写真:高原地区の民宿「ログキャビン高原」からの眺め
「平城遷都1300年祭」の主要な会場となった「平城宮跡会場」が11月7日に閉場しました。「平城が閉場です」(ど~でもいいですか?) 予想を大きく超える来場者数からは、あらためて奈良の持つ歴史や文化の吸引力・魅力が感じられます。そして観光関係者の間ではすでに、「ポスト遷都祭」についての議論が始まっているようです。<o:p></o:p>
ただ県北部の宿泊数が大きく伸びた反面、県中部・南部はかえって減少するという期待はずれの現象(減少という現象:しつこい!)もあったようです。もともと県北部でも「建物規制が厳しく、ホテル等の経営が難しい」という原因で宿泊キャパが少ないそうですが、簡単に「規制緩和すべき」とも言えないのが難しいところです。<o:p></o:p>
写真:福源寺で説明する研究者の石本さん。
しかし中南部にも同じような規制があるのでしょうか? 最近あいよっこは南部を巡ることが多く、何度となく宿泊施設のネット検索をしています。そのたび「特に南部は、日本中のどこより適切でリーズナブルな施設が少ないなあ」とため息をつくのです。施設も宿泊プランも個性的・魅力的ではなく、(女性の)ひとり旅対応もあまりできていないようです。<o:p></o:p>
訪れる人が少ないのでそうなってしまうのか、あるいはそれほど観光地化を期待しないのか、新しい考え方での経営が進まないのか、参入しにくいのか、理由はわからないです。結局宿泊をあきらめて日帰りすることが多くなります。<o:p></o:p>
写真:福源寺裏にある旧いお庭
ポスト遷都祭としては、たくさんの埋蔵金(?)が埋もれている中南部に光をあてることも重要なポイントとなるでしょうが、アクセスと宿泊という基本的な整備がまず必要です。期待しています。<o:p></o:p>
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さて一ヶ月前のことになります。10月10日に<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>の「森と水の源流館」が主催する「もりみず探検隊:後南朝と木地屋の里を歩く」というイベントがあり、前回(6/10)に続いていそいそと参加しました。そのようすを報告します。(参考資料:森と水の源流館が作成したレジメ)<o:p></o:p>
ところで<st1:MSNCTYST w:st="on" AddressList="20:川上村;" Address="川上村">川上村</st1:MSNCTYST>はもちろん南部ですが、村営の「匠の聚(たくみのむら)コテージ」はネット予約が簡単で、1人宿泊もリーズナブル。木を活かしたコテージは清潔で気持ちが良くときおり利用しています。ただし部屋数はわずかです。
写真:福源寺に下がる「岡室御所」のちょうちん
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今回は木地屋(きじや:木地師とも呼ぶ)が多く生活をしていた高原地区に残る後南朝の史跡や伝承を訪ねました。木地屋というのは雑木をお椀や杓子などの日用品に加工していた職人さんたちのことです。プラスティック製品が出回る今に比べ、古来よりとても必要で大事な仕事とされていました。
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高原地区には後南朝時代よりはるか以前の9世紀後半に、木地屋の祖「惟喬親王(これたかしんのう)」が隠棲したという伝説も残っています。親王は平安時代前期の文徳天皇(もんとくてんのう)の第一皇子でしたが天皇に即位することはかなわず、出家・隠棲したと伝わります。
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親王は「岡室御所(おかむろごしょ)」を営み、家来たちが木地屋として生活した場所が「木地が森(きじがもり)」です。親王はこの地で亡くなり「氏神神社」に葬られたと伝わります。
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伝承と文書が残る「惟喬伝説」は、地域の人々により幾世代も大切に守られています。かつて親王さまが住んでいたということは、家来・側近も多数存在し、つまり住民たちは子孫・系統の可能性が高いといえるのでしょう。
写真:福源寺の内部は色鮮やかで、たくさんの16弁の菊のご紋が。
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常に「吉野・南部地域の人々は、どうして多くの犠牲を払ってまで逃れた天皇一族を守るのだろう」という疑問を抱きながら南朝・後南朝を巡っていますが、これは理由のひとつかもしれません。子孫・系統意識があれば、尊王につながるのは自然なことですから。(続く)<o:p></o:p>
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