世界のどこかで起きていること。

日本人の日常生活からは想像できない世界を垣間見たときに記しています(本棚11)。

2011.3.11、大川小で何が起こっていたのか?

2021-04-13 07:39:09 | 日記
2021.4.12放送のNNNドキュメント『命の砦 ~石巻・大川小の10年~』を視聴しました。
大川小学校は東日本大震災の際、津波で児童74名、教職員10名が死亡した悲劇の現場です。
近隣の小学校の中で、この学校だけが被害者数が突出しています。

そこで何が起こっていたのか?
遺族でなくても関心を持たざるを得ません。
今までも大川小に関するニュースをチェックしてきましたが、オブラートに包まれたような情報しか得られませんでした。

遺族に(元)学校教師の佐藤さんがいます。
被害者ながら、加害者扱いされている同じ教師という立場で、
「先生たちは子供の命を守るために必死だったはずなのに被害が生じたのはなぜか?」
と彼も同じ疑問を持ち続けました。

教育委員会、石巻市長の会見が繰り返し開かれるものの、国会答弁のような焦点をぼかした回答に終始します。

業を煮やした遺族は裁判に訴えざるを得ませんでした。
仙台地裁は「津波被害は回避し得た」と遺族側の勝訴。
仙台高裁は視点が異なり「現場の教師ではなく津波被害対策を不十分のまま放置した教育委員会や石巻市の責任」に帰し、遺族側の勝訴。
被告は最高裁に上告しましたが、最高裁はこれを棄却して高裁判断で結審となりました。

そのとき、私はあることに気づきました。
提出された資料の中に大川小学校の「災害対策マニュアル」があり、
そこにははっきりと「避難先は近隣の公園あるいは空き地」と記載されていたのです。

避難先は裏山ではなかった!?

つまり、現場の先生たちは、間違いを犯したのではなく、マニュアルを忠実に遵守しただけなのです。
ただ、結果が悪かっただけ。
マニュアルを無視して裏山に逃げたら津波は回避されるかもしれない、と頭によぎったかもしれません。
しかし、マニュアルを無視して裏山に逃げて被害が出たら・・・それこそ犯罪者扱いされることは目に見えています。

それが日本社会です。

それから、裁判に訴えた遺族は死亡した生徒74名の中、24組でした。
なんとなく少ない、と感じていた私。

裁判に参加しなかった遺族のつぶやきが事実を反映していました。
その父親は、
「もしオレがそのときここ(大川小)にいたら、裏山なんかに行かない。ここは安全だとずっと信じてきたから」
「だから先生たちを責める気持ちはない。最後まで一緒にいてくれて感謝している。」
とインタビューに小さな声で答えました。

そうなのです。地元では「学校は安全」というのが共通認識だったのです。

しかし被害は発生しました。

誰の責任?
現場の先生たち?
マニュアルを作った人?
それを検証せず指導を怠った教育委員会?
街として災害対策を啓蒙・浸透できなかった石巻市?

裁判は現場にいた個人の責任ではなくそれを取り巻く社会の責任に帰しました。

私はこのことを知り、ある光景を思い出しました。

それは大型台風による水害発生時、「ダムの放流による住民の死亡事故」の会見の場です。
「これは人災である」とダム管理会社の責任を追及する被害者たち。
「マニュアルを無視して常識的にダム放流の時間を遅らせてくれたら被害は発生しなかったのに」
と遺族側は訴えます。
しかしダム管理側は「マニュアルを遵守して行った」との一点張り。

現場は定められたマニュアルを守ることが求められます。
しかし、マニュアルを遵守しても結果が悪ければ責められる構図がここにも見え隠れしたのでした。

もし、マニュアルを無視して現場判断でダム放流の時刻を変更したら・・・平和解決できたのでしょうか?
いいえ、結果がよければ英雄視されるかもしれませんが、結果が悪ければ犯罪者扱いされるでしょう。

結局、マニュアル作成者がそれを検証し更新する作業を怠ったことが、両方の被害の根っこなのではないか、と感じました。

遺族は現場の誰かの責任にしなければ気が済まない、亡くなった子供が成仏できない、という気持ちはわかります。
しかし、学校の防災マニュアルをふだんから親が確認し「ここはおかしい」と指摘することもできたはずです。

皆さんの子供が通う幼稚園・保育園・学校の防災マニュアルを入手し、
「これで子供の命を守れるのか?」
という視点でチェックすることをお勧めします。


■ 『命の砦 ~石巻・大川小の10年~』

 宮城県・石巻市の大川小学校は雄大な北上川をのぞむ緑に囲まれた学校だった。運動会は地区住民の集まるお祭りで、児童108人の小さな学校だった。8mを越す津波が学校を襲うと、児童74人が犠牲となってしまった。2011年3月、大津波直後の大川小学校では多くの児童が行方不明になった。3月25日、ある女性は「何でも良いから娘の遺品をひとつでも多く」と道に散らばったものを見ていた。大川小学校の6年生だった娘はスポーツが大好きな、3姉妹の末っ子の女の子だった。女性が学校にたどり着いたのは震災5日後のことだった。4月に入ると、中学校の入学式や13歳の誕生日も娘がいないままに過ぎていった。四十九日合同供養式典では、児童と教職員あわせて84人の写真が並んだ。

 娘との対面はトラックの荷台の中であった。父親は「心の苦しみちょっとはなくなりましたね」などと話した。なぜ大川小だけ大きな被害が出たのか疑問を感じていた。

 大川小の児童は地震のあと50分の間校庭に留められていたことがわかった。また三角地帯で津波ののまれたことも分かった。2013年に文部科学省の後押しで石巻市に第3者による検証委員会が立ち上がった。しかし検証委員会は難を逃れた児童の聞き取りなど事実確認を行ったものの遺族の知りたい疑問にはなかなかたどり着かないままであった。2014年に大川小学校事故検証報告書では教職員の研修の充実などの提言がなされた。一方津波で犠牲となった原因については避難開始の意思決定が遅かったなどとしたがその詳細は明らかにすることができず、検証に限界があったと明記した。「親として本当に納得いきません」などの声も聞かれた。

 2014年3月10日に23人の遺族が石巻市と宮城県を相手どり裁判を起こした。教師をやめると、学校事故対応に関する調査研究会議に遺族の立場で出席し「教育関係者が必死になって守るのは組織とか立場ではないはず」などと話した。大川小学校の校舎は震災以降として保存することが決まった。2017年10月26日は判決の日であった。遺族側が勝訴し、石巻市と宮城県に賠償命令となった。裁判では大川小に津波が来ることが予見できたか争われた。大川小学校の当時の危機管理マニュアルは校庭の次の避難場所を近隣の空き地・公園等と曖昧にこそ原因があると訴えた。

 裁判長による現地視察が行われた。まず大川小の校庭を訪れ校舎周辺の状況や津波到達点の高さを確認した。2018年の4月26日に仙台高裁の判決は一審に続き2審も遺族側が勝訴した。 防災に関する訴訟で初めて事前防災の不備が認定されるなどした。仙台高裁は津波で児童が死亡する結果を回避できたと結論づけた。東京大学教授は「市の教育委員会の責任も認めている」などと話した。

 2019年、震災当時の小学生は成人を迎えた。亡くなった狩野さんの三女の部屋はあの日のままになっている。2020年、裁判が終わり教育委員会は遺族の話をする機会を設け、新任校長研修を実施。講師を担当する佐藤さんは震災で次女を亡くしており、震災を伝える語り部として活動している。東日本大震災で被災した学校は都道府県で約8000校にのぼっている。研修に参加した校長はできることをしっかりやっていきたいと述べた。