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大森第一小学校第40期卒業生同期会

卒業して幾星霜、さあ懐かしい面々と再会し、浮世の憂さも忘れて、思い出話に花を咲かせよう!

つぶやきの部屋111ー2

2023-09-22 16:33:07 | Weblog

「龍馬が大政奉還の一報に接した場所(その2)」

では、龍馬の身辺に「菱屋」と云う商家が無かったかと云うと、さにあらず。
龍馬が、海援隊士にあってその商才を認めた陸奥元二郎(後の伯爵陸奥宗光)に
宛てた手紙(慶応三年十月二十二日付)に次の下りがある。
“御案内の沢やの加七と申候ものゝ咄、是ハ御手下のひしや某が聞得所なり。
(以下略)”
要は、沢屋加七が仙台の国産品を一手に引き受けて商売をしたいので、その元手
となる一万両を出してもらいたいと龍馬に言ってきているが、商法のことは陸奥
にまかせているから、陸奥がうんと言えば金のことはなんとかすると答えている。
でも大金ゆえよく思案しろ云々といった内容。
そして沢屋加七は陸奥の商売の関係者でもある菱屋某から聞き得たものと付言して
います。龍馬も菱屋のことは知っている口振りです。
 
川田瑞穂は、岩崎鏡川からの依頼で移転時期を聞き取り調査をした(大正6年9月)
のですが、その鏡川自身が『坂本龍馬関係文書』(大正15年4月)の中の「坂本と
中岡の死」と題する事の顛末を記したノンフィクションとも云える小説において、
いろいろと調べた結果なのでしょう、以下のようにそれを改めています。
“前年伏見寺田屋に於ける遭難以来、龍馬の一身は幕吏の指目其之く所に随ひ、危
険いふ許りなかりければ、藩邸の胥吏堀内慶助(後良知)はこれを憂ひ近江屋新助
に謀りて、龍馬が福井より帰京するを待ちて龍馬をこの家に潜伏せしめぬ。”
 胥吏(しょり)は、地位の低い役人のこと。龍馬は10月24日に京を立ち、福井か
 ら帰ってきたのは11月5日のこと。
 この出所を鏡川は、井口新之助としています。川田の聞き取り調査の後に調べた
 か思い出したかしたのでしょうか。

(続く)

                               ブログトップへ戻る


つぶやきの部屋111-1

2023-09-21 22:25:25 | Weblog

「龍馬が大政奉還の一報に接した場所(その1)」

通説では、龍馬が暗殺された醤油商「近江屋」とされていますが、果たしてそうなの
でしょうか。
そのときに龍馬とともに大政奉還の一報を聞いた戸田雅樂(26歳、後の男爵尾崎三良)
は、最初は「菱屋某」という名の酒造商であったとしていましたが、川田瑞穂の聞き
取り調査により、三条、四条にはそのような名の商家が無かったことから、それ以前の
談話の速記録みならず、尾崎の書き残したものまで「近江屋」に書き改めてしまってい
ます。
それは「男爵尾崎三良手扣」と題する尾崎の手控えに括弧書きで以下のように記されて
いることから分かるのです。
“小沢庄次(尾崎三良)、坂本龍馬、中島作太郎、岡内俊太郎等ト共二、河原町三条下ル
醤油屋某方(尾崎男爵ガコノ醤油屋を最初菱屋某と称セル為メ二大二紛淆ヲ生ゼシガ、
川田瑞穂氏ノ調二ヨリテ確然判明セルコト(以下略)”
 川田瑞穂が聞き取り調査した相手は、龍馬が暗殺された当夜、龍馬の使いで軍
 鶏を買いに出ていて難を逃れたとされる菊屋峰吉(聞き取り時は鹿野安兵衛)、
 近江屋の井口新之助(近江屋新助の息子)、材木商「酢屋」(海援隊の屯所)
 の中川嘉兵衛ですが、当時幼かった新之助(4歳)を除く他の二人(峰吉17歳、
 嘉兵衛14歳)がそれぞれ「半年くらい前」、「せいぜい2、3か月前」と証言して
 いることから、川田瑞穂は、龍馬は酢屋から近江屋への転居が慶応三年春夏以後で
 あり、尾崎三良の云う「菱屋」は誤りであるとしている。
 なお、ここで云う大政奉還の一報とは、慶応3年10月13日に二条城において在京
 の10万石以上の諸藩重臣からの意見を求める形で将軍慶喜が政権を朝廷へ返上
 する意向を表明したことをそこに参加してしていた後藤象二郎からの通知(手紙)
 で知ったことを指します。
 
