---------------------------------------------------
No144) 『 兄貴に感謝! 』
---------------------------------------------------
■ 柔道で、日本は勝てませんね…。
柔道らしくない!って感じもしますが、
そのルールでみんなが戦っているので、
負けると言う事は弱いと言う事で、
誰にも文句は言えません。
オリンピック放送を聞いていて、
アナウンサーの言葉にたまに頭に来るのは
私だけでしょうか?
彼も今まで頑張ったからとか、
相手が卑怯だと言わんばかりの話し方をしたり、
審判に疑問を持つような話し方!
頑張らないでオリンピックに出てる奴はいないし、
ルールの中で戦って卑怯も糞も無いし、
審判は絶対だよ!!
インタビューも非常に下手糞!
質問に成っていない!
もう少し、拡大質問・限定質問の練習をしてから
インタビューをして貰いたいものです。
■ さて、今日は兄貴に関してお話しします。
昨年末に、48歳で逝きました。
人生を駆け足で行った。そんな感じです。
___________________________________________________
■目次
【1】兄貴に関しての記憶
【2】家族と家庭
【3】病気と以降の兄
★ 今だけのキャンペーン
____________________________________________________
-----------------------------------------------
【1】兄貴に関しての記憶
-----------------------------------------------
■ 兄貴とは、学年で4つ違っていました。
4つの違いは大きく、ガキの頃から、
喧嘩をしても必ず負けていました。
小学生の低学年までは、兄貴の尻を
追っかけていました。
遊ぶ時は、いつも、兄の友達に混ざっていました。
そのせいか、力は強い子に育ちましたし、
同学年の子に、危ない遊びを教えてしまう、
そんな悪ガキに育ったのも兄貴の影響でした。
■ 実は、兄貴が中学生に成って頃から、
兄貴との交流が無くなりました。
兄は、殆んど、伯母夫婦の家に泊まるように成った
からです。私だけが、まだ小学生と言う事もあり、
家に帰って、父と母と暮らしていました。
まあ、変な感じの家庭です。
実は、小学校・中学校・そして高校と、
伯母の地域の学校に行っていました。
これは、その地域で幼稚園を出ているので、
友達も多かったからと言う事もありましたし、
伯母の住んでいる地域の方が、都会だったので、
何となく、そっちに行きたかったと言う事もありました。
■ 実は、私は、伯母夫婦の地区では無い小学校に
親は入れようとしていたようですが、まだ幼稚園児の
私が猛烈に嫌がって、兄と同じ伯母の住んでいる地区に
変えたという経緯がありました。
私としては、兄貴と違う小学校に通う事は、
絶対に認められませんでした。
■ 丁度4年違うと、私が中学生に成る時には、兄は
高校です。だから、兄がどんな学生生活を送って
いたのかは、殆んど知らなかったです。
ただ、兄も剣道をしていましたので、剣道部に
所属していました。そのお陰で、先輩には、
良い意味でも、悪い意味でもしごいて貰いました。
「お前が、○○さんの弟か!」
そんな感じでした。
兄が剣道が強かったかどうかは、知りませんが、
少なくても、先輩が、力を入れて指導してくれたのは
間違えなかったです。
■ 学生時代の兄の記憶は、兄が高校生の時に、
夏休み一人で、徳島まで自転車で行った時に、
「兄貴も凄いや!」と思った記憶があります。
徳島に、知り合いが住んでいましたので、
小学生の時には、毎年夏休みに、お袋と兄貴と3人で
徳島に行って、1ヶ月近く過ごしていました。
題名を覚えていませんが、「うどん」に関しての
映画を2年ほど前にやっていました。
その中でも、話しに出ていましたが、
岡山から、四国に渡る連絡船が昔は出ていました。
その船の甲板で食べる、うどんが非常に美味いのです!
私も大好きで、必ず、キツネうどんを食べていました。
動き始めて、10分ほどですぐに甲板に行って、うどんを
食べます!本当に美味かったです!!
