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我が愛する“猫まんま” 猫まんま” 第2皿目

2023-11-07 21:00:00 | 独り暮らし

 夕飯前、テレビを見ながら夕飯を待っていた。

 母親の背をチラリと見ながら「トントン」と炊事場から音がした。

 ーその空間が何かしら私を心地良くしてくれた..

 いつも学校を下校して、いつも友達と野球や鬼ごっこした。
 その帰り道をトボトボ歩いていると、家から煮物の匂いがしたり、焼き魚の匂いがした。
 ああ、夕飯時だなと今思えば、これも“昭和の風景”かも知れない。

 私が料理を作ろうと思ったキッカケは、忘れてしまいましたが、何を思ったのか「砂糖」を見たかも知れません。

 子供にとって、甘いのが大好きです。さ


 ですから、砂糖を興味を持ったのでしょう。

 砂糖で遊ぶのは、やはり親から叱られるので、親が外出する時を見計らって実行に移します。

 よく母親が作ってくれたカスタードクリーム風のクリーム、パンにつけて食べると凄く美味しかった記憶がので、それを作ろうと思ったのでしょう。

 小学低学年の子供には、作れるはずもなく、でも母親の横でじっと見ていた記憶があります。

 カスタードクリーム紛いのこのクリームのレシピは、いたって簡単。

 本来は各々材料ややり方は違はいますが、一般的なレシピは、

 牛乳、卵黄(全卵)、グラニュー糖、コーンスターチ(薄力粉でも)、バニラエッセンス(バニラビーンズ)等

 と思います。

 私の母親の場合、

 牛乳、全卵、バター(有塩)、上白糖、片栗粉。

 この味が、たまらなく好きでした。

 年に一度、あるかないかくらいの頻度で作ったりします。

 仏前の前に座り、カスタードクリーム紛いの頬張る。

 母親の写真を見ながら...。

 『おかあちゃん、ありがと』

我が愛する“猫まんま” 第1皿目

2023-11-06 21:00:00 | 独り暮らし

 小学低学年の時期は、皿をペロペロ舐めていたら、親から
 「下品だから、やめなさい」
と、言われ叱られたもんです。

 袋めんの残り汁に御飯を入れるのも、叱られました。

 時代は変わり、今になってその“下品”の基準も変わってゆくのでしょうか。

 昔、ひとり暮らしの下宿生活。
 一膳の御飯にかつおをのせて醤油を少し垂らして食べていた人たちは、今は、どんな生活を送っているのでしょう。

 ま、そう考えると、おにぎりの“おかか”と、今になって下品とは言えないと私は思いたい。

 じゃ、今になって下品の基準は、どこにあるのでしょうか。

 さて、各家族には、親から受け継いだ料理があると思います。

 それを代用として、自分なりにアレンジする。
 かつ、合理的に。
 親から受け継いだ料理が、また“進化”させる。
 「合理的」という言葉は、表向きで本来は、“邪魔くささ”の裏返しで、時短を考えた料理。

 そこで、私が大好きな言えば恥ずかしい「猫まんま」を紹介させて頂きます。

 今回は「皿うどん」です。

 皿うどんには、専用の麺が市販されていますよね?
 ところが、袋めんより割高で、じゃ、袋めんで出来ないものかと考え、やってみたところ、結構美味かった。

 まぁ、ネットで調べると意外と多くアップされていた。
 皆さんも、同じ考えが多かったので驚いた。

 さて、私の作り方は、至って単純明快です。

 袋めんの麺は、そのまま、若しくは沸騰した湯に1分程度湯掻きます。

 あとは、野菜餡は、カット野菜と豚肉若しくはミンチを炒め、片栗粉で餡を作ります。至ってシンプルな袋めんの皿うどんです。
 袋めんのスープの素は、野菜炒めの調味料にしたり、スープにしたりしてます。

 下品かも知れませんが、私の猫まんまです。

言の葉辞典 『轍』②

2023-11-04 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■『轍』②

 ❖ 襲 名 ❖

 襲名(しゅうめい)は、名を継ぐこと。名を襲うことの意で、先人と同じ名前を意図的に使うことを言う。

 ▼人名の襲名

 祖先もしくは先代の個人名を継承すること。

 日本における襲名

 かつての武家や農家・商家では、家督を継ぎ新たな家長となった者が、先代あるいは父方祖先の個人名を襲名し改名する習慣が広くあった(祖名相続)。
 これは、世代が代わっても家業、家職の連続性、職能水準の保持の内外への表明という意味があり、その家が獲得した社会的信用、顧客や仕入れ先や同業者などからの評価に応じ、社会的期待を裏切ることのない家業、家職を保持する努力が後継者には要求された。

 江戸時代の百姓は、苗字の公称が禁じられていたため、字に代表される通称を家の固有の名前、すなわち先祖相伝の家名とし、代替りの際に父から嫡男へと相続することによって、代々同じ名前を名乗り続けた。
 江戸時代の慣習を集成した「全国民事慣例類集」によると、襲名は、家督相続が伴って行われ、公儀へ差し出す帳簿において、代々その家を代表する名である「公儀名」つまり「其家の通名(称)」に改めるのが通例であった。
 そのとき前戸主が健在の場合は、隠居し改名することになるが、戸主は代々変わっても名は変えないことになる。実印もまた代々同じ品を用いるものとされた。

 歴史的には、当時の経済的な先進地帯であった近畿地方などでは、14世紀後半から15世紀にはすでに襲名が行われていた記録が残っている。

 伝統芸能の襲名

 歌舞伎や落語などの伝統芸能、茶道・生け花などの家元や相撲界などでは、名前が家柄の権威や伝統あるいは個人の技術を表し、その資格を持つ者が継承する。
 この場合は、継承する者が先代と血縁関係にあるとは限らず、師弟関係にあってあくまでも個人的な技能の能力から判断される(相撲の年寄名跡においては先代の入婿となることも多い。
 佐田の山晋松や琴ノ若晴將など)。 
 日本だと実名の改名に家庭裁判所の承認(法的な判断)が求められるが、芸能などの襲名であれば比較的認められやすい傾向にある。
 戸籍上の本名か、芸名・筆名(変名)との区別を問わずに用いるが、通常の襲名だと歌舞伎や落語などで名跡を継ぐことを想像する人が多いのかようである。
 珍しい例として、初代桂文枝は、明治維新で戸籍ができた際に、本名も桂文枝とした。
 伝統芸能以外では、ヤクザや的屋の世界において親分の地位を継承する襲名披露が行われている。
 これは初代、又は先代の姓名を個人が継承をするものではなく、組や一家の名字が跡目を通じて継承される、いわゆる名跡として認知される。

 競技・スポーツにおいては、大相撲で師匠や所属部屋の名力士の四股名を襲名することがあり、こうして伝統あるものとなった四股名は出世名と呼ばれる。
 また、現役力士が引退して年寄となる際には「引退して年寄○○を襲名」となる。
 行司については、三役格の行司から立行司に昇格した時点でまず序列第2位の「式守伊之助」を襲名して、その後に最高位の立行司に昇格する時点で「木村庄之助」を襲名することが慣例となっている。
 登録名やリングネームが襲名されることはほとんどなく、プロレスで2世レスラーが『父親のリングネーム+ジュニア』を名乗ることがあるほか、『タイガーマスク』のように覆面レスラーが代替わりする際にも襲名と表現されることがある。

 西洋における襲名

 一般的に、Jr.(ジュニア)が襲名の準備として用いられ、父親が他界する事で、Jr.の表記を外して襲名する(リングネームの例になるが、ドリー・ファンク・ジュニアのように父親の他界後も「ジュニア」の付いた名前を維持することもある)。

 ▼船名の襲名

 海上自衛隊を含む海軍、海運会社では、特に活躍した艦船の名前をその艦船の退役後に後代の艦船が引き継ぐことがある。 この場合、先代の艦船の名前をそのままつけることもあれば、先代の艦船の名前に襲名の回数を意味する数字等を付けることもある。

 ❒2015年現在において現役の艦船がある、長期にわたって襲名されてきた艦船名の例

 軍艦

 イギリス海軍

 ✰ヴィクトリー 6代目
 初代は1569年就役の42門艦。

 アメリカ海軍

 ✰ワスプ 10代目
 初代は1775年就役のスクーナー。

 ✰ボクサー 6代目
 初代は1815年就役のブリッグ。

 ✰エセックス 5代目
 初代は1799年就役のフリゲート。

 ✰キアサージ 4代目
 初代は1862年就役のスループ。

 ✰ボノム・リシャール 3代目
 初代はジョン・ポール・ジョーンズが1779年にフランス国王ルイ16世から与えられたフリゲート「Duc de Durae」を改名したもの。

 商船

 ✰クイーン・エリザベス - キュナード・ライン 3代目
 初代は1940年就役の80000トン級客船。

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 ❖ 世 襲 ❖

 世襲(せしゅう)とは、特定の地位(官位や爵位など)や職業、財産等を、子孫が代々承継することである。

 ▼世襲の種類

 ・襲爵:家に伝わる爵位を世襲すること  
 ・襲位:位階・地位などを世襲すること
 ・襲名:先祖伝来の名跡などを世襲すること

 また、法的な根拠を有する場合に限らず、事実上の場合について言うこともある。

 ▼歴史

 古代・中世世界における多くの政治体制においては、その支配者の地位(皇帝や国王、諸侯などの地位)は、血縁関係を基礎とした継承によって独占的に占有されることが通常であった。
 このような固定された君主の家系を王朝と称する。

 それにより、社会の中で支配する階層(支配者)と支配される階層(被支配者、臣民)の分化が生じてきた。
 日本においても、大日本帝国憲法下では皇室の皇位(万世一系)をはじめ、族籍(華族・士族・平民)の世襲が定められており、これを打破するには閨閥を繋ぐか、よほど傑出した功績を挙げて爵位を受ける他なかった。
 また、日本国憲法にも皇位が世襲される旨の定め(第2条)がある。

 貴族制度・階級制度が存在する国でも、両班でありなおかつ科挙に通らなければ政治に関われない李氏朝鮮や、試験に通って出世すれば平民の子でも指導層に立てる可能性がある大英帝国や大日本帝国のような例まで、その度合いには大差がある。

