世界のどこかで起きていること。

日本人の日常生活からは想像できない世界を垣間見たときに記しています(本棚11)。

避難所に避難できない人々

2019-10-14 21:15:12 | 日記
 2019.10.12、台風19号が日本を襲いました。
 当初、先の台風15号の傷跡が癒えない千葉県の被害が心配されましたが、蓋を開けてみると、予想を上回る範囲と規模で災害が発生しました。
 巨大な台風の渦状の雲が中部地方から東北・北海道まで覆い、各地で河川が氾濫・決壊しました。
 私が住む北関東でも被害が出て、自宅は床下浸水、また町内で避難所に向かった車が水没して1人の死者が出てしまいました。

 最後の砦の避難所ですが、入ることを断られる人がいるという記事が目にとまりました。
 日本でもこんなことがあるのです。

「お前らは人間じゃないと言われてるようだった」男性は避難場所のすぐ外で台風の夜を過ごした
2019/10/14:BuzzFeed Japan
 「風をしのぐために避難場所の外にいただけでも、ここは入り口だから移動してくれと言われた。お前らは人間じゃない、と言われてるようだったね。私たちも人間ですよ」
 台風19号が東京を襲った12日、上野公園で一夜を過ごした路上生活を送る男性(79)はこう話す。
 男性が野宿をしたのは、台東区が外国人観光客や日本人の帰宅困難者が避難できる場所として解放した、東京文化会館の裏だった。
 台東区の災害対策本部は「住所がない」という理由で12日、路上生活者に対し自主避難所の利用を断った。【 BuzzFeed Japan / 冨田すみれ子 】
◇ 強い風が回るように吹いていた12日の夜
 男性は12日午後、迫ってくる台風の夜をどこで過ごすか、他に上野公園で野宿をしている人たちと話し合い、その中で「自主避難所」という選択肢も話題に上がったという。
 「避難所に行こうか話し合ったけど、たぶんダメだろうと一人が言い出した。話し合っているうちに、上野公園から一番近い自主避難所の小学校まで歩いて行った仲間が『ダメだった。断られた』と帰って来たんです」
 男性は、ぽつりぽつりと台風の夜について話し始めた。
 日中は観光客で賑わう上野公園だが、東京文化会館や動物園の営業などが終了して夜になると、公園や付近で野宿する人々がいつも会館の屋根の下に風をしのぐために集まるという。
 男性は、台風15号の時も上野公園で野宿をしていた。15号の時は、風は強かったが一方方向に吹いていたために、どうにかしのげた。しかし19号では風が回るように吹いていたために、周りで野宿していた他の人たちと共に、避難できる場所を探した。

◇ 「避難場所の入り口なのでここにはいないで下さい」
 文化会館の入り口付近に、塀で囲まれている箇所があり、そこに避難したという。すると移動するようにと告げられたのだ。
 「警備員もいるが、暗黙の了解のようなもので、いつもはそこに集まって寝ている。しかし昨晩は『ここは避難場所の入り口なのでここにはいないで下さい』と言われた」
 「文化会館はガラスばりで中が見える。見たときはガラガラで、ほとんど人もいなかった。風雨が強くなったら中へ、というのが普通の考えだと思うけど。お前らは人間ではないと言われているようで、非常に腹が立ったね。まともに考えて、差別だよね」
 都内でも川が氾濫し、浸水などの被害があった12日夜、台東区は区内に4カ所の自主避難所を設置した。
 加えて、交通機関が計画運休をしたために区内に留まらざるを得なくなった外国人観光客や、国内遠方からの訪問者のために、東京文化会館と浅草文化観光センターの2カ所を避難・宿泊できる「緊急滞在施設」として解放していた。

◇ 「私たちも人間だ」
 避難場所のすぐ外で野宿を強いられた男性はこう語る。
 「最近は路上生活者だって、教会や支援施設で風呂も入っているし、綺麗にしている。でももし風呂に入っていなくったって、私たちも人間だ」
 「職業が何か、金を持っているかで判断するものじゃない。まあでもそういう考え方は行政だけじゃなくて、世間全体でも同じですね」
 今回の件で台東区役所への批判が高まる中、男性はさらに排除の動きが強まらないか、少し懸念を抱いているという。男性は滞在先を転々としており、たまに上野公園で野宿をしているが、長期にわたって同公園で野宿をする人への影響を心配する。
 「この公園に5年も10年も住んでいる人がいるんですね。上野公園は路上生活者にとって比較的やさしい場所ですけど、今回問題になったから全面的に路上生活者を追い出すとなってしまえば、また一から寝る場所を探さないといけなくなる。彼らはここにしか住むところがないんです」
 公園内には風雨で折れた木の枝が散乱していた。

