世界のどこかで起きていること。

日本人の日常生活からは想像できない世界を垣間見たときに記しています(本棚11)。

「アメリカ 激化する人種対策 〜ダラス 一発触発の町で〜」(2016年, NHK-BS)

2016-10-30 16:05:31 | 日記
 オバマ大統領の番組中、人種問題を取り上げていました。
 彼の父はアフリカ人、母は白人です。

 黒人の少年が警察官に殺されれば、「35年前の自分だったかもしれない」とつぶやき、
 一方、自分の母方祖母(白人)から信じられないような黒人別紙の言葉を聞いたこともあると話します。
 そして、「その両方が自分であり、アメリカだ」と某講演会で吐露した映像が目に焼き付きました。

 その番組の中で、黒人初の司法長官を務めた人物のインタビューがありました。
 アメリカの黒人家庭では、警察と対峙するときの態度を幼い頃からたたき込まれるそうです。
 「決して警察に、こちらが攻撃するような感覚を持たせてはならない。警官は身の危険を感じれば射殺する。」
 という教育。

 録画してあったこの番組を見てみました。

 その司法長官の言うとおり、警官に銃を向けると射殺されていました。
 銃でなくても、ネジ回しをいじっていただけでも、攻撃の意図ありと思われ射殺された事例もありました。

 また、警察が尋問のために車を止め、「動くな」と指示したにもかかわらず、黒人の運転手が免許証を取り出すためにポケットに手を入れただけでも射殺されました。
 その際、警官が「おい、動くんじゃない! 動くなっていってるだろう!?」と、半ば泣き叫ぶようにヒステリックに言っていたことが印象的でした。
 まるで(頼むから俺に発砲させるようなことをするな)と言わんばかり・・・。

 そうです。白人警官は怖がっているのです。
 いつ、黒人が自分たちに牙を向けるのか、と。

 前項でも記しましたが、この心理状態はアメリカの歴史に根ざしていると感じます。
 黒人を奴隷として力でねじ伏せて酷使してきた歴史。
 その逆襲を常に警戒・心配して銃が手放せない白人層。

 「白人警察官が黒人をたいした理由もなく射殺した」というニュースの影で、2015年にアメリカで射殺された白人警察官は41人いたそうです。 

 恐怖 vs 恐怖の構図。
 何かを言っても一発触発で会話にならない。

 このとき、以前ドキュメンタリーで見た日本の某小学校の映像が頭に浮かびました。
 いじめがまん延するクラスに助っ人として赴任した教師。
 はじめにお互いに自己紹介をしましょう、と自分の次に指名した生徒は、妙な緊迫感の中、ひと言も言えずに泣き出してしまいました。
 そのクラスでは、何かを言うと揚げ足を取られていじめの理由にされてしまうという雰囲気に満ちあふれていたのでした。

 ダラスにおける白人警察官と黒人住民の間の緊張感にも「お互いの人間不信」という似たような雰囲気を感じました。
 
 ちなみに、その先生はそのクラスからいじめをなくし、何でも言える雰囲気にしたのでした。
 ポイントは「他人を褒めること」。
 お互いによいところを見つけて褒め合う授業を繰り返したのです。
 その見事な手腕に感心しきり。

 すぐにダラスの状況に適用できるとは思いませんが、「相手のよいところを見る」努力も必要かと思います。



解説
 白人警察官による黒人の射殺が相次ぐアメリカ。ダラスでは怒りを募らせた黒人が自警団を結成、緊張が高まっている。アメリカで激化する人種対立の現状をダラスで見つめる。
 アメリカで白人警察官による黒人の射殺が相次いでいる。テキサス州ダラスでは怒りを募らせた黒人が自警団を結成。警察官を寄せつけないようパトロールし、緊張が高まっている。一方、警察改革を求めて立ち上がった黒人住民もいる。親族を警察官に殺された人々が結成した「遺族の会」。警察改革の法案を市議会に提出し、法制化を目指している。人種対立が激化するアメリカで、今、何が起きているのか。ダラスの現状を見つめる。


 ダラスの黒人は自警団を結成し、銃を手に持って夜間パトロールをするようになりました。
 その中心人物のコメントが印象的でした。

 「銃を持っていると、警官の態度が変わり、対等に話ができる。」と。

 これって「核保有国になればアメリカに脅されても怖くない、対等の立場だ」と開き直っている北朝鮮と同じ構図ではありませんか。

オバマ大統領の8年

2016-10-29 16:23:33 | 日記
 “世界の片隅”ではありませんが、アメリカの話を。

 任期が終わろうとしているオバマ大統領、皆さんはどう見ているでしょうか?

