五日市中央小学校おやじの会

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平成23年4月18日:佐久間艇長

2011年04月18日 | Weblog
佐久間勉は、明治34年海軍兵学校を卒業後、数隻の艦艇乗務を経て明治42年、国産初の第六号潜水艇の艇長を命じられました。

そして、明治43年4月15日、広島湾新湊沖で半潜航訓練中、不慮の事故により沈没してしまいました。

艇長以下14名は、迫りくる死を覚悟しながらあらゆる手段を講じて懸命に艇を浮上させようとしましたが、艇が浮上することはありませんでした。

潜水艇の酸素がなくなるなか、佐久間艇長は手帳に遺言を記します。




佐久間勉の功績を紹介したブログ

当時、海外の潜水艦の事故では、我先に逃げようと出口に殺到し息絶えていることがありましたが、第六潜水艇が事故から2日後に引き上げられると艇員全員がそれぞれの持ち場についたまま息絶えたのでした。

この事実は当時、国内はもとより世界の知るところとなり、アメリカでは国会議事堂大広間の陳列棚に独立宣言を並んで艇長の遺書が英訳を添えて展示され、英国海軍では現在もなお教訓として活かされているそうです。

遺書は、指令搭からもれるかすかな光をたよりに記され、先ず艇を沈め部下を死なせてしまった艇長自身の不徳を詫び、艇員一同は最後まで職責をまっとうしたことを讃え、事故後の艇内の状況が書かれています。

そして、呼吸も苦しくなるなか、最後は気力を振り絞って、部下の家族が将来困ることのないようにとの気遣い、お世話になった人々への感謝の気持ちを綴っています。

戦前までは、「沈勇」として軍人精神高揚のため利用されたこともありますが、佐久間勉は、片道十数キロの道のりを毎日歩いて通学し勉学に励んだり、家計に負担をかけないよう友から借りた教科書を全て手書きで写したり、真摯な人柄で、自分に厳しく人に優しい思いやりの深い人だったそうです。

このような時代に、よきリーダーと勤めを果たす部下、そしてその功績を讃える社会は今の日本に必要ではないかと考えてしまいます。





佐久間勉記念交流開会のHP

このブログの写真は佐久間勉記念交流会館についてのHPの写真を使用しました。

興味のある方は「佐久間勉」で検索してみてください。