でもね、聞き取り調査で鹿野安兵衛が次のようなことを云っているのを聞き捨て同然に
している。
“尤モ四条下ル東側二酒造業菱屋利右衛門と称する者アリ、随分立派ナル家ニテ、維新
後藤村紫朗ガ京都府大参事タリシ時分、此隠居所に下宿シ居タルモ、維新前に浪人
ノ下宿シタル模様ナシ。”
えー、これって聞き捨てできない、近江屋説を覆すだけのインパクトのある証言ですよね。
何も三条、四条に限定する理由なんてありゃしませんから。
 龍馬は、元治元年6月5日夜に起きた池田屋事変当時、方広寺南門前の河原屋五兵衛
 宅に潜伏していたことがある。方広寺は七条通より南に位置する東山にある。

(続く)

                               ブログトップへ戻る


つぶやきの部屋110

2023-09-17 14:01:41 | Weblog

「回転一時停止」

大谷翔平のIL(負傷者リスト)入りで、今季の投打での活躍もジ・エンド。
その活躍の雄姿を象徴するかの如く勢いよく回転するフィギュアもピタッと停止。

大谷が右横腹を痛めてから、ネビン監督の出る出る詐欺に騙され続けてきましたが、
今日、久しぶりにベンチ入りしたその笑顔を見ることができて、9回裏に同点に追い
ついたときの喜びようを目にすることができて、でも結局延長戦で点が取れず、今季
のエンジェルスの試合を象徴するかの如き敗戦に肩を落とす後ろ姿を見ることがで
きて、いつもの見慣れた光景だなと取り敢えず安堵した次第。

来季も期待できそうにないエンジェルス。対してヒリヒリする9月を切望する大谷。
さてさて、回転人形のユニホーム・カラーはどうなるのでしょうか。

                               ブログトップへ戻る


つぶやきの部屋108

2023-08-25 13:08:09 | Weblog

「どうなる翔平!」

エンジェルスというよりMLBの至宝、大谷翔平が右肘の内側副じん帯損傷で今季の二刀流は
絶望だという。
一刀でも活躍できればよいのですが、打撃でも衝撃があるはずで、傷口を庇えばこれまでの
ようなHRも長打も望めなくなるやも。
前回(2018年10月)同様にトミー・ジョン手術を受けるとなると、下手をすると2シーズンを
一刀流でも活躍できずに終わるかもしれません。

で、今冬に迎えるFAでの大谷相場にも大きな影響があると米メディアは喧しい。でも大谷自
身は、憶測ではありますが、金銭にはさほどの執着はないと思うのですよね。どのくらい大谷の
価値を理解して、活躍の場を与えてくれるかで、球団を選ぶように思うのです。
なら、エンジェルス残留が望ましいとなるのですが、ネビン監督のままでは大谷の望むヒリヒリ
する優勝争いなど望むべくもない。どれだけ勝てる試合を落としたか。どれだけ多くの故障者を
出したか。大谷が、「大丈夫!」としか言わないのを知っているくせに、大谷がそう言っている
からと責任逃れをして、今回のような事態を招いた。

冒頭の画像は、8月23日のレッズ戦ダブルヘッダーの第1戦で、(1回裏に44号2ランHRを放った
後の)2回表の投球を途中降板した際のもの。大谷の肩を落とす後ろ姿がなんとも痛々しい。
下降気味だった野球人気を盛り上げた立役者が活躍できないとなると、僕もMLB中継は見な
くなる。おそらく日本での盛り上がりも急速にしぼむことになる。
「どうなる野球!」ということになる。

                               ブログトップへ戻る


つぶやきの部屋107

2023-08-14 20:13:44 | Weblog

「なんと挑発的!」

コスチュームからするとアイスダンスのBGMは、ピンクレディーの「カルメン77」
ではなく、100年以上前の1875年にパリで初演されたビゼー作曲の歌劇「カルメン」
でしょう。

その原作小説「カルメン」(仏、プロスペル・メリメ著、1845年刊)では、スペ
インのジプシー女カルメンの蠱惑なまでの誘惑に身を持ち崩した元竜騎兵のドン・
ホセがカルメンを刺し殺すまでの悲劇を描いています。

氷上を踊るカルメンに対峙する男性がドン・ホセ役なのか、カルメンが心奪われた
闘牛士ルカス役なのか、はたまたフラメンコにしては大胆すぎる挑発的なドレスの
開け方からするとカルメンじゃなくてマントを翻す闘牛士で、男の方は鼻息荒い猛
牛なのでしょうか。