潮風と夏の良く晴れた日の中で食べるうどんは最高でした。
徳島には、兄が6年生私が2年生の時には、2人だけで
電車を乗り継いで行ったりしていました。
家族にとってはお馴染みの場所です。
■ でも、そこに自転車で行くと言うのは、無謀に思えました。
家族の誰もが心配していました。通常は、このような無謀な事は、
兄では無く、私が言うのが普通でしたが、この時は、兄が言い
そして、やり遂げました。
「何か恰好良いな~」なんて思ったのを思い出します。
長髪で、ラッパズボンを穿いた兄の写真を思い出します。
当時は、長髪が流行っていました。
私は、剣道部で、坊主頭でしたが、兄は長髪にしていました。
自転車も、サイクリング用を買って、それで行きました。
■ 後は、学園祭の時の、出し物の衣装を一緒に作らされたのは
忘れられない思い出です。
とにかく、命令口調で、弟の私を奴隷のようにこき使って、
ダンボールで、兄貴の衣装を作りました。
でも、まあ、楽しかったです。
その学園祭に見に行って、作製した衣装を、着ている
兄貴と、その友達は、非常に大人に思えました。
■ その後、兄貴は広島経済大学へ進みました。
沢山大学を受けて、そこと、龍谷大学の2校に合格したようで、
広島に行きました。
大学受験って大変なんだな~と何となく思ったのを覚えています。
その後、しばらくして会った兄貴は、非常に浮かれていました。
彼女が出来たようで、「ラブ!ラブ!」でした。
ナント、そのまま「出来ちゃった結婚」をしてしまいました。
大学4年の時でした。
卒業と当時に結婚して、すぐに子供も生まれました。
この時の、親父とお袋は凄かったようです!!
特に、お袋は兄貴を溺愛していましたので、その兄貴を
「たぶらかした女」と言う感じで、接したみたいです。
でも、あの、ラブラブの時の兄貴は、私の知っている
兄貴の中で、最高に幸せそうでした。
-----------------------------------------------
【2】家族と家庭
-----------------------------------------------
■ 兄貴は、大学卒業と同時に、家庭を作り、
子供が出来ました。
非常に大変だったのでは無いかと思います。
兄貴の入った会社は、転勤が多く、3年に一度は
転勤をしていました。
子供も転校が多かったようです。
兄貴の会社が、私の会社の取引先だったので、
兄貴が、渋谷勤務の時に、同じ渋谷が当社の担当で、
兄の部下が、担当で来ていました。
兄もたまに来ていましたが、仕事は真面目にやっている
そんな印象を受けました。
■ 兄貴は、家庭を持ちたかったのでは無いかと思う。
うちの家族は、結構、バラバラでした。
そのどうしようもない、ストレスをぶつけ合うような
そんな家族でした。
ですから、兄貴は、嫁さんを絶対に表で働かそうとは、
しなかったようです。家庭で、子供と一緒に暮らすように
して、家庭の中を温かい感じにしたかったのだと思います。
ただ、兄貴も気性が荒く、つっぱっていましたので、
長男は兄貴のことを怖がっていたようです。
■ 兄貴は、22歳で子供が出来ました。
家庭も持ち、仕事を一生懸命したようです。
私と兄貴が育った、チグハグした家庭では無く、
愛の有る家庭を作りたかったのでは無いかと、
非常に感じます。
実は、兄貴と会う事は、年に1度有るか無いかでした。
兄も転勤で地方に居る事が多かったですし、
忙しくて、田舎に帰って来ることも無かったので、
会わない時が多かったです。
正月に田舎で会う事がありましたが、兄貴は帰っても
嫁さんの実家に泊まり、私は伯母の家に養子に行ったので
伯母の家に泊まっていましたので、別の家族に成って
居ました。
■ 兄の葬儀の時に、兄の奥さんの親戚の方が多く参加され
その人達の話を聞くと、非常に面白く、楽しい人だったと、
私の知らない兄貴の姿がそこにはありました。
たぶん、家族には見せられない素直な姿を、
自分の家庭の中では見せていたのでは無いかと、
思われます。
兄貴が、ラブラブだった時に、こんな話をしていました。
「最高の彼女に出会った!最高に幸せだ!!」
そんな兄貴を見たのは初めてでした。
結婚してから、兄貴と2人で酒を飲んだのは、
渋谷ででした。兄貴も私も渋谷で働いていた時です。
たぶん、初めてで最後でした。
あんなに静かな表情の兄貴は初めてでした。
結婚して良かったこと、そして、自分なんかと結婚してくれた
奥さんに感謝していたのが印象的でした。
■ 兄貴と最後にゴルフをしたのは、私の知り合いの社長と
行ったゴルフでした。
兄貴も、その社長も口が悪く、口にやられて、最悪の
ゴルフでした。
まあ、負け惜しみですが…。
その時は、兄貴は単身で宇都宮に住んでいました。
家族は、茅ヶ崎に住んでいました。
この時に初めて、義姉に兄貴は心臓に持病があるので
余り運動をさせないように、釘を刺されました。
-----------------------------------------------
【3】病気と以降の兄
-----------------------------------------------
■ 兄が倒れたのは、それからすぐでした。
脳梗塞で、倒れたのでした。
義姉は、心臓のことが有ったので、食べ物とか気を付けた
ようですが、単身赴任していた兄は、毎晩遅くまで働き、
部下と飲みに行っていたようです。
部下の相談係をしていたようです。
兄貴は私と違って真面目で、会社に遅れて行くことは、
無かったそうです。それがその日は会社に来なかったようです。
支店長が部下に見に行かせたそうですが、
その時には、「大丈夫!」と言って、追い返したようです。
15時に成って心配した支店長が、家に行って倒れていた兄を、
救急車で運んだお陰で、どうにか助かりました。
私が兄を見舞った時には、言葉は勿論、右半身が
動かなかったです。思ったよりは元気そうですが、
言葉が話せないと言うのはショックでした!
