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大森第一小学校第40期卒業生同期会

卒業して幾星霜、さあ懐かしい面々と再会し、浮世の憂さも忘れて、思い出話に花を咲かせよう!

つぶやきの部屋48

2019-05-15 22:19:02 | Weblog

 

「名花散る」

というより、「巨星墜つ」と表現する方が相応しい女優であったように思います。
母の日に当たる5月12日に色々なレッテルを貼られた京マチ子さんが心不全で旅立たれ
ました(享年95)。
最近になって、虫の知らせと云うのでしょうか、どうされているのだろうと気に掛ける
機会が増えていたのですが…。

『女優』(サンデー毎日別冊、1991年4月13日発行)の中で映画評論家の佐藤忠男は、
“京マチ子もじつは映画デビューは戦争中である。しかし戦後、舞台のショーダンサー
としてグラマラスな躍動する肉体で観客を圧倒し、肉体解放の気運に乗って映画にカム
バックした。そして「痴人の愛」「羅生門」など、まさに強靭な肉体で見栄っぱりの男
たちのお体裁を粉砕する役どころで一時代を画するスターとなった。”と語っています
が、まさに肉体派とかヴァンプ(男たらし)とかのレッテルを貼られたときのことを指
しています。

少々付け加えると、彼女が5歳のときに父が蒸発して、母と祖母の手で育てられたことも
影響していると思うのですが、小学校を終えると、大阪松竹少女歌劇団(OSK)に入団し
ています。そこで娘役として活躍していたとき(戦時下の1944年、昭和19年)に松竹で
映画を2本撮っています。そして1949年(昭和24年)、25歳のときに大映に入社してい
ます。どのような経緯でそのようになったのか全くもって存じませんが、好条件で引き
抜かれたのでしょうか。
そして、その年に『痴人の愛』で、翌年(1950年)に『浅草の肌』で、その官能的肉体と
すらりとした脚線美を観客の目に焼き付けます。それで肉体派・ヴァンプと喧伝される
ようになったのです。

しかしその期間はさほど長くはありませんでした。なぜなら同年(1950年、昭和25年)に
邦画にとって記念碑と云うべき画期的な『羅生門』(黒澤明監督作品)が公開され、ヴェ
ネツィア国際映画祭グランプリ(サン・マルコ金獅子賞)を獲得したからです。
上に挙げた画像のうち、左上が『羅生門』の1シーンですが、このときの彼女の演技はま
さに神がかりの如き素晴らしいものでした。
もともとは、黒澤は東宝の原節子をこの役にすることを考えていたのですが、大映からの
要望のみならず、京マチ子自身も眉を剃り落としてメーキャップテストに現れて意気込み
を示したそうです。その熱意もあって黒澤は京マチ子を選びますが、あの狂気を内に秘め
た役柄を原節子では上手く表現し得なかったように思います。宮川一夫のカメラが映し出
すあの京マチ子の鬼気迫る演技があってこその受賞でもあるのです。
 その演技力の高さから、第5回毎日映画コンクールの主演女優賞に輝いています。
 5月16日の読売朝刊「編集手帳」には、『羅生門』の撮影に入ってから、黒澤が“髪結い
 の部屋に入ってきた。そのとき京さんは眉を剃り落としたばかり。時代劇に自分の眉は
 濃すぎて向かないと思い、一存で顔を変えたという◆「先生はこれは面白いと言ってく
 れて、自由に演技させてもらいました」”とかって京マチ子が語ったと書かれてありま
 すが、上述したものが正しいように思います。彼女の語ったことの時制が整理されてい
 ないのかも知れません。

翌年(1951年、昭和26年)には『源氏物語』(吉村公三郎監督作品)に第5回カンヌ国際映
画祭撮影賞をもたらし、1953年(昭和28年)には『雨月物語』(溝口健二監督作品)でヴェ
ネツィア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞を獲得。その1シーンが画像右上のもので、主人
公の森雅之に取り付く死霊役の京マチ子の演技は、能面に模した幽玄な表情と相俟って、
不気味な心霊の世界をその身辺に漂わせていて、原作の怖さが観る者に迫って来ました。

さらに同年(昭和28年)の『地獄門』(衣笠貞之助監督作品)は、詩人ジャン・コクトーに
「自分は生まれてからこのかた、こんな美しいものを見たことがない」と言わしめた大映カ
ラー作品で、見事カンヌ国際映画祭グランプリを受賞しました。
 少し遅れますが、1957年(昭和32年)の第14回Jussi賞(フィンランド)で主演女優賞に
 輝いています。
 柳の下に二匹目の泥鰌を狙った大映は、永田社長自らが陣頭指揮を取って、縁起まで担い
 で題名に「門」を付けましたが、原作は、菊池寛の『袈裟の良人』。(「袈裟」は、京マ
 チ子演じる悲恋に悩む佳人の名。)    

斯様に海外の名のある映画祭で立て続けにグランプリを受賞したことから、それらに出演し
た彼女には以後「グランプリ女優」と二つ名が付くようになります。
 『鍵』(市川崑監督、1959年)でも、カンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞。すべて監督
 が違うところが、彼女の貢献度(存在感)の大きさを示しているように思います。