♪そうです私は カルメンです
 これできまりです
 これしかないのです
 ああ、危険な女といわれてます
 ラララ カルメン カルメン

                               ブログトップへ戻る


つぶやきの部屋106

2023-08-08 18:36:50 | Weblog

「濡れネズミになったネコ」

ゲリラ豪雨などで思いがけずにずぶ濡れになることを「濡れネズミ」といいますが、
なぜネズミなのか、ネコでもイヌでもよさそうなものなのに。

昔にできた言葉ですから、どぶをちょろちょろとしているネズミ(ドブネズミ)を
よく見掛けたのでしょう。その様が情けなく見えたので、否定的な意味合いで慣用
句になったのだと思います。

ここに挙げた画像は、気儘なご主人のせいで、多分風呂にでも入れられたのでしょう
か、ずぶ濡れにされたネコの姿。
恨めしいでも情けないでもなく、なぜかキョトンとしていて、どこか可笑しみがある。

対して自由気ままな野良ネコ、昔は都心でも軒下とかがたくさんあったので、雨宿り
するのに困らなかったろうに、昨今はどうしているのかしらん。濡れそぼったネコを
ついぞ見かけたことがないから、集会などで情報交換しているのかしらん。
 
「凩の 明家を猫の より処」子規

                               ブログトップへ戻る


つぶやきの部屋105

2023-07-25 16:31:51 | Weblog

「ムチムチからムキムキへ」

ぽっちゃり体形だったカーリング女子の藤沢五月さんが、ムキムキの筋肉女子に。
32歳の女盛りの彼女に何がそうさせたのか。

真の理由は本人以外には分かる筈もありませんが、表向きには二つあるそうです。
一つは体形にコンプレックスがあった。も一つはボディビルに興味があった。
で、ボディビルダーと相成った。
もちろん、ロコ・ソラーレのチームメートとも相談したうえでのことでしょうが、
カーリングのシーズンオフを利用しての短期トレーニングでのムキムキ仕上げ。
彼女の座右の銘は「世の中に失敗はない。チャレンジしているうちは失敗はない。
諦めた時が失敗である」だそうですから、そして「趣味はカーリング。特技もカー
リング。休日もカーリング。ストーンが恋人という正にカーリングオタク」という
女版大谷翔平のようなひた向きさも手伝って鍛え上げたのでしょうね。
その甲斐もあって、7月22日に茨城県水戸市で開催されたボディメイクコンテスト
「MOLA CUP」で見事、女子ビキニクラスのノービスで3位、オープンで2位に入賞
した。

「チ」を「キ」に変えた原動力が血気ならば、カーリングでこれまで以上に活躍し
てくれそうです。
でも僕は、ムキムキ・モリモリよりムチムチ・モチモチの愛らしいさっちゃんの方
が好きだったな。(T_T)

                               ブログトップへ戻る


つぶやきの部屋104

2023-05-24 21:11:10 | Weblog

「ロシアン・ジョーク」

『週間新潮』の今週号(5月25日号)にプーチンを痛烈風刺するものとして
(それが本当の民意の証として)、幾つか紹介されているのですが、その中で
も僕が面白いと思ったものを恣意的に3つ4つ選んでみました。

・プーチン大統領が軍需工場を視察した。工場長が説明した。
「前線の兵士に必要な物資を届けるため、毎日休みなしにフル稼働しています」
「それで何をつくっているのか」
「棺桶です」

・父親が、軍に動員された息子に電話した。
「キエフは確保したのか」
「まだです」
「ハリコフは?」
「まだです」
「では、ウクライナで何を確保したのだ」
「テレビ、冷蔵庫、高級ワイン、パソコン、靴下、下着……」

・夜中の3時、ロシア大統領公邸で執事がプーチン大統領を起こした。
「夜分に失礼します。ウクライナ側が降伏について大統領と交渉したいそうです」
「遂にきたか。電話を回してくれ」
「それには及びません。武装したウクライナ兵がドアの外で待っています」

・プーチン大統領が占星術師に占ってもらった。
「1年後の今、私はどこにいるか?」
「あなたはキエフにいます。戦争は終わり、あなたの乗る車の周辺は歓声を上げる
市民であふれています」
「私も彼らに手を振っているのか」
「それはできません。棺は密閉されています」

どれもこれもジョークどころか、あったことやこれからあり得そうなことばかりです。
プーチンは、すでに亡命先を手配しているとか。その国が今は親プーチン政権であ
っても、そうでなくなれば戦犯として国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状が出て
いるプーチンですから、欧米への引出物として差し出すことは十分あり得る話です。
もっともそれ以前にその地で暗殺される可能性の方が高いと思えますが。
だからといってロシアに留まっていても、ウクライナに決定的な敗北を喫するような
ことになれば、クーデターがいつ起きてもおかしくない状態になります。その場合には、
やはりプーチンの首を差し出して、和睦の道を選ぶことになる公算大です。