◇ 「住所がない」「避難所は区民の方への施設」
 路上生活者の自主避難所利用を拒否した理由として、台東区役所の広報課担当者はBuzzFeed Newsに12日、「住所がない」「避難所は区民の方への施設」ということを挙げた。
 「住所不定者の方が来るという観点がなく、援助の対象から漏れてしまいました」と説明したが、路上生活者が避難所を利用できないという判断は、「区の決定」で「災害対策本部の事務局が判断した」とも話している。
 だが、広報担当者によると、外国人観光客や国内の遠方から来た帰宅困難者向けに解放された施設には、名前や住所を記入する「避難者カード」は入り口に設置していなかった。
 つまり、住所を確認して利用の可否を判断されたのは、路上生活者だけだった。路上生活者は、東京文化会館では、入り口の外側で風雨をしのいでいただけでも移動するように言われている。

◇ 「災害とは生存をめぐる問題」
 12日午後、上野駅付近や上野公園で路上生活者の見回りや物資配布をしていた、一般社団法人あじいるのメンバー、中村光男さんは「災害とは生存をめぐる問題です。ある特定の人を排除し、区が差別をしているということは酷すぎます」と話す。
 中村さんら、ボランティアのメンバーは12日午前、路上生活者に配る食材やタオル、着替えなどを準備し、午後に見回りと呼びかけに出発したという。
 まず上野公園から一番近い自主避難所に指定されていた小学校へ行き、職員が4人と避難者が4人いたことを確認し、駅と公園に向かった。
 避難所はガラガラで、路上生活者を断るなど思いもしなかったメンバーは、避難所の場所が印刷された地図のチラシを配って、早めの避難を促した。
 すると路上生活者の一人が「その小学校に行ったけど、断られた」とボランティアらに説明したという。実際にボランティアが区役所の災害対策本部に電話すると、路上生活者は利用できないという旨を説明された。
 「避難所の利用を断られた方は怒りをあらわにするでもなく、『いつものこと』『行政は我々には手を差し伸べてくれない』と言っていました」
 気象庁は台風19号は甚大な被害が予想されるとして、「命を守る行動を最優先に」と呼びかけ、報道機関も繰り返し「最大級の台風がくる」「できる限りの対策を」と呼びかけていた。
 そのような中で路上生活者も「あまりに風雨がひどくなったら避難所を利用するしかないんじゃないか」と心配し、中村さんたちは見回りから事務所に戻ったあと、再度、災害対策本部に電話で、警戒レベルが上がったり、避難指示が出た場合の対応を確認したという。
 すると「区で決定しているために、(台風や避難指示が)レベルアップしても決定が覆されない限り利用できない」との返答があったという。

◇ 「首都直下型地震対策に大きな宿題」
 中村さんは長年、路上生活者の支援をしており、以前台風が東京を直撃した際には、隅田川が氾濫寸前まで増水し、ブルーシートの小屋ごと流された人をボランティアらで救ったりしたこともあったという。
 しかしその際にも都も区も助けてくれず「行政というのはこんなところ」という落胆と失望の思いが今でも残っている。
 今回も「またか」という思いはあるが、「今回の問題は大きな宿題として残った」とも指摘する。東京都が進めている首都直下型地震対策だ。
 「台風は1日で過ぎますが、直下型地震となるとそうはいきません。避難者数も大量になりますし、考えなければならない問題」
 海外では、災害の際には路上生活者に対しても駅や公共施設を避難先として解放し、ホームレスシェルターの設置を拡充させている国も多い。そんな中で東京都でこのような問題が起き、中村さんはこう語る。
「命に対する社会のあり方が問われています」