 ✔日本における世襲

 大化の改新以前の日本は氏族社会であり、氏人は氏上に統率され、氏上の地位は子孫などによって継承された。
 天皇の統治が確立すると、氏上は朝廷に一定の奉仕を行い、相続の対象も祭祀とともに家業や家名が重要視された。氏上の地位は被相続者の選定により代々子または血縁者に継承された。

 奈良時代には唐朝の律令を取り入れ法体系を整備した。
 律令は形式的には近代に至るまで存在したが、これが実質的効力を持ったのは平安時代前期までであった。
 継嗣令に蔭位の制が規定されており、皇親、諸王、官人五位以上の者の子または孫で嫡子孫となる者は一定の位階に叙されて、官人として祖父の跡を継承した。
 嫡子は嫡妻長子を第一順位とし、ない場合は直系卑属や養子から選んだ。六位以下内八位以上の嫡子は位子の制により官人登用の道が開かれていた。
 のち、庶子も嫡子を立てることが許されたが、これは家業、家産継承のためである。
 すなわち、継嗣令は家の世襲を意図したものであった。
 この制度は、平安時代を通じて守られ、庶民の場合も「嫡嫡相承」といって、家業、家産が継承された。また、平安時代には古代の氏族制が一部で復活し、一族の氏上が氏人を統率するが氏上の地位も世襲的に継承された。
 この代表例が源平藤橘である。

 中世は武家による封建体制が確立し社会組織が一変した。
 すでに平安時代末期には各地で血縁団体、家族共同体である武士団が組織され、一族の族長を家督と呼び、家督は族人に対し軍事的統率権を持った。
 家督の地位は嫡子によって代々継承された。中世では一族が分岐して単一の家を構成し、財産(土地)の慣習的な分割相続と封建的勤務を調和するため、諸子の中から惣領を選別し他の庶子を物的に支配する惣領制が発達した。
 この体制により惣領は一族の家督に人的統制を受ける一方で、惣領として家の継承者となった。家督も惣領もともに嫡子がその地位を世襲した。
 家督制も惣領制も南北朝時代から室町時代からにかけて次第に崩れ、庶子は惣領から独立し、室町時代末期には嫡子が家名と家産を併せて継承する長子単独相続に変化した。

 江戸時代は厳格な身分制度が確立し職業が固定したため、上下を通じて家の世襲制が一般化した。
 武士の場合、家の存続は封録の継承にあり、主君の干渉を伴う封禄相続が実現し、相続の効果として家名と家産を取得した。相続人は嫡出長子であるが、長子のない場合は届出、願出によって嫡子を定めて家の存続を計った。
 庶民は家業と家産を継承したが、家名の相続は消滅した。
 相続は長男(惣領)の単独相続が一般的であったが、東北地方を中心に「姉家督」と呼ばれる相続が行われており、漁村や長野県諏訪地方では末子相続の慣習のある地方もあった。

 ▼世襲政治家

 世襲政治家は、世襲である政治家のこと。

 ✔概説

 近代の代表民主政治においては、血統ではなく人民の選挙によって選ばれた政治家が国会議員(選良)として政治を担うこととなる。
 一方で、親が政治家であれば、選挙に当選して政治家となるためのさまざまなメリットを享受することとなり、そのようなメリットを活かした政治家が少なからず登場することとなる。
 このような政治家が、比喩的に「世襲」であると呼ばれる。
 場合によっては、数代にわたって有力な政治家を輩出する家系すら登場する。
 また、政治家一族が政治家一族、更には大資本家や貴族と婚姻を通じて閨閥として関係が強化される例もみられる。

 世襲政治家については、既存政治家の事実上の家業となる一方で、既存政治家と縁戚関係がない人材の立候補を事実上妨げているという批判があり、また政治団体の世襲による相続税逃れなどが指摘されている。
 こうした批判がある一方で、世襲を容認しその候補を議員にするのは有権者であるという擁護論もある。
 一部の政党では、選挙区の地盤を世襲した候補の擁立を自粛している。

 政治家の家庭で育つことから早くから政治に目覚め、親の知名度や人脈、支持基盤、財力をうまく活かして若いうちから実績を積むのには有利である。
 親の秘書等を経て政治家となるケースもある。
 また、若年で政界入りすることもできる世襲政治家は当選回数を重ねることで政治的影響力を増大させ、若くして政界入りすることが難しい非世襲の政治家よりも優位性がある。

 世襲議員と非世襲議員の被説明変数を基準にしたパフォーマンス指標には、質問主意書提出数を除いて 有意な差は見られないとする研究もある。

 また独裁政治が行われている国家においては、君主国ではない場合にも権力基盤が引き継がれ、最高指導者等の政権要職者について事実上の世襲が行われることがある。

 ✔北アメリカ

 アメリカ

 他の先進国と同様、アメリカの選挙でも大金を動かす資産力が必要となるため、同一の一族から多数の政治家を輩出することが多い。
 特に、ジョン・F・ケネディ第35代大統領のケネディ家や、ジョージ・H・W・ブッシュ第41代大統領とジョージ・W・ブッシュ第43代大統領のブッシュ家などの一族から出た政治家は数多い。
 大統領や連邦議会議員・州知事などの政治家を多く出す一族を揶揄して「王朝」と呼ばれることもあるが、当事者達はそう呼ばれることを嫌っている。

 ブッシュ家のほかに親子で大統領になった例は、アダムズ家の第2代大統領ジョン・アダムズと第6代大統領ジョン・クィンシー・アダムズの親子がある。

 カナダ

 ピエール・トルドーの息子であるジャスティン・トルドーは首相になった。

 ✔南アメリカ

 ペルー

 アルベルト・フジモリの子供であるケイコ・フジモリ、ケンジ・フジモリは国会議員である。
 ケイコは親子2代の大統領を目指したが対立候補に敗れた。

 ✔アジア

 日本

 日本では、大日本帝国憲法下に設置されていた貴族院が世襲制議員などにより構成されていた(ただし単純に門地だけで議員になれたのは皇族と、侯爵以上の爵位の議員のみであり、伯爵以下については同爵者による選挙があった)。
 日本国憲法が施行された1947年以降は、全ての公職政治家が選挙により国民の信任によって選出されている。

 今日、マスメディア等にて「世襲議員」と称されるのは、国会議員職を世襲したいわゆる二世議員等であることが多い。
 この場合の世襲議員とは概ね、親や祖父母をはじめとする親族が作った選挙区での地盤(後援会。いわゆる「三バン」の一つ)をそのまま継承して選挙に当選した政治家のことを指す。
 自民党の世襲議員のほとんどがこれである。

 北海道選出の日本社会党衆議院議員である2代目岡田春夫は父親が北海道選出の立憲民政党衆議院議員であった初代岡田春夫であり、出身政党が異なるが、選挙区が同じであり地盤を世襲したとして世襲とみなされている。
 選挙区が違う場合など、世襲で受け継ぐ地盤がなく直接の恩恵を受けていない場合は、世襲と見なさないことが多い。
 しかし、親子などの親族関係があれば世襲とみなすという考えもある。
 その考えでは父笹川良一(大阪府選挙区選出)の退職から40年後に当選(立候補自体は父退職から26年後)した笹川堯(群馬県選挙区選出)も、選挙区が異なっており40年間の空白期間が存在するが、父親が国会議員ということで世襲政治家に入っている。
 世襲でよく用いられる手法は、有力議員が次の選挙の数ヶ月前に引退を表明して、後継者として子や孫を指名するものである。
 他の候補に準備期間を与えないために引退・後継者指名を選挙直前まで遅らせるが、この手法はアンフェアだとの指摘がある。指名された後継者は、党の支部などから公認を得て、次の選挙を戦うことになる(党の支部といっても小選挙区支部長は当の世襲させようとする有力議員であることがほとんどである。
 江藤隆美が引退して江藤拓に世襲させようとした際には県連で「親父が支部長で支部推薦候補が息子なんて話は通らない」と問題になったが結局通過している)。
 後継者の指名前に世襲となる後継者を秘書として働かせている事例も多い。
 その一方で、世襲候補として擁立されて当選した世襲政治家が「自分は政治家に向いていない」などの理由で、高齢や病気でもないのに国会議員在職中に次回選挙への不出馬表明という形で引退表明して世襲を終わらせる例もある(例: 63歳の久野統一郎、52歳の木村隆秀)。

 また政治家を引退しないまま子や兄弟姉妹を別の選挙(または選挙区)に立候補させる場合もあるが、こちらは後継者という意味合いは薄まる(例: 鳩山威一郎参議院議員と鳩山邦夫衆議院議員・中曽根康弘衆議院議員と中曽根弘文参議院議員・石原慎太郎衆議院議員と石原伸晃衆議院議員・河野洋平衆議院議員と河野太郎衆議院議員・安倍晋三衆議院議員と岸信夫衆議院議員・羽田孜衆議院議員と羽田雄一郎参議院議員)。
 政治家一家は子どもが生まれた時から選挙に出ることを想定しているためか、自書式投票である日本においては難しい漢字を用いた読みにくい名前は極力避けられ、平易な漢字で多くの人が読みやすい名前をつけたり、名前の一文字を共通させる(通字)など親子関係がはっきりとわかる名前をつける例が多い。
 中には立候補の際に先代の名前に改名する例もある(例: 岡田春夫・山村新治郎・中村喜四郎)。
 古くからの名家の子孫が当該地域から立候補をして当選して政治家になる場合も世襲扱いされることがある。
 例として、旧久留米藩主であり有馬伯爵家の当主である有馬頼寧が襲爵前に久留米から衆議院選挙に当選して衆議院議員になった例や、旧肥前鹿島藩主であり鹿島鍋島家の当主である鍋島直紹が佐賀県知事選挙に当選して佐賀県知事になった例が世襲と扱われた例もある(どちらとも公選政治家の子孫ではない)。
 また長州藩士で島根県令・佐藤信寛の子孫が佐藤栄作、岸信介(旧姓佐藤。岸家へ養子入り)、岸信夫、岸信千世、安倍晋三である。

