A.長髄彦(ながすねひこ)
今日は長髄彦について書きます。
長髄彦は、過去の歴史学者たちが、「やれ神武天皇は実在されない架空の天皇である」とか、「闕史(けっし=欠史)八代の天皇は、大和朝廷が成立する以前に勢力を振るったであろう諸豪族の名を書き連ねたものである」とかと、色々と喧しい天皇不在説・架空説に光明を与え、神武天皇は実在されたこと、「闕史=欠史」八代の天皇はどのような方々であったかを読み解いていく上での、キーパーソンとなります。
長髄彦を御存じない方のために、少し補足をさせておいて頂きましょう。
神武天皇が九州の地より東に向かわれて大和(やまと)に入ろうとされた折に、神武軍と戦い、その行く手を頑強に遮(さえぎ)ったのが長髄彦の軍です。
『古事記』・『日本書紀』に登場する人物です。
神武天皇は、胆駒(いこま)山麓から大和に入るルートでは退路を余儀なくされ、海上を大きく熊野に迂回されるルートを取られます。
犠牲も大きかったようです。
五瀬命(いつせのみこと)は矢傷がもとで亡くなられます。
稲飯=稲氷命(いなひのみこと)と三毛入野(みけいりの)=三毛沼命(みけぬの)命(みこと)は、海が荒れ、海を鎮めるために入水されます。
稲飯命も三毛入野命も神武天皇の御兄弟です。
稲飯命は新羅の王となられたという伝承があります。(『新撰姓氏録』)
熊野に入られて大きなお味方が現れました。高倉下(たかくらじ)といいます。高倉下は武器庫を司(つかさど)っていました。
高倉下は別名を天香語山(あめのかごやま)といい、次に登場する饒速日命(にぎはやひみこと)の子で、何代か前の祖に素戔烏尊(すさのうのみこと)がいらっしゃり、後世において物部(もののべ)氏となります。
一方、神武天皇も素戔烏命の何代目かの孫(そん)です。
何代目かというのは、『日本書紀』の中の一書によって、大己貴神(おおなむぢのかみ)=大国主神(おおくにぬしのかみ)が、素戔烏尊の直接の子であったり、六世の孫であったりするからです。
(何代目かは、このブログを書き進めていくうちに、考えることができると思います)。
前にも書きましたが、日本では素戔烏尊から、皇孫と国つ神が分かれました。
素戔烏尊の文字は、『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』に依っています。『古事記』や『日本書紀』では、須佐之男命と書き、素戔嗚尊と書きます。
「烏」の文字を使うことで、素戔烏尊の出自は烏桓(うがん)であることが分かります。
須佐之男命や素戔嗚尊ではなかなか分かりません。
熊野の入られてから道案内を務めるのが、八咫の烏(やたのからす)です。
そのものずばり、出自は烏桓の人であったことが分かります。
神武軍は次第に大和に迫りますが、長髄彦を打ち破るまでには至りません。
神武天皇の前に、大和へは既に饒速日命(にぎはやひのみこと)が入られていました。
長髄彦は、この時、自分の妹・三炊屋媛(みかしきやひめ)を饒速日命に嫁がせ、子の可美真手命(うましまでのみこと)もありました。
「長髄」とは、もともと邑(むら)の名前であったと、『日本書紀』は記します。「彦」=「日子」です。
『日本書紀』も『古事記』もむげには彼を扱ってはいません。この点は留意しておく必要があります。
長髄彦軍は次第に形成が思わしくなくなり、主力と饒速日命が下りました。
長髄彦は、登美の長髄彦とも云い、皇弓(みゆみ)の弭(はず)に止まった金の鵄(とび)(=登美)の出現がそれを意味します。
長髄彦を討ったのは、『日本書紀』では、饒速日命です。
しかし、これが『先代旧事本紀』になりますと、饒速日命は大和に入られてからすぐお亡くなりになり、お子の可美真手命が長髄彦を討ち、
神武天皇に御仕え致したと記録しています。
B.安日王(やすきおおきみ)
この話には、正史にない後日譚(ごじつだん)があります。
長髄彦には兄の安日王があり、安日王は、北海の浜(津軽率土浜安東浦等〈あとら〉)に放逐され、奥州安倍氏の祖となりました。
奥州安倍氏の命脈は今も保っています。
秋田氏、安東(安藤)氏、黒澤氏等があります。
私の結婚した妻がその末裔でした。
次回、神武朝まで繋がるその系図をもとに、系図の真と偽、神武天皇の実在を証(あか)して行きます。
『先代旧事本紀』 序
今 の 青 空