日本人も受けた戦争の性暴力〜黒川開拓団の悲劇

2019-10-06 06:38:11 | 日記
 戦争は、「人殺しが犯罪ではなく正義」となる、極限状態・異常な世界です。
 そこに“人権”を求めても、限界があると思われます。
 敵を殺さなければ、自分が殺されるという状況で、“人権”が守られるとは思えません。
 余力のある国は“人権”保護を訴えますが、先進国以外の戦争ではそのような雰囲気はありません。
 余力のある国とは、それ以前に植民地(ヨーロッパ諸国)や奴隷制度(アメリカ)でうまい汁を吸ってきた国々です。
 そのヨーロッパ諸国も、難民という形で中東の民族移動が押し寄せると、“人権”擁護を捨てて保身に走り、移民受け入れを拒否しています。
 
 人間、そんなものです。
 自己を犠牲にして他人を活かすことは、遺伝子がゆるさないのでしょう。

 昨今、戦争中の性犯罪が、その被害者が声を上げることで浮かび上がってきました。
 近年話題になっている問題としては、
 韓国の慰安婦、
 ベトナムのライダイハン
 ISの性犯罪・・・

 枚挙にいとまがありません。
 敗戦国が声を上げるのは、平和な時代になってしばらくしてからのことが多いですね。
 歴史的には、第二次世界大戦終了時、敗戦国となったドイツでは、200万人の女性がレイプされたと聞いたことがあります。

 戦争があれば、そこには殺人があり、当然のようにレイプも存在してきたのでしょう。
 戦争性犯罪をなくす方法は、戦争をなくすしかありません。
 
 第二次世界大戦で負けた日本も例外ではありません。
 敗戦が決まったとき、満州では一般市民に“待機”が指示されましたが、兵隊はそれを横目にスタコラ鉄道を使って逃げていきました。
 置き去りにされた開拓団には地獄が待っていました。
 女性は“(性)接待”という形でレイプされました。
 命がつきる頃、被害者達はその事実を言い残していきます。

ソ連兵の相手に差し出され、戦後”キズもの”と誹謗中傷を受けた…“戦争と性暴力”を勇気と覚悟をもって告白した日本人女性と、その負の史実を刻んだ遺族たち
9/26:AbemaTIMES
 「黒川開拓団のようなことは二度と繰り返してはいけない。次の世代のみんなに伝えていきたい」。終戦直後の中国・満州でソ連兵の性の相手を強いられた女性たちがいた。その歴史に真正面から向き合い、封印されてきた史実を刻んだ人たちがいまる、二度と戦争を繰り返さないために、後世に伝えるために。

【映像】史実を刻む~語り継ぐ”戦争と性暴力“~

「既婚女性は差し出せない」数えで18歳以上の未婚の女性を…
 1931年の満州事変後、中国東北部を占領し、満州国を建国した日本政府。「100万戸移住計画」を閣議決定、村に補助金を出すなどして積極的に推し進めた。結果、全国各地から800以上の開拓団、およそ27万人が入植した。しかし“開拓“とは名ばかりで、多くは中国人が開墾した土地を安い値段で立ち退かせていた。そして岐阜県・旧黒川村から渡った600人余りが暮らしたのが、満州国の首都・新京とハルビンの間にある陶頼昭だった。
 しかし日本の敗戦間際、ソ連軍が満州に侵攻。敗走する関東軍に置き去りにされた開拓団は、ソ連兵や現地住民の略奪に遭った。
 小学6年まで現地にいた安江菊美さん(85、当時7)の記憶に焼き付いているのは、当時の緊迫した状況だ。「終戦で国が無くなっちゃったから、守ってくれる人は一人もいませんよ。ましてや関東軍はみな逃げちゃってるから」。
 戦況の悪化で、開拓団の働き手の男性は関東軍に根こそぎ召集され、残されたのは女性や子供、老人ばかり。敗戦によって、支配を受けた現地の人たちから襲撃を受け、隣の開拓団は集団自決に追い込まれていた。黒川開拓団でも、ある一家が刃向ったことで殺されたことを機に、一時は集団自決に傾いたという。「自決するなら黒川開拓団で一緒に死ぬからと言うことで、白鉢巻してその人たちが(避難場所に)引き揚げて来られた。そりゃもう異様だよ。今日死ぬか明日死ぬかという時の。その日から着の身着のままで寝た。私たちのお母さんも刀を持って、“小さい子から殺して自分も死ぬから、お前は大きいから自分で死になさい“と」(菊美さん)
 黒川開拓団は極限状態の中、生き延びるために警護と食料の提供をソ連将校に依頼。そこで求められた見返りが、女性を差し出すことだった。開拓団の幹部は、兵役に出ている夫に配慮、既婚女性は差し出せないと判断。その代わりに、数えで18歳以上の未婚の女性を差し出すことにしたのだ。