市川雷蔵は自著『雷蔵、雷蔵を語る』(朝日新聞社発行)の中で、『ぼんち』(市川崑監督
作品、1960年、昭和35年)の主人公である雷蔵に対して因縁浅からぬ関係を持つに至る四人
の女性について、撮影中に感じた彼女らの印象を語っていますが、その中の一人である京マ
チ子について、“『千姫』以来久し振りでした。『千姫』といえば、私が映画に入ってまだ
三本目のカチカチ時代で、しかもその私が世界的に有名なグランプリ大女優の京さんと共演
することになったのですから、(中略)心理的にはまったく頭の上がらない感じだったので
すが、その時の京さんは馴れない私を大きく包んで受けとめるように包容的な芝居をしてく
ださった(後略)”と記しています。
 『千姫』(木村恵吾監督作品)は1954年(昭和29年)なので、『ぼんち』はその6年後の
 作品。京マチ子以外の3人は、若尾文子、草笛光子、越路吹雪。

売出し中の主演男優(雷蔵)に気兼ねさせるほどのこのレッテル、彼女にとって勲章どころ
か負担に感じさせるものだったかも知れません。

画像右下の1コマは、『浮草』(小津安二郎監督作品、1959年)の最後の1シーン。金を持
ち逃げされたドサ回りの座長中村鴈治郎が一座を解散して、隠し子からも見放されて、出直
しの旅に一人出ようとしたときに、隠し子のことで喧嘩別れのようになっていた妻で相棒の
京マチ子が駅で待っていて、二人車中のひととなってから京が酒を注ぐところ。京マチ子の
表情が実に好い。
先日と云っても大分前のことですが、4Kで放送されていたのです。何度も観た作品ですが、
ジャン・コクトーではありませんが、こんな美しいカラーに仕上がったものを見たことがな
い。賞は獲っていませんが、僕の好きな映画なので敢えて採り上げました。
 京マチ子は、関西人(大阪府大阪市出身)特有のはんなりした面(菩薩面)と女性の妬心
 としてのはんにゃの相(夜叉面)とが微妙に入り交じった演技が自然にできるひとで、
 『浮草』ではそれが存分に発揮されています。

大人びて見える京マチ子ですが、垣間見せた一面を雷蔵が次のように述べています。
“『ぼんち』が終るとすぐアメリカへ行くことになっているのをとても楽しみにしていまし
た。セットの合間もその話で持ち切りで盛んにはしゃいでいるところを見ると、大変娘っぽ
い無邪気さまる出しのいわゆる役者子供の感じだったのが微笑ましく思われました。”と。
仕事では無く、多分仲の好い友人たちと、アメリカはアメリカでもハワイへ遊びに行く話で
あったように思えます。
 京マチ子は独身で通したひとで、自分のことを奥手で引っ込み思案だと語ったことがあり
 ますが、そのことには父親の一件も大いに関係しているのでしょうけど、童心を持ち続け
 ていたことも確かなように思います。同じマンションに住み、長らく親交のあった石井ふ
 く子(プロデューサー)が彼女のことを「心の美しい本当に清からかな方でした」と悔み
 を述べたのもその顕れであるように思います。

これが切っ掛けとなって大のハワイ好きになったのかどうか分かりませんが、大正(13年3月
25日)に生を享け、昭和、平成をまるまる生きて、令和の御代に変わるや2週間足らずで急く
ようにして彼岸へ旅立ち、自らが数年前に手配したというハワイの墓に入ると云う。合掌。

(5月16日に加筆・修正をしています)


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団塊の世代雑感(294-1) (4組のizisです(294-1))
2019-05-28 20:42:04
「曲学阿世の徒」

先日(5月25日)、共同通信社の記事に「寺田屋事件は龍馬の思惑通り?龍馬の悪巧みで
あったのでは」と題するものがあったので、何のこっちゃと覘いてみると…。

何とこれまた京都国立博物館の宮川禎一上席研究員のお騒がせ珍説。これまでも、主な物
でも芸者のブロマイドをお龍の若い頃の写真と喧伝したり、「没後150年龍馬展」の目玉と
して長さも反りも刃文も異なる吉行を龍馬の佩刀と鑑定したり、しているのがこの人です
からね。
そして、今回は以下の講演を「現代龍馬学会」で臆面も無く披露したのです。
その講演内容ですが、共同通信社の記事によると、“京都の宿「寺田屋」のおかみ、お登
勢が事件後、龍馬に宛てた手紙に、薩長同盟の書状が幕府に奪われたことが記されている
と説明。書状は偶発的ではなく、実は龍馬がわざと奪わせ、口約束の同盟にとどまってい
た薩摩藩に後戻りできなくさせたのではないか”とあります。