■ 1ヶ月ほどで、鎌倉の病院に転院すると言う事で、
車で、送って行きました。
相変わらず、言葉は話せませんが、「ア~、ウ~」
と言う事は、言えるように成っていました。
体は、右側も問題無く動くように成っていて、
見た感じは、病人と言うイメージは無かったです。
でも、義姉は兄に付きっ切りで、いました。
今まで、忙しくて一緒に入れなかった分を、
取り返しているように感じました。
■ その後、徐々に、言葉が戻って来ました。
「美味しいね!」
「嬉しいね!」
「楽しいね!」
子供のような笑顔で、言うので、一緒に笑ってしまいます。
怖かった兄貴は、病気のお陰で、非常に可愛く成りました。
長男・長女共に、兄貴が可愛くなったと言っていました。
義姉は、ズ~と兄貴と一緒に居られることを、
本当に楽しんでいました。
私が中国から帰ってからは、たまに食事に行ったりして、
会う機会が多くなって来ました。
■ 私と会って、食事をする時は、チョッピリお酒が飲める。
これが嬉しいようでした!
「美味しいね~!!」
嬉しそうに言う兄の顔は子供のように輝いていました。
脳梗塞で倒れたのは不幸なことかも知れませんが、
兄貴にとっては、幸せなことだったのでは無いかと、
本当に思えました。
だって、子供の頃から見て来て、一番楽しそうにしていました。
義姉と2人でいつも一緒に行動するのが楽しそうでした。
■ 母が、癌に成って入院した時にも、義姉と兄は病院に
毎日行ってくれていました。
母は、大好きな兄に看取って貰ったので、良かったでしょう。
私の長男が生まれて、去年の夏休みに、田舎に連れて帰った時に、
兄が抱っこしてくれましたが、流石に2人育てただけあって、
抱っこの仕方が上手くて、ビックリしました。
兄も義姉も、赤ん坊が可愛いらしく、
ズ~と遊んでくれていたのが印象的でした。
■ 私が、独立し引越してから、一度、遊びに来ると言っていました。
そして、現実しないまま、逝ってしまいました。
病院で、脳梗塞のリハビリと、心臓のチェックを毎月して貰って
いたようです。兄の心臓は、爆弾を抱えていたようで、
移植以外には、治す方法はなかったようです。
そんな事も、亡くなるまでは詳しく聞いたことは無かったです。
後20年は大丈夫と言われていたようです。
■ 前の晩、夜2時過ぎまで、DVDを兄貴一人で見ていたようです。
義姉が2時過ぎに兄に、「皿を片付けておいて」と頼んだようです。
朝、起きた時に、もう既に兄の心臓が止まっていたようです。
救急車を呼んで、警察も来てと大変だったようです。
皿はキチンと片付けてあったようです。
私が連絡を受けたのは、9時半頃でした。
出張から帰って来て、羽田空港に付いたばかりでした。
甥っ子から電話が有ったので、何かあったのだろうと、
思ったら、予感が的中しました。
■ 眠ったように、横たわっていました。
「早いよ~!」
そう思いましたが、どうしようもないです。
子供が、2人とももう働いていて、義姉とは
2人きりの時間を過ごして、母を看取って逝ったので、
良かったのかも知れません。
兄とは、結局、シミジミ話しをしたのは、渋谷で
1回だけでした。
■ 親父が逝って、その時に、墓を調整して、
島田家の墓を整理して、隣に角家の墓を建てました。
親父の骨を私が墓に納めました。
昨年の春に、お袋の骨を納めました。
そして、秋には、兄の骨を納める事に成るとは、
思ってもみなかったです。
■ 家族の死は、人生の流れが見えます。
そんなふうに、感じます。
親の青春時代は知りませんが、親として
30代40代の働き盛り、50代に成って、
おじいさん、おばあさんに成って行く。
その姿を見る事が出来ます。
そして、亡くなって行く。
人の一生が、見える瞬間です。
■ 自分の人生も、いつかは終わりを迎えます。
どうも、家族を見ていると、そんなに長生きの
家系では無いようです。
その寿命が尽きるまで、どのように生きるのか?
