世界のどこかで起きていること。

日本人の日常生活からは想像できない世界を垣間見たときに記しています(本棚11)。

聖墳墓教会における「聖地の果てなき縄張り争い」

2020-08-08 07:09:57 | 日記
イスラエルの首都エルサレムは、世界三大宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の聖地が密集しています。
といっても、この三つの宗教は無関係ではなく、縦の関係があります。
ご存知でした?
概要を知りたい方は、中田敦彦のYouTube大学【宗教史】をご覧下さい。
1時間ちょっとでなんとなく把握できます。

さて、エルサレムにあるキリスト教の聖地は聖墳墓教会。
どんなところでどんなことをしているのか、あまり情報を耳にしません。
NHK-BSで珍しくこの教会を扱った番組を放送していましたので、興味深く視聴しました。

それまでの私のイメージは・・・
「敬虔なキリスト教徒の頂点に立つ聖人達が、
ひっそりと静かな修行生活を送る場所」

しかし意外にもその現実は、
6つの派閥(★)が共同管理、というか日々勢力を競い、小さな争いが絶えない、
まことに人間くさい場所でした。

この6つの教会派閥、初めて知りました。

★ 6つの派閥;
・ギリシャ正教会
・エチオピア正教会
・コプト正教会
・アルメニア使徒教会
・ローマカトリック教会
・シリア正教会

プロテスタントは入っていないんですね。
現在の聖墳墓教会の勢力図は、ギリシャ正教会が主権を握り、エチオピア正教会は屋上に追い出されている状況です。
この間を取り仕切るのがイスラエル警察で、派閥間の調整・仲介が大変そうでした。

この現実を知り、ちょっとがっかり。
どうも尊敬の対象になりにくい。
日本の仏教の聖地、永平寺とか高野山とかのイメージと大きく異なります。
人間の不安(≒祈り)と欲望が凝縮した空間、と考えればいいのかな。

それから、礼拝の雰囲気が、グレゴリオ聖歌よりコーランに似ていたことも意外でした。
ここはヨーロッパではなくアラブであることを再確認させられました。


世界のドキュメンタリー「聖地の果てなき縄張り争い」

番組内容
エルサレムにあるキリスト教の聖地、聖墳墓教会では、キリスト教6教派による縄張り争いが何百年にもわたり続いてきた。教会内で宗教者たちが織りなす人間模様を見つめる。

詳細
イエスの墓とされる場所に立つ聖墳墓教会。世界中から信者の巡礼が絶えないこの聖なる場所では、ギリシャ正教会やローマカトリック教会などキリスト教6教派が、宗教活動を行う時間や場所などを巡って、何百年にもわたる縄張り争いを続けてきた。教会の内部に長期間カメラを入れ、キリスト教の聖地で繰り広げられる混乱と人間模様をシニカルに見つめる。 国際共同制作:原題 The Church(2020年 イスラエル)

「リー・クアンユー回顧録」に書かれている日本

2020-08-06 13:50:53 | 日記
最近、お笑い芸人である(あった)オリエンタルラジオの中田敦彦が主催するYouTube大学にはまっています。
中でも、日本の義務教育ではあまり教えてくれないアジア近代史関連動画はとても興味深い。
一通り見終わると、日本でなぜ日本を含めたアジア近代史を教えてくれないのか、その背景が垣間見えてきます。

中でも衝撃を受けたのはリークアンユーの動画
リークアンユーとは、シンガポール建国の父と呼ばれる人物です。
マレーシアの先端にある小さな国で、
彼1人で作り上げたと言っても過言ではありません。

現在、シンガポールは繁栄を謳歌し、シンガポール国立大学はアジアの大学ランキングで2位(一位は中国の精華大学、日本の東大は8位)と若者達も自信に満ちあふれています。

そこにリークアンユーは眉をひそめます。
今のシンガポールを築き上げるために、どれだけ苦労したか、
若者達は知らない。
しかし、シンガポールをこれからも繁栄させるためには、
それを知らなければならない。
そう感じた彼が自国民に向けて書いた本が「リークアンユー回顧録」です。



出版後しばらくして、日本から「翻訳して日本で販売したい」という打診がありました。
一旦躊躇したものの、彼は許諾しました。
その躊躇の理由は、中身を読むとわかります。

第二次世界大戦中に日本に侵略された光景がリアルに描かれているからです。

それまでシンガポールはイギリスの植民地でした。
シンガポールには、マレー人、インド人、華人など多様な民族が住んでいますが、
みな「イギリスに守られている」と感じて生活してきました。