奇を衒(てら)うのもいい加減にしてもらいたい。
わざと奪わせるなんて、あの緊急時に考える暇なんて無いし、もし彼の云う通りだとした
ら寺田屋を伏見奉行所配下の取り方に襲わせたのも龍馬が予め仕組んだことにしないとい
けなくなる。
緊急時だったからこそ、龍馬は着換えることも出来ず、戦うに必要な大小を褞袍(どてら)
のまま携えて、短銃を構えるだけで精一杯だったわけで、龍馬が常に携帯していたであろ
う日記(その他の書類については多分無かったと思う)は手荷物、羽織袴とともに床の間
にでも置いたままになった。

寺田屋の女将お登勢と龍馬との間で交わされる書簡は、諧謔に満ちたものが多いのですが、
ここで採り上げているものも、その一つで、寺田屋事件(慶応2年1月23日八ッ半。午前3時
ですが、当時は夜が明けるまでは日が変わりません。)の何日か後にお登勢が認めて龍馬
宛てに送ったものです。伝聞調で面白おかしく伝えているので、意訳ですが全文を以下に
掲げます。(括弧内は僕の付けた補足です。)
「よそで聞いた話をそのままお伝えします。ある宿(寺田屋)には主人がなく(伊助は既に
故人)後家(お登勢本人)がいて、その夜はどういう訳か夜の八ツ時に風呂に入り、あがっ
てから火鉢にあたっていたところに、表の方からちょっと頼みますと声がしたので、何だろ
うと家内の男(使用人)が戸を開けたところ、その後家に向かって、表までちょっとおいで
くださいと云うので、何事なのかと出て行くと、後ろ鉢巻に抜き身の槍の出で立ちの凡そ
100人ほどが並んでいたものだから本当にびっくりしたのですが、何事でしょうかと尋ねた
ところ、その方の二階に二人の侍がいることは確かめている。ありのまま申せと云うから、
もはや隠しおおせることはできぬと考え、その通り二階にいらっしゃいますと答えたら、彼
らはどうしていると尋ねられたので、まだ寝ずにお話をされていると云うと、捕り手の人ら
は大変な慌てようで、どうしよこうしよといろいろ恐れている様子で、誰が行け彼が行けと
その混乱振りは云いようのないほどで、その女(お登勢)が思ったのは、こんな(臆病な)
人が幾万人捕りかかろうが、その両人(龍馬と長府藩士三吉慎蔵)には所詮敵わないと思い、
このことでは安心しました。それより、その女(お登勢)が家の中に入ることができずに
表で捕まえられていたのですが、大方の捕り手が家に入ったかと思ったら、二階が今にも落
ちるような大きな音がして、また鉄棒(槍のこと)の音もして、やれやれ怖いことと懼れな
がら外にいたのですが、皆が皆(捕り手連中)逃げ出てくるやら、二階から落ちるやら、散
々な有様でしたので、それに紛れてその女(お登勢)は家の中に入ったところ、最早捕り手
のひとも居なくなっていて、二階は煙が上がっていたので、怖さも忘れて行ってみると、ふ
とんが燃えていたのですが、どうにかして(龍馬らの)遺留品を隠そうしたのですが、思う
ようにならず、そうこうするうちに両人が居なくなっていることが捕り手に分かってしまっ
て、彼らが皆遣って来て家中を散々に探し出したのです。その時、その女(お登勢)もこの
ような残念なことは無いと思っても、何分仕方の無いこと。それからそれ(お登勢)を呼ん
で色々尋ねたのですが、唯何も存じません。お尋ねしたいのであれば、薩摩藩のお屋敷でお
尋ねくださいと云ったところ、それならよいと云い、そのままで(咎めも無く)済んで、商
売(船宿)もやっております。これも全くその御方(龍馬のこと)に少しのくもり(怪しい
ところ)も無いからであると、誠に誠に有り難く思っております。さらに面白い話をもれ聞
きましたが、手紙ではなく、お目にかかったときに詳しくお話し申し上げることにします。
かえすがえすも好便をお待ちしております。かしこ。このことだけが楽しみで暮らしていま
す。かしこ、かしこ。
当家藤印(「藤」の付く者であれば、後に龍馬の下僕となる元相撲取りの山田藤吉か?)か
らもくれぐれもよろしく、お便り(くださいと)申上げ(ています)、かしこ。
             血の薬
               ご存じより
  龍君様 御元へ                               」
 註)「血の薬」は龍馬とお登勢との間でのみ通じる隠語か?
   藤吉が既に(海援隊を通じて)寺田屋に雇われていたのであれば、その後の彼の行動
   (龍馬のボディガード的役割)も分かり易いものになる。
   遺留品については、『三吉慎蔵日記』の事件当日(1月23日)夜のことして、銃(龍馬
   が手傷のため取落した)、槍(三吉が使った短槍で逃げる際に捨て置いた)、書類、
   用金(路銀)を奉行所に押収されたようである旨の記載がある。書類については何で
   あるか記していない。   