 世襲政治家は、日本では長らく与党として政権を担当し、権力に近い立場にあった保守派、即ち自由民主党に多いが、日本社会党・民社党などにも若干の例が見られる(自民党は小泉政権下で安倍晋三幹事長が候補者公募制度を導入し、公認候補者の選定過程に変化が見られたが、公募による候補者選定はあくまで補完的役割にとどまり、同じ新人であれば世襲候補者が優先的に公認を獲得する)。
 社会党では河上丈太郎、松本治一郎、江田三郎、山花秀雄、横路節雄などの幹部の実子・養子が政治家となっており、社会党から分裂した民社党や社会民主連合にも世襲政治家が存在した。
 また新自由クラブは幹部のほとんどが国会議員・地方議員を父に持つ世襲政治家であった(このことを理由に「新自由クラブは長持ちしない」と結党時に指摘した議員もいた。
 自民党以外の政党にも世襲政治家は存在しており、民主党ではかつての最高幹部である鳩山由紀夫・小沢一郎・羽田孜はいずれも世襲政治家であった。
 一方、公明党と日本共産党には世襲政治家はほとんど存在しない。
 日本共産党は「“三バン”を受け継がない地方議員と国会議員では世襲とはなり得ない」と定義しており、共産党候補者の選挙費用は全額党が負担し、引退者が後継を指名したりもしないため、世襲国会議員は共産党にいないとする。
 また母川田悦子(2000年から2003年まで衆議院東京都第21区選出議員)の落選から4年後に当選した川田龍平(2007年から2013年まで参議院東京都選挙区選出議員、2013年から参議院比例区選出議員)も、世間的には母親より息子が先に知名度が高く注目を集めていた点はあるが、母親が国会議員であったことや選挙区が重複していたことや母親の秘書を務めていたことから川田も世襲政治家に入っている。

 同一選挙区における世襲候補は「三バン」を保持し、他の新人候補と比べて有利に選挙戦に臨む条件が揃っているため、当選後は地盤固めをすることで次の選挙戦を有利に進めることが可能である。
 また引退に伴う世襲の際に、資金管理団体を非課税で相続できることも問題視されている(他の民間団体の資本金相続は相続税の納税対象に該当する)。
 同一選挙区に複数の公認希望者が存在する場合は分裂選挙になることもある。後継者指名前に政治家が死去した場合の弔い選挙においては分裂選挙が起こりやすい。
 例えば中川一郎が急死した際には、息子の中川昭一と秘書の鈴木宗男の分裂選挙になっている(当時は中選挙区制であったため結果的には両者とも当選)。
 政権交代が起こった第45回衆議院議員総選挙では、自由民主党が歴史的大敗を喫したが、このとき自民党で当選した119人のうち世襲議員は50人と、非世襲議員よりも選挙に強いことを実証した。
 この結果、自民党衆議院議員に占める世襲議員の割合は、解散前の32%から42%、ほぼ4割となった。
 2017年10月の第48回衆議院議員総選挙の小選挙区当選者のうち、自民党は世襲議員が33%(218人中72人)を占めた。

 なお、世襲候補が立候補した選挙で、世襲させた側の先代の政治家(中川昭一でいえば中川一郎)の名前を書いた投票については、世襲候補の得票とはならず無効票となるという事例が1950年の参議院選挙で存在する(櫻内義雄、小瀧彬の項を参照)。
 2023年7月現在の世襲4世の政治家は古屋圭司、小泉進次郎、川崎秀人、林芳正(1代とび)、橘慶一郎(1代とび)、麻生太郎、岸信千世の7人である。
 なお5世は鳩山二郎と平沼正二郎の二人だけで上記合わせて所属政党はいずれも自民党である。

 ✔世襲制限

 GHQ下の日本では公職追放令によって公職追放該当者の三親等内の親族と配偶者は一定期間は対象の職への就任が禁止される規定があったが、公選公職に関しては公職追放該当者以外の三親等の親族や配偶者は規制対象外だったため立候補することができ、公職政治家の世襲制限は行われなかった。
 世襲政治家を問題視する立場から、親族の選挙区からの立候補規制などの世襲立候補の法規制案が浮上するが、日本国憲法第14条「すべて国民は、法の下に平等であつて(中略)門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」や国会議員についてはさらに日本国憲法第44条「両議院の議員(中略)の資格は(中略)門地(中略)によつて差別してはならない」において「門地の差別」に該当し、法規制には憲法規定の問題が浮上する可能性が存在する。

 2008年に、民主党は世襲立候補規制の法案作成に着手するが、先述の憲法規定の問題もあり世襲の立候補規制を断念し、世襲の制限については資金管理団体の世襲禁止を盛り込むことになった。
 また2009年には法案成立とは無関係に、党の内規として資金管理団体及び選挙区を親族に継がせる事は認めない旨を定めた。
 民主党は「制限される世襲」として以下の条件を全て満たす者と規定している。

 1.現職議員の配偶者及び三親等内の親族であること。

 2.当該議員の引退、転出に伴って連続立候補をすること。

 3.同一選挙区から立候補すること。

 これから国政に参入する新人については、以上の条件を全て満たす場合これを公認候補としないことを決めた。
 ただしこの内規は第45回衆議院議員総選挙から適用されるものであり、これ以前に世襲した候補者に対しては遡及されるものではない。
 第46回衆議院議員総選挙で元首相の羽田孜が引退し、参議院議員・国土交通大臣だった子息の羽田雄一郎が後継出馬を表明した際には、この内規に抵触するとして出馬断念に至っている。

 なお、第45回衆議院議員総選挙で福島1区から当選した石原洋三郎は父が2003年まで福島1区を地盤とする衆議院議員であった石原健太郎であるが、6年間の空白がある。
 民主党は同一選挙区でも6年間の空白があれば一等親の親族の立候補を認めている。
 また2003年衆院選と2005年衆院選は福島1区で石原健太郎の長男(石原洋三郎の兄でもある)である石原信市郎を公認候補として擁立しており(2回とも落選)、旧自由党時代も含めて福島1区から2000年衆院選、2003年衆院選、2005年衆院選、2009年衆院選と連続して石原一族を政党公認候補として擁立し続けていることになる。
 民主党は国政選挙で落選して国会議員になったことがない候補については世襲制限規定に含まれないとして、同一選挙区から世襲候補が連続して立候補することを認めた。
 他にも、石井登志郎(兵庫7区当選議員)が養父(伯父)の石井一(2005年まで衆議院兵庫1区選出議員・2007年当選参議院議員)と選挙区は重なっていないが同一県内の選挙区において衆議院立候補に限れば4年間の空白期間を経て世襲をした例や菅川洋(広島1区立候補・復活当選)は父の菅川健二(2001年まで参議院広島県選挙区選出議員)と衆参は異なるが選挙区が重複する中で8年間の空白期間を経て世襲をした例や高橋英行(愛媛4区選出議員)は祖父の高橋英吉(1969年まで衆議院旧愛媛3区選出議員)と40年の空白期間を経て世襲した例があった。

 制限の対象となるのはあくまでも「現職議員」の後継者に限られていたため、第47回衆議院議員総選挙では新潟6区において前回総選挙で落選し政界を引退した筒井信隆の娘婿である梅谷守が後継として筒井に続き民主党公認で立候補した(落選、その後2021年の第49回衆議院議員総選挙で初当選)。
 この内規は民進党でも踏襲されたが、その事実上の後身にあたる立憲民主党には引き継がれておらず、結党後初の国政選挙となる2021年4月に行われた羽田雄一郎の死去に伴う参議院長野県選挙区補欠選挙では雄一郎の弟にあたる羽田次郎が公認され当選した。
 さらに第49回衆議院議員総選挙に際して当時の党代表であった枝野幸男は「世襲だからと機械的に否定するのは硬直的だ」と述べ、一律に世襲制限は設けず候補者ごとに判断する考えを示した。
 同選挙では北海道3区で荒井聰の後継として長男の荒井優が公認され、比例復活当選している。

 自民党も第45回総選挙から世襲制限を試みたが、検討段階で既に自民党の公認を得ていた千葉1区の臼井正一(父が臼井日出男)と神奈川11区の小泉進次郎(父が小泉純一郎)の2名はそのまま公認され、世襲制限については当面期限を定めないとすることとした。
 ところが解散後に自民党が示したマニフェストでは「次回(第46回)総選挙から世襲制限を行う」旨が記述された[10](制限される条件と、遡及しない点については民主党と同じ)。
 さらにマニフェスト決定後に青森1区の公募候補者として決定された津島淳(父が津島雄二)は党本部の公認を得られず[11]、対応が二転し、結果として候補者によってまちまちの対応をとる事になった。
 2009年衆院選後に登場した自民党新執行部は「世襲制限は尊重しつつも、候補者選定において世襲を優遇せずに広く人材を集める公募制の観点から議論する」とし、世襲制限の議論を白紙に戻す考えを明らかにした。
 2010年参院選では「世襲候補に無原則な公認または推薦はしない」ことを公約に盛り込んだ。
 引退する若林正俊の後継者として公募を経て長男の若林健太が、立候補を表明していた青木幹雄が選挙直前に病気が発覚して不出馬を表明した際には島根県連が緊急に長男の青木一彦がそれぞれ公認候補とされ、2人とも当選を果たした。
 2011年1月、自民党は衆院選のマニフェストを修正し、各都道府県連が行う公募のプロセスを経ることを条件に世襲制限を撤回する方針を固めた。
 結果として津島が自民党において世襲制限により公認が見送られた唯一の例となった。
 第46回総選挙の後継者選定において公募をおこなった際に大物政治家が引退することによる世襲候補(群馬4区の福田康夫の長男である福田達夫、広島4区の中川秀直の次男である中川俊直、北海道12区の武部勤の長男である武部新、奈良4区の田野瀬良太郎の次男である田野瀬太道、香川3区の大野功統の長男である大野敬太郎)がメディアから批判された。応募者が1人だけだった群馬4区を除いた4選挙区では応募した候補者は複数いたが、広島県連・北海道連・香川県連は3選挙区で世襲を候補とすることを決定した。
 執行部は世襲批判をかわすために公認候補に関する党員投票を求めたが4道県連が反発した。
 最終的に世襲1人に絞っていなかった奈良県連では奈良4区の田野瀬の次男と他1人を党員投票を行ったが、4道県連では党員投票が行われないまま世襲を候補とすることを決定し、奈良県連でも党員投票で田野瀬が圧勝したことから世襲である田野瀬を候補とすることが決定した。
 自民党執行部は「公募で新人候補を約100人決め、世襲は1割弱」としているが、「世襲にお墨付きを与えるだけの『なんちゃって公募』だ。
 自民党の古い体質は変わっていないと思われ、最悪だ」(若手議員)、「出来レース」(党関係者)との声もある。
 同選挙では前回落選していた津島も自民党に公認され当選した。