「喋るのは恥ずかしいとは全く思いません」声を上げ始めた女性たち
 岐阜県・ひるがの高原で酪農を営む、佐藤ハルエさん(94)は、自身の体験について2年前から顔と名前を出して語ってきた。「団を守るためにどうか頼む、と。奥さんは頼めん、兵隊に行かれて一人でおって頼めんで、あんたら娘だけでどうか頼む、と。それは忘れません」「頑張って、どうかして日本に帰りたい、と犠牲にもなりました」「黒川が皆で揃って帰って来れた、その元になれたと思えば、どんな恥ずかしいことであっても、もうそれを公表しようと。もう犠牲者がいないでしょう、亡くなっちゃって。私ら、そういうことを喋るのが恥ずかしいとは全く思いません」。
 性暴力の被害を初めて公に明かしたのは、3年あまり前に亡くなった安江善子さん(当時89)だった。6年前、満州の体験談を話す講演会での、突然の告白だった。「本当に悲しかったけども、泣きながらそういう将校の相手をしなければいけない。辱めを受けながら、情けない思いをしながら、人生を無駄にしながら」。
 遺族会会長の藤井宏之(67)さんは戦後生まれ。このとき初めて、犠牲の事実と女性たちの苦しみを知る。「自分たちが犠牲になって開拓団を救ったのに、タブーにして、誰一人として口にも出さない状況が続いたのが一番つらかったんじゃないかなと思った」。
 田中幸子さん(仮名、91)も、ハルエさんの遺志を継ぎ、語ることを決意した。「(ソ連兵に)銃を背負ってやられるんだもの、怖いじゃない。暴発でもしたらと思って。心臓はバクバク。反抗したら殺される、強姦だと思った。暴力よ。殺されたくない。17歳で、これからの人生なのにね」。

「地獄ってこういうものかと」軍隊のうがい薬で洗浄
 「接待所」は、400人もの人々が避難していた旧国民学校の裏に設けられた。つまり「接待」は、親や兄弟のいるすぐそばで行われたことになる。
 「当番を決めてあったんですね。今夜はこの人、明日はこの人、と回ってきて。皆さん病気になり、順に亡くなって行きましてね」(ハルエさん)。「知らなかった。“接待“って言ったら、お茶を出してお酒を出してと(思った)」「広い板の間にお布団だけ敷いてあって、鉄砲の持つ所で押されて、3、4人、並んだっけ。布団の間の仕切りはない。皆で下の方で手をつないで、頑張りな頑張りな、我慢しな我慢しなって。そうすると、お母さん、お母さんと泣くしね。用が済んだら、慌ててお尻を出して。病気がうつったり、子どもが出来たりしたら大変だから、医務室に逃げ込むの。洗浄してもらうの」。
 女性たちを洗浄したのは、数えで17歳だったことで接待の犠牲にはならなかった、鈴村ひさ子さん(90、当時17)だ。「ホースを子宮まで突っ込んで、軍隊のうがい薬で洗浄するのよ。冷たい水で。零下30度、40度下がるとこだしね。私も本当に泣いて洗浄するしね、洗浄を受ける者も泣くしね。本当の地獄ってこういうものかと」。
 「病気になった人はいる。凄かったよ。淋病をもらった人を一回見せてもらったけど、後ろが膿でがばがばになってる、一晩中、痛くて寝られないんだって。その人は死んじゃったけどね。あれだけ酷くなれば死んじゃうよ」(幸子さん)。2か月余り続いた接待で、性病や発疹チフスに感染した女性のうち、4人の現地で亡くなった。