 私には「オバマ大統領が掲げる正義・良心に国民がついて行けなかった」と映っています。
 医療保険でも、銃規制でも、社会的正義と思われる政策を進めようとすると、既得権益層から強力な抵抗を受けて頓挫することの繰り返しです。

 例えば「銃規制」。
 誰でも銃を持ち歩ける状況なら、社会が不安定化すればトラブルが発生することは容易に想像できます。
 しかし、それを規制しようとすると「全米ライフル協会」や「銃所有者協会」が反対行動に出るのです。
 その言い分は「銃を持った悪人を懲らしめるのは、銃を持った善人しかいない」と。

 この思想は、アメリカ社会の成り立ちを考えると理解しやすい。
 現在アメリカの支配層にいる白人の多くは、ヨーロッパから来て原住民のインディアンを銃で襲い、片隅に追いやって住み着いた征服者がルーツです。
 “銃の力を使って敵を征服した”人間は常に逆襲される不安と隣り合わせで、銃なしでは落ち着いて眠ることもできません。
 この状況は今でも変わっていないのでしょう。

 象徴的と感じたのが、番組中のオサマ・ビン・ラディンの暗殺事件。
 現場からの報告は「“ジェロニモ”を仕留めた」という暗号でした。
 “ジェロニモ”は白人と戦ったインディアンのアパッチ族の酋長(正確にはシャーマンらしい)の名前です。
 こんな所にも、アメリカの“他人を支配することで成り立つ自分の地位”という思想が見え隠れします。

 “正義・良心”をイメージさせる大統領の次は、その反動なのか、決まって真逆の“アメリカの力を世界に思い知らせるんだ”的なラジカルな人が大統領になります。
 ニクソンの後のレーガン、クリントンの次のブッシュのように。
 ただ、今回のトランプは過激すぎてちょっと無理そうですね。

 私のオバマに対する評価は「歴史に残る誠実な大統領」です。



■ オバマのホワイトハウス 歴史は正義へと“弧”を描く
2016年10月21日:NHK-BS
 オバマ大統領の独占インタビューと関係者への取材によって、8年間の政権の舞台裏に迫る大型シリーズ。長年に及ぶ保守派との攻防を経てオバマが遺した物とは何だったのか。
 最終話では、「オサマ・ビンラディンの隠れ家急襲」を、作戦当日のホワイトハウスの映像とCIA長官レオン・パネッタのインタビューを交えて再現する。後半では、オバマ大統領再選への道のりと、2期目のオバマが力を入れた銃規制や人種差別問題など国内の諸問題への取り組みが語られる。シリーズの締めくくりでは、オバマ大統領自身が未来へのメッセージを語る。

原題:Inside Obama’s White House
The Arc of History
制作:国際共同制作 Brook Lapping/Les Films D’ici/
NHK/BBC/ARTE France(イギリス 2016年)

 
タイミングよく、朝日新聞のオピニオン&フォーラムの欄に「オバマとは何だったか」という渡辺靖氏(慶応大学教授)からの寄稿文が掲載されました。
印象的な文言を引用します;

・バラク・オバマ大統領に関して最も印象的なのは、強靱な理想主義者であると同時に、冷徹な現実主義者であるという点だ。例えば、2009年のノーベル平和賞につながった「核兵器なき世界」を訴えたプラハ演説は理想主義者の側面を、「世界に悪は存在する。時には武力も必要である」と訴えたオスロでの受賞演説は現実主義者の側面を、それぞれ映し出している。両者のはざまに落としどころを模索しようとする矜持をを強く感じた。

・5月の広島訪問は、現実主義者の立場に立てば、現職大統領の被爆地訪問は政治的リスクで敷かない。究極の目標としての「核兵器なき世界」という理想主義なしではあり得ない大胆な行動だった。

・日本が原爆投下への謝罪を求めるなら、米国の世論は真珠湾攻撃への謝罪を求めてくるだろう。

・理想なき現実主義も、現実なき理想主義も、不毛であるという信念。理想主義と現実主義という二項対立の昇華にこそ「オバマイズム」の本質と真骨頂があった気がする。

・今回の大統領選におけるドナルド・トランプ候補(共和党)の躍進の背景には明らかに「反オバマ」感情ーーそしてそのオバマを制御できない共和党指導層に対する憤りーーが存在する。

・「一つの米国」を掲げたものの、保守派からは「妥協に応じない」、リベラル派からは「妥協しすぎる」と不満が募り、結果的に双方の亀裂を深めた面は否定できない。

「ある知的障害者たちの戦中戦後記」(NHK:ハートネットTV)

2016-10-01 14:48:24 | 日記
NHKハートネットTV シリーズ戦後70年 障害者と戦争 ある知的障害者たちの戦中戦後記

社会が極限状態に陥ったとき、弱い者から切り捨てられます。
戦中戦後、知的障害者は社会の隅に追いやられ、そこで死んでいった事実が日本にもありました。
今回の「世界の片隅」は日本の伊豆大島と山梨県清里です。