いまやプーチンは、6連発のリボルバーに弾丸を3発込めて、ただ一人でロシアン・ルー
レットに臨んでいるようなもの。見出し画像のような弱り目に祟り目の情けない顔つ
きになるのもむべなるかな、です。

                               ブログトップへ戻る


つぶやきの部屋103

2023-04-17 13:32:41 | Weblog

「バスーン」

と小学生のときに覚えていた、管弦楽にあって木管楽器の最低音部を担う、
その名に値するごっつい楽器ですが、「ファゴット」というスマートな別名
も持っています。

昨日(2023.4.16)、鶴見区民文化センター・サルビアホールで開催された
「鶴見室内管弦楽団第13回定期演奏会」ではモーツアルトの「ファゴット協
奏曲 変ロ長調 KV.191」でその雄姿を、その姿に反する心休まる音色を、十二
分に堪能することができました。

見出し画像(俯瞰図)の左側に貼り付けたファゴット奏者(ファゴット奏者
の第一人者西口真央氏)が肩につり革で斜めにかけて持つ2.6mもある楽器が
それですが、まるでバズーカ砲(約1.5m)のようにも見えるので、バスーンと
呼ぶ方が相応しい。(その筒先、ベルと云うらしい、をこちらに向けられると、
思わず身体を避けてしまう。)
 モーツアルトは、音域が広く(多分姿が)剽軽な、ファゴットを好んだそ
 うで、ザルツブルグの宮廷音楽家としてスタートを切った18歳の頃にこの
 作品を作った。

見出し画像の右側に貼り付けたのは、フルート奏者(中学のときの同級生、悦
ちゃん)がハイドンの「交響曲第101番ニ長調『時計』」の振り子のリズムに合
わせるようにして身体を左右に揺らせながらメロディーを奏でている様子を表し
たものです。奏者も楽しそうです。
 僕ら団塊世代の大学受験時、ラジオから流れてくるオープニングテーマ曲と
 して馴染み深い曲です。改めて調べてみたら、「大学受験ラジオ講座」では
 なく、「百万人の英語」という番組で使われていたそうです。
 『時計』の愛称は、ハイドン自身が名付けたものではなく、第2楽章の規則
 正しいリズムからそのように呼ばれるようになったそうです。せかされる
 ようなものではなく、のんびり・ゆったりと時を刻むが如きリズムは、逸る
 気持ちを落ち着かせてくれたように思います。

今回は、「つぶやきの部屋75」に挙げた画像のようなほぼオールマスク状態では
なく、2、3人を除いて、ノーマスク状態で演奏していました。でも客席は、ほぼ
オールマスク状態でしたけど。
因みに約2時間の演奏会では、上記2曲の他に、次の2曲が奏でられました。
・ロッシーニの歌劇「アルジェのイタリア女」序曲
・メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」序曲OP.26

                               ブログトップへ戻る


つぶやきの部屋102

2023-04-04 20:54:37 | Weblog

「Brush up Oryo」

以前、「つぶやきの部屋61」で、若き日のお龍の容貌はかくあらんと紹介した鉛筆画ですが、
これまた臆面もなくブラッシュアップしてみました。
 お良とするのが正しいのですが、便宜上ここでもお龍と称することにします。

髪型は、両輪髷(りょうわわげ)では無く、既婚女性のごくごく一般的な丸髷にしました。愛
嬌より度胸と侠気に富んだお龍のことですから、もう少し艶やかな髪型が相応しいように思う
のですが、「千里駒後日譚」(土佐新聞連載、川田雪山聞書、明治32年11月」の中で、
❝衣物なども余り奇麗にすると機嫌が悪るいので、自分も垢づいた物ばかり着て居りました。
(中略)長崎の小曾根で一日宿の主人等と花見に行く時お内儀(かみ)さんが、今日は
美(よ)いのを御召しなさいと云つたけれど、私は平生着(ふだんぎ)の次ぎのを被(き)て
行きましたが、龍馬が後で聞いてヨカツタヨカツタと云つて喜びました。十人行けば十人の中で
何処の誰やら分からぬ様にして居れと常に私に言い聞かせ(後略)❞
とお龍が語っているように、髪型も目立たぬ丸髷にしていた可能性は多分にあります。
 小曾根とあるのは、龍馬ら海援隊同志と親交のあった質商小曾根英四郎のことで、お龍は
 長崎にいたときにその夫妻(妻とは後に離婚)とも親しく交わっていた。