誹謗中傷を受けた戦後、告白を受け止めた家族
 女性たちの犠牲によって、黒川開拓団の多くは日本に帰還することができた。ところが戦後、彼女たちを待ち受けていたのは労いどころか、口さがない身内からの「キズもの」「汚れた」といった誹謗中傷。事実は長い間、封印されて来た。
 「ここで乳搾りやりましたけどね。大きな借金して」。故郷を離れざるを得なくなったハルエさんは、別の村の男性と結婚。ひるがのの地を一から開墾し、酪農を始めた。「辛いとも思いましたし、病気にもかかりましたが、それでも主人は分かってくれて。主人だって義勇隊で満州体験して、南方から帰って来て。本当にいい主人でした」。
 そうして戦後を生き抜いてきた女性たちの告白は、家族にとっても重たい事実だった。
 ハルエさんの長男、茂喜さん(65)は「いくら母親でも、そういう体験があったことは、子どもとしては嫌だった部分があったと思う。何万人もの人が亡くなったり、集団自決が起こったり。(当時の政治が)日本人を助けていたらまた違った社会になっていたと思う」と話す。接待の事実を初めて明かした善子さんの長男、泉さん(65)も「我々には一言も言わなかったことを表で発表した重要度を感じるんですよね。性暴力は発表するものじゃないと言う思いが、彼女たちを何十年も苦しめたんですよね」。
 政治は、誰を守るためにあるのか…。尊厳を踏みにじられた女性たちは、戦後74年たった今も苦しみ続けている。「思い出すと本当に鮮明に、映画を見てるみたいに出てくる。何で私はこの世に生まれてくるのにこんなことがあったんだろうと思い出すと寝れない。泣いたり、胸がどっどっとしたり、今でも、今でもよ」(幸子さん)

戦後生まれの遺族会会長「寄り添うことは、歴史として残すこと」
 隠されてきた犠牲に向き合ったのが、亡き父・三郎さんが黒川開拓団員だった遺族会の現会長、藤井宏之さん(67)だ。これまでも地元の小学校や中学校で、開拓団の体験者の話を聞く授業を進めてきたが、そこでは伝えられてこなかった「性暴力」の史実について、女性たちのもとに何度も足を運び、当時の話を聞き取ってきた。
 「本当にハルエさんたちのおかげで僕らは今生きてると思うし。まず話を聞いてあげたり、少しでも気持ちを和らげると言うか、寄り添うと言うか」。しかし、話を聞く中で、自分の父親が、女性たちを接待に差し出す“呼び出し係“を担わされたことを知った。「佐藤ハルエさんから“実はあんたのお父さんが呼び出し係役で、来ると怖かった“という話を聞いて、“うちの親父はそういう役だったのか“と思った」。
 家族や遺族にも話を聞いた藤井さんは、彼女たちに寄り添うことは、歴史として残すことだと考え、去年4月、碑文として公に刻むことを遺族会に提案した。「あったことを無かったことのようにしてきたことが、どうしても理解できない。今言ってよいのか分からないけど、黒川開拓団はやってはいけないことをやったと」。
 遺族会での議論を振り返り、新田貞夫さん(83)は「反対もありましたね。私はよかったと思います」、両親が開拓団だった藤井拓男さん(69)も「自分たち2世と、先人の人たちとの思いも違うところがあって」と話す。
 「(犠牲になった)15人の方の親族を回った。どなたも反対する人はいなかったし、喜んで頂いたというか励みになった。歴史の先生とか、そういう人たちにも表現などを見てもらって」(藤井さん)。そんな藤井さんについて、菊美さんは「宏之さんは責任を感じてるわけ。書き直しては“これでいいか、これでいいか“と。何枚紙を貰ったやら」と振り返る。

孫の世代も連れて現地を訪問
 そして、去年11月、性暴力の負の歴史がついに碑文として刻まれた。
 「黒川開拓団幹部は、数えで18歳以上の未婚の女性たちを集め、ソ連軍将校に対する「接待役」を強いた。」「女性たちは逃げたかったが、団全体の生死が関わる事態に「嫌だ」とは言えず、交代で相手をさせられた。日本への引き上げ後も恐怖は脳裏に焼き付き、そのうえ中傷もされた。」
 「色んな人たちが読んで、やはり戦争をしてはいけないな、 黒川開拓団のような思いをさせてはいけないな、という思いを持って欲しい。平和は当たり前に続かないので」と藤井さん。
 泉さんも「戦争と言うのは異常な状態になってしまう。何が起きるか分からないわけでしょ。性接待に行けと言ったのは同じ団員の人なんだから。皆がおかしくなっちゃう。そういう状態に陥らいないように努力するのが大事なことだろうと思うんです」。