 ✔中華人民共和国

 中国共産党の高級幹部子弟は太子党と呼ばれ、政治を担う党幹部に多くが進出している。
 有名な例では、胡錦濤の後継者として総書記に就任した習近平は全人代常務副委員長を務めた習仲勲の息子であるほか、元国務院総理の李鵬は周恩来の養子である。
 横山宏章「中国を駄目にした英雄たち」(講談社)などによれば、文化大革命当時には「親が革命家なら子供も赤い。
 親が反革命なら子供も黒い」という理論が盛んに喧伝された。

 ✔インド

 初代インド首相ジャワハルラール・ネルーの娘インディラ・ガンディーと孫ラジーヴはともに首相に就任しており、イタリア出身のラジーヴの妻ソニアまでインド国民会議党首に就任している。
 インディラの次男サンジャイも政治家で、その妻メーナカーは環境大臣を歴任した。ジャワハルラールの父モティラル・ネルーも有名な国民会議派の政治家であり、ラジーヴとソニアの子ラーフルとサンジャイとメーナカーの子ヴァルンも下院議員である(ただし、ラーフルはインド国民会議・ヴァルンはインド人民党所属)。
 この状況は「ネルー・ガーンディー王朝」ともいわれている。

 ✔フィリピン

 2010年に大統領となったベニグノ・アキノ3世上院議員は、父がベニグノ・アキノ・ジュニア元上院議員、母がコラソン・アキノ元大統領である。
 また、父方の祖父であるベニグノ・アキノ・シニアも政治家として活躍した。
 ベニグノ3世の前の大統領グロリア・アロヨも、元大統領ジョスダド・マカパガルの娘である。
 コラソンの下で副大統領を務めたサルバドール・ラウレルも、父が第二次世界大戦中のフィリピン大統領を務め大東亜会議にも出席したホセ・ラウレルであり、コラソン・アキノ政権で国防相を務めコラソンの次の大統領となったフィデル・ラモスも父が外相である。
 結局、フェルディナンド・マルコス政権崩壊以降の大統領で就任当時、血縁に有名政治家がいなかったのは、俳優として有名になったタレント政治家のジョセフ・エストラーダが唯一の例である(後に妻のルイサと息子のジンゴイはフィリピン上院議員に当選している)。
 ロドリゴ・ドゥテルテも娘や息子をロドリゴの前任のダバオ市長やその副市長を歴任している。

 長く独裁体制が続いたフェルディナンド・マルコス政権下では、妻のイメルダがマニラ首都圏知事や閣僚を歴任したばかりか、長女アイミーや長男ボンボンが政府系団体の要職に就いた。
 エドゥサ革命でマルコス一族は政権を追われたものの、その後復権を果たし、現在ではアイミーが下院議員、ボンボンが北イロコス州知事、フィリピン大統領となっている。
 アテネオ大学の調査では、州知事の81%、下院議員の78%、市町長でも69%が世襲もしくは一族の関係者であり、世襲が高い地域では貧困率が高いことが指摘されている。

 ✔シリア

 第4代大統領ハーフィズ・アル=アサドは30年に渡る独裁体制を構築し、2000年の死後、息子のバッシャール・アル=アサドが大統領職に就任した。

 ✔シンガポール

 シンガポール首相リー・シェンロンの父親は建国当時の首相リー・クアンユーである。

 ✔大韓民国

 朴槿恵大統領の父親は朴正煕である。また、国会議員などにも鄭一亨・鄭大哲・鄭皓駿の三世代、趙炳玉・趙尹衡・趙舜衡の親子、金大中・金弘一・金弘業・金弘傑の親子、南平祐・南景弼の親子、鄭石謨・鄭鎮碩の親子、劉守鎬・劉承旼の親子、李重載・李鍾九の親子、柳致松・柳一鎬の親子、張聖万・張済元の親子、金鎮載・金世淵の親子、金尚栄・金星坤の親子、金相賢・金映豪の親子、盧承煥・盧雄来の親子、金哲・金ハンギルの親子、鄭雲甲・鄭宇沢の親子らがいた。

 ✔朝鮮民主主義人民共和国

 金日成、金正日、金正恩と、最高指導者の世襲が続いている。

 ✔台湾

 2016年の立法選挙では、365人の候補者のうち63人が政治家一族出身であり40人は元政治家の子供だった。
 台湾の22の市と郡の中で、政治的背景を持つ政治家の割合は24.6%だという。
 総統蔣経国の父親は蔣介石総統であり、蔣経国の孫の蔣万安も立法委員を務めている。

 ✔トルクメニスタン

 第2代大統領グルバングル・ベルディムハメドフは2022年に若者への権力委譲を理由に辞任し、同年の大統領選挙によって、息子のセルダル・ベルディムハメドフが大統領職に就任した。

 〔ウィキペディアより引用〕



言の葉辞典 『轍』①

2023-11-03 21:00:00 | 言の葉/慣用句

 ■『轍』①

 【読み方】

 音読み : てつ
 訓読み : わだち

 【意味】

 1 通りすぎた車輪の跡。わだち。
 「軌轍・車轍・転轍機」

 2 筋道。行き方。先例。

 ❐「轍を踏む」とは、

 先人のしたことをくり返す。
 また、前の人がおちいった失敗をくり返す。
 二の舞いを演ずる。前車の轍を踏む。

 逆に先例の意味もあり、“先例の通りのやり方”も含まれる為、「手本」という意味合いもあるそうです。

 さて、「先人」とは誰の事なのか。

 1.昔の人。前人。古人。
 例文「―の英知に学ぶ」

 2 亡父。または、祖先。

 という意味だそうです。

 さて、そういう“意味”踏まえて何を連想されるでしょうか?

 「師事」とは、また違った、定め(宿命)的の様な感覚でしょうか。

 “師事”の言葉の場合、リスペクトというイメージがありますが。

 師事とは

 師匠として尊敬し、直接教えを受けること。
 「師事する」のように、動詞として使うことが一般的です。

 「師事」の「師」には、「手本になる人」や「教えを導く人」という意味があります。
 そして「事」には、「ことがら」という意味の他に、実は、「仕える」という意味があるのです。この二つが組み合わさることで、「手本になる人の弟子となって、教えを受ける」という意味です。
 相手を「師」にしているため、「〜に師事する」は自分が尊敬している人やその道に秀でた人に教えてもらうときだけに使う言葉だそうです。 

 やはり「轍を踏む」の連想した言葉は跡取、二世タレント、世襲でしょうか。

 ここでひとつ、歌舞伎についてー。

 先ず、一般に歌舞伎界では“梨園”と言いますが、さて梨園とはどういう意味なのでしょう。

 梨園(りえん)とは中国・唐の宮廷音楽家養成所である。
 日本では転じて、一般社会の常識とかけ離れた特殊社会としての歌舞伎俳優の社会を指す。

 語の由来は、唐の玄宗の初年(712年)に、唐都長安西北郊の西内苑内で、芸人達を梨が植えられている梨園と称される庭園に集め、音楽教習府と呼ばれる施設で芸を磨いたことに始まる。
 音楽教習府には、太常寺太楽署所属の楽人で、坐部伎の楽人子弟、教坊の妓女、宮女の一部とが属した。
 玄宗の嗜好する法曲を、皇帝が直々に教えたため、皇帝梨園弟子と称された。

 さて、歌舞伎。

 日本の演劇で、伝統芸能の一つ。
 1603年(慶長8年)に京都で出雲阿国が始めたややこ踊り、かぶき踊り(踊念仏)「チンドン屋と起源は同じ」が始まりで江戸時代に発展し、女歌舞伎から若衆歌舞伎、野郎歌舞伎と風俗紊乱を理由とした規制により変化していった。

 ❖ 語 源 ❖

 歌舞伎という名称の由来は、「傾く(かたむく)」の古語にあたる「傾く(かぶく)」の連用形を名詞化した「かぶき」だと言われている。
 戦国時代の終わりから江戸時代初頭にかけて京で流行した、派手な衣装や一風変わった異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った。

 そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」が慶長年間(1596年 - 1615年)に京で一世を風靡し、これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっている。

 「かぶき踊り」は主に女性が踊っていたことから、「歌舞する女」の意味で「歌舞姫」「歌舞妃」「歌舞妓」などの表記が用いられたが、江戸を通じて主に用いられたのは「歌舞妓」であった。
 現在用いられる「歌舞伎」の表記も江戸時代に使われないことはなかったが、一般化したのは近代になってからである。

 なお、江戸時代には「歌舞伎」という名称は俗称であり、公的には「狂言」もしくは「狂言芝居」と呼ばれていた。
 また能もその一つである。

 因みに、「歌舞伎」「歌舞伎座」の商標は松竹が取得している。

 ❖ 歴 史 ❖

 草創期

 歌舞伎の元祖は、出雲阿国(いずものおくに)という女性が創始した「かぶき踊」であると言われている。
 「かふきをとり」という名称が初めて記録に現れるのは『慶長日件録』、慶長8年(1603年)5月6日の女院御所での芸能を記録したものである。
 阿国たちの一座が「かぶき踊」という名称で踊りはじめたのはこの日からそう遡らない時期であろうと考えられている。
 『当代記』によれば、阿国が踊ったのは傾き者が茶屋の女と戯れる場面を含んだものであった。
 ここでいう「茶屋」とはいわゆる色茶屋のことで、「茶屋の女」とはそこで客を取る遊女まがいの女のことである。
 後述するように、「かぶき踊」は遊女に広まっていくが、もともと阿国が演じていたものも上述したような性的な場面を含んだものであって、阿国自身が遊女的な側面を持っていた可能性も否定できない。