顔立ちについては、聞書きのためにお龍のもとを訪れていた安岡秀峰(重雄)は、当時57歳(亡
くなったのは66歳)のお龍のことを丸顔と語っていますが、お龍が龍馬亡き後に土佐の龍馬の実
家に身を寄せたときに、顔見知りになった仲子は、お龍のことを「どちらかといえば、小形の身
体に、渋好みの衣服がぴったり似合って、細面の瓜実顔は色あくまで白く、全く典型的の京美人
であった」
と回顧していますから、年を取ると歯を失ったり歯肉が落ちたりしますから、尺が縮んで見えた
のかも知れません。(少なくとも写真、明治33年お龍60歳のときのものからは丸顔には見えませ
ん。)

お龍は勤皇医の楢崎将作の長女ですが、『龍馬の妻 おりょう』(新人物往来社刊、前田愛子著)
によると、もとは町家の出で、西陣で誕生している(天保12年、1841年6月6日)ことから、西陣
織を生業にしていたものの、老中水野忠邦が行った天保の改革(天保12~14年)による奢侈禁止
令で生家が倒産。その時期は、お龍が10歳(数え、以下同様)のときに父が失踪し、母(縫)と
裏長屋で暮らすようになったとありますから、その歳のとき(嘉永3年、1850年)だったのでし
ょう。
 
楢崎将作との出会いは、お龍が12歳のときで、母の織った反物を井筒屋へ届けに通っていたとき
に、天然痘に罹った井筒屋の娘(幸)の治療のために往診に来ていた将作の目に留まったとあり
ます。
 井筒屋は、縫の妹(シゲ)の嫁ぎ先で、その縁で出機(でばた)仕事をしていた。出機仕事は、
 織屋から預かった糸を家で織る仕事で、その賃料は僅かであったとあります。
 井筒屋は、御所での衣冠束帯を扱っていたともありますが、将作は、青蓮院宮の侍医を務めて
 いたことから、御所繋がりで井筒屋との縁もできたのでしょうか。

最初から養女となったわけではなく、行儀見習いという名目で楢崎家に住み込むようになったと
あります。そして、13歳のときに、父母ともに亡くなったことから、楢崎家の養子になったとの
ことです。
龍馬が姉乙女に宛てた手紙(慶応2年12月4日付)では、将作亡き後には、❝老母一人、龍女、
いもと両人、男の子一人❞とあり、気の毒な身の上なので❝龍女と十二歳になる妹と九ツになる男
子❞を預かり、❝十二歳の妹きみへ、男子太一郎は摂州神戸海軍所の勝安房(*勝海舟)に頼みた
り。龍女事は伏見寺田や家内おとせに頼み候❞とありますが、その前年(慶応元年9月9日付)の
乙女宛の手紙では❝楢崎某と申医師、夫も近頃病死なりけるに、其妻とむすめ三人、男子二人、
其男子太郎はすこしさしきれなり。次郎は五歳、むすめ惣領は二十三、次は十六歳、次は十二❞
としていますが、このちょっと後の方では三女君江のことを❝十三歳❞としていたり、先の慶応2年
12月4日付の手紙ではお龍のことを❝今年廿六歳❞としていたり、と結構いい加減です。
 慶応元年のときには男子二人だったのが、慶応2年で一人になっているのは、その間に次郎を
 粟田口の寺(金蔵寺)に預けたためと思われます。

『龍馬の妻 おりょう』では、歳の順に光枝、健吉、君江、太一郎としていますが、健吉という名
は、明治32年から『文庫』に連載された安岡秀峰の手になる聞き書き「反魂香」にある将作と妻
貞は❝五人の子をまうけました(長女お良、次女光枝、三女君江、長男健吉、次男大一郎)❞を
参考にしているのだと思いますが、何故君江より長男とした健吉が年上になっているのかよく分
かりません。(大一郎は誤植ではなく、他でもそうなっているところをみると、秀峰が聞き間違
えたものと思えます。)
しかし、その秀峰が昭和6年の「坂本龍馬の未亡人」(『実話雑誌』、一ノ六所載)では、お龍に
は❝母と、弟と、二人の妹があった。弟の消息は忘れたが、次の妹光枝は中沢某に嫁ぎ、末の妹
君江は、菅野覚兵衛の妻となった。❞とあり、おそらく健吉の存在自体安岡にとっても曖昧なもの
であったのだろうと思います。(それゆえに長男太一郎と次男健吉が逆になったのでしょう。)

お龍が養子であったのか否か、その辺りのことを順を追ってみてみましょう。
お龍は天保12年(1842年)6月6日、光枝は嘉永3年(1850年)、君江は嘉永6年(1853年)、
太一郎は安政4年(1857年)、次郎は万延元年(1860年)の誕生とされていますので、慶応元年
(1865年)当時は、いずれも数えで、24歳、16歳、13歳、9歳、6歳でした。
それと、将作が50歳で病没したのが文久2年(1862年)7月16日ですから、そのときのそれぞれの
年齢は、21歳、13歳、10歳、6歳、3歳。
お龍が将作の所へ住み込みに入ったときには12歳ですから、光枝4歳、君江1歳、太一郎も次郎も
まだ生まれてはいません。
 