日本に住む異国の子どもたち

2019-10-03 07:08:57 | 日記
 今回は、日本で起きていること。

 近年、日本に住む外国人が増えてきています。
 2015年末時点での在留外国人数は約256万人であり、その国籍は約30%が中国、約20%が韓国、とのこと。
 英語圏以外の人々が思っているより多いのが現状ですね。
 私の住む、北関東の田舎町でも、目立ってきました。
 
 中国系、ベトナム系、イスラム系ミャンマー人、バングラディシュ系、
 南米系
 アフリカ系、等々

 気になるのはその子どもたちです。
 日本人と同様の福祉・教育を受けられているのでしょうか?

 先日、その実体が一部明らかになりました。
 外国人の子どもで住民登録されている12万4000人の16%に当たる1万9654人が就学していない、とのこと。
 記事によると「外国籍の子どもは義務教育の対象外だが、国際人権規約に基づき、保護者が公立小中学校への就学を希望する場合、各教育委員会などで受け入れ、日本人と同じ教育を受ける機会を保障している
 義務教育ではなく、希望して就学するシステムなのですね。

 さらに気になるのは、住民登録されていない子どもたちはどれくらいいるんだろう?
 正式な手続きを経ないで入国している外国人(ミャンマーのロヒンギャなど)は難民申請中で、住民登録はされていないと思われます。
 その子どもたちの処遇は?
 教育と共に懸念するのは、医療です。
 予防接種は受けられているのでしょうか?


外国籍の子ども2万人、不就学か…住民登録の16%
2019/09/27:読売新聞
 文部科学省は27日、国内にいる外国籍の子ども1万9654人が、小中学校などに通っていない不就学の可能性があると発表した。住民登録されている約12万4000人の16%に上る。外国人労働者の受け入れ拡大で今後、外国籍の子どもが増える可能性もあり、初めて調査を実施した。
 全区市町村教育委員会を対象に今年5月1日時点で小中学生にあたる外国籍の子どもの就学状況を調べた。対象となった外国籍の子どもは12万4049人で、中国、ブラジル、フィリピン国籍などが多いとみられる。
 1万9654人のうち1000人が、住民登録されている自治体の小中学校や外国人学校に在籍しておらず、文科省では多くが自宅にいるとみている。1万8654人は、就学状況が不明で、学校に通わず自宅にいたり、外国人学校に通ったりしている可能性がある。
 このほか約3000人が、既に出国しているか他の自治体に転居していた。
 都道府県別では、東京都の7898人が最多で、神奈川県(2288人)、愛知県(1846人)、千葉県(1467人)、大阪府(1457人)と続いた。
 外国籍の子どもは義務教育の対象外だが、国際人権規約に基づき、保護者が公立小中学校への就学を希望する場合、各教育委員会などで受け入れ、日本人と同じ教育を受ける機会を保障している。
 文科省は今後、自治体に就学状況の実態把握を求めるとともに、就学機会の確保のため、先進的な取り組み事例を周知する。
 ブラジル人ら約2万5000人の外国人が暮らす浜松市では、公立小中学校に外国籍の児童生徒1826人がいる。学校に通っていない子どもを持つ外国人家庭への個別訪問などを行い、2011年度に16人いた不就学の子どもは、13年度ゼロになり、その後も0~5人程度に抑えている。

 一方、文科省の調査では、自治体の65%が就学を促すための継続的な取り組みを行っていなかった。1117人の就学状況が未確認の大阪市は、「就学を希望しない保護者もいて対応が難しいが、まずは就学状況の把握に努めていきたい」と話している。


ウイグル民族の文化が地上から消される

2019-10-02 08:04:52 | 日記
 中国は多民族国家です。
 しかし、現在政権を掌握している漢民族は、国内の少数民族を迫害して“なき物”とする勢いがあります。
 人権侵害レベルのことを平然と行うも、世界の人権団体から指摘を受けると“内政干渉だ”と非難してきました。
 そんな現状の一端が垣間見える記事を目にしました。