お登勢の手紙のどこに「薩長同盟の書状が幕府に奪われたことが記されている」と云うので
しょうか。

(続く)
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団塊の世代雑感(294-2) (4組のizisです(294-2))
2019-05-28 20:43:15
この事件の数日後に立った風聞では、龍馬の名が明らかになり、薩摩屋敷に逃げ込んだのを
目撃した者もいるが、薩摩側では否定していること、さらに龍馬が薩長間を周旋しているこ
とが分かる書類などもあると記されている(風聞書『秀草年録』)。
さらに『慶応丙寅筆記』(丙寅は2年のこと)と云う詳しい報告書(おそらく伏見奉行所が
纏めたもの)が残されていて、そこには以下のことが記されてあります。(上記同様意訳)
「もっとも荷物等はそのまま右宿(寺田屋)に置いたままであったので、取り調べたところ、
格別なところは無いものの、次第に分かってきたことは、長州の者との談合の書面があって、
この度(第一次長州征討のこと)は寛大な処置に決まったが、決してそれを(長州としては)
受け入れてはならず、逆に嘆願に託して多人数を上京させれば、そのときには(長州を京か
ら追い落とした)会津藩を京から退けることの周旋をすべきと、長州藩への返書なども所持
している模様です。」
 「誰が」という部分が抜けていますが、龍馬を匿う薩摩藩であることは明白です。

以上から分かることは、龍馬が薩長の間を取り持っているらしいことしか龍馬の残した遺留
物からは掴むことは出来なかったということです。
日記ですから、覚え書き程度の要点しか記していないのです。このことはその日記(『坂本
龍馬手帳摘要』と称するもので二巻からなる)を見る限りにおいては薩長同盟の談合につい
ても「二十二日、木圭、小、西、三氏会」としか書いていないように、自分が分かるメモで
しかないのです(木圭は長州の桂小五郎のこと、小は薩州の小松帯刀、西は同じく薩州の西
郷吉之助のこと)。
もっとも第二巻は、慶応2年1月10日に上京のため下関を発ったところからのメモが記載され
てあるものの、寺田屋事件については「二十三日夜、伏見に下る、二時過ぎる頃…」としか
書かれていません。その後の事は詳しく書かれていることから、龍馬が置き忘れた日記に書
き置いた事項を記憶を辿って書き直したのでしょう。元のものにはどのように書かれてあっ
たのか不明ですが、思い出し思い出しして書いたのであれば、大差の無いものであったよう
に思うのです。その証に、探索方としては上述したようなことしか分からなかったのですか
ら。

報告書で詳しく述べているのは、調査を通じてその後の判明したことで、桂が帰藩の途中、
大坂から龍馬に裏書を頼んだ協約六箇条の手紙(1月23日付)のことでもなさそうです。
 なぜ裏書を頼んだのかと云うと、1月21日に薩長で交わされた協約が書面で交わされたの
 では無かったからです。心配性の桂は、帰途の中にあって、その証となる六箇条を認めて、
 立ち会った龍馬に証文であることの保証を求めたのです。
 龍馬は直ぐに(2月5日付)桂からの書面の裏に、「表に記されている六条は、小(小松)、
 西(西郷)両氏および老兄(桂)、龍などが同席し議論したもので、少しも違うことは
 ありません。この後も変わることの無いものであることは神明の知るところです」(意
 訳)と朱で大書しています。

その六箇条を記す(意訳)と次のようになります。
1.戦(第二次長州征討)となったときには、すぐさま薩摩は二千余りの兵を急遽上京させ、
  在京の兵と合わせ、その内の千ほどを浪花に置いて、残り全てで京都・大坂の地を固め
  ること。
2.戦で長州の勝利が見えてきた暁には、薩摩は長州の名誉回復のために朝廷に対して尽力
  すること。
3.万が一、戦が敗色となっても一年や半年は持ちこたえられるので、その間に薩摩は必ず
  (朝廷に対して)尽力すること。
4.戦が終って幕府側の兵が引き揚げた後は、薩摩は必ず朝廷へ申し上げ、すぐに長州の冤
  罪を晴らすよう尽力すること。
5.一橋(慶喜)、会津、桑名等が朝廷を擁して正義を拒み、薩摩の周旋をさえぎるときは、
  決戦やむなしであること。
6.長州の冤罪が晴れたときには、薩長は誠心をもってともに皇国のため、砕身尽力するこ
  とは云うに及ばず、どのような結果になろうとも、今日よりともに皇国のために、皇威
  が回復することを目指して誠心誠意尽力すること。

上記以外はくどいほど皇国のために云々が繰り返されているだけなので、もしもこの手紙が
盗み見られたのであれば、六箇条のことから薩長が同盟関係に入った旨の報告になっていな
ければならないのにそうはなっていません。
 報告書にある「この度は寛大な処置に決まったが、決してそれを受け入れてはならず、逆
 に嘆願に託して多人数を上京させれば、そのときには会津藩を京から退けることの周旋を
 すべき」は、2年前の元治元年3月5日の第一次長州征討での長州の処分(朝廷裁可)以降、
 同年7月19日の禁門の変に至るまでの間に長州が考えていたことで、それが幕府側に漏れた
 のでしょうけど、龍馬も薩摩藩も関与するものではありません。

長々と書き連ねてきましたが、要するに宮川禎一氏の説は何ら根拠も証拠も無い妄想でしか
ないのです。やはり曲学阿世の徒であったと。(@_@;)
返信する
団塊の世代雑感(295-1) (4組のizisです(295-1))
2019-06-21 22:06:43
「ニッチもサッチもどうにもムンジェイン」

