花房東洋情報 大愚叢林

大愚記 花房東洋 

大 愚 言 ・馬鹿が「人権」について惟うこと 大愚叢林庵主 大愚東洋

2017年03月22日 16時27分27秒 | 大愚言
自由民権運動の旗頭であった板垣退助は相当の粋人だったようで、こんな都々逸を残している。

破れ障子とわたしの権利
  張らざなるまい 秋の風

張るとは、「意地を張る」とか「見栄を張る」の「張る」である。
また

自由民権 こはだのすしよ
  押せば押すほど味が出る

というのがある。
押すとは、「ごり押し」とか「押売り」の「押す」である。
当時の人権や民権は、張ったり押したりするという感覚だったようで、そのスタイルは今の人権運動にも踏襲されている。

そもそも「人権」はHuman Rightsの翻訳語である(福沢諭吉の造語といわれている)。
直訳するとHumanは「人間」、Rightsは「正しいこと」(正義・公正など)となる。「人権」を「人としての正しい道」と解釈すれば、ごく自然な当たり前の考え方である。
そうだとすると、何も張ったり、押したりするようなものではない。

自分の恥を晒すと、僕は二十歳から十年毎に、何故か逮捕されている。二十歳は左翼アジト襲撃事件(大阪・阿倍野署)、三十歳は国民前衛隊事件(岐阜・中署)、四十歳は竹下首相拳銃送付事件(警視庁本部)、五十歳は傷害事件(東京・浅草署)、六十歳は威力業務妨害事件等(岐阜・中署)と、その度、留置場のお世話になっている馬鹿な僕である。
ここで、自分の名誉のためにいっておくが、四十歳と五十歳のときの事件は不起訴。
六十歳は、その筋が平沼(赳夫)新党立ち上げを阻止しようとして、盟友の僕を別件逮捕した全くのでっち上げだった。

それはさておき、留置場五十年の変遷を体験して、僕が感じたことは、かつての留置場には人情があったが、近頃の留置場は人権を気遣うようになってはきたが、反面、人情がなくなってしまった。
人権を張ったり押したりすると、人の情や人の道が無くなっていくのではなかろうか、と馬鹿は惟うのである。

ところで、今年七十歳となるが・・・そろそろ・・・⁉

(平成二十九年三月二十一日認)

大 愚 言 ・「愚外の愚」ということ   大愚叢林庵主 大愚東洋

2017年03月18日 20時14分23秒 | 大愚言
僕が社会運動に関わった昭和三十年代後半は、敗戦後遺症色濃く「君が代」「日の丸」と言っただけで、世間から「軍国主義の再来」と猛反発を喰らったものだ。
それをじっくり時間をかけ粘り強く、あの手この手で啓蒙活動をしてきた。
ようやく世論の傾向が正常化してきたかと、胸を撫で下ろしていたが、どこか違う。
「愛国心」「憲法改正」「靖国参拝」「教育勅語 」など唱えていることは正論だが、どこか違う。
追い風に乗じて、付け焼き刃で、極論を振りかざしているだけの「なんちゃって右翼」が政界や言論界から巷に至るまで横行しているのだ。
こういう小賢しい輩の言動は、むしろ利敵行為とさえ言える。
本気で世の中を変えようと念ずるならば、軽挙妄動は慎み、あらゆる角度から、深く静かに推進すべきものだ。

僕の敬愛する人物の一人に、平沼赳夫元経産相がいる。
彼との関係は、僕がかつて外務省外郭法人「日本マレーシア協会」の理事長であったとき、彼が副会長(現会長)であった。
彼が平成十四年、時の小泉政権の郵政民営化に反対して自民党を離党した。
世間は筋を一本通す彼の姿勢に、当時流行っていた時代劇映画を併せて「武士の一分」と称賛した。
そんな彼に対し、僕は
「貴下は一国の宰相となるべき人物です。個人の道はどれほど極端に理想街道を、突き進んでも差支えありませんが、宰相となるべき方が、理想街道を選択し、離党されることには賛同できません。」
と諌言したことがある。

政治に理想が入ると無責任になり、理想に政治を入れると無節操となる。
「理想」と「政治」、「道」と「法」、「不易」と「流行」、「不生」と「無常」、「sollem(在るべきこと)」と「sein (在ること)」、いずれも相容れ難きものであるが、相容れぬものが相俟ってこそ不二一体となる。
正に「妙は虚実の間にあり」である。
これを、わが大愚叢林では「愚外の愚」という。
     
(平成二十九年三月十八日認)