 なんだかんだ理由を付けて、抹殺している様子。
 カンボジアのポルポト政権時代の虐殺でもそうでしたが、まず知識人から狙われます。
 このように他民族を迫害する国は、国民も大切にしないということは、歴史が物語っています。
 なにせ、近年再評価されている毛沢東は、「文化大革命」と称して自国民を6000〜8000万人も抹殺した世界でNo.1の殺人者です。

衝撃の現代史 20世紀で犠牲者最多の殺人とは?エポックタイムズ・ジャパン:2017年04月09日

 おそらく、中国国民の上層部はうまみを吸い、下層の国民は虐げられているのでしょう。
 NHKで放映される中国関連のドキュメンタリーを見る度にそう感じます。

 人類って、進化しないのでしょうか。
 全然平和になっておらず、同じことを繰り返している・・・。

 ジャレド・ダイアモンド博士によると、
「伝統社会でも現代社会でも争い(戦争)が起こり人が死ぬことは続いている」
「しかし絶望することはない」
「伝統社会と現代社会で、戦争で死ぬ人数の総人口に占める割合は、少しずつ減ってきている」
 だそうです。


ウイグル民族の文化が地上から消される
2019/10/1:ニューズウィーク日本版
水谷尚子(明治大学准教授、中国現代史研究者)

元大学学長らに近づく死刑執行――出版・報道・学術界壊滅で中国共産党は何をもくろむ?
 新疆大学の学長だったタシポラット・ティップが中国・北京の空港で拘束されたのは2017年3月のこと。その後、「党に忠誠を尽くすよう見せ掛けて、実は民族主義者であるという『両面人(二面性を持つ者)』」などのレッテルを貼られ、「国家分裂主義者」として中国共産党から執行猶予2年付きの死刑判決を受けた。
 ティップは日本の東京理科大学に留学し、博士号を取得した地理学と地質学の専門家だ。拘束から2年以上が経過した9月中旬、国際人権団体のアムネスティ・インターナショナルは家族や複数の情報源の調査の結果、ティップの死刑が近く執行される恐れがあると判断。即時の無条件釈放を呼び掛ける声明を公表した。
 死刑執行が懸念されているのはティップだけではない。ロシアに留学し、ウイグル伝統医学の大家であった新疆医科大学のハリムラット・グプル元学長、新疆ウイグル自治区教育庁のサッタル・ダウット元庁長らも拘束後の消息がなく、安否が懸念されている。
 新疆ウイグル自治区では、2017年から大々的に行われるようになった強制収容施設での不当な拘束が今も続いている。多数派民族である漢人以外の人々が収監されているが、その大部分はウイグル人だ。収監者数は100万人を超すともいわれる。
 このところ中国共産党は、ウイグル人社会を担ってきた知識人を、文系理系を問わず強制収容所に送っている。ウイグル語やウイグル文化の消滅を目的としているとしか思えないほどの弾圧だ。中国におけるウイグル語の言論空間はこの2年で消滅した。表現の場にいたウイグル知識人が強制収容で社会から「消失」したからだ。

ウイグル書店が続々閉鎖
 米ペンシルベニア大学東アジア研究センターのデービッド・デットマン副所長は今年春、「2018年春以降、(西部の)カシュガルやホータンでウイグル語専門書店が相次いで閉鎖されている」と、現地で撮影した写真入りでツイートした。
 カシュガルのジャナン街にあった書店は、当地のウイグル人が最も訪れる書店の1つだった。しかし中国当局により閉鎖され、米短波ラジオ放送「ラジオ・フリー・アジア(RFA)」が取材した地元住民の話では、「店主メメット・エリは強制収容所に送られた」という。
 区都ウルムチの新疆大学の真正面にあり、ウイグル人学生のたまり場だった「トグルク書店」も閉鎖となり、経営者であった兄弟は、2017年初めに強制収容所に収監された。弟は懲役10年、兄の処遇は不明だという。