韓国が日韓請求権・経済協力協定(1965年)に基づく日韓双方による仲裁委員会の設置
に応じることなく、18日に期限切れ(日本が韓国に要請した5月20日から起算して30日。
日本側は、5月20日に委員を任命済み。)となったことから、日本政府は直ち(19日)に
第三国の選定委員による仲裁委員会への移行を韓国政府に通告し、それに応じるよう要請
したんだけど…。
 この移行も日韓請求権協定に従った(手順に沿った)もので、日本が指名した第三国
 (その国が委員を選定)と韓国が指名した第三国(同)とそれぞれに指名された両国
 が指名した第三国(同)の3名の委員が審理を行う。どのように審理を進めるか、いつ
 までに行うかは委員らが決定する。なお、日韓それぞれが第三国を選定する期限は30
 日後の7月18日となる。

で、韓国は大慌て。
19日になって韓国政府(日本の外務省に当たる外交部)が2ヶ国間協議開催の前提条件を
出してきた。それも事前(16日~17日)に外交部第1次官(趙世暎)が日本にやって来て、
その件について内々に打診したものの言下に日本側に拒否されたにも係わらずだ。
文大統領も米朝仲介のときにそうだったけど、日本側が婉曲に断ったものを自己に都合
の良いよう(失点にならないよう)に脚色して報告したのでしょうね。こうであって欲し
いを、さも事実であるかのようにするのは彼の国の習性だもの。

その前提条件と云うのが、訴訟当事者の日本企業(日本製鉄<旧新日鉄住金>、三菱重工
業など)と日韓請求権・経済協力協定で恩恵を受けた韓国の企業(ポスコ、KTなど)の拠
出金を以って原告らの慰謝料の支払いに充てると云うもの。これって昨年10月末に韓国外
交当局が一度出してきた案なのだけど、今年の1月に大統領府の当時の報道官(金宜謙)が
「発想自体が非常識である」と正式に拒否したもの。しかも「政府は強制徴用の被害者に
関する大法院の判決を尊重するというのが基本的な立場だ」と大見得を切ったのだよね。

支離滅裂なのは、今に始まったことじゃないけど、国家間で決めた従軍慰安婦のための『和
解・癒やし財団』の一方的な解散のときもそうだったけど、今回も被害者とされている人々
と一切話し合うことも無く、これまた一方的に提案してきた。どこが被害者に寄り添った
政権なんだよ。しかも被害者は裁判で原告となったものに限られるとやっちゃったものだ
から、約23万人(補償金は23兆ウォンにも達する)と予想される元徴用工を置き去りにした、
体裁を繕うだけの案と韓国国内でも非難囂々。日本だってそんな誤魔化しは全く信じない。
芋づる式になるのは火を見るより明らかだもの。

そして臆面も無く今回の提案。まさに噴飯もの。日本外務省は、直ちに(1時間も経たない
うちに)拒絶の旨を共同通信を通じて世界に報道。菅官房長官も「韓国の国際法違反の状
態を是正することにはならず、問題の解決策にはならない」としっかり指摘。

つまりね、「大法院の判決を尊重する、政府は不介入」と昨年10月の大法院判決以来、手
を拱いているだけの文政権が、ここにきて恥も外聞も無く(もともと無いのだけど)自ら
が否定した案、しかも同様の2015年の日韓合意(「最終的かつ不可逆的に解決」で合意)に
よる『和解・癒し財団』を一方的に解散した前科があるにも係わらずに、出してきたのは
ね、もう手詰まり以外の何ものでも無い証拠。

日韓請求権協定には韓国が応じなくてもその場合の規程が無いので、日本政府は国際司法
裁判所へ付託して白黒を付けてもらうことになるのだけど、韓国が国際司法裁判所の決定
に従う義務(強制管轄権)を受け入れていないので、審理そのものも韓国の同意が無けれ
ば行なうこともできない。で、十中八九韓国は応じない筈。
では、このような流れになることを百も承知なのに何故日本政府は淡々と進めるのか。
日本が真摯に対話による解決を計ろうとしているにも係わらず、全く応じようとしない韓
国という事実の積み重ねが、大切なのですよ。応じないのは、後ろめたい何かがあるから
だと世界に印象付けることが、やがてモノを云うことになるのですよね。

(続く)
返信する
団塊の世代雑感(295-2) (4組のizisです(295-2))
2019-06-21 22:07:32
既に韓国人(崔碩栄)の手になる『韓国「反日フェイク」の病理学』(小学館新書)の中
(「第4章 徴用工の嘘」)で様々な虚偽、歪曲、捏造が暴かれています。(これは良書!)
徴用を徴兵同様に強制的なものとした書籍『朝鮮人強制連行の記録』(朴慶植著、未来社、
1965年発行)について、崔は“日本が朝鮮人を強制的に連行、拉致し日本に連れて来た。
日本では炭鉱や工場で重労働と飢餓にさらされ多くの人が死んでいった。こうして連れて
こられた人たちが解放後日本に残ったのが在日朝鮮人だという内容だ”と述べています。
そして、韓国にあってはバイブルのように扱われてきた書であるとも述べています。
しかし、2004年になって、首都大学東京の名誉教授である鄭大均がその著書『在日、強制
連行の神話』(文春新書)において『朝鮮人強制連行の記録』の誤りや矛盾だけでなく、
それが書かれた真の目的について、“この本は強制連行という「素材」を扱った歴史書の
体裁をとってはいるが、真の目的は日韓国交正常化の阻止と破壊だ。これは当時、朝鮮総
連と北朝鮮が最も力を入れていた運動でもある。”とし、歴史書でも何でも無く、北朝鮮
のプロパガンダそのものであると喝破しています。

