼籍に入られたが、いつも死にたいと思つている彼が今も飲み屋で女を脇にはべらせ意気軒高、勝手な事を言っているのが不思議でならない。
 私が聞いた彼の善行は中国で大場俊賢氏の命を救った事以外に無いはずであるが、それを神様が良しとされ天国へ送ろうとするのを、堅苦しい事を嫌う本人がなんとか神様に上手い事を言って、この世においてもらって居るのではなかろうか。

『大愚記』の出版を祝って 三次真一郎

2012年10月24日 06時31分44秒 | 大愚記
常陸大宮市長

 長兄畏友と仰ぎ、酒徒酒友の花房東洋さんから、自伝『大愚記』を上梓したいので寄稿して欲しいと頼まれた。目下、東日本大震災の復旧・復興を最優先に取り組んでいる最中なので(無理だな)と内心思ったものだが、「行政のことでも、何でもいいから」という言葉に強く押され、京都での酒席の借りもあって無下に断われず、思いつくままにこの散文を書くことにした。先ずは花房さんとの出会いからだが、「頃は大正の末年、いと夕風の涼しき頃、所は三州横須賀村、印半纏、捩りの外套、草鞋に乗せたる身も軽く、現われ来たるは…」 (早稲田大学第二校歌『人生劇場』台詞)風に言えば、「頃は昭和四五年の三島由紀夫事件の前後、いと蒸し暑き夏の昼頃、所は中野新橋の青木哲マンション、背広姿にネクタイをきりっと締めた花房某が低音のよく通る渋みのある声で挨拶しながら部屋に入って来、迎えた三次某は白絣の着物に越中という出立ちで…」ということになろうか。そのときの花房さんは(今でもそうだが)どこから見てもサラリーマン風には見えず、堅い意志を待ったその筋の者か芸能関係者を思わせるような風貌を満々と湛え、その初対面の印象は今に至るも鮮明に記憶している。

 歳月は人を待たずという。花房さんとの邂逅から早くも四〇年が経ち、青木さんが逝って三〇年、今またこれを書いているときに大昭会の水戸の吉野詮さんの訃報(平成二三年九月二五日)が届いた。感慨ひとしおのものが去来する。
 ところで私は昭和三九年に水戸の高校に入学し、平泉澄先生門下で水戸学の第一人者、名越時正先生に師事した。この年は藤田小四郎らが筑波山に尊王攘夷の旗を挙げた元治元年(一八六四)の天狗党事件から満百年にあたり、水戸一高史学会として調査研究を分担。私は事件の首謀者のひとり、田中愿蔵を担当した。昭和四三年に早大入学。日本の歴史と伝統を学びながら全国の民族派の人たちと交流を深めていった。一方、高校・大学の先輩で尚史会、楯の会のメンバーである新堀喜久さん、篠原裕さんの紹介で水戸の愛郷塾に出入りすることになり、橘孝三郎塾長が亡くなる日の朝まで最晩年の弟子として教えを戴いた。このことが後に花房さんと出会うきっかけになるのだが、その基は橘塾長と三上卓先生の深い繋がりにあることは言を俟たない。

 橘塾長は明治二六年、三上先生は明治三八年のお生まれである。一二歳年上の塾長は三上先生の話になると太い皺の入った大きな顔を綻ばせ、「三上という奴は、年は若いが本当に大した奴じゃ」という褒め言葉をことあるごとに何度も何度も繰り返しておられ、今ではこのフレーズ化した言葉とその場のシーンが懐かしく想い起こされてならない。思えば、昭和三九年に高校に入学して日本の国体に目覚めてより昭和四九年三月に橘塾長が亡くなる間の一〇年間、すなわち満一六歳から二六歳が私自身にとって自己研鑚と交流の期間であった。この間、名越時正、平泉澄、田中卓、三島由紀夫、橘孝三郎といった人生の師の謦咳に接して発奮し、同世代の今は亡き森田必勝、阿部勉さんたちからも多くのことを学ぶことができた。昭和四六年五月のことである。愛郷塾にいつもの若いメンバーが一〇人ほど集まっていた。これまたいつものように内外の情勢論を語り終えた塾長の眼がギラッと光り、「今度(六月二七日投票)の参議院の選挙にお前、出ろ!」「出られません」 「三次、お前はどうだ!」「二三歳なので出られません」等々のやりとりが交わされた。塾長は参議院の被選挙権が三〇歳以上という法律を知らなかったのか、あるいは全員が三〇歳以上だと思っていたのか今となっては知る由もないが、この指示がきっかけとなり、昭和五〇年八月、満二七歳となって被選挙権を得ていた私は学生の分際で町の議員に立候補、当選したのである。その後、平成一一年に山方町長となり、花房さんからNEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)を紹介していただいて環境負荷の少ないまちづくりを目指し、自然エネルギーの導入に基づく調査研究に取り組んだ。