それが重要だと思えます。
私は、「人の記憶に残る人生」を送りたい。
と考えています。
ですから、指導することを仕事としています。
私が出来る事は、営業に関しての指導や、管理者に
対しての指導、経営者の方への助言などです。
そのことを通じて、1人でも2人でも成長して、
島田に出会えて良かったと言われる人生にしたいと、
考えています。
どうせ、死んだらあの壺に入るだけです。
それまでの間に、どれだけ、楽しめるのか?
どれだけ、時間を自分の為に使えるのか?
どれだけ、幸せにしたい人の為に使えるのか?
それが重要な気がします。
■ お盆と言う事で、家族の話をしました。
親父にもお袋にも兄貴にも、感謝しています。
もう、会う事が出来ないのが、悲しいですが、
記憶の中に生きています。
私もいつかはそっちに行くのでしょうが、
それまでの人生を楽しみたいと思っています。
「苦しい」と思うのも、「楽しい」と思うのも
自分の解釈です。
解釈だけで、どんなに大変なことも、辛いことも
楽しんだり、感謝出来たりするのです。
私は、今までの人生でそれを学びました。
■ まだまだ、修行が足らなくて、頭に来たり、
怒ったりしてしまう事もありますが、
良い解釈をするようにして生きたい。
そのように考えています。
以上です。
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【 経営編:こんな時代だから経営理念を 】
No144) 『 兄貴に感謝! 』
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■ 柔道で、日本は勝てませんね…。
柔道らしくない!って感じもしますが、
そのルールでみんなが戦っているので、
負けると言う事は弱いと言う事で、
誰にも文句は言えません。
オリンピック放送を聞いていて、
アナウンサーの言葉にたまに頭に来るのは
私だけでしょうか?
彼も今まで頑張ったからとか、
相手が卑怯だと言わんばかりの話し方をしたり、
審判に疑問を持つような話し方!
頑張らないでオリンピックに出てる奴はいないし、
ルールの中で戦って卑怯も糞も無いし、
審判は絶対だよ!!
インタビューも非常に下手糞!
質問に成っていない!
もう少し、拡大質問・限定質問の練習をしてから
インタビューをして貰いたいものです。
■ さて、今日は兄貴に関してお話しします。
昨年末に、48歳で逝きました。
人生を駆け足で行った。そんな感じです。
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■目次
【1】兄貴に関しての記憶
【2】家族と家庭
【3】病気と以降の兄
★ 今だけのキャンペーン
____________________________________________________
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【1】兄貴に関しての記憶
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■ 兄貴とは、学年で4つ違っていました。
4つの違いは大きく、ガキの頃から、
喧嘩をしても必ず負けていました。
小学生の低学年までは、兄貴の尻を
追っかけていました。
遊ぶ時は、いつも、兄の友達に混ざっていました。
そのせいか、力は強い子に育ちましたし、
同学年の子に、危ない遊びを教えてしまう、
そんな悪ガキに育ったのも兄貴の影響でした。
■ 実は、兄貴が中学生に成って頃から、
兄貴との交流が無くなりました。
兄は、殆んど、伯母夫婦の家に泊まるように成った