朴は、朝鮮総連傘下の朝鮮学校、朝鮮大学校の教員でした。1965年に日本で出版された本
が韓国で直ぐに出版されなかったのもそのためでしたが、2004年に自分たちに不都合な箇
所は書き換えたり、削除して出版されたのです。それ以前に慰安婦問題で味を占めた連中
が徴用工問題を有利に運べる内容であると考えたからに他ならないのですよ。<`ヘ´>
 2004年には、ソウル大学経済学部の李栄薫教授が「慰安婦の強制連行」を否定すると、
 社会的な非難を受け、慰安婦たちの前で土下座させられている。これもその一環。

崔は、『韓国「反日フェイク」の病理学』の中で、“徴用経験者に「オイシイ話」を吹き
込んだ人々”として、“韓国内にいた徴用経験者たちは、日本のいわゆる「人権派弁護士」
たちの協力を得て、日本政府と日本の企業を相手に訴訟を準備していた。訴訟に勝てば多
額の賠償金をもらうことが可能という噂も広がっていた。”そして、その活動の中にいた
人物として“日本の市民団体「紀州炭鉱の真実を明らかにする会」のメンバーで、在日朝
鮮人の活動家である金静美、大阪産業大学名誉教授の斉藤日出治、同会の佐藤正人である。”
と実名を挙げています。
従軍慰安婦のときと構造は全く同じなのです。日本の人権派と称する左翼系の弁護士、ジャ
ーナリスト、学者、政治家、これらの中には在日朝鮮人も含まれるのは勿論のことですが、
彼らが火を付けてそれが韓国に飛び火と云うより、在韓国の同類と結託して炎上させるの
です。『朝鮮人強制連行の記録』の韓国版出版もその一環にあるのです。
 文在寅も人権派と称する弁護士の出。2003年2月25日に誕生した盧武鉉政権では、その側
 近となり、爾来筋金入りの反日活動家としてその構造の中心にいることは確か。

2017年7月に『軍艦島』(柳昇完監督)が封切られましたが、そこでの朝鮮人は徴用されて、
軍艦島で日本人労働者とは差別されてより苛酷な労働を強いられたとされていますが、実
際はそうでなく公平な処遇であったことが『韓国「反日フェイク」の病理学』の中でも、雑
誌『WiLL』(2017年11月号)の中(「軍艦島朝鮮人は強制労働のウソ―シベリア抑留と
対比し検証する」長勢了治著)でも、当時の記録に基づいて明らかにしています。特に後者
では“シベリアに抑留された日本人は自動小銃を持った警戒兵に警備されながらノルマ、ノ
ルマで追いたてられる「強制労働」を強いられただけでなく、賃金も支払われないか支払わ
れてもごく少額の「奴隷労働」をやらされたのであった。これに較べれば、労務動員朝鮮人
は苛酷な重労働ではあっても日本人と同等の賃金が支払われ、故郷の家族に仕送りができ、
貯蓄や小遣いもあったのである。”と強制労働とはどのようなものを云うのか示しています。

韓国で徴用工像を作るに当って、徴用工の写真を入手できても皆壮健な姿ばかりで、やっと
ガリガリに痩せ細った工人の写真を見つけ、それをモデルに作ったのがソウルやインチョン
などに設置された徴用工像。でもね、その写真のモデルは日本人の工人だったのですよね。
アホラシ。
 5月10日午後、釜山市草梁洞(チョリャンドン)の日本総領事館から180メートル余り離れ
 た所の広場で開かれた「徴用工像の設置に『反対』」の集会で、スピーカーを手にした李
 宇衍代表が語ったことは次のようなものであった。
 「徴用で日本に行ってきた方々は、今まで2回にわたり韓国政府から賠償金を受け取りまし
 た。その時、彼らが徴用の証拠として裁判所に提出した資料のうち最も多かったのが写真
 でした」
 「彼らが提出した数千枚の写真のうち、どの写真にもあそこの銅像のように痩せ細った姿
 はなかったのです。みんな壮健な元気な青年の姿ばかりでした」
 「それにもかかわらず、民主労総と韓国労総、挺対協は政治的利益のために歴史を歪曲し、
 一昨年から徴用工像建立推進委員会を結成し、全国に銅像を作っています」
 「あそこにある痩せ細った徴用工像は、朝鮮人ではなく日本人労働者をモデルにしてでっ
 ち上げたイメージです・・・」