将作は文化10年(1813年)生まれですので、(お龍は養子として除くとして)光枝は38歳のとき
の、君江は41歳のときの、太一郎は45歳のときの、末子次郎は48歳のときの子となります。
妻である貞の年齢がどうであったか。「反魂香」によると、❝明治二十四年一月三十一日、当三浦
郡豊島村字深田で病死仕ました。(中楽)享年は七十三歳❞とあります。
明治24年(1891年)で勘定すると、お龍を除いて、光枝は31歳、君江は34歳、太一郎は38歳、末
子次郎に至っては41歳のときの子となります。今ならあり得ますが当時としては極めて不自然です。

お龍だけが養子で、あとは実子と考える方がおかしいのです。むしろお龍だけが実子(それなら、
将作30歳、貞23歳のときの子になる)といってよいくらいです。
全員が養子である可能性も考えられるのです。将作には財がありましたので、お龍と同じような境
遇の子を引き取っていたのかも知れません。そして年端の行かない子供を引き取ったときには、将
作夫妻が名前を付けることはあってもすでに名前のある者はそのままにしたのだろうと思います。
命名に一貫性が無いのでそのように思うだけですが。
 
安岡秀峰の「続反魂香」によると、お龍は横須賀へ向かう途中で東京に寄って身の振り方を頼んだ
とあります。おそらくそのときに弟の行く末を頼んだのでしょう。
 「反魂香」では、お龍が一人で東海道を歩いて東京霞が関の吉井友実(吉井幸輔。龍馬が寺田屋
 で負った深手養生のためお龍を伴って薩摩へ渡航したときにその世話をした)の元を訪ねたとき
 に、折よく西郷が来合せていて、そこで❝大阪に居る母や、妹の光枝や太一郎の三人を養わなけれ
 ば、なりませむから、如何か身の振方をお頼み申す事に、西郷も同情を表して、金子二十円をお
 良にやり、私も此度征韓論の事で大久保と論が合はず、依つて一先づ薩摩へ帰つて百姓をするか
 ら、再び上京した時には、きつと腕にかけても、御世話は仕ますからそれ迄、お待ちなさい❞と 
 あります。
 ここでも健吉が省かれています。(君江はそれ以前の慶応4年4月に海援隊士の菅野覚兵衛と結婚
 しているので除かれている。)

一次史料が手元に無いので確かなことは云えないのですが、次男健吉は警官、長男太一郎は海軍の軍
楽隊に奉職したと記憶しております。
金蔵寺へ預けられてから、それ以後の健吉の消息は明らかではありません。寺でなのかそこから移っ
た先でなのか、全くもって分かりませんが、そこで健吉と名付けられたのか、明治になってから改名
したのか。
いずれにせよ、お龍との縁がその後も繋がっていたからこそ、聞き書きで健吉という名がでてきたの
だろうと思います。(寺田屋のお登勢の関係先で養われていたのなら、すっきりするのですが。)

それにしても血のつながりのない母貞や妹や弟を親身になって、龍馬の援助もあったのですが、面倒
をしっかりとみたお龍は義理堅い女性であったように思います。
龍馬がお龍とともに下関に寓居(「自然堂」)を構えていたときに、土佐藩士佐々木三四郎(後の高行。
龍馬とは深い親交があった)は土佐須崎港から龍馬とともに長崎に戻る途中で下関に寄港するのですが、
そこで龍馬からお龍を紹介されています。
 佐々木三四郎は、土佐商会(海援隊隊士の給与支給などを行っていた)の責任者として出向(慶応
 3年8月)してきた。

そのときの印象を佐々木は日記「保古飛呂比」(ほごひろい)の慶応3年8月14日のところに、❝才谷
(*龍馬の変名)ノ案内ニテ稲荷町大坂屋ニ休息シ、才谷ノ妻ノ住家二才谷同伴。同妻ハ有名ナル美人
ナレ共、賢夫人ヤ否ハ知ラズ。善悪共為シ兼ヌル様二被㋹思タリ(*レ点を㋹としました。「思われた
り」となります)❞ と認めています。
武家の婦人(夫唱婦随で夫に傅くといったイメージ)と比較されるお龍が可哀そうですが、町家出の女
性としても龍馬が好む「はちきん」(男勝り)なところがあったことは、女郎屋に売られた妹光枝を単
身大坂に乗り込んでやくざから取り戻したり、裸同然の姿で風呂場から龍馬に急を知らせたり、湯治療
養先の薩摩では霧島山山頂の天の逆鉾を抜き取ったり、龍馬を援けるためと短銃の稽古をしたりと、事
欠かない逸話からも十二分に窺うことができます。
そういった侠気(目元、口元にでる)を描き出せているかはなはだ心もとないのですが、僕なりに苦心
惨憺、トライしてみました。(^^ゞ