そして戦争が始まり、日本軍が侵攻してきました。
蹴散らされ、そそくさと母国へ逃げてしまったイギリス軍兵士たち。
「イギリス軍が自分たちを守ってくれる」と信じていたことが、あっけなく裏切られました。

日本軍兵士の恐ろしさを描写しています。
それは、彼ら1人1人全員が「自分は天照大神の子孫である」と信じ切っていること。
何の迷いもなく、天皇に命を捧げる覚悟ができていること。

今の時代でいえば、イスラム教過激派に洗脳された兵士が自爆テロを辞さないこととイメージが重なります。

日本の原爆投下に関しては賛否両論がありますが、
リークアンユーは「落とさざるを得なかった」と認める派です。
日本兵の集中力と結束力を目の当たりにした彼は、
最後の1人になるまで敗戦を認めないで反抗するであろうと予想し、
戦争が長引けば長引くほど日本は極限まで廃墟と化すことが避けられないだろう、と考えたのです。

説得力があります。

それから、戦争中の性被害についても言及しています。
イギリス軍が駐留している時代にも、兵士による民間女性のレイプ事件がたびたびありました。
今の沖縄の米軍基地と同じですね。

しかし日本兵が駐留してから、それが一切なくなりました。
なぜ?

日本軍は兵士の性処理をシステム化し、
施設を作ってそこでプロ(あるいはセミプロ?)の女性に相手をさせたのです。
視点を変えると、民間女性を守ったという見方もできます。

韓国との間で問題になっている従軍慰安婦問題は、
兵士個人の問題に帰すれば歴史に残らないが、
それをシステム化した日本軍は歴史に残った、
というのが真相のようです。

どちらが良いのか悪いのか・・・。

女性のレイプ問題は、戦争中はどこにでも例外なく発生します。
平和な現在からは想像できませんが、戦争中は男性にも女性にも人権などありません。
男性は殺され、女性はレイプされるのです。
非戦争中 → 人を殺すことは犯罪、レイプは犯罪
戦争中  → 人を殺すことが正義、レイプは?
誰が答えられるでしょう。
正解などありません。
第二次世界大戦で負けたドイツでは、200万人の女性がレイプされたと言われています。

実は韓国も、戦争中の性犯罪問題を抱えています。
ベトナム戦争に参戦した韓国軍兵士が、民間女性をレイプして生まれた子どもたち(ライダイハン)がたくさんいて、その補償問題でベトナムから訴えられています(韓国政府は知らんぷりしてますが)。
日本を訴える前に、戦争下における性被害問題の処理のお手本を見せる必要があるのではないか、という意見もあります。

まあ、こんなことが書いてあるので日本語訳は廃刊になっており、入手困難です。
あ、英語版なら2000円で手に入る・・・。

第二次世界大戦終了後、彼は憧れの国であるイギリスへ留学します。
そこで知ったこと、思い知らされたことは、
・イギリスはシンガポールを守ってくれたのではなく搾取していた
・欧米人によるアジア人蔑視
の二つ。
彼の中に「シンガポールは植民地支配から脱し、独立しなければならない」という信念が芽生えました。
帰国した彼は、ゼロから国作りをはじめ、資源も土地もない国がどう生き延びていけるのかを模索し、苦悩の果て、紆余曲折を経て税制優遇制度を用いることにより金融立国を成し遂げたのでした。

<追記>
第二次世界大戦後、日本女性が性被害に遭った記録もあります。
日本の敗戦が決まったあとに、ソ連が日ソ不可侵条約を簡単に破って満州に攻め入ってきました。
そのとき、逃げ惑う日本人の女性はソ連兵にレイプされます。
辛くも日本に帰国できた女性の中には、ソ連兵にレイプされて妊娠していた例もありました。
堕胎専門の病院が作られたとTV番組で見たことがあります。
教科書には書かれていない戦争のダークサイド、生きるも地獄、死ぬも地獄。

▢ 662人を日本に帰すため、ソ連兵の性的暴行に耐えた未婚女性15人の苦しみ
 これからも語り継ぐべき戦争の記憶がある。作家の五木寛之氏は「戦争はどう始まり、展開したかという『大局』ばかりが話題になる。しかし、一人の兵士や、戦地で生きた個人の体験こそ戦争の真実であり、彼、彼女らの記憶こそ後世に『相続』されるべきだ」という――。 
※本稿は、五木寛之『こころの相続』(SB新書)の一部を再編集したものです。 