 『時慶卿記』の慶長5年(1600年)の条には、阿国が「ややこ踊」というものを踊っていたという記録があり、「かぶき踊」は「ややこ踊」から名称変更されたものだと考えられている。
 しかし内容面では両者は質的に異なったものであり、「ややこ踊」が可愛らしい少女の小歌踊であると考えられているのに対し、「かぶき踊」は前述のように傾き者の茶屋遊びという性的な場面を含んだものである。

 なお、この頃の歌舞伎は能舞台で演じられており、現在の歌舞伎座をはじめとする劇場で見られる花道はまだ設置されていなかった。

 「かぶき踊」が流行すると、当時数多くあった女性や少年の芸能集団が「かぶき」の看板を掲げるようになったとされる。
 そこには「ややこ踊」のような踊り主体のものもあれば、アクロバティックな軽業主体の座もあった。

 その後、「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、わずか10年あまりで全国に広まった。
 今日でも歌舞伎の重要要素のひとつである三味線が舞台で用いられるようになったのも、遊女歌舞伎においてである。
 当時最新の楽器である三味線を花形役者が弾き、50、60人の遊女を舞台へ登場させ、虎や豹の毛皮を使って豪奢な舞台を演出し、数万人もの見物を集めたという。

 ほかにも若衆(12歳から17、18歳の少年)の役者が演じる歌舞伎(若衆歌舞伎、わかしゅかぶき)が行われていた。男娼のことを陰間というのは「陰の間」の役者、つまり舞台に出ない修行中の役者の意味で、一般に男色を生業としていたことからも分かるように好色性を持ったものであった。
 全国に広まった遊女歌舞伎と違い、若衆歌舞伎の広がりは京・大坂・江戸の三大都市を中心とした都市部に限られていた。
 しかし、こうした遊女や若衆をめぐって武士同士の取り合いによる喧嘩や刃傷沙汰が絶えなかったため、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎は、幕府により禁止されることになった。
 遊女歌舞伎が禁止された時期に関して、従来の通説では寛永6年(1629年)であるとされていたが、全国に広まった遊女歌舞伎が一度の禁令でなくなるはずもなく、近年では10年あまりの歳月をかけて徐々に規制を強めていったと考えられている。
 それに対し、若衆歌舞伎は17世紀半ばまで人気を維持していたものの、こちらも禁止されてしまった。

 なお、古い解説書には、「若衆歌舞伎は遊女歌舞伎が禁止されたあとに作られたもの」だと書かれているものがあるが、これは後の研究で否定されており、実際には「かぶき踊」の最初の記録が残る慶長8年(1603年)には既に若衆歌舞伎の記録がある。
 また、こうした古い解説書では、若衆歌舞伎が禁止されたあと「物真似狂言づくし」にすることを条件に再興が認められ、野郎歌舞伎(役者全員が野郎頭の成年男子)へと発展していったという説明がなされることがあるが、現在では「物真似狂言づくし」を再興の条件としたことを否定するばかりでなく、野郎歌舞伎という時代を積極的には認めない説も存在する。

 元禄

 次の画期が元禄年間(1688~1704)にあたるとするのが定説である。
 歌舞伎研究では寛文・延宝の頃を最盛期とする歌舞伎を「野郎歌舞伎」と呼称し、この時代の狂言台本は伝わっていないものの、役柄の形成や演技類型の成立、続き狂言の創始や引幕の発生、野郎評判記の出版など、演劇としての飛躍が見られた時代と位置づけられている。
 この頃には「演劇」といっても憚りのないものになっていた。
 江戸四座のうち格段に早くに成立した猿若勘三郎座を除き、それ以外の三座が安定した興行を行えるようになったのも寛文・延宝の頃である。

 元禄年間を中心とする約50年間で、歌舞伎は飛躍的な発展を遂げ、この時期の歌舞伎は特に「元禄歌舞伎」と呼ばれている。
 この時期の特筆すべき役者として、荒事芸を演じて評判を得た江戸の初代市川團十郎と、「やつし事」を得意として評判を得た京の初代坂田藤十郎がいる。
 藤十郎の演技は、後に和事と呼ばれる芸脈の中に一部受け継がれ、後になって藤十郎は和事の祖と仰がれた。
 芳沢あやめ (初代)も京随一の若女形として評判を博した。

 なお藤十郎と團十郎がそれぞれ和事・荒事を創始したとする記述が散見されるが、藤十郎が和事を演じたという同時代記録はない。
 当時「やつし事」を得意としたのも藤十郎だけではない。
 また荒事の成立過程はよくわかっておらず、「団十郎が坂田金時役で荒事を創始した」「金平浄瑠璃を手本にした」といった俗説は現在では信じられていない。

 狂言作者の近松門左衛門もこの時代の人物で、初代藤十郎のために歌舞伎狂言を書いた。
 後に近松門左衛門は人形浄瑠璃にも多大な影響を与えたが、他の人形浄瑠璃作品と同様、彼の作品も後に歌舞伎に移され、今日においても上演され続けている。
 なお、今日では近松門左衛門は『曽根崎心中』などの世話物が著名であるが、当時人気があったのは時代物、特に『国性爺合戦』であり、『曽根崎心中』などは昭和になるまで再演されなかった。

 作品面では延宝8年(1680年)頃には基本となる7つの役柄がすべて出揃った。 
 すなわち立役、女方(若女方)、若衆方、親仁方(おやじがた、老年の善の立場の男性)、敵親仁方役、花車方(かしゃがた、年増から老年の女性)、道外方(どうけがた)である。

 また作品づくりにおいて、幕府からの禁令ゆえの制限ができた。
 正保元年(1644年)に当代の実在の人名を作品中で用いてはならないという法令ができ、元禄16年(1703年)には赤穂浪士の事件に絡んで(当時における)現代社会の異変を脚色することが禁じられたのである。
 これ以降、歌舞伎や人形浄瑠璃は、実在の人名を改変したり時代を変えたりするなど一種のごまかしをしながら現実を描くことを強いられることとなる。
 江戸では芝居小屋は次第に整理されていき、延宝の初め頃(1670年代)までには中村座・市村座・森田座・山村座の四座(江戸四座)のみが官許の芝居小屋として認められるようになり、正徳4年(1714年) に江島生島事件が原因で山村座が取り潰された。以降、江戸時代を通して、江戸では残りの三座(江戸三座)のみが官許の芝居小屋であり続けた。

 享保から寛政

 歌舞伎の舞台が発展し始めるのは享保年間からである。
 享保3年(1718年)、それまで晴天下で行われていた歌舞伎の舞台に屋根がつけられて全蓋式になる。
 これにより後年盛んになる宙乗りや暗闇の演出などが可能になった。
 また、享保年間には演技する場所として花道が使われるようになり、「せり上げ」が使われ始め、廻り舞台もおそらくこの時期に使われ始めた。
 宝暦年間の大坂では並木正三が廻り舞台を工夫し、現在のような地下で回す形にするなど、舞台機構の大胆な開発と工夫がなされ、歌舞伎ならではの舞台空間を駆使した演出が行われた。
 これらの工夫は江戸でも取り入れられた。
 こうして歌舞伎は花道によって他の演劇には見られないような二次元性(奥行き)を、迫りによって三次元性(高さ)を獲得し、廻り舞台によって場面の転換を図る高度な演劇へと発展した。

 作品面では18世紀から趣向取り・狂言取りの手法が本格化した。
 これらは17世紀の時点で既に行われていたが、当時は特定の役者が過去に評判を得た得意芸や場面のみを再演する程度だったのが、18世紀になると先行作品全体が趣向取り・狂言取りの対象になった。
 これは17世紀の狂言が役者の得意芸を中心に構成されていたのに対し、18世紀になると筋や演出の面白さが求められるようになったことによる。

 また、この頃になると人形浄瑠璃からも趣向取り・狂言取りが行われるようになり、義太夫狂言が誕生した。すなわち歌舞伎が人形浄瑠璃の影響を受けるようになったが、それ以前には逆に人形浄瑠璃が歌舞伎に影響を受けていた時期もあり、単純化すれば「歌舞伎→人形浄瑠璃→歌舞伎」という図式であった。

 延享年間にはいわゆる三大歌舞伎が書かれた。
 これらはいずれも人形浄瑠璃から移されたもので、三大歌舞伎にあたる『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』の(人形浄瑠璃としての)初演はそれぞれ延享3年(1746年)、4年(1747年)、5年(1748年)である。

 またそれから少し遡る享保16年(1731年)には初代瀬川菊之丞が能の道成寺に着想を得た『無間の鐘新道成寺』で成功を収め、これにより舞踊の新時代の幕開きを告げた。
 その後、道成寺を題材にした舞踊がいくつも作られ、宝暦3年(1753年)には今日でも上演される『京鹿子娘道成寺』が江戸で初演されている。
 なお当時の江戸はほかのどの土地にも増して舞踊が好まれており、上述の『無間の鐘新道成寺』や『京鹿子娘道成寺』があたりを取ったのはいずれも江戸の地であった。

 宝暦9年(1759年)、並木正三が『大坂神事揃(おおさかまつりぞろえ)』で「愛想尽かし」を確立した。
 これは女が諸般の事情で心ならずも男と縁を切らねばならなくなり、それを人前で宣言すると、男はそれを真に受けて怒る場面である。
 その後、男が女を殺す場面につながることが多い。

 文化から幕末

 これまで歌舞伎の中心地は京・大坂であったが、文化・文政時代になると、四代目鶴屋南北が『東海道四谷怪談』(四谷怪談)や『於染久松色読販』(お染の七役)など、江戸で多くの作品を創作し、江戸歌舞伎のひとつの全盛期が到来する。南北はまた生世話(侠客や相撲取りの意地の張り合いや心中事件などを扱う狂言)を確立して評判を得た。

 天保3年(1832年)には五代目市川海老蔵(後の七代目市川團十郎)が歌舞伎十八番の原型となる「歌舞妓狂言組十八番」として18の演目を明記した刷り物を贔屓客に配り、天保11年(1840年)に 松羽目物の嚆矢となった『勧進帳』を初演した際に現在の歌舞伎十八番に固定した。