 昭和四八年二月、橘塾長の命で私は東京都世田谷区野沢の福田赳夫邸を訪ねた。邸門の前には要人警護のために制服の警官が立ち、朝の挨拶を交わしてから同伴の牛嶋徳太朗と邸内に入った。訪問の目的は、既刊『天皇論』(橘孝三郎著)を英訳した『英文天皇論』を発刊する予定があることの報告と支援の依頼である。早朝七時というのに背広・ネクタイ姿の福田自民党副総裁が迎えてくれ、数人の秘書を前にして「塾長はお元気ですか? お変わりありませんか?」と弱輩のわれわれ二人に丁寧に尋ねてくれもした。そして昭和五二年三月三日、伊藤好雄さんを隊長とする経団連事件が起こる。その翌日、花房さんは動いた。事件を支援する蹶起計画の立ち上げである。何とその中のひとつに、「副」が取れて自民党総裁になっていた総理大臣の福田邸を同年一二月二三日にダイナマイトで襲撃するという大胆不敵な計画が含まれていた。結果は未遂に終わったが、世にいう国民前衛隊事件である。昭和四八年に福田副総裁の協力を要請した私。昭和五二年に福田総理の私邸を木っ端微塵にしようと企てた花房さん。ここでもまた感慨ひとしおのものが去来する。

 昭和四五年一一月二五日に三島先生、昭和四六年一〇月二五日に三上先生、昭和四九年三月三〇日に橘塾長を黄泉に送り、昭和六四年一月七日に昭和天皇が崩御されて昭和の御代は終焉を迎えた。平成の御代の幕開けである。その平成元年、在マレーシアの土生良樹さんが『日本人よありがとう』を出版した。平成三年一一月一二日から五日間、花房さんを先頭に㈳日本マレーシア協会主催の「マレーシア親善交流団」が編成され、伊藤好雄、大場俊賢、山浦嘉久さんたちと共に参加した。そのときの私の目的は、土生さんの出版記念パーティーでお会いしたラジャー・ダト・ノンチックさんに再会することだった。クアラルンプールで開催された懇親パーティーでは大勢の人を前に、マレーシア下院議員と上院議員を務めたノンチックが言った。「私たちアジアの多くの国々は、日本が大東亜戦争を戦ってくれたから独立できたのです。植民地として支配していた西欧諸国を追い払い、白人には勝てないと諦めていたアジアの民族に、驚異と感動と自信を与えてくれたのです」と。再び私は感動し、当時六五歳だったノンチックさんに力強い握手で感謝の心を伝えたのである。
 ──先人たちは日本の国と社稷のためにいつの時代も絶えたるを継ぎ廃れたるを興こし、夢と情熱と使命感を捨てずに生命を掛けて革新に挑んできたが、すべてがビジョンどおりになるとは限らず「人生意気に感じては成否を誰か論ふ」(『青年日本の歌』)と詠う心の余裕も持たなければならなかった。思うに、同じ時代に生き、その時代に生かされ、時代と共に生きてきて、時代を共有してきた者として今その思いの火を消すことなく、吉田松陰先生が『士規七則』にいう「死而後已」の四文字を忘れず、簡潔だが意義深いこの言葉を胸の奥深くに刻んで生を全うしようと思っている。結びになるが、「酒は人を酔わさず、人自ら酔う。色は人を迷わさず、人自ら迷う」(『明心宝鑑』)の神髄を私に教示してくれたのは花房東洋その人である。畏敬の念を抱きつつ、本書が上梓された頃には京都で最も古く由緒と格式の高い上七軒で盃を交わす約束が既に果たされていることを誓い、花房さんのさらなるご健勝とご発展を心から祈念して擱筆する。