                               ブログトップへ戻る


つぶやきの部屋101

2023-04-01 22:27:49 | Weblog

「ふつうの人」

見出しの左図は、大谷少年が小学校1年生のときに、地域の児童センターの
アンケートに書いた内容だそうです。
Q2の「大好きな遊び、スポーツはなんですか」に❝やきゅう❞、
Q6の「あなたの夢はなんですか」に❝やきゅうのせんしゅ❞とあるのは、納得。

興味深いのは、
Q4の「どんなおとなの人になりたいですか」に答えたもの。
なんと❝ふつうの人❞と書いている。すっげぇ―!

だってね、普通の人っていうのは、どこにでもゴロゴロと転がっているような
大多数の人のことでは無く、どこにでもいるみんなと同じになれる人、環境
に合わせて自身を適合させることのできる人のことを云うのだそうです。
さらにすごいのは、過去を振りかえって自分を取り戻すのではなく、新たな
自分を作る決意をする人のことを云うのだそうです。
強い意志を貫いて、自己実現のために努力を欠かさない生活を送り、完
全なる安泰を得たときに普通の人になる。まさに大谷そのものではありま
せんか。すっげぇー!!

見出しの右図は、大谷が5歳直前のとき(撮影日’99 5 14となっている。
大谷の誕生日は’94.7.5 )、お母さんと一緒に撮ったもの。
まさに「栴檀は双葉より芳し」。すっげぇ―!!!

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つぶやきの部屋100

2023-03-29 20:27:50 | Weblog

「Ohtani has Angels on a string」

との見出しの付いた風刺画が地元紙『LA Times』に掲載されました。

WBC2023でMVPに輝いた大谷の価値は吊り上がる一方で、今シーズン後に
迎えるFAでは史上最高額が提示されるのは間違いないとか。
それもあってのまことに時宜を得た風刺画なのです。

エンジェルスのネビン監督、トラウト、レンドーンらが大谷がどこか他所へ
飛んで行かないようにと必死に抑えているのに対して、球団売却を白紙に戻
したオーナーのアート・モレーは凧の行方など我知らずと、遠くの電光掲示
板からニヤニヤして(金勘定しながら)眺めているといったものです。

大谷が望むのは、最低でも地区優勝。その望みをかなえられるか否かは、偏
に一本のひもを懸命に引いている監督、選手にある。オーナーにとっては、
地区優勝などせずに、大谷が活躍して値を吊り上げてくれればくれるほど、
移籍の金銭保証金ががっぽりと懐に収まることになるし、予想外の優勝が転
がりこんでくれればくれたで、球団の値が吊り上がって高値で売却することが
できる。どっちに転んでもオーナーは、しめしめとほくそ笑む。

大谷には、今後も弱小球団エンジェルスで頂点を目指して欲しい。そうなれば
漫画のごとき新たなミラクルストーリーが大リーグの球史に加わることになる。


追記)注意事項(2023.3.30)
同期会は、機会均等の観点から、住所不明の方、逝去された方を除いた全員に
対して案内状を送付しております。恣意的な人選をして案内状を送るようなこ
とはしておりません。
もしも、そのような形で案内があった場合、同期会ではありませんので、ご留
意ください。

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つぶやきの部屋99

2023-03-22 18:16:22 | Weblog

「雄叫び!」

真ん中がエンジェルスの同僚トラウトをスライダーで三振に仕留めた直後の大谷が
雄叫びを上げる雄姿。左が月光仮面のような「J」のマークの付いたキャップを脱ぎ
捨ててキャッチャーの中村と抱き合い咆哮する大谷。右が優勝トロフィーを高々と掲
げる、予め優勝を確信していたかのような「champions」のロゴと日の丸のマークの
付いた、トレーナーと色を合わせたグレーのキャップを被った大谷。

昨日のメキシコ戦は、まるで劇画のような展開でした。9回裏、2塁打を放った大谷
はベンチに向かって、俺に続けとばかりに吠えた。それもあってか、不振に喘いでい
た村神様のサヨナラ打を生んだ。本大会で一番記憶に残る好い試合でした。

