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大愚記 花房東洋 

大 愚 言 ・一億総国民は馬鹿で居ればよい  大愚叢林庵主 大愚東洋

2017年04月15日 16時35分57秒 | 大愚言
先の大愚言(平成二十九年三月二十一日付)において自由民権運動の旗頭・板垣退助の都々逸を紹介したが、幕末の志士の都々逸といえば、高杉晋作の

三千世界の 烏を殺し
     主と朝寝が してみたい

が有名である。
高杉と同じ松下村塾門人でも堅物といわれた久坂玄瑞の都々逸に

立田川 無理に渡れば 紅葉が散るし
     渡らにゃ 聴かれぬ 鹿の声

というのがある。
高杉の「主」も久坂の「鹿」も「天皇」を指していると、僕は読む。
高杉は、三千世界の烏(幕府)を殺して主と朝寝(天皇親政の御世)がしてみたい、と詠っている。
久坂は、立田川(幕府)を無理に渡ろうととすると紅葉(犠牲)が散るが、渡らねば鹿の声(天皇親政の御世)が聴かれない、と詠っている。

いまどきの人には耳馴れないとは思うが、「恋闕」という言葉がある。
「闕」とは皇居の御門のことである。つまり「天皇」と直に言うことが、畏れ多いので「尊皇の赤心」を婉曲に置き換えて「御門を恋うる」と酒脱に表現しているのである。「御門」は「ミカド」でもある。
高杉の「主」と久坂の「鹿」も、同様の酒脱な表現である。

幕末の志士たちが、祇園で酒を呑んで勤皇だ、倒幕だと談じたなどとは、虚構の世界である。
志士たるもの、国家存亡の一大事を酒席で論うようなことは、下の下の野暮の骨頂である。
従って、僕は酒席で天下国家を談ずることは勿論のこと、軍歌ですら放吟することを好まない。
これを言うと、僕が敬愛してやまない軍歌好きの鎌倉の老大にいつも叱られるのだが、老大にしてもその狂歌で

面壁九年 達磨が坐る
    わたしゃ 呑み屋で 目が坐る

と詠い、自らを「目禅」と号されている。高杉や久坂に通じる酒脱さがある。

今上陛下の「生前退位」のご意向を受けて、政府は有識者会議を設置し、譲位について議論を進めている。
しかし、陛下のお言葉を国会議員や学者如きが憲法次元にまで貶めて、右顧左眄すべき問題ではない。
天皇陛下の発せられたお言葉は、詔勅(みことのり)である。只々、敬みて承け止めればよい。

安倍首相はじめ一億総国民は、三島由紀夫の「英靈の聲」にある

などてすめろぎは人間(ひと)と
なりたまひし

という絶哭を深く噛みしめ、肚に落し込み、酒脱な馬鹿で居ればよい。

「嫡々相承」―――一切を無条件に承け継いで伝えること、余計な解釈や論議は不要である。

(平成二十九年四月十五日認)