花房東洋先生印象記 李 賛東

2012年10月24日 06時23分00秒 | 大愚記
北京農業大学教授
 故羽田辰男弁護士から花房東洋先生に関する話はよく伺っていましたが、お目に掛かれたのは二〇〇六年の秋です。娘の阜美が大学に入学し、久しぶりに一緒に岐阜に帰った時に羽田先生のご主催で私のための賛東会が開かれ、その会場に先生がいらっしゃったのです。私の席から少し離れた席に座っている先生の姿は几帳面で、お医者さんのイメージでした。その日は挨拶のみであまり話ができなかったのですが、その後北京で二回お目にかかりまして、いろいろお話を伺いました。上海で事業を起こし、有名な胡錦華さんが会社の顧問を担当していること、数回結婚され、子供さんが一二人いらっしゃるなどびっくりしました。パワフルな方です。

 一回目北京でお目にかかれた時に王府井の五つ星ホテルのレストランで食事をし、翌日北京の西にある有名なお寺を案内することになりました。大学から西に行くのが近かったので、知り合いの運転手が花房先生の名前の書かれた紙を持ってホテルに迎えに行きました。王府井は北京の繁華街で、ホテルが多くあり、王府飯店というフォーマルなホテルと王府井飯店という普通のホテルが一キロ離れたところにあります。私は花房先生は偉い方なので、王府飯店にお泊りと思って、運転手をそのホテルに送りましたが、実は王府井飯店にお泊りでした。とても質素な方です。

 タクシーの運転手がやっと王府井飯店に行き、先生を乗せて、大学の宿舎に辿り着いたのは、二〇〇七年一〇月一八日の月曜日の午前一〇時過ぎでした。その日は私の住むビルの地下室で殺人事件があった翌日で、私服の警察がまだビルの周りにいました。私の家は六階ですが、三階に住んでいた中年の女性が地下室で一八歳の警備員に殺された事件でした。事情聴取で家のドアをノックされた時に見たことのある、ちょっと太った若い警察が一階の入り口近くの芝生に座っていました。花房先生がタクシーの中で、その人を指差しながら警察だろうとおっしゃいました。私はびっくりしました。「どうしてわかりましたか」と伺ったら、「臭う」と答えました。鋭い感覚の方です。

 北京の西にある山の上までタクシーで走り、譚澤寺をゆっくりと見学し、近くの農家で昼ごはんを頂きました。お話のなかでは携帯もあまり使わないようでした。二人で写真を撮り、大きく引き伸ばして岐阜の皆さんに見せるとおっしゃていましたが、取り出したカメラがフィルムを巻く十数年前の形で、今の中国ですらあまり見かけなくなったものです。シンプルな生活をされる方で、二〇世紀に残されたような感じでした。北京を離れてまもなく、先生から連絡がありました。昔の友人が在中国日本大使館に勤務していることを知り、近いうちに再度北京を訪れるとのことでした。楽しみに待っていたのですが、訪中予定の二日前に電話がありました。旅券の期限切れで今回はキャンセルですとのことでした。その後しばらくして再度中国訪問を計画しましたが、数日前に特別な事情で来られなくなり、結局三回目にやっと訪中は実現し、昔の友人で、当時日本大使館の筆頭公使である方、日本テレビやTBS北京事務所の方にお目にかかりました。花房先生のお陰で私も素敵な友人が沢山増えました。大らかないい方です。

 二〇〇八年三月末に羽田先生のお家でホームパーティーがありました。そのときに花房先生が越乃寒梅一升瓶をお土産に持っておいでになり、羽田先生がおいしい手料理を作ってくださいました。また、いつものように熱心にいろんなお酒を皆様に注がれ、楽しい一晩を過ごしました。翌日午前に羽田先生と岐阜市の安藤教育長を訪問し、これから青少年交流活動に協力することを相談し、私はそのまま空港に向かい、岐阜を去りました。羽田先生との最後の晩餐会でした。その最後の晩餐会に花房先生が同伴されたことは不思議です。花房先生は賢く、ご自分の考え方をしっかり持っていらっしゃる方で、話も面白い方です。素敵な友人を紹介してくださった羽田先生に感謝しています。