それらの像が設置されたのは2017年8月12日のことですが、なんとその1年前(2016年8月)に
京都丹波マンガン記念館にそっくりな像が置いてあり、そこは人権ネット加盟団体であるそ
うな。
徴用工像の制作者は、慰安婦像を制作した者と同じで、明らかに先に述べたエセ人権派によ
る慰安婦詐欺・詐取と同じ構造で事が進められていることが分かる。

(続く)
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団塊の世代雑感(295-3) (4組のizisです(295-3))
2019-06-21 22:08:22
もともと徴用工の問題は、文在寅が仕えた左翼政権の盧武鉉大統領でさえ、日韓請求権協定
に従わざるを得ないとしていたのに、文在寅政権になってからの2018年に大法院が「不法植
民支配に伴う損害賠償次元の個人請求権は有効」だと判決を出したことが現在の混迷を招く
ことになった。これとて、韓国内だけに通る屁理屈であって、当時の主要各国の了解のもと
植民地としたのであって、不法云々の非難の声は上がっていない。国際的に不法とされてい
ないものを不法と強弁するならば、確固たる証拠を挙げてもらいたい。因みに情緒は証拠に
はなりません、念のため。 
さらに大法院が昨年10月に日本企業に賠償を命じる確定判決を出し、原告側は日本企業の資
産を差し押さえ、5月2日にその資産売却を申請した。現金化手続きには3ヶ月以上かかるので、
その間に日本企業を交渉の場に引きずり出そうと躍起になっているのですが、今回の提案が
退けられた今、どのような挙動に出るのか。現金化された場合、日本は報復措置の他に、「国
際法違反を是正しなかった韓国の国家責任」を問い、企業の損害額に応じて韓国に賠償を求
める方針を明らかにしている。
 国際法違反行為に関する国家の損害賠償義務は、2001年に国連国際法委員会が採択した国家
 責任条文で明文化されている。

韓国は、物心両面で計り知れない損失を蒙ることになる。で、文政権は今までのように何もし
ないわけには行かないのですが…。
反日を旗印にして、積弊清算を通じて、左翼政権を盤石のものにしようと謀った文政権です
が、徴用工問題では出口が見えない。北朝鮮の非核化でも中国の習近平に米国との仲介役を
持って行かれた。米国との安全保障にも影が差してきた。かように外交では悉く味噌を付け
てきた上に、景気も低迷を続けているのに、日韓請求権協定で恩恵を受けたとして、POSCO、
韓国道路公社、韓国鉄道公社、外換銀行、韓国電力公社、KT、KT&G、韓国水資源公社、韓国
科学技術院、気象庁などから徴用工への補償金を支払わせようとしたことは、自らの首を絞
めることになるのに、それすら気付かない。

で、もはや文在寅政権は、四面楚歌、八方塞、二進も三進もどうにも行かないところまで来
ている。近いうちに政権は崩壊するでしょうけど、日本も指をくわえていてはいけません。
日本としては、正しいステップを踏みながら、世界に対してその過程と結果を喧伝して、如
何に韓国に非があるかを、韓国の言い分に嘘があるかを広めていくことが大事なのですよ。
それは徴用工問題のみならず従軍慰安婦問題、レーザー照射事件、延いては竹島問題の帰結
に多分の影響を与えることになる筈です。政権が変わっても、それらが日本に有利に働くよ
うに積み重ねて行かなければなりません。
日本国内においては、エセ人権派である個人、組織を極力排除していかねばなりません。私た
ちができることは、「購買しない」、「視聴しない」、「投票しない」。これだけでも効果を
十分に発揮できるのです。ファイトーー!( ゚ロ゚)乂(゚ロ゚ )イッパーーツ!!
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団塊の世代雑感(296) (4組のizisです(296))
2019-07-04 22:59:48
「報復と云うより躾かな」

今日7月4日から韓国に対して輸出規制が発動されましたが、韓国は上を下への大騒ぎの結果、
如何にも彼の国らしい対抗措置を講じると云う。
WTO(世界貿易機関)への提訴云々は後に回すとして、まさに報復ならぬ抱腹絶倒なのが
自国でそれを生産するとして、毎年1兆ウォン(約920億円)もの大金を集中投資すると
いう一件。(昨夜の討論番組で、その金を徴用工など他に回せばよいとの至極まっとうな
意見がありましたね。)
何も考えずに威勢だけ良いのは、無鉄砲という。そんなことでは「経済戦争」と扇情的な記
事で日本をいくら非難したって勝てやしませんよ。
簡単にできるなら、とうにやっている筈。規制の第一弾として指定した3品目のうち、フッ
化水素は90%、レジスト(感光材)は80%、フッ化ポリイミドは70%が日本企業のシェア。
このことは、簡単には出来ないことの証でもあるのですよ。
山や海から取り出した素の原料じゃないからね。長年の間に様々なノウハウが蓄積されてい
て、パテントも登録してあるから、おいそれと作れるものじゃないのですよ。何十年も掛か
るだろうし、コピー製品が出来たとしても特許侵害で莫大な賠償金が課せられることになる。
だから、そんな手間や冒険をせずに済むように日本から仕入れているのだからね。