僕も準決勝での逆転劇で、今日の勝敗の行方も確信していたのですが、何度かあった
チャンスをことごとく生かすことができずにいたので、アレッ?勝利の女神は微笑ん
でくれないのかな、なんてちょっぴり心配もしたのですが、杞憂でしたね。

3年後にWBCが無事、開催されることを、大谷の雄叫びを再び耳にすることができる
ことを、願ってやみません。あれこれが杞憂であったと喜べる日が来ることを。

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つぶやきの部屋98

2023-02-03 16:46:58 | Weblog

「一刻も早く救済して!」

長崎県対馬市豊玉町小綱の観音寺から「観世音菩薩坐像」(長崎県指定文化財)が
盗まれたのは、10年以上前(2012年10月8日か9日未明)のこと。
翌年(2013年)の1月30日までに韓国人ら犯人が韓国警察に捕まった。
 この他にも同じく対馬市にある海神神社から「銅造如来立像」(国の重要文化財)
 と 多久頭魂神社の「大蔵経」(長崎県指定有形文化財)も盗んでいる。

盗まれた3点のうち、「観世音菩薩坐像」を除いては日本側に戻されたのですが、何故
「観世音菩薩坐像」が戻されなかったのかと云うと、高さ50.5㎝の小ぶりな座像の中
に結縁(けちえん)の文が遺されてあり、そこに「高麗国瑞州浮石寺」と記されていた
からです。
 「結縁」とは、仏道に入る縁を結ぶことで、像内にあった文には、1330年2月に戒真
 ら三十数名の発願によって造立されたとあります。

このことを盾に、翌日(1月31日)に韓国浮石寺(忠清南道瑞山市)の円牛住職が
「元々わが寺のもの、返せ」と宣い、何らの証拠も無しに韓国東国大学の名誉教授が、
論文で1370年頃に倭寇が同像を略奪したと援護射撃。
 同年4月に浮石寺の僧侶2人と前国会議員、市民団体メンバー、通訳ら6人が日本へ
 やってきて、ちんけなマスコット人形を観音寺に手渡して事を収めようとしたので
 すが、当然のことながら観音寺側からは拒絶され、挙句の果てに記者会見の場で正
 当性の根拠を求められると「根拠を示す鑑定書は仏像を失ったときに、思い出すのが
 悲しいので捨てた」と馬鹿丸出しの答弁。この坊さんはいったい何百歳なんだよ(倭寇
 が跋扈してたのは16世紀までのこと)。それに「鑑定書」って何なんだ。何でも鑑定団
 か?像内の結縁文が唯一の根拠だろうに。ほんとバカだねぇ。

で、翌2月26日に韓国の大田地裁が「観音寺がこの像を正当に取得したことが訴訟で確定
するまで、韓国政府は日本政府に引き渡してはならない」と韓国政府による日本への返還
を当分差し止める内容の仮処分決定を出した。
えー!なんで盗まれた観音寺が証明しなきゃならんのだ。盗人からかすめ取った浮石寺が
盗まれた証拠を示すべきだろ。現に一昨日(2023年2月1日)の大田高裁による控訴
審判決で「観音寺が一定期間にわたり『平穏かつ公然と』持つことで所有権が認められる民
法上の「取得時効」が成立している」と判断したと述べているでしょうに。これを覆すには、
浮石寺側が歴然とした証拠を示しかないのですよね。
 高麗は仏教を保護したのですが、儒教を国教とした朝鮮王朝(1392年~1910年)は
 仏教を弾圧したので、仏像が没収されたり破壊されたりした。利に敏い朝鮮人は価値が
 低下したからと仏像を仏教を信仰する日本に売りつけた(対馬の日本人が交易の中で
 手に入れた)と我が国は見ている。ま、これも状況証拠ですけどね。
 それに、倭寇って海賊ですよね。陸に上がって強奪するより、交易船を襲って略奪する
 のでは。なら、寺が売り払った後で奪われたってことになる。ま、状況証拠ですけど。
 
それにしても韓国の大田高裁の「14世紀に像を作った『瑞州浮石寺』と現在の浮石寺が同
一とは認定できない」と指摘したのは、蛇足もいいとこ。同じだろうが違おうが、「取得
時効」で解決ゾロ。

浮石寺側は最高裁に上訴するようだけど、いつものように反日感情で国民を焚きつけて、
法治国家ならぬ情治国家と化すのかしらん。ま、浮石寺側のポーズだけなのかもね。
いずれにせよ、途方に暮れているのは、当の「観世音菩薩坐像」だよね。何の科も無いのに
まるで被告のようにして十年にも亘って勾留されているのだもの。
観世音菩薩は、我々衆生が求める救済を聞き入れるや直ちに救済してくれる有難い存在です
が、その菩薩から、表題の声が聞こえてきそうです。

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