「東洋さんの子供が欲しいの」 野田聖子

2012年10月23日 07時32分58秒 | 大愚記
衆議院議員
元郵政大臣

 東洋さん(あえていつもの呼び方にさせてもらいます)との出会いは、私の祖父である野田卯一の時代まで遡ります。当時、「ベトナムの子らに愛を捧げる実行委員会」なるものがあり、会長が野田卯一、事務局長が東洋さんでした。祖父と東洋さんはある方の共通の知り合いでその方を通してこの職に就き知り合ったと聞いています。その後、祖父は東洋さんにいろいろとお世話になりました。私は26歳の時、岐阜県議会議員を志しました。祖父は当初、私が政治家になるのには反対でした。最後は祖父も認めてくれたのですが、それでも祖父の支援者の中には若いからとか女性だから等、いろいろな理由で反対する人が多かった。そんな状況の中でしたが、東洋さんはたくさんの会合に私を呼んでくれたのです。確か岐阜市民会館だったと記憶していますが、東洋さんが主催している歌謡ショーに祖父が呼ばれていて、一人でも多くの方に私を知って貰いたいという思いから、祖父が東洋さんに「孫の聖子を舞台上で挨拶させてもらえないか」と頼んだところ、二つ返事でショーの幕間に挨拶の場を設けてくれたのです。その時が東洋さんとの初めての出会いでした。

また国会議員に当選した直後は、「父親代わりと思って何でも相談しなさい」と自民党本部の調査役であった杉本榮一さんを紹介してもらいました。永田町のノウハウを全く知らなかった私に杉本さんは一から十まで懇切丁寧に教えてくれたのです。そのお陰で、今も国会で迷うことなく仕事をさせて頂いているのだと思っています。振り返って見ると、私の人生の節目節目に大きな役割を果たしてくれたのだと改めて思います。東洋さんはスリーピースをビシッと着こなし、短髪で眼光が鋭く、近より難いイメージを誰もが感ずる方であると思います。事実、私も初対面の時はそう思いましたから。でも、実際は物腰が柔らかくナイーブなところがあり、そのギャップに驚きます。

 こんなエピソードがあります。私は50歳になって漸く子どもを授かりましたが、長年不妊治療をしていて望みがなかなか叶わないでいる時に「東洋さんの子どもが欲しいなぁ」と言ったことがある。その時、東洋さんは唖然として沈黙していた。どうしたのだろうと思った。どうやら、私の言い方が悪かったらしく勘違いをされてしまったのです。私は、東洋さんには子どもが沢山いるから、一人養子に欲しいと思っただけなのに、東洋さんはどうやら・・・。そんなシャイなところもある東洋さんです。

 最近、お目にかかることが殆どなくなってしまいました。弟は時々会っているようだけど。東京、岐阜、京都、時には海外へ行ったり来たりしているので、何処に居るのか判らない。私も移動ばっかりの生活だから日程が合わないのは当然だけど。身体を何回も壊して入退院を繰り返しているのにまだ、朝(時には昼)まで呑んでいるのだろうか?その点だけが心配になります。もう若くないのだからほどほどに。最後に、この本のタイトルを「大東洋史」っていうのも良いかもねと言ったことがあります。そしたら東洋の歴史を研究している人が間違って読んでしまうかも知れない。そうなったら申し訳ないと・・・。いかにも東洋さんらしい。

大器菩薩花房東洋よ起て!! 西垣内堅佑

2012年10月22日 08時40分10秒 | 大愚記
弁護士
国際縄文学会理事長

一 花房東洋は大器としてこの世に誕生した
花房東洋の姓は、花房という。花を咲かせ、房をつけ、やがてその実を土に落とす。彼は種となる実をあちこちにせっせと植えている。土の中の実はまた芽を出し花を咲かせる。彼は蒔いた種が育つのをじっと待っているかのようだ。五年後になるか十年後になるかわからないが、さて、どんな美しい花を咲かせるか。
花房の名は東洋という。彼の最初の名は「治」であった。政治家になることを嘱望されたのだろうか。彼の母方の祖父は、十代にして、明治維新後に起こる西南戦争で西郷隆盛軍に参軍した。しかし、西郷に諭され西郷軍を離れ、京都に流れ着き定着した。花房には、義に殉じ自刃した西郷の理想に共鳴した祖父の血が流れている。では、西郷の理想とは何か。当時、日本を含む東洋の地は、いたるところ西洋の植民地と化していた。西郷はそれに対し激しい怒りを持ち、日本が植民地化されないように奔走した。そして更に、東洋の地における植民地解放を目指す理想を持していた。花房が一六歳の時、維新の志を持ったこと以外、彼が若き日どのように生きていたかは知らない。しかし、彼は、成人した後に、岐阜家裁で手続きをして、自らの名を「東洋」と改名した。土佐の吉田東洋からとったのだという。「東洋」とはなかなかシンボリックな名をつけたものだ。光は東洋から放たれるからだ。文明八〇〇年周期説によると、今、文明は西洋から東洋に移行し始めたという。西の米国が没落し、東洋に曙が訪れている。西洋文明が世界を支配した時代が終わり、いよいよ東洋が盛り返す時代に入ったのである。さて、彼とは妙なところで出会い、縁とは不思議なもので、それ以来ずっと付き合うようになった。その間に分かったことは、名のとおり彼が大器としてこの世に生誕したことだった。

