世界のどこかで起きていること。

日本人の日常生活からは想像できない世界を垣間見たときに記しています(本棚11)。

「孔子がくれた夢」

2017-04-30 21:59:05 | 日記
孔子がくれた夢~中国・格差に挑む山里の記録~
2015年5月16日(土)NHKで放送。

<番組内容>
 中国では今、2500年前に孔子が唱えた「儒教」が、共産党政権のお墨付きを得て急速に復活しつつある。孔子の生まれ故郷・山東省の曲阜(きょくふ)では、地元政府が観光の目玉にしようと高さ73mの巨大な孔子像を建設中だ。都市部では、子ども向けの「論語」塾が続々と誕生し、「儒教」教育が一大ブームとなっている。一人っ子政策でわがままに育った子どもに、儒教の礼儀や道徳を学ばせたいと考える親が急増しているからだ。
 5年前の2010年、中国南西部にある貴州(きしゅう)省の山村で、子どもたちに「論語」を教え始めた青年がいる。貧困家庭の子どもの就学を支援するNGO「貴州民間助学会」で、現場責任者を務める石卿傑(せき・きょうけつ)さん(30歳)。目的は貧困からの脱出だ。
 貴州の山奥では、貧困のため学校を途中でやめて出稼ぎに出たり、結婚したりする子どもが少なくない。石さんは、子どもたちに「論語」を暗記させることで勉強への意欲を高め、大学進学や都会での就職という夢を持たせたいと考えた。それから5年。石さんは今、大きな壁にぶつかっている。子どもたちをとりまく現実は厳しいまま。石さん自身もNGOのわずかな収入では結婚もできず、両親の老後の面倒も見られない。「親孝行を説く儒教を教えてきたのに」と苦悩する。
 孔子の「論語」に始まった夢づくりの試み、その結末は一体どうなるのか。格差が広がる社会の中で貧困からはい上がろうと奮闘する青年と子どもたちの5年間をカメラが追った。


 中国の山村に住む、少数民族の朴訥で素直な子どもたち。
 そこには国の近代化から取り残され、貧困にあえぐ人達がいました。
 経済格差に連鎖しがちな教育格差に挑む石さんという青年の姿を追ったドキュメンタリーです。

 石さん自身も山村出身で、両親に苦労をかけて大学まで進学させてもらい、在学中に弁護士資格まで取得した秀才です。
 儒教を学ぶことにより、単なる出稼ぎ労働者ではない、未来ある将来を切り開けるのではないか。

 しかし、やはりそこには「経済格差」という大きな壁が立ちはだかりました。
 優秀だった子どもたちのうち半分が、学費が払えずに学校を中退していく現実を突きつけられました。
 自分自身もNGOにいる限り将来の見通しが立たず、結婚さえ考えられません。

 子どもたちに儒教を教えたのは正しかったのか?
 
 石さんは自問自答します。

 NGOを辞し、中学校に進学した子どもたちに会いに行きました。
 すると、村の子どもたちが成績優秀者として張り出されていることを目にしました。
 彼の蒔いた種は、少しずつですが確実に根づいて成長していたのです。

 中国というと、人口増加と経済成長の勢いのままに世界を牛耳る「傲慢」な印象があります。
 確かにそのような側面がありますが、一方では経済格差にあえぐ人達の存在も忘れてはならない、と感じました。

陸軍第442歩兵連隊

2017-04-30 19:33:36 | 日記
2015年にNHKクローズアップ現代で放送された「“Nisei”たちの戦争〜日系人部隊の記録」を見ました。



内容紹介
 5月上旬、ドイツで、ナチスのダッハウ強制収容所の解放式典が行われる。その解放で中心的な役割を果たしたのが、米国陸軍に志願した日系二世たちの部隊だった。欧州の激戦地を転戦、凄まじい犠牲者を出して勇猛に戦った兵士たちだが、戦後は長い間口を閉ざしてきた。敵性外国人として市民権を奪われ、家族を強制収容所に残したままの従軍。常に“弾よけ”として最前線に投じられる「不条理」と「差別的な処遇」。
 しかし国家への忠誠を示すために彼らは不平を封じ、戦後も三世や四世たちがアメリカ社会に溶け込むことを最優先するため、自分たちの過去を詳述してこなかった。戦後70年を迎える最近になって、名誉回復の動きが活発化している。最晩年に差し掛かった今、二世たちが重い口を開き始めた。
 新たに発掘・公開された記録や、生存者へのインタビューで日系人部隊が直面したマイノリティとしての過酷な体験を辿り、社会の多様性と寛容さの問題について考える。


1941年の真珠湾攻撃後、米国在住の日系人は「適性外国人」として強制収容所送りになりました。
歴史の教科書には出てこない事実です。
だって、ナチスに捉えられて収容所送りになったユダヤ人達を開放したアメリカ人が、自国内では日本人の人権を奪って収容所送りにするという矛盾を説明できません。

戦闘が激化すると米国政府は日系人にも戦争参加を要請してきました。
「アメリカ人として認めてもらえない我々が、なぜ米国のために戦わなくてはならないのか?」
と自問自答したといいます。
しかし「アメリカ人として認めれもらえるチャンス」と前向きに考えて、日系二世が志願兵となり戦争に参加しました。
大抵、最前線の捨て駒扱いです。
そのもっともたるものが「陸軍第442歩兵連隊」なのでした。
参加した兵士14000人のうち4000人以上が死傷したといいます(他の部隊の3倍の数)。

一方、勲章をもらった数も442歩兵部隊は多かったそうです。
戦争が終わり、日系二世の活躍はその後の日系人の地位向上に貢献することになりました。

その後、1970年代に日系三世が声を上げました。

「強制収容所?」「捨て駒の最前線?」
・・・聞いてないよ!

と。
彼らは補償運動を起こし、1988年にレーガン大統領が「強制収容所は誤った政策だった」と正式に認めて謝罪し、補償を勝ち取ることになりました。
しかし、戦争の現場の話に関しては、まだ頑なに口を閉ざし続けました。あまりに悲惨だったからです。

戦後70年が経過し、当時の志願兵もみな90差異を超えました。
彼らは「我々の経験を歴史に残しておくべきではないか」と考え、ようやく重い口を開きはじめたのでした。

9.11後、イスラム教徒を強制収容所に送るべきだという意見・議論が持ち上がりました。
そのときに説得したのが、日系三世達。
「それでは真珠湾攻撃後の日系人強制収容所送りと同じじゃないか・・・歴史から学ぶべきだ!」
と反対し、未然に防いだのでした。