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大森第一小学校第40期卒業生同期会

卒業して幾星霜、さあ懐かしい面々と再会し、浮世の憂さも忘れて、思い出話に花を咲かせよう!

つぶやきの部屋11

2010-09-14 17:36:49 | Weblog

ここに掲載した写真、海援隊が伊予の大洲(おおず)藩から
一航海十五日を五百両でチャーターした「いろは丸」の
絵図(縦約24cm×横約33cmの見開きの画面に描かれ
ている)であることが、先頃(7/27)長崎市歴史民俗資料館に
よって発表されました。

これも龍馬ブームのお蔭と云えるのでしょうね。だって、
これまでもこの史料『白帆注進外国船出入注進』(鍋島報效会
所蔵)の存在は知られていたのですから。
それが、長崎市歴史民俗資料館が企画展「長崎の海と船展」
の準備をしているときに、中央のマストに掲げられた旗印や
船体の特徴がいろは丸に酷似しているのに気付いたそうで
すから、「そうであったらなァ」と云う期待(目玉になります
からね)が働いたのは確か。

早速「現代龍馬学会」(事務局・高知市)の織田毅氏に鑑定を
依頼。すると、旗印の赤地に蛇の目は、いろは丸を購入した
大洲藩加藤家の家紋と分かり、またこの船の解説に「四国船」
と記述があること、更には(この史料は幕末の1844~68年
に佐賀藩士が長崎港に入港した艦船などを綴った記録誌なの
ですが)長崎を出航した時期が大洲藩の記録と一致(絵図の右端
にある「十月二十四日 深堀亀ヶ崎出船」が慶応二年十月二十四
日とされたのだと思います)したことから、いろは丸にほぼ間違
いないと云う事になったわけです。
 『坂本龍馬手帳摘要』には、「寅十月三日」として薩摩藩への
 龍馬以下七名の給金、一人当たり毎月(三日)三両二分、の領収
 書と思しき書き込みがあり、それに続けて「大洲イロハ丸 船
 将国島六左衛門」の書き込みがあります。寅は慶応二年ですの
 で、絵図の日付頃に大洲藩士国島六左衛門を船将として、海援
 隊が運用していたのでしょう。

いろは丸は、元々は文久三年に薩摩藩がイギリスから購入した
安行丸(原名サラー号)で、慶応元年にオランダ商人ボードイン
に売却されてアビソ号と名付けられたとされていますが、船尾
に彫刻されていた美人像(オランダの美人の名がアビソ)から、
ボードインが勝手にそう呼んでいただけのようです。
 絵図は真横から描いていますので、その美人像を確かめるこ
 とができません。

慶応三年四月二十三日午後十一時頃、海援隊がチャーターして
いたいろは丸は紀州藩の明光丸と衝突し、海の藻屑となるので
すが、紀州藩と談判の挙句、賠償金として八万三千五百余両を
得る(約束)ことに成功します。
 わが国で最初の蒸気船同士の衝突事故です。龍馬が談判に役
 立つと思って『万国公法』を振りかざしたのはこのときのこ
 と。でも同書には航法ルールや海難事故の判例などは記載さ
 れていません。知っていて虚仮威しに利用したのかしらん。
 
沈没したいろは丸の代金が三万五千六百三十両ですから、六割弱
の四万七千九百両ほどが積み荷や乗組員・乗客の手廻品の代金に
充てられたわけです。
なぜこのような高額になったかと云うと、龍馬が当時最新式であ
った小銃を大量に積載していたと主張したからです。

いろは丸が鞆の浦沖(備後灘の東端、広島県福山市沖)の海底(水深
27m)に沈没しているのが発見されたのは、平成元年(1989)
のこと。
その後、4次に及ぶ潜水調査の結果、引き揚げられた積み荷と思
しきものは、陶磁器の碗や皿・ワインボトル・革靴・硯箱などの
日用品と鮫皮の台座、朱入りの箱などであって、未だに一挺の小
銃も見つかっていません。
 刀の柄などに用いられる鮫皮や顔料などに用いられる水銀朱は、
 海外からの輸入品で、長崎から大坂へ運ぶだけで大きな利益が
 得られたと云います。

小銃など初めから積んでなどいなかったのです。始めの内は重要
任務を帯びているとのハッタリを利かす必要に迫られての虚言だ
ったのですが、やがて算盤尽くと変わって行きます。その辺りの
カラクリは、コメント欄で。

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