二 花房東洋は獄中に縁があり、苦難を花とし華と化した
花房と初めて会ったのは霞が関にある警視庁本庁代用監獄であった。三島由紀夫の楯の会のメンバーであった阿部勉に頼まれ、花房に面会にいったのだ。容疑は竹下登に拳銃が送られたのであるが、それに関与したというものであった。面会室で会った彼は大いに元気だった。逮捕されたことにもへこたれた様子を微塵も見せていなかった。彼は、容疑を全面否認し、起訴された場合は法廷闘争を考えていたようだった。だが、彼には立派な弁護人が既についていたので、面会をしただけで、それ以上深入りすることはしないようにした。ほどなく、彼は、起訴されることもなく、処分保留で釈放された。私は、この事件の背景も思想的背景もまるで知らずに面会に行ったのだったが、釈放されたことを素直に喜んだものだ。その後、彼はある社団法人の理事長などをしていた。同協会は著名な国会議員が会長をしており堂々たる社団法人であった。釈放されてから十年位たっていたと思うが、彼は環境問題の団体作りをするというので、環境問題ならコミットしてもいいかなと思い、お手伝いをした。彼は環境省事務次官をキャップにして事を進めており、彼の人脈の大きさと広さを知った。ところがだ、更に二十数年後、何とまたもや、彼は逮捕されてしまう。岐阜でのことだったので、名古屋市の著名な弁護士が対応した。私はタッチしなかったので、詳細は不明だったが、ある保守系の国会議員を潰すための謀略だったのではないかと噂されていた。

 岐阜での逮捕は二回あったが、一回目のときは、その直前、彼と二人で中国を旅し、日本に留学した中国人と交流する予定だった。しかし、彼の逮捕により、私は一人ぼっちで、中国に旅だった。それでもNPO法人国際縄文学協会理事長として、私の関心は考古学・縄文・新石器時代にあったので、紹介された北京の博物館なども訪ねたりした。そこで、日本へ留学した中国人考古学者の説明をうけながら、北京周辺の新石器時代の発掘物の展示を見学できた。それはそれで目的を達することはできたので満足だった。また、日本に留学し、今は、北京大学の環境問題を研究する教授や清華大学の教授になっているそうそうたる人物たちなどと懇談し、中国の環境問題の深刻さを知ることができた。同時に日本が縄文時代以来、自然とりわけ森林を大切にしてきた歴史を紹介することもできた。これもひとえに花房や日本の某テレビ会社の人などがお膳立てしてくれたおかげであった。それにしても、花房が、逮捕されたことはくれぐれも残念なことだった。しかも、花房は日本に留学した中国人を日本に招待して、日本の識者と懇談・交流・対話する場を企画していただけに一層残念なことであった。

冤罪を手掛け、数々の無罪放免を勝ち取った弁護士の私の目から見れば、彼に覆い被さってきた事件は奇妙に見えた。無理矢理事件にされ、逮捕されたように見えた。やがて彼は釈放された。しかし、彼は社団法人の役職を退き、某国会議員の新党設立の旗上げは頓挫した。政権中枢にいた某氏による謀略工作は効を奏したのであった。色々なアクシデントがあったが、彼は事態の推移を引き受け、何もぐちることはなかった。懐が大きいのである。大器なのである。彼が大人物だということを示すもう一つのエピソードを紹介しておこう。彼は女性にモテモテなのである。彼と会う時、よく女性同伴の時が多い。英雄色を好むというが、花房の花は両手に花なのである。それはそれは華があるのだ。女性とトラブルがあってよさそうなものだが、そのようなことはおこさないのだ。女性たちを包み込むのか、全て受容してしまうのか、心広き故なのか、問題が起こってもすぐ解消してしまうのだろう。獄中に呼び込まれても、苦難を花とし華と化してしまうのと似ているのだ。大器の所以である。

