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落語読本 らくごの一文 基本③

2023-05-02 21:00:00 | 出来事/備忘録

 ■寄席の成立
 
 東京における代表的な寄席の一つ・新宿末廣亭 上方における唯一の定席・天満天神繁昌亭 18世紀後半になると、上方では雑俳や仮名草子に関わる人々が「咄(はなし)」を集め始めた。
上方における唯一の定席・天満天神繁昌亭
 幕臣であった木室七右衛門(白鯉館卯雲)は京はじめ各地で滑稽な話を収集して、狂歌師としてばかりではなく噺本作者としても活動し、広敷の番頭にまで出世した。 こうしたなか、天明(1781年 - 1789年)から寛政年間(1789年 - 1801年)にかけて、江戸では再び落語の流行がみられた。大工職人を本業としながらも、狂歌師や戯作者としても活躍した烏亭焉馬(初代)は天明6年(1786年)、江戸で新作落とし噺の会を主催して好評を博した。その後、料理屋の2階などを会場として定期的に開かれるようになり、江戸噺は活況を呈するようになった。焉馬はこれにより江戸落語中興の祖と称される。

東京における代表的な寄席の一つ・新宿末廣亭

 寛政に入ると、大都市となった江戸では浄瑠璃や小唄・軍書読み・説教などが流行し、聴衆を集めて席料をとるようになった。これは「寄せ場」「寄せ」と称され、現在の寄席の原型となった。寛政3年(1791年)に大坂の岡本万作が江戸におもむき、神田に寄席の看板をかかげて江戸で初めて寄席興行をおこない、寄席色物が登場した。落とし噺の分野では、寛政10年(1798年)、江戸の櫛職人だった初代三笑亭可楽が下谷(現台東区)で寄席をひらいた。 可楽の寄席興行そのものは必ずしも成功しなかったが、「謎解き」や、客が出した3つの言葉を噺の中にすべて登場させて一席にまとめる「三題噺」、さらに線香が1分(約3ミリメートル)燃え尽きるあいだに即興で短い落とし噺を演じる「一分線香即席噺」など趣向を凝らした名人芸で人気を得た。また、多数の優秀な門人を育成し、江戸における職業落語家の嚆矢となった。 一方、上方では松田彌助(初代)が職業落語家のはしりであり、その門下からは松田彌七・2代目松田彌助・初代桂文治があらわれた。寛政6年(1794年)頃から活動を始めた初代文治(伊丹屋惣兵衛)は、大坂の坐摩神社境内に初めて常設の寄席を設けて興行したと記録されており、上方落語中興の祖と称されると同時に上方寄席の開祖でもある。また、当時さかんであった素人による座敷での素噺に対抗して、鳴物入り・道具入りの芝居噺を創作した。文治もまた、多数の優秀な門人を育て、桂派の祖となった。
   〔ウィキペディアより引用〕


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