それら3品目は、韓国の稼ぎ頭の半導体(フッ化水素を洗浄に使う。基板に塗るレジスト)や
スマホ&テレビ(有機ELディスプレイに使うフッ化ポリイミド)に無くてはならないもの
で、そのうちのレジストとフッ化水素は90%が日本からの輸入に頼っているのだから、ただ
でさえ景気が落ち込んでいる韓国にとってはまさに死活問題。
 韓国経済の屋台骨を支えるサムスンやLGは、ほぼ全量を日本から調達している。

韓国の備蓄は、わずか1ヶ月分しか無く、製品在庫の3ヶ月分を加えても、このままでは半年
も持たずに韓国経済が崩壊する現実味が。
そうあってはならじと韓国はWTOに提訴すると息巻いているのですが、たとえ提訴できた
としても協定違反に問えるかというと実に怪しい。
日本は提訴も見越して、今回の輸出規制の理由を安全保障上のものとしているのですが、G
ATT(関税・貿易一般協定)では「安全保障のための例外規定として、安全保障上の重大
な利益を保護するためには各国が必要な措置を取ることができる」(21条)とあるものの、
「軍事施設に供給するための貨物及び取引」を証明する必要があり、韓国が北朝鮮に密かに
供給していることはもとより韓国の軍備が日本に敵対するためのものであることを証明する
のはかなり難しい。
で日本は、韓国軍による海自哨戒機へのレーダー照射事件や、核の脅威を与え続ける北朝鮮へ
の韓国による国連制裁違反の石炭購入や瀬取りも含めての石油供給など諸々の証拠を挙げて、
さらには1965年の日韓請求権協定破りの徴用工問題や両国で取り決めた慰安婦財団の一方的解
散などの不誠実な対応を挙げて、信義にもとる国、信頼の置けない国として安保上問題がある
として「ホワイト国」(27ヶ国)から韓国を外す措置を採った(輸出管理を行なう。8月中に
政省令を改正)のです。
 「ホワイト国」とは、安全保障上の友好国のことで、個別の輸出ごとの申請を不要とする
 優遇措置を与えられている。この優遇措置を失うと、個別の輸出ごとに経産省に申請のうえ、
 その許可が必要になる。製品が輸出先(韓国)で安全性を脅かす恐れが無く、適切に扱われ、
 管理されるかが審査されるため、最低でも90日はかかると云われている。勿論、審査の結果
 によって許可が下りず輸出できないことにもなり得る。
 参考までに「ホワイト国」は、以下の国々。アイルランド、アメリカ合衆国、アルゼンチン、
 イタリア、英国、オーストラリア、オーストリア、オランダ、カナダ、ギリシャ、スイス、
 スウェーデン、スペイン、大韓民国、チェコ、デンマーク、ドイツ、ニュージーランド、
 ノルウェー、ハンガリー、フィンランド、フランス、ブルガリア、ベルギー、ポーランド、
 ポルトガル、ルクセンブルク。

日本としては、韓国の非を鳴らす機会にもなるので、韓国のWTO提訴は歓迎だろうと思いま
す。EU(欧州連合)も韓国に対して優遇措置を取っていませんし、その理由も明らかにされ
るでしょうから、韓国と云う異形な国の姿が炙り出されることは大歓迎なのです。
日本の経済界や有識者と云われているひとの中には、日本も被るであろう損失ばかりに焦点を
当てたり、自由貿易に反する行為だと非難したりしていますが、韓国と違って、取って変えら
れる国があるし、輸出先を変えることによって例えばインドやベトナムなどを日本が育て上げ
ることもできるのです。韓国離れのよい機会ととらえるべきです。それに日本国のブランド価
値を高め維持していくためにも、韓国の無理無体な言掛り(歴史修正による日本国を貶める行
為)をここら辺りで釘をさす必要があるのです。韓国が云うように、実弾を伴わない戦争であ
ることを忘れてはならないのです。我慢が必要であることを理解しなければなりません。

韓国は、参議院選挙が終れば風も変わるなんてノー天気なことを考えている輩もいるようです
が、これは韓国世論が文在寅(左翼)政権を倒さない限りは収束することは絶対に無いと思い
知るべきです。
韓国の民はそれこそ現金なもので、己に被害が及んでくると、手近なところにその攻撃の矛先
を向けます。いくら反日を叫ぼうが、非を唱えようが、その効果が日本政府に及ぶことは有り
得ませんので、ここまで何らの手立ても講じることなく傍観していてこの事態を招いた文在寅
政権を弾劾する声が高まる筈です。そして保守政権に取って代わったときに仕切り直しができ
る筈です。「欲しがりません勝つまでは」のスローガンは、彼の国では通用しないのです。
そうなるまで、日本国政府は手綱を締め続けなければなりません。日本国民、日本企業は「欲
しがりません勝つまでは」でいなけれななりません。無恥・無知には愛の鞭も必要だというこ
とを理解しなければなりません。

…と思う今日この頃。報復してやると元気一杯のたまった康京和(カンギョンファ)外相が
どんなことを云ってくるのか楽しみにしている今日この頃。(-_-メ)
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