 もう一つのエピソードをつけ加えておこう。私が親しくしていた亡き鹿島弁護士と花房は、交流があったということについてである。鹿島は、天皇の歴史は外国の歴史の焼き直しであるとか、孝明天皇は暗殺されたのだとか、明治天皇すり替え説などを唱えていた異端の人物である。戦前は早稲田の大学院で刑法を学ぶ学徒であり、熱烈な天皇崇拝者であった。天皇は神聖にして侵すべからず存在であり、神であると信じていた。ところが、アメリカとの戦争に負け、天皇は人間宣言をし、戦後の価値観が一変した。鹿島の頭がぐちゃぐちゃになり、自分の頭で考えなきゃと反省した結果が、異端扱いされる天皇論に導かれてしまったのであった。鹿島は他の者と天皇のことを語り合い、自分の考えに間違いないか確かめる必要があったのではなかろうか。花房はその絶好の相手として適任だと考えたのだと思う。花房が鹿島と知り合ったのは、今上天皇のご学友である広橋興光(梨本宮家出身)を介してだという。以前、鹿島のお嬢さんが結婚した時、私も招かれて列席者を鹿島から紹介されたが、旧皇族関係者や徳川家の者が多かったことに驚いた。鹿島にはそういう面もあったのである。花房も似たような所があり、両者には介在するそうした層の人がいたのであった。

 鹿島と古代史好きな私はよく一緒に韓国に行った。鹿島の研究に必要な古文献が韓国にあるのだということであった。古文献を持っている韓国人と会うのだと同席させられたりもした。あげくの果てに、鹿島と、弥生・米のルーツを探索すべく揚子江の源流を遡り中国の国境近くの昆明や天理まで行ったことがある。また、明治天皇すり替えの生き証人大室近祐に会うのだと、山口県田布施町の大室近祐宅に二度ほど同行させられたりしたこともある。私は、鹿島に反論もせず、かといって、それほど熱中するということもなく鹿島説に対応していたので、私では物足りなかったのだと思う。花房なら反論もあり、語り甲斐があると踏んだのだろう。花房いるところ、いたるところに鹿島が出没したのである。花房がバンコクに行った時、ひょっこり鹿島がホテルに訪ねて来たそうで、さすがの花房もびっくりしたようだ。花房は大器であるから、言うべきことは言うとしても、まぁどちらでもいいんじゃないという鷹揚な態度で、鹿島の話を包み込むように聞いたことはいうまでもない。二人の対話は決裂することもなく成り立ったのである。

 最近、明治天皇すり替え説について、インターネットの世界では大賑わいであるという。また、最近読んだ『天皇の暗号』を書いた大野芳が明治天皇すり替え説の謎に挑戦している。あとがきでは、毛利敬四郎から「明治天皇は長州の御方」と聞いたことについても触れていた。また、『月刊日本』誌に「疑史」を連載している落合莞爾が、「堀川辰吉郎と閑院宮皇統」で、大室寅之祐・明治天皇すり替えを認めている。ただ、孝明天皇と本物の睦仁親王は暗殺されていないとも書いているのだ。岩倉具視のはからいで、南朝明治天皇による明治維新が不首尾に終わる場合をも想定し、北朝天皇を堀川御所に温存したのだという。どちらでも大丈夫なように対応していたことになる。さすが、どちらでもいいんじゃないと対応した花房はやはり大器であったのである。