伊豆大島に「藤倉学園」という知的障害者施設がありました。
第二次世界大戦末期、伊豆大島は敵を迎え撃つ拠点として位置づけられ、藤倉学園は日本軍から立ち退くように命令されました。
当時は「学童疎開」として国民学校の生徒が田舎に避難する施策が講じられ費用の補助がありましたが、これは国立の学校生徒のみに適用され、私立の施設である藤倉学園は立ち退き命令だけで、疎開先は自分で見つけ、その費用も自分持ちという厳しさがありました。
どの土地と掛け合っても「知的障害者」ということがわかると拒否され続けました。

やっと見つけたのが山梨県清里。
某大学の合宿施設を買い取ってようやく確保できたのでした。
しかし標高1300mの施設は、冬を越すには過酷すぎる環境でした。
水も食べ物も不足し、栄養失調で施設の子どもたちは次々と倒れていきました。
疎開した30人のうち、10人が亡くなりました。

今でこそ清里はリゾート地として有名ですが、当時は入植・開拓が始まったばかりの寒村で、農家が28軒のみ。
痩せた土地で作物も十分に育たず、施設の状況を知りながらも、地元民はサポートする余裕がありませんでした。

今の清里を知る若者の知らない、ほんの70年前の出来事です。

第1回 「消え入った10の命
あらすじ
戦中戦後の知的障害者たちの知られざる境遇を示す記録が、70年ぶりに発見されました。施設の保母が代々、戦前から戦後にかけて毎日記した業務日誌と、記録映像の数々です。
その施設は昭和19年夏、軍の要塞化で温暖な伊豆大島を追われ、何の補償もないまま30人の知的障害者を連れて山梨県の開拓村に疎開していました。日誌には、入園者たちが飢えと寒さで徐々にやせ細り、1人また1人と息を引き取っていく過程が記録されています。1年余りの間に10の命が消え入りました。
なぜ悲劇は起きたのでしょうか? その経緯と背景を追跡します。




第2回「“ニュースさん”が歩んだ道
<あらすじ>
疎開先で知的障害者10人の仲間を失った施設は、終戦後、伊豆大島に戻って運営を再開しました。間もなく、全国の知的障害者施設は福祉施設として公認され、補助金の支給が始まります。
しかし、対象は児童に限定され、教育の義務化は見送られたままでした。その保障実現を訴える施設関係者、保護者らの長い道のりが続きます。
年齢制限の撤廃は昭和35年、教育の義務化は障害者の中で最も遅い昭和54年まで待たされました。疎開生活を生き延びた20人は、いずれも学校教育を受けられないまま一生を終えています。
なぜ救済は遅れたのでしょうか。知的障害者の戦後の処遇を、残された資料と関係者の証言から検証します。


・1960年(昭和35年)3月「精神薄弱者福祉法」、現在の「知的障害者福祉法」が制定
・1961年(昭和36年)親の会「東京都精神薄弱者育成会」がに結成された。知的障害児すべてに学校教育を保障をする「全員就学」を訴えた。
・1979年(昭和54年)障害があるすべての子どもの学校教育が、義務化されることになった。
・2006年、国連総会で「障害者権利条約」が採択された。障害のある人もない人も同じように、自分の選んだ生活を送れるよう保障する人権条約です。

<参考>知的障害者施設「藤倉学園」について
キリスト教徒であった創設者の川田貞治郎(ていじろう)(1879-1959)は、明治初期に渡米し、知的障害者施設を視察。明治30年10月、愛知県と岐阜県を大地震が襲い(濃尾地震)、大量の災害孤児が生まれた。その中に多くの知的障害児がいたという社会背景の中で、大正8年、日本で4番目の知的障害者施設として伊豆大島に開設された。
知的障害児には、一人一人に適した教育があるとの信念の下、川田は独自の方法論で、施設で生活する障害児たちの教育を行なった。1944年7月、伊豆大島の要塞化を進める軍の要請で、施設を明け渡すこととなり、親元へ帰ることができず、引き取り手のなかった30名の入園者とともに、8月山梨県清里へ疎開した。
戦後すぐ、伊豆大島へ戻り、現在では川田の長女・川田仁子理事長の下、知的障害者更生施設として、定員2名と4名の居室で、あるいは、将来的に地域での自立を目指す場合は近隣で学園が運営している1棟5名のグループホームでの個室で居住しながら、農作業、織物、ビーズ細工、食品加工などの日課を行なう入園者たちの生活を支援している。また、知的障害者が地域で働く場として、大島元町にてカフェを運営している。

社会福祉法人 藤倉学園 
大島藤倉学園 
〒100-0101 東京都大島町元町字馬の背128
電話:04992-2-2386