 その後、大南北や人気役者の死去と天保の改革による弾圧が重なり、歌舞伎は一時大きく退潮した。天保の改革の影響は大きく、天保13年(1842年)に七代目市川團十郎が奢侈を理由に江戸所払いになったり、役者の交際範囲や外出時の装いを限定されたりと、弾圧に近い統制がなされたばかりか、堺町・葺屋町・木挽町に散在していた江戸三座と操り人形の薩摩座・結城座が一括して外堀の外に移転させられた。
 移転先の聖天町は江戸における芝居小屋の草分けである猿若勘三郎の名にちなんで猿若町(さるわかまち)と改名された。

 しかし、江戸三座が猿若町という芝居町に集約されたことで逆に役者の貸し借りが容易となり、また江戸市中では時折悩まされた火事延焼による被害も減ったため、歌舞伎興行は安定を見せ、これが結果的に江戸歌舞伎の黄金時代となって開花した。

 幕末から明治の初めにかけては、二代目河竹新七(黙阿弥)が『小袖曾我薊色縫』(十六夜清心)、『三人吉三廓初買』(三人吉三)、『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)、『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)、『天衣紛上野初花』(河内山)などの名作を次々に世に送り出し、これが明治歌舞伎の全盛へとつながった。

 江戸時代、歌舞伎役者らは伝統的に「河原者」(賎民)として身分上は差別されたとされる。

 明治から昭和初期

 明治に入ると新時代の世相を取り入れた演目(散切物、ざんぎりもの)が作られた。
 これは明治の時代背景を描写し、洋風の物や語を前面に押し出して書かれていたが、構成や演出は従来の世話物の域を出るものではなく、革新的な演劇というよりは、むしろ流行を追随したかたちの生世話物といえる。
 しかし明治5年(1872年)になると歌舞伎の価値観を根底から揺るがす要求が明治政府から出された。政府はこの年から歌舞伎に対して干渉しはじめ、「高い身分の方や外国人」が見るにふさわしいものを演じること、狂言綺語(作り話)を廃止することなどを要求したのである。
 江戸時代にはむしろ現実そのままに書くことを禁じられていた歌舞伎にとって「狂言綺語」は長きにわたって大切にしてきた価値観であり、政府の要求は江戸歌舞伎の持つ虚の価値観を全面否定するものであった。

 1886年(明治19年)には「日本が欧米の先進国に肩を並べうる文明国であることを顕示する目的で演劇改良会が設立され、政治家、実業家、学者、ジャーナリストらが参加した。
 翌年には、演劇改良会は歌舞伎誕生以来初となる天皇による歌舞伎鑑賞(天覧歌舞伎)を実現させ、役者たちの社会的地位の向上を助けるきっかけとなった。
 時代は前後するが、こうした要求に応じて作られたのが活歴物と呼ばれる一連の作品群であり、役者として活歴物の芝居の中心となったのが九代目市川團十郎である。
 芝居の価値観が政府のそれと一致していた團十郎は事実に即した演劇を演じ始め、彼の価値観に反した歌舞伎の特徴、たとえば七五調の美文、厚化粧、定型の動きを拒否した。
 それに対して團十郎が工夫した表現技法がいわゆる「腹芸」[33]で、セリフと動きを極力減らし、「目と顔」による表現で演じ始めた。

 こうした團十郎の芸は高く評価されながらも、活歴をよしとするのは一部の上流知識人のみで、世間の人はその芝居らしくない活歴には背を向けたが、團十郎の演技志向に対する共感は次第に広がっていった。
 しかし日清戦争前後の復古主義の風潮の中で團十郎は従来の狂言を演じるようになり、猥雑すぎるところ、倫理にもとるところ以外には手を入れないほうがよいと考えるようになった。
 それでもなお芝居が完全に旧来に復したわけではなく、創造方法において活歴の影響を受けたものであった。
 こうして團十郎の人物造形が従来の歌舞伎にも適応され、それが今日の歌舞伎の演技の基礎になっていったことが活歴の歴史的意義である。

 劇場の面では、1889年(明治22年)に演劇改良会の会員であった福地桜痴が金融業者の千葉勝五郎と共同経営で歌舞伎座を設立。
 歌舞伎座には九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次らの名優が舞台に立ち、いわゆる「團菊左」の時代をもたらした。
 その後、経営者の内紛を得て、1913年(大正2年)に今日の経営母体である松竹が歌舞伎座を買収した。

 歌舞伎座は歌舞伎の歴史に様々な影響を与え、歌舞伎座とともに歌舞伎座を本拠とする九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎を頂点として、役者集団の階層性が定まった。
 他にも歌舞伎の中央集権化、改良演劇の確立、歌舞伎演出の様式美化の促進といった影響があったことが指摘されている。

 一方の江戸三座は、歌舞伎座設立時に千歳座(後の明治座)と組んで歌舞伎座に対抗(四座同盟)するなどした。
 また大正の頃の市村座では、六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門が菊吉時代・二長町時代と呼ばれる時代を築いた。
 しかしこれが江戸三座の放った最後の輝きであった。
 江戸三座は失火等で順に廃座になっていき、1932年(昭和7年)に市村座の仮小屋が焼失したのを最後に江戸三座は潰えた。

 19世紀末になると、新歌舞伎という新たな歌舞伎狂言が登場した。
 これは「近代的な背景画や舞台照明」の採用、劇界外部の作者の作品や翻訳劇の上演、「新しい観客の掘り起こし」によって成立した、「近代の知性・感性に訴える歌舞伎」である。
 松井松葉の『悪源太』(明治38年・1899年)や坪内逍遥の『桐一葉』(明治43年・1904年)を皮切りに、以後さまざまな背景を持つ作者によって数々の作品が書かれた。
 それまでは各劇場に所属する座付きの狂言作者が、立作者を中心に共同作業で狂言をこしらえていたが、次第に外部の劇作家の作品が上演されるようになったのである。
 これが「黄金時代」と呼ばれた明治後期から大正にかけての東京歌舞伎によりいっそうの厚みを与えることにつながった。
 ほかにも岡本綺堂の『修禅寺物語』『鳥辺山心中』、真山青果の『元禄忠臣蔵』十部作などが著名である。
 その一方では、従前からの梨園の封建的なあり方に疑問を呈する形で二代目市川猿之助の春秋座結成に始まり、ついに梨園での封建的な部分に反発して1931年(昭和6年)には四代目河原崎長十郎、三代目中村翫右衛門、六代目河原崎國太郎らによる前進座が設立された。

 第二次大戦後

 第二次世界大戦の激化にともない、劇場の閉鎖や上演演目の制限など規制が行われた。
 戦災による物的・人的な被害も多く、歌舞伎の興行も困難になった。
 終戦後、GHQは日本の民主化と軍国主義化の払拭との理由から「仇討ち物」や「身分社会を肯定する」の演目の上演を禁止した。
 1945年(昭和20年)11月15日、GHQは東京劇場上演中の「菅原伝授手習鑑」寺子屋の段を反民主主義的として中止命令を出し、11月20日に上演中止となった。
 松竹本社ではGHQの指導方針に即して自主的に脚本の再検討を行った結果、『忠臣蔵』『千代萩』『寺子屋』『水戸黄門記』『番町皿屋敷』などの演目を締め出すこととした。
 しかし、マッカーサーの副官バワーズの進言で、古典的な演目の制限が解除され、1947年(昭和22年)11月、東京劇場で東西役者総出演による『仮名手本忠臣蔵』の通し興行が行われた。
 1950年代には人々の暮らしにも余裕が生まれ、娯楽も多様化し始めた。
 1953年(昭和28年)2月1日、NHKテレビジョンの放送開始により日本のテレビ放送が開始された。
 同日、同局が日本のテレビ史初の番組として放映したのが歌舞伎番組『道行初音旅』であった。
 一方でテレビ時代とともにプロ野球やレジャー産業の人気上昇、映画や放送の発達が見られるようになり、歌舞伎が従来のように娯楽の中心ではなくなってきた。
 そして歌舞伎役者の映画界入り、関西歌舞伎の不振、小芝居が姿を消すなど歌舞伎の社会にも変動の時代が始まった。

 そのような社会の変動の中、1962年(昭和37年)の十一代目市川團十郎襲名から、歌舞伎は人気を回復した。
 役者も團十郎のほか、六代目中村歌右衛門、二代目尾上松緑、二代目中村鴈治郎、十七代目中村勘三郎、七代目尾上梅幸、八代目松本幸四郎、十三代目片岡仁左衛門、十七代目市村羽左衛門などの人材が活躍。
 日本国内の興行も盛んとなり、欧米諸国での海外公演も行われた。
 戦後の全盛期を迎えた1960年代から1970年代には次々と新しい動きが起こった。
 特に明治以降、軽視されがちだった歌舞伎本来の様式が重要だという認識が広がった。
 1965年(昭和40年)に芸能としての歌舞伎が重要無形文化財に指定され[注釈、国立劇場が開場し、復活狂言の通し上演などの興行が成功した。
 国立劇場は高校生のための歌舞伎教室を盛んに開催して、数十年後の歌舞伎ファンの創出に努めた。
 その後、大阪には映画館を改装した大阪松竹座、福岡には博多座が開場し、歌舞伎の興行はさらに充実さを増した。
 さらに、三代目市川猿之助は復活狂言を精力的に上演し、その中では一時は蔑まれた外連の要素が復活された。
 猿之助はさらに演劇形式としての歌舞伎を模索し、より大胆な演出を強調した「スーパー歌舞伎」を創り出した。
 また2000年代では、十八代目中村勘三郎によるコクーン歌舞伎、平成中村座の公演、四代目坂田藤十郎らによる関西歌舞伎の復興などが目を引くようになった。
 また歌舞伎の演出にも蜷川幸雄や野田秀樹といった現代劇の演出家が迎えられるなど、新しい形の歌舞伎を模索する動きが盛んになっている現代の歌舞伎公演は、劇場設備などをとっても、江戸時代のそれとまったく同じではない。
 その中で長い伝統を持つ歌舞伎の演劇様式を核に据えながら、現代的な演劇として上演する試みが続いている。
 このような公演活動を通じて、歌舞伎は現代に生きる伝統芸能としての評価を得るに至っている。

 歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は、ユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前の2005年(平成17年)に「傑作の宣言」がなされ、「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、無形文化遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年(平成21年)9月の第1回登録で正式に登録された。

 〔ウィキペディアより引用〕



世界の女傑たち Vol.007

2023-11-02 21:00:00 | 自由研究

 ■マザー・テレサ

 マザー・テレサ(Mother Teresa)  
 (1910年8月26日〜1997年9月5日)、あるいはコルカタの聖テレサ(Saint Teresa of Calcutta)

 カトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者。
 またカトリック教会の聖人である。
 本名はアルーマニア語でアグネサ/アンティゴナ・ゴンジャ・ボヤジ(Agnesa/Antigona Gongea Boiagi)、アルバニア語でアニェゼ/アグネス・ゴンジャ・ボヤジウ(Anjezë/Agnès Gonxha Bojaxhiu)。

 「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」は彼女の敬愛したリジューのテレーズにちなんだ修道名である。
 コルカタ(カルカッタ)で始まったテレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められている。
 生前からその活動は高く評価され、1973年のテンプルトン賞、1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラト・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)、1983年にエリザベス2世から優秀修道会賞など多くの賞を受けた。
 1996年にはアメリカ合衆国史上5人目の名誉市民に選ばれている。
 ただし、生前からの批判も多い。
 その批判については、この項目の「批判」あるいは、マザー・テレサに対する批判を後述することにする。

 《生涯》

 ▼生い立ち

 マザー・テレサことアグネス・ゴンジャ・ボヤジュは1910年8月26日、コソボ州・ユスキュプ(今の北マケドニア共和国・スコピエ)に生まれた。
 翌27日は彼女が幼児洗礼を受けたキリスト教徒としての誕生日である。
 母のドラナ(Drana)はアルバニア人であったが、父のニコ(Nikollë)はルーマニア人と同系の少数民族・アルーマニア人であった。
 父は地元の名士であり手広く事業を営む実業家で、アルバニア独立運動の闘士でもあったが、1919年に45歳で急死した(政敵による毒殺説もある)。
 彼女は3人きょうだいの末っ子で、6歳年上の姉と3歳年上の兄がいた。
 姉や兄からは「ゴンジャ」(アルバニア語で「花のつぼみ」「小さな花」の意)と呼ばれていた。
 両親はマケドニア地方に住むカトリック教徒であったが、アルバニア人にはイスラム教徒が多く、マケドニア地方には正教徒が多かったことを考えると珍しい家族であった。
 一家は裕福であったが父母は信仰心に篤く、貧しい人への施しを積極的に行っていた。
 アグネスの幼少時代についての記録はほとんどないが、小さいころから聡明な子で、12歳のときには、将来インドで修道女として働きたいという望みを持っていたといわれる。

 ▼カルカッタの修道女

 18歳のとき、聖座の許可を得たアグネスは故郷のスコピエを離れ、アイルランドでロレト修道女会に入った。
 ロレト修道女会は女子教育に力を入れている修道会であった。
 アグネスはダブリンで基礎教育を受けると修練女として1931年にインドのダージリンに赴いた。
 初誓願のときに選んだ修道名がテレサであった。
 この名前はリジューのテレーズから取られている。
 1937年に終生誓願を宣立し、以後シスター・テレサとよばれることになった。
 1929年から1947年までテレサはカルカッタ(現在のコルカタ)の聖マリア学院で、地理と歴史を教えていた。
 彼女は子どものころから地理が好きで、また、ユーモラスな彼女の授業は学院の女学生たちの間で大変人気があったという。
 1944年には校長に任命されている。
 上流階級の子女の教育にあたりながら、テレサの目にはいつもカルカッタの貧しい人々の姿が映っていた。
 彼女自身の言葉によると1946年の9月、年に一度の黙想を行うため、ダージリンに向かう汽車に乗っていた際に「すべてを捨て、もっとも貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたという。
 彼女は修道院を離れて活動を行う許可を求めたが、バチカンの修道会管轄庁などカトリック教会の上層部は慎重に評価を行おうとし、すぐには彼女の活動に対する認可を与えなかった。
 それでもテレサは自分の信じる道を進もうと決意していた。
 1948年、ようやく教皇ピウス12世からの修道院外居住の特別許可が得られた。
 テレサは修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入っていった。
 彼女はインド女性の着る質素なサリーを身にまとい、手始めに学校に行けないホームレスの子供たちを集めて街頭での無料授業を行うようになった。
 やがて彼女のもとに聖マリア学院時代の教え子たちがボランティアとして集まり始め、教会や地域の名士たちからの寄付が寄せられるようになる。

 ▼神の愛の宣教者会の創立

 「神の愛の宣教者会」は、1950年10月7日に教皇庁(ローマ教皇庁)によって認可を受け創立され、1965年2月1日には教皇庁立の修道会の認可を受ける。
 テレサによれば、同会の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことであった。
 テレサは修道会のリーダーとして「マザー」と呼ばれるようになる。
 インド政府の協力でヒンズー教の廃寺院を譲り受けたテレサは「死を待つ人々の家」というホスピスを開設した。
 以降、ホスピスや児童養護施設を開設していく。
 活動の初期のころは、地元住民たちはホスピスに所属している者をキリスト教に改宗させようとしているという疑念を抱いていた。
 しかし、彼女たちはケアする相手の宗教を尊重する姿勢を貫き、亡くなった者に対してはその者の宗教で看取っていた(ヒンズー教徒にはガンジス川の水を口に含ませてやり、イスラム教徒にはクルアーンを読んで聞かせた)。
 ケアする相手の状態や宗派を問わないテレサたちの活動は世界から関心を持たれ、多くの援助が集まった。
 1960年代までに「神の愛の宣教者会」の活動はインド全土に及ぶようになった。
 さらに1965年以降、教皇パウロ6世の許可によってインド国外での活動が可能になった。インド以外で初めて宣教女が派遣されたのは南米ベネズエラのココロテ市であった。
 以後、修道会は全世界規模で貧しい人々のために活躍するようになった。

 テレサの活動はカトリック教会全体に刺激を与え、男子修道会「神の愛の宣教者修道士会」(1963年)、「神の愛の宣教者信徒会」などが次々に設立されていった。
 1969年、マルコム・マッグリッジによるBBCのTVドキュメンタリー映画『すばらしいことを神様のために(Something Beautiful for God)』および同名の書籍によって、テレサの活動はイギリスのみならず全世界で知られるようになった。 
 この作品の取材をする中でマッグリッジはテレサの姿に強い感銘を受け、のちにカトリック教徒になっている。
 1971年、教皇パウロ6世は、自らが制定した勲章「ヨハネ23世教皇平和賞」の最初の受章者としてテレサを選んだ。これを皮切りに多くの賞がテレサに与えられることになる。ケネディ賞(1971年)、アルベルト・シュバイツアー賞(1975年)、アメリカ合衆国大統領自由勲章(1985年)、アメリカ合衆国名誉市民(1996年)、議会名誉黄金勲章(1997年)、これらに加えて数多くの大学の名誉学位を受けた。
 アメリカ合衆国名誉市民としては5人目(存命中はチャーチルに次いで2人目)、またアメリカやその同盟国の政治家・軍人以外としては初めての授与である。
 こういった賞の中でもっとも有名なものは、もちろん1979年に受けたノーベル平和賞であろう。
 テレサは授賞式の際にも特別な正装はせず、普段と同じく白い木綿のサリーと革製のサンダルという粗末な身なりで出席した。
 賞金19万2,000ドルはすべてカルカッタの貧しい人々のために使われることになった上、授賞式の場においては「私のための晩餐会は不要です。
 その費用はどうか貧しい人々のためにお使い下さい」とも要望した。
 賞金を受け取ったとき「このお金でいくつのパンが買えますか」と言ったという。インタビューの中で「世界平和のために私たちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられたテレサの答えはシンプルなものであった。
 「家に帰って家族を愛してあげてください」。
 1982年にはテレサはイスラエルとパレスティナの高官にかけあって武力衝突を一時休止させ、戦火の中で身動きがとれなくなっていたベイルートの病院の患者たちを救出している。

 ▼晩年と死

 1983年、高齢のテレサは当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世との会見のために訪れたローマで心臓発作に見舞われた。1989年にはペースメーカーをつけた。1990年、テレサは健康状態を理由に総長の辞任を申し出たが、会員たちの強い希望により再び総長に選出される。
 1991年、優れない健康状態を押して故郷アルバニアに最初の支部を設立している。これはテレサの念願であった。
 1993年5月、テレサは転倒して首の骨にひびが入り、8月にはマラリアに罹患した。9月にはカルカッタで心臓病の手術を受けた。
 1997年3月、体力の限界を感じ総長職を辞任。
 1997年9月5日、世界が見守る中、テレサはカルカッタのマザー・ハウスにて逝去。
 満87歳没。 テレサが亡くなった1997年には「神の愛の宣教者会」のメンバーは4,000人を数え、123か国・610か所で活動を行っていた。
 活動内容はホスピス、HIV患者のための家、ハンセン病者のための施設(平和の村)、炊き出し施設、児童養護施設、学校などである。
 宗派を問わずにすべての貧しい人のために働いたテレサの葬儀は、1997年9月13日にインド政府によって国葬として荘厳に行われた。
 その葬儀には各宗教の代表者が参列し、宗教の枠を超えて尊敬されたことを象徴するものとなった。
 マザーの棺は陸軍兵によって砲車に乗せられ、国葬会場まで行進した。
 独立の父マハトマ・ガンジー、初代ネール首相につづき、マザー・テレサは3人目であった。
 遺体はテレサの遺言どおり「神の愛の宣教者会」本部に葬られた。
 彼女の死は国家的な損失であるとインドの人々は嘆き、世界の人々も彼女の偉大な働きを思って追悼した。
 インドの政治指導者や首相以外で国葬されたのは彼女と2011年4月に死去したサティヤ・サイ・ババのみである。