三 維新・革命者花房は何を夢見るか
花房の師は、戦前歴史に名を残した三上卓である。五・一五事件で獄中にいたあの三上卓である。
花房の話では、彼は三上卓のカバン持ちをしていたという。しかし、三上はいつも、あれこれ師として訓示を垂れることはしなかった。何か行動をしなければならない時でも、具体的指示をせず、自分で考えなさいという態度を示していたのである。花房にとって、今になってみれば、それが役にたっているというのだ。何故ならどんなことがあろうとも、自分で考え行動するようになったからである。もっとも、あれこれ考えているよりまず行動する。つべこべ言っているより、まず行動するというところは、三上卓から学んだ最大の功績だそうだ。ところで、以前から彼の師は三上卓一人では無さそうであると睨んでいた。何故なら、あの懐の大きさ、あのあらゆるものを包み込む力能、打てば響く才覚は、他にも師がいることを窺わせたからである。それで率直にその点について聞いてみた。やはり睨んだ通り師は三人いるとのことであった。三上卓以外に、生長の家の谷口雅春、そして仲小路彰。花房は、谷口からは本を読み愛国心などを学んだ。仲小路は、今は知る人が少ない人物だが、地球文化研究所所長で、東大出身の哲学博士。五高時代に元総理の亡き佐藤栄作と同期。佐藤ニクソン会談に強く影響を与えた人物である。最近、GHQ没収図書の仲小路の『世界戦争論』『第二次大戦前夜史一九三六・一九三七』『欧州列強による太平洋侵略史全六巻』等が復刻出版されている。花房は仲小路からグローバリズム、世界連邦について学んだ。山中湖に住んでいる仲小路の家で、一週間こもって教わったそうだ。「お前のは、うわべだけのものだ」と指摘され、うわべでない奥義を教えられた。そうしたこともあり、彼は巾の広い視野を持った人物となったのである。

勿論、軸になっているのは三上卓なのだろう。岐阜の館大夢館には、三上の遺品を展示するフロアーがあるし、岐阜の護国神社に、三上の碑を建立している。花房東洋編で『民族再生の雄叫び「青年日本の歌」と三上卓』を発刊している。しかし、他方でグローバルな志向から中国、マレーシアなどの東洋だけでなくリビアにまで行動範囲を広げているのだ。
 かつて、花房は、世界革命浪人今は亡き竹中労とピース缶爆弾の亡き牧田吉明と三人でリビアに行っている。最高指導者カダフィ大佐と会見するためであった。私も、単身で一九七〇年代初め頃、リビアに行ったことがあるので、少しはリビアのことを知っているし、関心を持っている。当時、リビアはカダフィ大佐が革命を起こし、リビアには熱気がこもっていた。私は弁護士の仕事で行ったので、カダフィ大佐と会見する必要はなかったし、会おうという発想すら起こらなかった。むしろ、古い時代の遺跡とか博物館を観て回った。花房たちはエライと思う。カダフィ大佐に会ったのだから。彼ら革命者三人組は、カダフィ大佐に会見できるまで相当数の日数をじっと待機していたのだ。その間、イスラム国なので酒は飲めないし、退屈したことだろうに実にエライと思う。大器はどこか違うなと思った。

 昨年暮れに私は再びリビアを訪れたが、都市にはいたるところにカダフィ大佐の巨大な肖像画が掲げられていた。私はカダフィ大佐には関心を払わずに、相変わらず博物館や遺跡を飽きずに観て回ってみた。また、砂漠の中にテントを張り、満天の星を見ながら泊まり込み、あちこちで旧石器時代以降の壁画を堪能させてもらった。その後になって、欧米によるアラブ民主化戦略が実行され、NATO軍と反政府軍が首都トリポリを制圧する状況に至った。果たして、あの世で竹中・牧田はリビアの行く末にいかが感慨にひたっているのだろうか。まして、三人組の内たった一人この世に残され、更なる使命を託された維新・革命者花房は、今どんな感慨を持ち、どんな夢想をしているのだろうか。

三上のカバン持ちをしていた頃、思想的な教義を教わったとのことがなかったせいか、花房は余り思想的な説教を垂れることはしない。むしろ、大器に相応しい懐の深さや、巾の広さを示す態度で人に接するのである。花房の巾のあるキャラクターは、彼が美術家でもあり、テレビの制作を長くやっていたことからもきている。そうしたことから数々のエピソードを残しているが、その内の一つとして、亡くなった池部良に替わり、俳優協会の理事長をしている永遠の二枚目石濱朗との交遊とその支え合う関わりがあったことなどはその意味で興味深い。二人は禅寺で禅の修行をしているのだ。二人は酒ばかり飲んでいたという。謙遜してそう言っているのであろう。だが、花房になお残る夢は維新・革命の夢なのではなかろうか。 彼は日本をよくしたいのである。余りにも無惨な姿を示すグロテスクな政治。立ちはだかった危機と困難に有効な手を打てなくなった給与泥棒官僚に対する怒りを放置しておけないのだ。だから、五年先にあるいは十年先に芽を出すか分からない地方の若き政治家や若手官僚に期待をかけ、いずれ花が咲くように、今も種を植えているのだ。維新・革命者花房はまだ維新・革命の夢を捨ててはいない。