■敗戦の混乱時、日本人女性が味わった性暴力の悲劇 
 現実社会に「表」と「裏」があるように、過去の時代にも「表」と「裏」があります。私たちが生きた同時代についての記述すらそうだから、100年前、500年前ともなればなおさらでしょう。その当時に生きた人が、歴史の教科書を読めば、仰天するかもしれない。「これは一体どこの国の話だ」と。 
 「一級史料があるから確実だ」などと言っても、その史料が時代の全体を語るわけではありません。最近になって、少しずつ敗戦時の旧満州や北朝鮮での「性接待」の話が語られるようになってきました。 
 平成25年4月、昼神温泉などで知られる長野県阿智村に全国で初めての「満蒙開拓平和記念館」ができました。戦前からの国策として満州や内蒙古に送り込まれた満蒙開拓団の史実を、風化させることなく後世に伝える拠点として、作られたものです。
  開館以来、かつての開拓団の実像を伝える数々の資料を展示するほか、「語り部講話」として、当時の生き証人の体験談を聞く会が催されています。 
 とくにその中で、開館直後、2013年7月と11月にお話をされた岐阜県旧黒川村満蒙開拓団の2人の女性の悲痛な体験談が、大きな波紋を呼びました。

■ソ連軍の要求は「若い女性」の接待役だった
  この話をきっかけに、いくつかの雑誌や新聞も特集を組み、2017年には「告白~満蒙開拓団の女たち」(NHK・ETV)や、「記憶の澱」(山口放送)などのドキュメンタリー番組も放映されました。体験談と報道の数々から浮かび上がってくるのは、次のような事実です。 
 旧満州では、敗戦後、自分たちを守ってくれるはずの関東軍は撤退してしまい、多くの開拓団が孤立してしまいました。日ソ中立条約を破って侵攻してきたソ連軍のほか、いままで支配されていた現地人も一気に暴徒化し、敗戦国の弱体化した開拓団に襲いかかります。 
 そこには略奪・暴行・虐殺・強姦など、あらゆる無法がまかりとおりました。彼女たちの隣の村の開拓団は、この無法に耐えかね、集団自決で全滅しました。黒川開拓団の中でも集団自決の声が高まりましたが、リーダーの一人が、「人の命はそんなに簡単なものじゃない」と主張して、思いとどまります。
  そしてリーダーたちは、たまたま団の中にいたロシア語のできる人間を通じて、近くに進駐してきていたソ連軍に、保護を求める交渉をしました。するとソ連軍は、兵の暴行や現地人の襲撃から団を守り食糧や塩を提供する代わりに、若い女性を将校の「接待」役として差し出せという条件を付けてきたのです。 

■「このままでは集団自決しかない」 
 つまり挺身隊のような形で、決まった女性たちを交代で慰安婦として差し出せということです。それはソ連軍側から一方的に強制されての行為ではなかった。開拓団としての取引きでした。  夫や子どものいる女性には頼めないということで、結局、数えで18歳から21歳までの未婚の女性が15人選ばれました。「このままでは集団自決しかない。何とか全員が助かって帰国するために、団に身を預けてくれないか」と、必死の説得が行われます。「あなたたちには団を救う力がある。将来には責任をもつ」とも言われたといいます。 
 女性たちが「絶対いやです」と拒否するのは当然です。そんなことをするくらいなら、死んだほうがましと、拳銃をもって飛び出した女性もいたそうです。 
 結局、何百人もの命を守るためには断りきれず、当時21歳だったリーダー格の女性は、「日本に帰ってお嫁に行けなかったら、お人形の店でもやって一緒に暮らそう」そう言って、全員をなだめたと言います。

