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落語読本 らくごの一文 基本⑤

2023-05-04 21:00:00 | 出来事/備忘録

 ■大正から昭和の時代

 1917年(大正6年)8月には東京の柳派と三遊派が合併し、4代目橘家圓蔵、初代三遊亭圓右、3代目柳家小さんら売れっ子たちが中心となり、大手の寄席28軒との月給制の契約を交わす演芸会社「東京寄席演芸株式会社」を旗揚げした。この月給制に反対し、従来どおりのワリ(給金制)で対抗するべく、5代目柳亭左楽は「三遊柳連睦会(通称、睦会)」を設立した。そののち、前者は翌年11月に分裂。「東京演芸合資会社」と名前を変え、一方では上野鈴本を中心とした一派により「落語席中立会」(通称、中立会)が結成され、これがのちに「東西落語会」(東西会)へと発展した。しかし、1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災を契機として三派合同の気運が生まれ、のちに合併して「東京落語協会」(現在の落語協会)が設立された。

 1925年(大正14年)にラジオ放送が始まると、落語はラジオからも流れるようになった。また、それまでは落語を「おとしばなし」と読んでいたのを、「らくご」と読むようになったのもこれ以降である。1930年(昭和5年)には「日本芸術協会」(現在の落語芸術協会)が設立されている。 1930年代から1945年(昭和20年)にかけて、満州事変より太平洋戦争終結までの時期には国家による統制が強化され、時局にそぐわないとされた演目の上演が自粛されたり(禁演落語五十三種)、戦争遂行の観点に沿って演目の改編や新作が行われ、寄席やラジオ、レコード等各種メディアを通じて広められた(国策落語)。また、太平洋戦争終結後の連合国軍占領下でも、連合国軍最高司令官総司令部の方針に基づき、民主化に不適当とみなされた演目の上演が自粛された(自粛禁演落語廿七種)。 上方落語は、大正から昭和にかけて初代桂春團治らが活躍したが、昭和期に入ると漫才に押されて一時衰退する。戦中戦後にかけて、5代目笑福亭松鶴・4代目桂米團治ら「楽語荘」によってその命脈が辛うじて保たれたのち、1957年(昭和32年)に上方落語協会が設立され、今日の隆盛につながっている。 戦後の1950年代にはラジオで落語がブームとなった。また、大学のサークル活動としての落語研究会(通称「落研(おちけん)」)が生まれたのは昭和20年代頃である。 1953年(昭和28年)、テレビ放送が始まった。1960年代には落語ブームが起こるが、これはテレビ演芸ブームによってもたらされたものであった。なかでも初代林家三平は各種のテレビ番組で活躍し、「爆笑王」の異名をとった。1966年(昭和41年)には日本テレビ系で『笑点』の放送が始まっている。

 1978年(昭和53年)、落語協会の運営方針をめぐって協会内で対立が生じ、6代目三遊亭圓生や古今亭志ん朝(3代目)、立川談志、7代目橘家圓蔵と弟子の月の家圓鏡(8代目橘家圓蔵)などが脱退した(落語協会分裂騒動)。しかし、圓生以外は結局落語協会に戻り、圓生一門で「落語三遊協会」を設立した。圓生没後は三遊協会は解散となり、5代目三遊亭圓楽の一門のみが「大日本落語すみれ会」(現在の円楽一門会)として独立し、それ以外は落語協会に復帰した。1983年(昭和58年)には立川談志一門が真打昇格の方針を巡って落語協会を脱退、「落語立川流」を創始して、みずから家元となった。現在、東京では落語協会・落語芸術協会・立川流・円楽一門会の四派体制がつづいている。

   〔ウィキペディアより引用〕



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