With the I Ching

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四柱推命の喜忌だけど、最近、なんだか感覚と合わない

2012-06-29 23:01:10 | 四柱推命

長いこと四柱推命の記事を書いてなかったですね。
そんなわけで、たまには書こうと思います。

でも、最近、四柱推命(子平)がよくわからなくなっている気がします。
自分自身の感覚的な喜忌と、実際に計算してみた喜忌判定とのズレがあるからです。
(今日は喜の日だったかもー、と思ってソフトで確認してみると、そうでもなかったり)

ズレというか、なんだろう、もうむしろ反転しているかのような、あるいは、あんまり関係なくなっているような・・・
この頃、二元性を超えて行くことに関する文章を幾つか書いていますが、それも自分の中で納得していることです。

愛はたった一つ、二元性の彼方に - 2012年6月19日(火)付

二元から一元へ? 二極性から三極化へ?

考えてみれば、それは当然のことなのかな。吉凶や喜忌は、占いにおける二元性の権化みたいなものなので。

でも、仮に一元的な状態が反映されるのだとしたら、あるいは三極が形成されてくるのだとしたら、もう今までの四柱推命としての喜忌判定は、あまり意味のないものになってしまうんだろうと思う。とはいえ、それで困るということでもないだろうし、それならそれでいいか、とは僕は考えるのですが、どう思います?

ただ、五行の影響というのはちゃんと感じ取れるので、別に四柱推命それ自体についてどうのこうの言っているわけではありません。ここで話しているのは、大雑把に言って、外格と内格、すなわち極強・極弱・身強・身弱という分類では不十分で、中和というか中庸というか、そういう状態の解釈も重要になってきているのかも知れない、みたいなことです。

数ヶ月くらい前から、特にそういうユラユラした状態にあるのですが、日に日に訳が分からなくなっている自分がいます。
一体、喜忌の概念は、どこに行ってしまったんだ! と叫びたい気分です。(笑)

何が吉で、何が凶か、とか、何が善で、何が悪かというのは、「禍福は糾える縄の如し」「人生万事塞翁が馬」みたいな昔からの諺にあるように、個人的には未だに???的なところがあります。

それは、まだ四柱推命白帯を作り始めて間もなかった頃に書いた「喜忌って何だろう?」や「喜忌について~忌み枝~」、あるいは「外格(従格)とは質的転換の産物なのか」にも内的な混乱の様子が見て取れますが、たぶんコアの部分で、あんまり喜忌や吉凶という見方に対して慣れていない自分がいるようです。

もう手を引いたほうがいいのか、あるいは、新しい解釈と統合的な見方を構築するか・・・一元であれ、二元性を包含した三元(三極)であれ。

鑑定などで毎日、人様にアドバイスされている方は、ここに書いたようなことって感じているのでしょうか。
もし、同じような感覚がある人がいたら、ちょっと話してみたいです。気軽にコメントしてください。
反対に、「いや、それは単にアンタの技術が未熟なだけだよ」ということならば、まあ仕方ありませんが。

さて、現状はそんな感じです。

実際には、これは四柱推命に限ったことでもなくて、易の解釈に戸惑っているのも、こうした影響があるのは確かです。

易の場合、当初から、ほとんど吉凶の解釈を脱色してきましたが、今ではさらに加速しています。何を書いていいのか分からなくなるほどに。これまでの(上経にしてきたような)書き方を継承するならば別に問題なく進めていけると思うのですが、どうも自分の中の何かがフィットしないため、矛盾や葛藤が起きています。

あまり内的な部分をゴチャゴチャ書いても仕方ないので、とにかく、もう少し自分自身と対話して、見定めていこうと思います。

 



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