売る本も、読みたい人も消えた街
 新疆全域のウイグル語出版は、現在壊滅状態になっている。新疆人民出版社の公式サイトを見る限り、同出版社は2017年以降、ウイグル語書籍を1冊も出していない。売ることが可能な書籍もなく、読もうとする人も街にはいないのだ。
 本を出版しようにも、そもそも出版関係者が次々に強制収容されている。カシュガル地域で政治学習を担当する政府職員のRFAへの証言では、「カシュガルウイグル出版社は計14人(うち5人が女性)が拘束され、幹部経験のある高齢者まで強制収容所送りとなっている」という。同出版社の職員49人のうち、漢人幹部4人を除いた「少数民族」職員の3割が拘束されていることになる。
 この政府職員は、「カシュガルウイグル出版社が過去に出版した600冊以上の書籍、新疆人民出版社が過去に出版した1000冊以上の書籍が有害書籍に仕分けされ、その著者や編集者、刊行に関わった全関係者が拘束された」とも証言する。
 カシュガルウイグル出版社の元編集者で作家のハジ・ミリザヒッド・ケリミ(81)は、2018年に拘束され懲役11年の実刑が確定した。彼は自治区が主催する「天山文学賞」を2回受賞し、「21世紀のウイグル詩学に最も貢献した文化人」に選ばれた人物だが、11世紀の歴史人物ユースフ・ハース・ハージブについて描いた歴史小説が問題視された。同社編集者で女流詩人のチメングリ・アウット(45)も2018年に拘束された。

知識人根絶やしの効果
 出版だけではなく、ウイグル語メディアや記者も「消滅」している。自治区西部イリで発行されていた「夕刊イリ」ウイグル語版とカザフ語版は、自治区政府の命令で今年から発行停止になった。評論家でジャーナリストのヤルクン・ルーズ(53)には「国家分裂主義者」として無期懲役が言い渡された。著名ジャーナリストで詩人でもあったワヒティジャン・オスマン(56)も消息不明になっている。長年にわたり小・中・高校のウイグル語教科書の編集も担当し、若いウイグル人なら誰もが彼の文章を読んだことがある、という人物だ。
 学術界にも弾圧は広がっている。ニューヨーク・タイムズ紙によると、新疆大学人類学研究所教授ラヒレ・ダウットが北京で行方不明になったのは2017年12月。ダウットは北京師範大学で博士号を取得したウイグル文化研究の第一人者で、日本人研究者の菅原純と中央ユーラシアのイスラム聖者廟に関する研究書を出版した。新疆大学ではダウット含め、少なくとも56人の「少数民族」出身者が強制収容されていると言われている。

抵抗意識を持っていなくても
 中国政府系シンクタンクの新疆社会科学院も例外ではない。200人を超える職員の中で、ウイグル人研究者は数人しかいなかったが、そのほとんど(在外ウイグル人組織が把握しているだけで5人)が拘束されている、と伝えられている。
 著名なコンピュータープログラマーのアリム・エヘット(46)も行方不明だ。北京理工大学を卒業後、イースト・ロンドン大学に留学。ウイグル語・カザフ語・キルギス語のフォントや文章入力用キーボード、校正ツール、電子辞書を開発し、ウイグル人社会のIT化に最も貢献した人物として知られる。
 誰もがウイグル人に生きる希望を与え、ウイグル人の文化が消滅しないよう先頭に立って尽力してきた人々だ。共産党の厳しい検閲をクリアして出版されてきたものが一転して有害書籍とされ、生涯かけて研究や表現活動をしてきた人々が、国家分裂主義者として死刑判決を受ける。極端な思想も、当局への抵抗意識も持っていないからこそ活躍の場を与えられていた知識人らが、「両面人」のレッテルを貼られ拘束されている。
 「兄のような知識人を一掃すれば、再び育てるまでに30年から40年はかかる。逆に言えば、自治区は30年間静かになる」と、タシポラット・ティップの弟で現在はアメリカに暮らすヌーリ・ティップはかつて語った。少数民族文化を「抹殺」しようとした文化大革命から既に半世紀を経ていながら、共産党は当時と同じ過ちを繰り返している。
 共産党によって押し込められた「ウイグル社会の宝」は今、劣悪な強制収容所の中で消えようとしている。


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ニューズウィーク日本語版:2018年2月16日
水谷尚子(中国現代史研究者)