 ▼列福までの道のり

 1997年、テレサの死後すみやかに列福・列聖調査がはじめられた。通常は死後5年を経ないと始めることはできない規定だが、テレサの場合は生前から聖女の誉れが高かったことと、彼女の業績を極めて高く評価していたヨハネ・パウロ2世が前倒しを強く求めたため、例外的に5年を待たずに始められたのである(この例外は、2005年4月に逝去した当時の教皇ヨハネ・パウロ2世自身にも適用された)。
 マザーの列福のために報告され、後日、奇跡として認められた事例に、非カトリックのインド人女性モニカ・ベスラの治癒がある。
 1998年、モニカは34歳の時、腹部の腫瘍を患い病んでいた。
 すぐに手術しなくてはならない危険な状態であったが、ひどい貧血症も患っていたために手術は不可能であった。
 彼女はマザー・テレサの死去した翌年の9月6日に、神の愛の宣教者会が経営する「死に行く人のための家」の礼拝堂に赴いた。
 「礼拝堂に入ると、マザー・テレサの写真が目に入り、あたかも一条の光が私に向って飛び出してくるように感じました。
 シスターが私のためにお祈りをしてくれて、私は眠りにつきました。
 朝、目覚めると、腫瘍が消えていたのです。」とモニカは語っている。
 その突然の完全な治癒は医師たちを驚かせ、その後にその医師たちは自分たちの診断が間違っていなかった事を示すためのあらゆる必要な証拠を提出した。
 治癒のあとで、腫瘍を検査するためにした小さな外科手術の跡さえも見つからなかった。
 立ち会った医師は「これは私の医師としての人生で出会ったもっともすばらしい経験の一つです」と言う。
 西ベンガル州シリグリのR.N .Bhattacharya医師は、腫瘍は7か月の胎児と同じ大きさだったと証言する。
 列福のための正式な手続きは、2001年の8月にカルカッタ(現・コルカタ)司教区の特別委員会が報告書を取りまとめ、ローマ教皇庁列聖省に提出している。
 この報告書は重病や貧困に苦しむ人々に対するマザーの献身的活動や、列福に値することを示すため、マザーに対するとりなしの祈りによる奇跡的行為なども盛り込まれており、ページ数は35,000ページにも及ぶ。

 列福・列聖には通常、対象者の死後数十年かかるが、マザーの献身的活動が生前から世界中の尊敬を集めてきたことなどにより、1999年、ヨハネ・パウロ2世は手続きを早める特例を認めた。
 2003年10月19日、ヨハネ・パウロ2世はテレサを列福し、福者であると宣言した。
 通常は本人の死後、福者の認定を受けるまで少なくとも数十年の審査が必要とされている現状を考えれば、死後6年での列福というのは異例の早さであった。

 ▼列聖への道のり

 2015年12月17日、ローマ教皇庁はフランシスコがテレサの二度目の奇跡を承認したと発表した。
 2008年、脳腫瘍を患い危篤状態だったブラジル人男性がテレサのとりなしによって回復された事例が奇跡と認定された。
 2016年9月4日、フランシスコはテレサを列聖し、「聖人である」と宣言した。
 この日はテレサの死後、満19年目を迎える前日であった。

 《マザー・テレサに対する批判》

 マザー・テレサに対する批判(マザー・テレサにたいするひはん)では、カトリック教会の修道女であり伝道師であったマザー・テレサに対する批判。

 マザー・テレサは45年以上の長きにわたり、貧しい人、病める人、孤児、末期の人たちのために尽くしてきただけでなく、インドから世界中に広がった彼女の信徒たちを導いてきた。
 1979年にはノーベル平和賞を受賞し、1997年に亡くなると、ヨハネ・パウロ2世がテレサを列福し、2016年9月にフランシスコによって列聖されて聖人となり、彼女の命日である9月5日は祝日となった。
 世界中の人々から讃えられ、各国の政府や組織から称賛を受けたマザー・テレサだが、彼女に対しては生前から批判や告発、抗議の声も少なくなかった。
 その矛先は例えば彼女の修道会の資金管理であり、末期の人への洗礼の奨励や医療ケアのクオリティ、そして植民地主義やレイシズムのアイコンとなっていることであった。

 テレサの施設「死を待つ人々の家」の医療水準の低さ、用途不明の資金、問題人物との交際などマザー・テレサの人格を疑問視する声は多い。
 イギリス人ジャーナリストのクリストファー・ヒッチェンズは1995年に『宣教師の立場』を刊行し、その中でマザー・テレサをきわめて否定的に扱った。
 またリチャード・ドーキンスは『神は妄想である』の中で、『宣教師の立場』の題を挙げてマザー・テレサを「彼女は聖人ではない」と批判した。
 インド出身のアソシエイトエディター、クリティカ・ヴァラグールは2016年4月に『ハフィントン・ポスト』アメリカ版でマザー・テレサを批判した。
 「『特別で優秀な白人が有色人種を助けるのだ』というイメージをインド人や西洋人に植えつけた」と主張し、「マザー・テレサの崇高なイメージは、脆弱化したカトリック教会によって行われたメディア・キャンペーンの結果である」と述べている。

 関連項目 ー 国際連合児童基金 ー

 国際連合児童基金(こくさいれんごうじどうききん)
 (英: United Nations Children's Fund)

 1946年12月11日に設立された国際連合総会の補助機関。


 当初は、国際連合国際児童緊急基金(こくさいれんごうこくさいじどうきんきゅうききん、英: United Nations International Children's Emergency Fund)と称して戦後の緊急援助のうち子供を主に対象とした活動であった。
 略称は UNICEF(ユニセフ)。
 1949年から1964年にかけて、主に脱脂粉乳や医薬品、原綿などの援助を受けた当時は日本も主要な被援助国の一つであった。
 緊急援助が行き渡るのにしたがって、次第に活動範囲を広げて1953年に正式名称が現在のものに変更された(略称はUNICEFのまま)。
 開発途上国・戦争や内戦で被害を受けている国の子供の支援を活動の中心としている他、「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」の普及活動にも努めている。
 かつては、物資の援助中心の活動であったUNICEFであるが、生活の自立がなければ無限に援助しても状況は変わらないとの発想の元、親に対する栄養知識の普及などの啓発活動にも力を入れている。

 《ユニセフの組織》

 UNICEFは、支部に相当する「事務所(UNICEF offices)」、すなわち途上国に存在して実際の支援に当たる「現地事務所(Field Offices)」と、世界の7つの地域(広域、リージョン)に存在する「地域事務所(Regional Offices)」、これらを統括する「本部(headquarters)」、そして先進国に存在してUNICEF本体を支える「国内委員会(National Committees)」とで構成されている。

 ▼本部

 執行理事会は36ヶ国の政府代表で構成される。
 委員は国連の経済社会理事会で選出され、任期は3年。
 主な業務は次のとおり。 基本方針、援助計画、予算の審議及び承認。
 なお、ユニセフの実質的な本部機能はニューヨークにあるが、現地政府・現地事務所・現地の国内委員会とも交渉する必要性から、以下の組織はあくまでニューヨーク本部と同じ、ユニセフ「本部」とされている。

 ▼ユニセフ本部(ニューヨーク)

 ニューヨークに存在する。
 ユニセフの本部機能を持ち、主な業務は次のとおり。

 ・基本方針、開発戦略、各援助事業方針の作成

 ・現地事務所との連絡及び調整。

 ▼ユニセフ・ヨーロッパ事務所

 ジュネーヴに存在する。
 主な業務は次のとおり。

 ・ヨーロッパ各国の国内委員会との接渉。

 ▼ユニセフ物資供給センター

 所在地はコペンハーゲン。
 正式には United Nations Procurement and Assembly Center(UNIPAC)という。
 主な業務は物資の買い付け・保管・発送業務等である。
 車両等の大型機材や食料などのほか、ワクチン等医療用品の大型保冷施設を持つ。

 ▼イノチェンティ研究所

 フィレンツェに存在する。
 ユニセフの情報センター的役割を担う。
 主な業務は次のとおり、世界の子どもの状況把握。

 ▼ユニセフ東京事務所

 東京都渋谷区にあるUNハウス内にある。

 日本ユニセフ協会とは「UNICEF in JAPAN」としてFacebookやTwitterなど協力関係が大きいが、別の組織である。
 ユニセフ東京事務所 「日本・韓国」兼任代表の執務室が置かれている。
 主な業務は日本政府と韓国政府からの資金調達だが、その他には次のとおり。

 ・「子どもの権利条約」、「ミレニアム開発目標」、「ユニセフ中期戦略計画(2006-2009)」を枠組みとした、感染症対策・母と子の保健改善・教育・社会開発など分野での日本のODAとユニセフの連携促進。

 ・研究機関、学術団体、NGOとのパートナーシップ強化とプロジェクト支援。

 ・セミナーやワークショップなどの啓発活動。

 ・超党派の国会議員で構成されるユニセフ議員連盟のアドボカシー活動への協力。

 ・日本と韓国の政府間及び日本ユニセフと韓国ユニセフとの中継ぎ。

 ・民間からの募金については、ユニセフ東京事務所ではなく、日本ユニセフ協会で受け付けている旨を紹介。

 ▼地域事務所

 世界7つの地域に存在し、管轄地域にあるユニセフ現地事務所の業務を支えている。

 ▼ユニセフ現地事務所

 155の国と地域に存在する。
 国際職員と国内職員で構成される。
 主な業務は次のとおり。

 ・現地状況を調査する。
 ・国、地域別の援助計画・予算の立案。
 ・援助計画の実施・モニタリング・評価。

 ▼ユニセフ国内委員会

 先進国では、現地の子どもたちを支援するための、現地支部としての事務所は設置されない。
 その代わりに、上述のヨーロッパ事務所や東京事務所など、現地の政府からの支援を募ったり、今後の計画を決めるための事務所がユニセフ本部としていくつか設置されているほかに、現地の民間人からの支援を募る「ユニセフ国内委員会」が民間団体(NGO)として各国に設置されている。
 ユニセフ国内委員会は「ユニセフ(国際連合児童基金)」の組織の一部とされているが、あくまで国連機関であるUNICEF本体とは協力協定を結んでいるだけで、全く別の民間団体(NGO)として、各国内で取りまとめた支援をUNICEF本体に送ったりする活動を通じて、途上国におけるUNICEF本体の活動を支えているのが、UNICEFの組織の特徴である。

     〔ウィキペディアより引用〕