■べニア板張りの「接待場」で泣き叫ぶ女性たち 
 連れて行かれたべニア板張りの「接待場」では、女性たちは布団の上に並んで横たえりました。彼女たちの言葉を借りれば、「辱めを受ける」あいだお互いに手をしっかりと握りあい、泣きながら暴行に耐えたそうです。覚悟していたとはいえ、「助けて、お母さーん、お母さーん」と泣き叫ぶ女性もいました。 
 暴行の事後処理として、彼女たちは医務室に行き、性病や妊娠を防ぐために薬品を管で体内に注いで洗浄を受けます。彼女たちより年下の女性が、泣きながらその冷たい薬液を注ぐ仕事を手伝ったという証言も残っています。 
 こうして、何カ月もの過酷な試練に耐えた結果、黒川開拓団は暴徒の襲撃から守られたのです。ただ15人の中の4人は、性病や発疹チフスにかかり、帰国できないまま命を落としました。集団自決をする開拓団が相次ぐ中で、総員662人の開拓団のうち451人が生きて帰れたのは、まさに彼女たちの犠牲のおかげだったと言っていいでしょう。 
 90歳近い高齢になりながら、70年間も封印してきた辛い記憶を、よくぞ語り継ぐ気持ちになってくれたと思います。 

■帰国後に向けられた中傷、差別的な言葉
  それにしても、彼女たちは、その辛い記憶をなぜ封印してきたのでしょうか。 
 それは思い出したくもない辛い記憶だったからでしょう。しかし、思い出したくもないその「辛さ」が、じつはあの忌まわしい凌辱の「辛さ」だけではなかったからなのです。
  本来なら土下座してでも感謝しなくてはならないはずの彼女たちの行為に対して、心ない中傷や差別的な言葉が仲間内でそこここでささやかれ、それが彼女たちにも感じられたからでした。そうした言葉は、じつは辛い「接待」が行われている当時から、すでに囁かれていたといいます。 
 国に帰ってからも、ほかの女性の身代わりで「接待」の回数が多くなった女性が、仲間の男たちから「○○さんは好きだなー」とからかわれたり、「(体を提供しても)減るもんじゃなし」などと言われたりしたといいます。これらの言葉は、凌辱の体験以上にどれほど彼女たちの心と体を傷つけたでしょう。 
 そして、「露助(ソ連兵)のおもちゃになった人」「汚れた女」といった秘かなレッテル貼りが、人びとの間に根強く残っていたのです。この「接待」の事実は、女性たちの将来のためにも良くない、団の恥でもあるとして、開拓団もひた隠しにしてきました。 
 昭和58年には、「接待」のことが実名を伏せて雑誌「宝石」に書かれましたが、地元の書店では人目に触れないよう、開拓団関係者によって買い占められたといいます。

■ようやく語られ始めた忌まわしい戦争の記憶
  このように、彼女たちが「辛い記憶」を封印してきたのは、あの忌まわしい体験を忘れたかっただけでなく、それ以上に、いわれなき中傷や差別という「辛い体験」を思い出したくなかったからでしょう。 
 そこに開拓団としての意向も働き、事実は封印されてきたのでした。しかし、そこで声を上げた女性がいます。女性たちも高齢になって次々と世を去り、このままでは自分たちの身を挺した体験が埋もれてしまうと、考えたのでしょうか。 
 リーダー的な存在だった女性が、「このままあの事実をなかったことにはできない」と立ち上がり、昭和56年に、現地で亡くなった4人の女性を慰霊する「乙女の碑」が建てられました。
  碑は高さ1.3メートルの観音石像で、左手に願いをかなえる宝珠、右手に音を出して道の害を払う錫杖をもち、優しい眼差しで前方を見ています。そして2018年11月、4000字を超える詳細な碑文がパネルに記され、「乙女の碑」の脇に建てられました。 

■無名の「乙女の碑」、記憶を未来に語り継げるのか
  「乙女の碑」を建てたリーダー格の女性は、碑文の完成を見ないまま、91歳で亡くなりました。しかし、彼女の願いの一部はやっとかなえられたと言ってもいいでしょう。 
 彼女たちの語り継ぎの決意は、ようやく実りはじめているようですが、遺族たちにとっては依然として、釈然としない思いが残ります。経緯を示す碑文は立派なものができましたが、そこには15人の乙女の名は1人も記されていません。「ひめゆりの塔」や「原爆の碑」には犠牲者の名が記されて、一人ひとりその尊い犠牲に敬意が払われています。 
 遺族の中には、開拓団の命を救うために尊い犠牲を払った彼女たちの名は、もっと誇りをもって語られていい、という人もいるようです。しかし、「誇り」というにはあまりに悲惨な体験です。私の願う語り継ぎによる「こころの相続」は、どのように語り伝えられるのでしょうか。

昔話によく、鬼や大蛇などに若い娘を生け贄に出すというシーンがあります。
あれは、強国だった中国からの使者に娘を差し出したという史実が元になっているという説があります。
時代が変わっても、人間のやることはあまり変わりがないようです。