南北朝時代における最大のスターはいうまでもなく後醍醐天皇です。歴史年表をたどっていくだけでも、その個性的な人物像と人並みはずれた自己顕示欲・エネルギーが伝わってくるのですから。<o:p></o:p>
吉野朝に残る遺跡・エピソードは当然ながら尊敬の念に溢れたものですが、史実(『太平記』など)に照らしてみるとまた違う面も現れてくるようです。いずれにしても歴史に残る行動力あふれる天皇であり、その生涯は波乱に満ちたものでした。<o:p></o:p>
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写真:吉水神社には吉野朝廷の菊の御紋
後醍醐天皇の人生において、南朝と関連ある後半部分を簡単に紹介します。
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・1318 後醍醐天皇即位 31歳という年齢は、当時異例
の遅い壮年即位
・1331 正中の変・元弘の変(乱) 2度にわたる
鎌倉幕府倒幕計画が失敗<o:p></o:p>
・1332 隠岐の島に配流(はいる)<o:p></o:p>
・1333 隠岐の島を脱出<o:p></o:p>
伯耆(鳥取県)の船上山(せんじょうさん)に立てこもり、諸国武士に綸旨(りんし:天皇の命令)を発し挙兵を呼びかける<o:p></o:p>
・1334 鎌倉幕府滅亡後、「建武の新政」を始める<o:p></o:p>
・1335 足利尊氏が挙兵し、京都を占領<o:p></o:p>
・1336 吉野に逃れて南朝を開き、政治権力の維持を
図る<o:p></o:p>
・1339 52歳で死去 <o:p> </o:p>
写真:書院内にはたくさんの御物・宝物があります。
後醍醐天皇の「石硯」「御嶽丸笙」
吉水神社HP「花と哀史」では、「延元4年8月9日に夏風邪をこじらせて病床に伏し肺炎を併発された。吉水宗信公の悲願御祈祷や多数の人々の願いもむなしく、16日に崩御された」としています。発病からわずか一週間、そして南朝を開いてわずか3年後でした。それまでの行動力や情熱に比べると、ちょっとあっけない最後という感じがぬぐえないです。
写真上:吉野朝宮跡。吉水院は手狭になったので、蔵王堂の西側「実城寺(じつじょうじ:消失)」を行宮としました。
一方、歴史小説家の永井路子さんは、『南朝と北朝』(人物群像・日本の歴史第7巻、学研、1995)で、興味深い考察をされています。要約すると、「後醍醐天皇は天性豪気で我欲も強く、歴代天皇の中でもまれに見る個性的な存在であった。頭が良く行動的で、新しい制度や組織を作ることは得意であったが、(その後に必要な)人心の掌握、統治能力、配慮などは足りなかった」<o:p></o:p>
さらに「18人の后妃を持ち、36人の子女をもうけたが、中でも阿野廉子(あののれんし)を寵愛するあまり、政治への容喙(ようかい:横からくちばしをいれること)を許した」と対談で話しています。最後に「・・・自分が得意になったとき、何をやるか、ということでその人の本性が、もういやになるくらいはっきりする。・・・(略)後醍醐はとにかく政治が大好きなんです。明けても暮れても新政、新政ではりきっていますね」と指摘しているところは興味深いお話です。(続く)<o:p></o:p>
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