からです。私だけが、まだ小学生と言う事もあり、
家に帰って、父と母と暮らしていました。
まあ、変な感じの家庭です。
実は、小学校・中学校・そして高校と、
伯母の地域の学校に行っていました。
これは、その地域で幼稚園を出ているので、
友達も多かったからと言う事もありましたし、
伯母の住んでいる地域の方が、都会だったので、
何となく、そっちに行きたかったと言う事もありました。
■ 実は、私は、伯母夫婦の地区では無い小学校に
親は入れようとしていたようですが、まだ幼稚園児の
私が猛烈に嫌がって、兄と同じ伯母の住んでいる地区に
変えたという経緯がありました。
私としては、兄貴と違う小学校に通う事は、
絶対に認められませんでした。
■ 丁度4年違うと、私が中学生に成る時には、兄は
高校です。だから、兄がどんな学生生活を送って
いたのかは、殆んど知らなかったです。
ただ、兄も剣道をしていましたので、剣道部に
所属していました。そのお陰で、先輩には、
良い意味でも、悪い意味でもしごいて貰いました。
「お前が、○○さんの弟か!」
そんな感じでした。
兄が剣道が強かったかどうかは、知りませんが、
少なくても、先輩が、力を入れて指導してくれたのは
間違えなかったです。
■ 学生時代の兄の記憶は、兄が高校生の時に、
夏休み一人で、徳島まで自転車で行った時に、
「兄貴も凄いや!」と思った記憶があります。
徳島に、知り合いが住んでいましたので、
小学生の時には、毎年夏休みに、お袋と兄貴と3人で
徳島に行って、1ヶ月近く過ごしていました。
題名を覚えていませんが、「うどん」に関しての
映画を2年ほど前にやっていました。
その中でも、話しに出ていましたが、
岡山から、四国に渡る連絡船が昔は出ていました。
その船の甲板で食べる、うどんが非常に美味いのです!
私も大好きで、必ず、キツネうどんを食べていました。
動き始めて、10分ほどですぐに甲板に行って、うどんを
食べます!本当に美味かったです!!
潮風と夏の良く晴れた日の中で食べるうどんは最高でした。
徳島には、兄が6年生私が2年生の時には、2人だけで
電車を乗り継いで行ったりしていました。
家族にとってはお馴染みの場所です。
■ でも、そこに自転車で行くと言うのは、無謀に思えました。
家族の誰もが心配していました。通常は、このような無謀な事は、
兄では無く、私が言うのが普通でしたが、この時は、兄が言い
そして、やり遂げました。
「何か恰好良いな~」なんて思ったのを思い出します。
長髪で、ラッパズボンを穿いた兄の写真を思い出します。
当時は、長髪が流行っていました。
私は、剣道部で、坊主頭でしたが、兄は長髪にしていました。
自転車も、サイクリング用を買って、それで行きました。
■ 後は、学園祭の時の、出し物の衣装を一緒に作らされたのは
忘れられない思い出です。
とにかく、命令口調で、弟の私を奴隷のようにこき使って、
ダンボールで、兄貴の衣装を作りました。
でも、まあ、楽しかったです。
その学園祭に見に行って、作製した衣装を、着ている
兄貴と、その友達は、非常に大人に思えました。
■ その後、兄貴は広島経済大学へ進みました。
沢山大学を受けて、そこと、龍谷大学の2校に合格したようで、
広島に行きました。
大学受験って大変なんだな~と何となく思ったのを覚えています。
その後、しばらくして会った兄貴は、非常に浮かれていました。
彼女が出来たようで、「ラブ!ラブ!」でした。
ナント、そのまま「出来ちゃった結婚」をしてしまいました。
大学4年の時でした。
卒業と当時に結婚して、すぐに子供も生まれました。
この時の、親父とお袋は凄かったようです!!
