CTNRXの日日是好日

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

落語読本 らくごの一文 基本④

2023-05-03 21:00:00 | 出来事/備忘録

 ■江戸落語の隆盛

 19世紀前葉の文化・文政年間(1804年〜1830年)には娯楽としての江戸落語が隆盛を極め、文政末期には江戸に125軒もの寄席があったといわれる。そうしたなか、花形落語家として後世に名をのこす名人が何人かあらわれた。役者の身振りをまねるのが得意だった初代三遊亭圓生は、鳴り物を入れて、芝居がかりとなる芝居噺を始めた。また、武士出身で浄瑠璃音楽のひとつ「常磐津」の太夫となった初代船遊亭扇橋は、落語に転身したのちも浄瑠璃のいろいろな節調を語り分けるのが巧みなところから、音曲噺を始めた。さらに、初代林屋正蔵は、仕掛けや人形を用いる怪談噺を始め、「怪談の正蔵」と称されて人気を博した。圓生・扇橋・正蔵はいずれも、上述した初代可楽の弟子であった経歴を有しており、かれらもまた多数の門人を育てた。同じ可楽門下で「可楽十哲」のひとりといわれる初代朝寝房夢羅久は人情噺を初めて演じたといわれている。 現代では「色もの」といわれる各種の演芸もさかんになった。音曲を得意とした初代扇橋の弟子であった都々一坊扇歌(初代)は、三味線を弾きながら都々逸を歌い、人気を博した。また、可楽門下の三笑亭可上は、さまざまな表情を描いた目の部分だけの仮面をかけて人物を描き分ける「百眼(ひゃくまなこ)」という芸を披露した。 ところが水野忠邦による天保の改革の一環として風俗取締令が発せられ、200軒以上に増えていた江戸の寄席が15軒に激減した。水野失脚後は禁令がゆるみ、開国期にあたる安政年間(1854年- 1860年)には江戸市中の寄席は170軒におよんだ。

 ■幕末から明治へ

 幕末から明治にかけて活躍した三遊亭圓朝は歴史的な名人として知られ、圓朝の高座を書き記した速記本は当時の文学、特に言文一致の文章の成立に大きな影響を与えた。 寄席にも近代化の波が押し寄せた。1876年(明治9年)4月、東京府権知事楠本正隆の名で、諸芸人に対し鑑札を発行し、税金を課すことを布告。これにより芸界の統一も不可欠となり、芸人仲間のうちで人望と実力のある三遊亭圓朝、3代目麗々亭柳橋、6代目桂文治の3人が頭取として選ばれ、かれらが交代で月番で責任を負うシステムが作られた。くじ売りの禁止、シモがかったネタの制限など、警察による寄席の取締も徐々に厳しくなり、高座は健全化されていった。 上方では桂派と三友派とがしのぎを削り、初代桂文團治・2代目桂文枝・3代目笑福亭松鶴ら名人上手が輩出した。 1903年(明治36年)には初めて落語のレコード録音がなされた。速記本とレコード落語の流布は、気軽に寄席に通えない人びとが気軽に落語を楽しむことを可能にした。

   〔ウィキペディアより引用〕



最新の画像もっと見る

コメントを投稿