四 世界の大転換と価値観の変容が進んでいる中で
三月一一日、東日本大震災を目にして、呆然とした。大自然の猛威の中であっという間に、築き上げた都市が瓦礫と化し、多くの人々が亡くなったのだ。また、安全だとして推進されてきた原発が破壊され、至る所に放射能がまきちらされた。安全神話が崩壊したのだ。多くの人達は原発が安全だと信じたから容認し、それが国益になっていると信じた。しかし、原発神話と威信は崩壊した。 原発も原爆も、国際金融資本の要にあった先代ロスチャイルド家当主が、買い占めたウラン鉱山のウランを売らんがために作られたものであった。原発は日本の国益のために作られたものではなかったのだ。かつて、日本人は原爆の被害を受け放射能に今なお苦しめられている。そして、今また原発の放射能に苦しめられようとしている。近代科学は、自然生命体を無機質な機械のように考察し、今やそのテクノロジーは、原発事故により放射能をまき散らすところまでに至り、自然生命体を破壊しようとしている。人々は、近代科学とそのテクノロジーに対しても不信と不安にさいなまれるようになっているのだ。リーマンショック以降アメリカ発の大恐慌が世界を襲った。さらに、アメリカ国家の財政は、債務不履行宣言をせざるを得ない瀬戸際まで追い込まれた。今回妥協によって上限を超える国債の発行が容認されたものの、借金経済で運営されているアメリカの没落は避けられない。数字と合理的思考を極限まで進めた金融のあり方は、現代資本主義のあり方に疑問をもたらし、近代合理主義に彩られたこれまでの価値観が崩れ始めている。

 西洋が作り上げた近代の価値観の要となっている、近代科学技術そして現代資本主義経済は綻びを見せ始めているのだ。我々は、綻びが出てきた西洋のさらなる巻き返しに屈服し、共に崩壊していくのか。それとも、東洋の価値観を踏まえ復古・再建し自立するのか。取り分け東洋の一翼を担う我が日本に宿る伝統的文化を復古・再建し、自立するのかそれが問われている。私は縄文主義者であり、縄文革命論者である。だから、我々日本人が今もなお文化的遺伝子を持している、日本の基層的文化である縄文文化の復古を唱える。そして、人々の心に宿している、人間の本然に帰ることを訴える。近代西洋が作り出した世界は、絶えざる大量虐殺の戦争の世界を作り出した。人間中心の考え方は、自然を人間の都合のよいように変えるだけでなく、自然を破壊し、環境を汚染破壊する世界となった。そして、個人主義は人々をバラバラにし、奪い合いをもたらす世界を現出させている。さらに言えば、自由主義は一握りの人間が、莫大なカネを握る金融資本主義を産み、カネカネの世界を作り出した。さて、我が縄文時代は戦争のない時代だった。人間は自然とともに生き、共に助け合って生きる共生の世界であった。また、カネを使わない互いに贈与しあう贈与交換が行われる世界であった。縄文文化の復古する世界は、西洋の価値観にとって変わる新たなる価値観となってゆく豊かな内容を持っている。東洋の名を持つ花房ならどのように、この混迷する世界に問題提起をするのだろう。

三上が維新・革命を実行しようとした時代は、現在の状況に似ていたような気がする。 血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件が起きた時代も、関東大震災、金融恐慌、そして大恐慌の時代であり、東北の人々が飢饉で苦しんでいた。それに有効に対処出来ない政治家や官僚に対し、怒りをもって三上達は立ち上がったのではなかったか。それは、未完の維新・革命であり、結果として統制派が跋扈する道を作ってしまったが、その志と行動は尊いものであった。花房が植えた種が芽をふき花を咲かせ、花房の志の継承者になるかは不明である。しかし、花房自身は三上の志を継承する維新・革命者である。しかも、奥行き広く、巾広い大器として生まれた花房に、この激動の時代状況の中で立つべき時が到来してきているのだ。大器晩成というが、大器は花のようなものだ。花は最後にパッと華やかに咲き誇り、そして散ってゆく。一六歳にして維新の志を立て、今や人生の秋風を聴く歳を花房は迎えた。花房にはいよいよ最後のご奉公として立つべき時がやってきたのだ。慈悲慈愛の菩薩の業を果たし、最後に大輪の花を華やかに咲き誇らせ散って行こうではないか。実に喜ぶ時が来たと言わねばならない。
 大器菩薩花房東洋よ起て!!