特に、お袋は兄貴を溺愛していましたので、その兄貴を
「たぶらかした女」と言う感じで、接したみたいです。
でも、あの、ラブラブの時の兄貴は、私の知っている
兄貴の中で、最高に幸せそうでした。
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【2】家族と家庭
-----------------------------------------------
■ 兄貴は、大学卒業と同時に、家庭を作り、
子供が出来ました。
非常に大変だったのでは無いかと思います。
兄貴の入った会社は、転勤が多く、3年に一度は
転勤をしていました。
子供も転校が多かったようです。
兄貴の会社が、私の会社の取引先だったので、
兄貴が、渋谷勤務の時に、同じ渋谷が当社の担当で、
兄の部下が、担当で来ていました。
兄もたまに来ていましたが、仕事は真面目にやっている
そんな印象を受けました。
■ 兄貴は、家庭を持ちたかったのでは無いかと思う。
うちの家族は、結構、バラバラでした。
そのどうしようもない、ストレスをぶつけ合うような
そんな家族でした。
ですから、兄貴は、嫁さんを絶対に表で働かそうとは、
しなかったようです。家庭で、子供と一緒に暮らすように
して、家庭の中を温かい感じにしたかったのだと思います。
ただ、兄貴も気性が荒く、つっぱっていましたので、
長男は兄貴のことを怖がっていたようです。
■ 兄貴は、22歳で子供が出来ました。
家庭も持ち、仕事を一生懸命したようです。
私と兄貴が育った、チグハグした家庭では無く、
愛の有る家庭を作りたかったのでは無いかと、
非常に感じます。
実は、兄貴と会う事は、年に1度有るか無いかでした。
兄も転勤で地方に居る事が多かったですし、
忙しくて、田舎に帰って来ることも無かったので、
会わない時が多かったです。
正月に田舎で会う事がありましたが、兄貴は帰っても
嫁さんの実家に泊まり、私は伯母の家に養子に行ったので
伯母の家に泊まっていましたので、別の家族に成って
居ました。
■ 兄の葬儀の時に、兄の奥さんの親戚の方が多く参加され
その人達の話を聞くと、非常に面白く、楽しい人だったと、
私の知らない兄貴の姿がそこにはありました。
たぶん、家族には見せられない素直な姿を、
自分の家庭の中では見せていたのでは無いかと、
思われます。
兄貴が、ラブラブだった時に、こんな話をしていました。
「最高の彼女に出会った!最高に幸せだ!!」
そんな兄貴を見たのは初めてでした。
結婚してから、兄貴と2人で酒を飲んだのは、
渋谷ででした。兄貴も私も渋谷で働いていた時です。
たぶん、初めてで最後でした。
あんなに静かな表情の兄貴は初めてでした。
結婚して良かったこと、そして、自分なんかと結婚してくれた
奥さんに感謝していたのが印象的でした。
■ 兄貴と最後にゴルフをしたのは、私の知り合いの社長と
行ったゴルフでした。
兄貴も、その社長も口が悪く、口にやられて、最悪の
ゴルフでした。
まあ、負け惜しみですが…。
その時は、兄貴は単身で宇都宮に住んでいました。
家族は、茅ヶ崎に住んでいました。
この時に初めて、義姉に兄貴は心臓に持病があるので
余り運動をさせないように、釘を刺されました。
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【3】病気と以降の兄
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■ 兄が倒れたのは、それからすぐでした。
脳梗塞で、倒れたのでした。
義姉は、心臓のことが有ったので、食べ物とか気を付けた
ようですが、単身赴任していた兄は、毎晩遅くまで働き、
部下と飲みに行っていたようです。
部下の相談係をしていたようです。
兄貴は私と違って真面目で、会社に遅れて行くことは、
無かったそうです。それがその日は会社に来なかったようです。
支店長が部下に見に行かせたそうですが、
その時には、「大丈夫!」と言って、追い返したようです。
15時に成って心配した支店長が、家に行って倒れていた兄を、
救急車で運んだお陰で、どうにか助かりました。
私が兄を見舞った時には、言葉は勿論、右半身が
動かなかったです。思ったよりは元気そうですが、
言葉が話せないと言うのはショックでした!
■ 1ヶ月ほどで、鎌倉の病院に転院すると言う事で、
車で、送って行きました。
相変わらず、言葉は話せませんが、「ア~、ウ~」
と言う事は、言えるように成っていました。
体は、右側も問題無く動くように成っていて、
見た感じは、病人と言うイメージは無かったです。
でも、義姉は兄に付きっ切りで、いました。
今まで、忙しくて一緒に入れなかった分を、
取り返しているように感じました。
■ その後、徐々に、言葉が戻って来ました。
「美味しいね!」
「嬉しいね!」
「楽しいね!」
子供のような笑顔で、言うので、一緒に笑ってしまいます。
怖かった兄貴は、病気のお陰で、非常に可愛く成りました。
長男・長女共に、兄貴が可愛くなったと言っていました。
義姉は、ズ~と兄貴と一緒に居られることを、
本当に楽しんでいました。
私が中国から帰ってからは、たまに食事に行ったりして、
会う機会が多くなって来ました。
■ 私と会って、食事をする時は、チョッピリお酒が飲める。
これが嬉しいようでした!
「美味しいね~!!」
嬉しそうに言う兄の顔は子供のように輝いていました。
脳梗塞で倒れたのは不幸なことかも知れませんが、
兄貴にとっては、幸せなことだったのでは無いかと、
本当に思えました。
だって、子供の頃から見て来て、一番楽しそうにしていました。
義姉と2人でいつも一緒に行動するのが楽しそうでした。
■ 母が、癌に成って入院した時にも、義姉と兄は病院に
毎日行ってくれていました。
母は、大好きな兄に看取って貰ったので、良かったでしょう。
私の長男が生まれて、去年の夏休みに、田舎に連れて帰った時に、
兄が抱っこしてくれましたが、流石に2人育てただけあって、
抱っこの仕方が上手くて、ビックリしました。
兄も義姉も、赤ん坊が可愛いらしく、
ズ~と遊んでくれていたのが印象的でした。
■ 私が、独立し引越してから、一度、遊びに来ると言っていました。
そして、現実しないまま、逝ってしまいました。
病院で、脳梗塞のリハビリと、心臓のチェックを毎月して貰って
いたようです。兄の心臓は、爆弾を抱えていたようで、
移植以外には、治す方法はなかったようです。
そんな事も、亡くなるまでは詳しく聞いたことは無かったです。
後20年は大丈夫と言われていたようです。
■ 前の晩、夜2時過ぎまで、DVDを兄貴一人で見ていたようです。
義姉が2時過ぎに兄に、「皿を片付けておいて」と頼んだようです。
朝、起きた時に、もう既に兄の心臓が止まっていたようです。
救急車を呼んで、警察も来てと大変だったようです。
皿はキチンと片付けてあったようです。
私が連絡を受けたのは、9時半頃でした。
出張から帰って来て、羽田空港に付いたばかりでした。
甥っ子から電話が有ったので、何かあったのだろうと、
思ったら、予感が的中しました。
■ 眠ったように、横たわっていました。
「早いよ~!」
そう思いましたが、どうしようもないです。
子供が、2人とももう働いていて、義姉とは
2人きりの時間を過ごして、母を看取って逝ったので、
良かったのかも知れません。
兄とは、結局、シミジミ話しをしたのは、渋谷で
1回だけでした。
■ 親父が逝って、その時に、墓を調整して、
島田家の墓を整理して、隣に角家の墓を建てました。
親父の骨を私が墓に納めました。
昨年の春に、お袋の骨を納めました。
そして、秋には、兄の骨を納める事に成るとは、
思ってもみなかったです。
■ 家族の死は、人生の流れが見えます。
そんなふうに、感じます。
親の青春時代は知りませんが、親として
30代40代の働き盛り、50代に成って、
おじいさん、おばあさんに成って行く。
その姿を見る事が出来ます。
そして、亡くなって行く。
人の一生が、見える瞬間です。
■ 自分の人生も、いつかは終わりを迎えます。
どうも、家族を見ていると、そんなに長生きの
家系では無いようです。
その寿命が尽きるまで、どのように生きるのか?
それが重要だと思えます。
私は、「人の記憶に残る人生」を送りたい。
と考えています。
ですから、指導することを仕事としています。
私が出来る事は、営業に関しての指導や、管理者に
対しての指導、経営者の方への助言などです。
そのことを通じて、1人でも2人でも成長して、
島田に出会えて良かったと言われる人生にしたいと、
考えています。
どうせ、死んだらあの壺に入るだけです。
それまでの間に、どれだけ、楽しめるのか?
どれだけ、時間を自分の為に使えるのか?
どれだけ、幸せにしたい人の為に使えるのか?
それが重要な気がします。
■ お盆と言う事で、家族の話をしました。
親父にもお袋にも兄貴にも、感謝しています。
もう、会う事が出来ないのが、悲しいですが、
記憶の中に生きています。
私もいつかはそっちに行くのでしょうが、
それまでの人生を楽しみたいと思っています。
「苦しい」と思うのも、「楽しい」と思うのも
自分の解釈です。
解釈だけで、どんなに大変なことも、辛いことも
楽しんだり、感謝出来たりするのです。
私は、今までの人生でそれを学びました。
■ まだまだ、修行が足らなくて、頭に来たり、
怒ったりしてしまう事もありますが、
良い解釈をするようにして生きたい。
そのように考えています。
以上です。
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